周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

石井文書(石井英三氏所蔵)13

    一三 大内氏奉行人連署書状寫

 

『横紙書翰』           (弘中)

 至去年備後外内両郡、被出隆兼候處、各令隨逐分過之馳走、寔神妙

 被 思召候、弥於向後油断奔走肝要之由、被仰出候、能々可申之

 旨候、恐々謹言、

     (天文十三年ヵ)(1544)     (吉見)

       三月七日           興滋『在判』

                    (青景)

                      隆著『同』

                    (陶)

                      隆満『同』

         (宣家)

       石井九郎三郎殿

 

 「書き下し文」

 去年に至り備後外・内両郡を、隆兼に差し出だされ候ふ処、おのおの随はしめ過分の馳走を遂げ、寔に神妙と思し召され候ふ、いよいよ向後に於いて油断無く奔走すること肝要の由、仰せ出だされ候ふ、よくよく申すべきの旨に候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 去年になって備後国の外郡・内郡を、弘中隆兼に差し出しなさったところ、それぞれが(弘中隆兼に)従い、期待以上に奔走したことは、本当に感心なことであると大内義隆様はお思いになっています。ますます今後も油断なく奔走することが肝要であると、仰せになりました。よくよく(あなたに)申し上げよとのことです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「外内両郡」─備後南部の諸郡すなわち深津・安那・品治・沼隈・御調・芦田・世羅の

       七郡をまとめて外郡と呼び、備後北部山手の諸郡すなわち甲奴・神石・

       奴可・恵蘇・三次・三谷・三上の七郡をまとめて内郡と呼ぶ呼称は戦国

       時代広く使われたが、応仁の乱初頭にすでにこの呼称があった(山内首

       藤家文書一二四号)。すなわち外郡の国人衆は東軍に、内郡のそれは西

       軍に属したことになる。世羅郡は外郡に入っているが時には内郡と呼ば

       れる場合もあった。ちょうどこのあたりが内・外両郡の境界であったの

       である。従って応仁の乱においても備後の東・西両軍の合戦は世羅郡

       中心に展開された(『福山市史』上、一九八三)。