周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

石井文書(石井英三氏所蔵)14

    一四 大内氏奉行人奉書寫

 

『横紙感状』                  (安芸安北郡

 藝州府城爲後巻、昨日十三佐東勢出張之處、於松笠山懸合々戦之時、郎従

                          (興房)

 川田太郎三良矢疵胸、僕従弥三郎被矢疵左乳之由、陶尾張守注進状到来、遂

 披露畢、尤神妙之由、所仰出也、仍執達如件、

     (1527)            (杉興重)

     大永七年五月十四日        兵庫助『在判』

         (宣家)

       石井九郎三郎殿

 

 「書き下し文」

 芸州府城の後巻として、昨日十三佐東勢出張するの処、松笠山に於いて懸け合ひ合戦するの時、郎従川田太郎三良矢疵を胸に、僕従弥三郎矢疵を左乳に被るの由、陶尾張守の注進状到来し、披露を遂げ畢んぬ、尤も神妙の由、仰せ出ださるる所なり、仍て執達件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国府城攻めの後巻きとして、昨日十三日佐東勢が出向いたところ、松笠山で攻めかかり合戦をしたとき、郎従川田太郎三郎が矢疵を胸に受け、僕従弥三郎が矢疵を左胸に受けた、という陶尾張守興房の注進状が到来し、大内義興様に披露した。いかにも感心なことであるとの仰せであった。そこで、以上の内容を下達する。

 

 「注釈」

「府城」─現府中町宮の町三丁目。府中のほぼ中央、標高35メートルの半独立丘上に

     ある。中世史料、例えば大永七年(1527)九月十日付大内義興感状

     (「譜録」所収眞鍋長兵衛安休家文書)などには府城、同年七月十八日付冷

     泉隆祐合戦手負注文(「閥閲録」所収冷泉五郎家文書)に国府城、享禄二年

     (1529)十一月十三日付大内義隆感状(武州古文書)には芸府城などと

     記される。出張城の呼称は付近の字名にちなむ近世の命名であろう。

     城主は守護武田氏の家臣で応永年間(1394─1428)に下総国から府

     中に入部したと伝える白井氏。広島湾の東・西岸地域を大内氏の勢力に制せ

     られている武田氏にとって、出張城は白井一族の拠る仁保城(跡地は現広島

     市南区)とともに広島湾頭を押さえる重要な拠点であった。それだけに、大

     内軍の武田領侵攻の度に攻撃にさらされた。大永二年十一月十六日、弘中興

     兼の率いる軍勢が城戸口に押しかけたのが最初である。同六年には豊後大友

     氏の援軍を合わせた大軍が府中南部鹿籠(こごもり)に陣取ったため、白

     石は降伏を申し出、城内にいた武田氏の家臣二人の切腹を条件に許された

     (房顕覚書)。ところが、ほどなく武田方に復帰したため、翌年また大内軍

     の攻撃を受け、四月には仁保城の白井膳胤が降伏。しかし、当城の白井備中

     は依然として抵抗を続け、五月六日に「西籠屋」が破られるなどしたため、

     同十三日には武田氏は兵を松笠山(現広島市安佐北区)に送って大内軍を牽

     制したが功を奏さなかった。この時の交戦は六月まで確認され、翌享禄元年

     七月にも大内方の部将が鹿籠に在陣しているから、白井氏の抵抗はその後も

     続いたようである。しかし「安芸にてハ銘城」(房顕覚書)とうたわれた当

     城もおそらく天文十年(1541)の銀山城(跡地は現広島市安佐南区)の

     落城前後に落ちたらしく、同二十年以前大内氏家臣で銀山城番であった麻生

     氏が府中に給地を得ている(年欠八月十三日付「陶隆房書状」お茶の水図書

     館成簣堂文庫所蔵白井文書)。

     本丸は20─30メートルの長円形で、その南に郭が二つ認められるが、か

     つては馬場跡・門跡もあったといわれ、武具・墓石・人骨などが今でも出土

     するという。北麓の曹洞宗長福寺はもと田所氏の菩提寺であったが、のち白

     井氏の菩提寺ともなったという。なお、城跡東にある首洗池は大内氏に攻め

     られて自刃した白井房胤の首を洗った池と伝える(「出張城跡」『広島県

     地名』平凡社)。

「後巻」─味方を攻める敵を、さらにその背後から取り巻くこと。うしろづめ(『日本

     国語大辞典』)。

「松笠山」─安佐北区高陽町小田・高陽町鳥越。東は松笠山など標高300メートルほ

      どの山にさえぎられ、西は太田川を挟んで東野村(現安佐南区)に接す

      る。北は矢口村、南は安芸郡戸坂村(現東区)で、深川郷から広島城下へ

      通じる往還が山麓寄りを走る。東側の山には前期古墳が多く残り、この地

      の開発の古さを物語る。大永七年(1527)七月十三日には、松笠山で

      大内・武田両軍が交戦した(三浦家文書、石井文書)。大内氏が武田氏配

      下の府中(現安芸郡府中町)の白井氏などを攻撃したので、援助のために

      出撃した銀山城(現安佐南区)城主武田光和の軍との間で起こった戦いで

      あったが結末は定かでない。室町時代には当地は北庄に含まれていたと考

      えらえる。天文二十三年(1554)八月、毛利氏が伊藤・大呑・河野の

      各氏に宛てた打渡坪付(「譜録」所収)には、中須賀・みつくろ・勝楽寺

      などの地名がみえる(「小田村」『広島県の地名』平凡社)。