『横紙書翰』(賀茂郡) (元家) (マヽ)
藝州志芳衆之内石井平左衛門尉事、被レ下二身暇一被二上遣一候、今度長々在陣神妙
(マヽ)
之由、被二 仰出一候、雖レ爲二何時一於二 御遣發一ハ、不レ及レ被二相觸一、可レ
遂二参上一之由、可レ被二申与一之旨候、恐々謹言、
『杉三川守』(吉見)
四月二日 頼郷『在判』
『吉見丹後権守』(杉)
興重『同』
(弘)(隆兼ヵ)
張中々務丞殿
「書き下し文」
芸州志芳衆の内石井平左衛門尉の事、身の暇を下され上げ遣はされ候ふ、今度長々在陣神妙の由、仰せ出だされ候ふ、何時たりと雖も、御発遣に於いては、相触れらるるに及ばず、参上を遂ぐべきの由、申し与へらるべきの旨に候ふ、恐々謹言、
「解釈」
安芸国志芳衆のうち、石井平左衛門尉のこと。石井の休暇を下されるように、(あなた・弘中殿が、大内様に)上申なさいました。今度の長々の在陣は感心なことである、と大内様は仰せになった。いつであっても、志芳衆を(戦場に)派遣するときには、(こちら・大内様から)お触れになるまでもなく、参上するべきである、と(あなた・弘中殿が石井に)申し伝えなさるべきであるとのことです。以上、謹んで申し上げます。
*書き下し文・解釈ともに、よくわかりませんでした。
「注釈」
「志芳庄」
─しわのしょう。現東広島市志和町のほぼ全域を荘域とする。「和名抄」記載の賀茂郡志芳郷を母体として成立したものと思われるが、立荘の事情は不詳。大治三年(1128)十二月日付の平正頼譲状(仁和寺文書)に「賀茂郡志芳郷」とみえ、正頼が志芳郷内に地主権を有していたことが知られる。荘名としての初見は「吉記」寿永二年(1183)十一月二十八日条。建久九年(1198)の官宣旨案(壬生家文書)に見える世能村の四至のうち「北限山志管庄堺榎山口」の「志管庄」は「志芳庄」の誤記と考えられ、志芳庄は世能荒山庄(現広島市安芸区)の北に位置したことがわかる。正治二年(1200)二月二十八日付の吉田経房処分状案(京都大学文学部蔵)によれば、領家職は平安末期以降経房の一族に伝えられたが、本家職は上西門院から為寛僧都へ譲渡されている。建長八年(1256)七月三日付の将軍家政所下文(尊経閣文庫蔵)によると「志芳庄西村地頭職」などが天野景経に安堵されており、伊豆天野郷(現静岡県田方郡伊豆長岡町)を本貫とする天野氏が地頭職を得たことが知られるが、領家は不明。正和三年(1314)頃天野氏と思われる肥後五郎左衛門尉政行・安芸三郎二郎遠政がともに当庄の「一方地頭」と称されているが(同年四月十一日付「六波羅御教書案」教王護国寺文書)、これがそれぞれ志芳庄西村・東村地頭職にあたると推定される。天野氏は南北朝の乱で南朝方に属したため、足利尊氏は建武三年(1336)十一月二十六日、当庄を京都本圀寺に寄進(本圀寺文書)、文和元年(1352)十月六日には義詮が園城寺に寄進(園城寺文書)。地頭職は大内氏に与えられたらしく、永徳元年(1381)七月一日、大内義弘は「志芳庄内弐分方地頭職」を厳島社に寄進している(厳島文書御判物帖)。しかし依然として天野氏は当庄で勢力をもち、荘内の大宮八幡宮に奉納した大般若経の奥書に南朝年号で正平二十年(1365)と記している。また明徳元年(1390)までに幕府方に帰順した天野顕忠は大内義弘から「志芳庄東村二分方」を返付された(天野毛利文書)。応永の乱後、小早川春平が「志芳庄天野一族等跡」の領地を認められており(応永七年正月二十六日付「足利義満安堵御判御教書」小早川家文書)、天野氏の所職は一時小早川氏に与えられていた。応永二十八年(1321)には天野顕房が将軍義持から志芳庄東村地頭職を安堵され、以後代々同地頭職を安堵されている(天野毛利文書)が、その間荘内にあった厳島社領を押領している(宝徳二年四月日付「厳島社神主藤原教親申状案」巻子本厳島文書)。安芸に本拠を移した天野氏には政貞とその従弟顕義の二家があった。志和東村米山(こめやま)城に拠った顕義が東村地頭職を伝領しているので、志和堀村財崎(さいざき)城・金明山(きんめいざん)城に拠った政8)八月二十二日付の譲状(天野毛利文書)には「志芳庄地頭職」とあり、顕義系の米山城天野氏が志芳庄を一円領有するに至ったかのようであるが、おそらく両天野家の間で宗家・庶家関係が確定したことを意味する名目的なものではないかと推定され、弘治四年(1558)九月二日付の天野元定宛天野隆重同元明連署契状(天野毛利文書)によると、両家の支配領域には、厳然と区別があった。戦国末の毛利氏八箇国時代分限帳(山口県文書館蔵)には、米山城の天野元政の賀茂郡における所領が三八六五石余と一一四石余に分けて記され、前者が志芳庄内の高と思われる。また財崎城の天野元信の賀茂郡における一一九四石余も、ほとんど志芳庄内の分と考えられる(『広島県の地名』平凡社)。