『横紙書翰』 (弘中)
至二去年一備後外内両郡、被三差二出隆兼一候處、各令レ隨逐二分過之馳走一、寔神妙
被二 思召一候、弥於二向後一無二油断一奔走肝要之由、被二仰出一候、能々可レ申之
旨候、恐々謹言、
(天文十三年ヵ)(1544) (吉見)
三月七日 興滋『在判』
(青景)
隆著『同』
(陶)
隆満『同』
(宣家)
石井九郎三郎殿
「書き下し文」
去年に至り備後外・内両郡を、隆兼に差し出だされ候ふ処、おのおの随はしめ過分の馳走を遂げ、寔に神妙と思し召され候ふ、いよいよ向後に於いて油断無く奔走すること肝要の由、仰せ出だされ候ふ、よくよく申すべきの旨に候ふ、恐々謹言、
「解釈」
去年になって備後国の外郡・内郡を、弘中隆兼に差し出しなさったところ、それぞれが(弘中隆兼に)従い、期待以上に奔走したことは、本当に感心なことであると大内義隆様はお思いになっています。ますます今後も油断なく奔走することが肝要であると、仰せになりました。よくよく(あなたに)申し上げよとのことです。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「外内両郡」─備後南部の諸郡すなわち深津・安那・品治・沼隈・御調・芦田・世羅の
七郡をまとめて外郡と呼び、備後北部山手の諸郡すなわち甲奴・神石・
奴可・恵蘇・三次・三谷・三上の七郡をまとめて内郡と呼ぶ呼称は戦国
時代広く使われたが、応仁の乱初頭にすでにこの呼称があった(山内首
藤家文書一二四号)。すなわち外郡の国人衆は東軍に、内郡のそれは西
軍に属したことになる。世羅郡は外郡に入っているが時には内郡と呼ば
れる場合もあった。ちょうどこのあたりが内・外両郡の境界であったの
である。従って応仁の乱においても備後の東・西両軍の合戦は世羅郡を
中心に展開された(『福山市史』上、一九八三)。