周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

井原著書4

 井原今朝男『中世の国家と天皇儀礼校倉書房、2012

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第4章 天皇と仏教 ─天皇儀礼における仏事と神事の相克

P131

 前近代における天皇の宮中儀礼は、仏事・神事・諸節供からなっていた。(中略)

 現在でも皇室儀礼からは仏教が排除され、神道による近代からの「伝統」行事が継続している。昭和天皇神道天皇像の枠内にあったといえる。

 

P133

 しかし、(保守革新)両者に共通する点は、いずれも天皇の宗教的権威を霊や祖先神・生き神信仰と結びつけて理解し、仏教儀礼との関係で天皇を捉える研究は存在しなかった。さらに、天皇制を権威と権力の二元論で分析しようとする方法論は革新的歴史学と保守的歴史学でも奇妙なことに共通していた。すなわち、石母田正は「朝廷は幕府の権威の観念的源泉として、また伝統的名目的な官職を与えるものとして幕府の政治的機能の一つを体現するものとなった(「中世における天皇制の克服」『石母田正著作集第8巻』岩波書店、1989年)と主張する。永原慶二「中世的政治形態の展開と天皇の権威」(『歴史学研究』159、1952年)、網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店1984年)、伊藤喜良『日本中世の王権と権威』(思文閣出版、1993年)も、天皇は幕府権力の正統性を保証する権威が天皇であったという視点から分析している。いずれも権威と権力の二元論によって天皇制を分析する方法論に依拠している。(中略)

 この事実こそ、天皇制を権威と権力の二元論で分析する方法論が、戦後天皇制論の保守・革新の両者に共通していたことを物語っている。戦後に登場した権威権力二元論の方法論では、象徴天皇制を批判的に検討しえないことを事実で示している。

 

P134

 ようやく、近代国家のつくり出した神道天皇像を批判し相対化して、古代・中世・近世と続いてきた仏教的天皇像を史料に基づいて買い目する諸研究(網野善彦『異形の王権』平凡社、1986年、岡田荘司『大嘗の祭り』学生社、1990年)が登場するようになった。

 平成天皇は、日本国憲法の規定する象徴としての国民とともにある天皇像を樹立しようとしている。民の暮らしに思いを致す天皇像をつくり上げ、左右のイデオロギーから距離を置くことに成功しつつある。新しい天皇像の模索が続けられている。

 

P135

 前近代天皇制が宗教的文化的権威をもっていたことは誰が一致して認める。そこを出発点にしたとき、宗教的暴力・文化的暴力の実態を明らかにすることが研究の課題となっていると言わなければならない。それは、儀礼の差別性・排他性・暴力性の解明という研究課題と一体のものである。

 儀礼・儀式が、イデオロギーではなく、平安期の政治そのものであったことを最初に主張したのは土田直鎮「平安時代の政務と儀式」である。土田は、前近代では儀礼執行そのものが政務であり政治権力の講師であったこと、政務と儀式が一体化したのは9世紀に始まることを明らかにした。

 9世紀、宇田・醍醐・村上天皇の代に、天皇の国政運営は神事・仏事・諸節供からなる年中行事を執行することと一体化した。延喜・天暦の治は理想的国政と言説化された。宮中神事としては祈年祭月次祭新嘗祭や諸社奉幣・祈念穀奉幣などが行われた。宮中仏事では御斎会・後七日御修法・大元帥法の三つの仏教行事が毎年正月に実施された。恒例の護国法会として各時代を通して実施された。建久2年(1991)公家新制には「攘災招福は仏教にしくなし」(『三代制符』)とあり、恒例仏事が盛業した。

 

P136

 御斎会は、院政期の『年中行事絵巻』に記載され、鎌倉期の『新任弁官抄』にも「年中行事中第一大事也」とされ、上卿と行事弁によって正月八日から十四日に七日間に行われた恒例仏事である。南都六宗の学僧が大極殿盧舎那仏・脇侍仏を安置して金光明最勝王経の購読と論議を行う鎮護国家の法会である。これに連動して諸国の国分寺で最勝王経の転読と国庁での吉祥悔過が行われ、地方でも御斎会が開催された。

 

P137

 御斎会は、雑穀・稲を献上し、大極殿に本尊を安置し、八宗の僧侶と八省の官人らが参列して、最勝王経を購読・講説し、饗宴・布施を行なった。最終日の竟日には清涼殿で内論議が行われ、講師は興福寺維摩会講師の経験者、読師は内供奉十禅師ら修練のものが任じられ、修法僧が出席した天皇に香水加持をして功徳が玉体安穏に及ぶものであった。しかし、院政期の『兵範記』保元三年正月十四日条によると、「八省御斎会に参す」とあり、仏教供として五穀廿二杯を大鉢に盛り、仏前に供え、薪廿六荷を庭中に立て、散華行道・雅楽供舞・購読・講説のあと饗宴となったことが記されている。内論議はなかった。玉体への香水加持も見られない。行事内容に変動があったことがわかる。

 

P147

 中世国家儀礼での用途進納・支払・出納・決算という財政処理はすべて文書や手形処理であり、実際の現金取引や出納事務は同市阿闍梨の家政機関としての大行事・小行事(行事所)に請負されていたとこがわかる。禁裏の大嘗会・即位式・造内裏役などの財政運営も官行事所は、伝奏切符や奉行人下書による手形処理で、現金の出納はすべて公方御倉によって処理されていた。中世国家では財務運営と出納事務とは分離しており、明治政府のそれと基本的に一致する。中世の国家財政運営行政処理は、官僚制として近代的できわめて合理性の高い処理能力に到達していたのである(拙著『日本中世債務史の研究』東京大学出版会、2011年)。

 

P150

 「奉請(ぶしょう)」したものを「返納」することが当然とする意識が文面からは伝わってくる。古代における奉請の意味は、貸出と借用の二つの意味があったことを東野治之が指摘し、原秀三郎は借用を意味すると批判して論争になった。大平聡はその文法について検討し、「「奉請」自体に借用・貸出の両義が本来的であった」として論争に決着がついている。この延長線上で考えれば、中世人の奉請とは預かる意味があったと見るべきであろう。むしろ、返納を前提に一時的に借りる・預かる・請取という中世的借用観念(拙著『日本中世債務史の研究』東京大学出版会、2011年)を示す用語として理解すべきものと私は考える。もともと、中世人は仏物・神物と人物とを区別する意識をもっていたことは、笠松宏至が指摘したところである。仏舎利は本来仏物であるから、それを「奉請」することは、請=「預かっておく」というニュアンスであり、事が済んで法会が終われば返却することが本来の姿あったというのが中世人の意識だったと見るべきものと考える。

 

P160

 以上から、正月七日〜十四日までの八省御斎会を開催しないで、後七日御修法結願の十四日に内裏において加持香水に合わせて八宗奏と御論義を行なうという略式の御斎会を実施する方式が、嘉暦四年や建武元年・四年に行われ御斎会と称されていた史実だけは明白といえよう。

 『続史愚抄』によると、弘長三年(1263)や文永三・四・五年(1266・67・68)正月十四日の後七日御修法の竟日に、加持香水を二条里内裏などで行なっている。したがって、この時期に、八省御斎会はなくなり、後七日御修法の竟日に内裏での加持香水と八宗奏と御論義を行うことで、御斎会の簡略化が始まった可能性が高い。今後の検討課題として指摘しておきたい。

 

P162

 承和七年(840)常暁が大元帥法を奏上して、仁寿元年(851)から毎年正月永く修して国典となすとの官符が出た。大元帥法が後七日御修法とならんで護国修法の地域を確立したこと、真言密教による護国修法の推進に対抗して円仁が天台密教として嘉祥二年(849)内供奉十禅師と熾盛光法を申請して護国法会としたこと、の二点は速見侑「秘密手法の成立」(『平安貴族社会と仏教』吉川弘文館、1975年)が早く指摘している。

 851年(仁寿元)常暁により創設された大元帥法は、大和国秋篠寺から香水と土砂等を宮中に調達して正月八日から十四日までの七日間、治部省大元帥法が行われた。国家を外敵から防衛・異国降伏のための護国法会で、天皇のみが主催できるものとされた。長徳二年(996)に藤原伊周が私に修したとして大宰府に流された。醍醐寺理性院が法会の阿闍梨を出す御坊となり、秋篠寺は大元帥法の寺として仁明天皇勅額の「真言院」が寺宝として遺り、本尊は大元帥明王で毎年六月六日に開帳している。古代での大元帥法の執行状態については、石上英一の研究があるに過ぎない。

 

P163

 (中世の大元帥法の作法を記録した聖教類)これによると、大元帥法は外敵から国土を防衛するための法会であるため、大壇の上に百の利剣と百の弓、百の箭尻が並べられ、太刀は外に向け、弓と箭はその間に置き三重に配置する。本尊は大元帥明王の画像で縦251×横156センチの巨大なもので、鎌倉時代のものが醍醐寺に所蔵され国宝になっている。これらは、2002年歴博の企画展示「中世寺院の姿とくらし」で公開された。

 

P164

 しかし、中世の大元帥法の推移についての歴史的考察は拙論「民衆統合儀礼としての大元帥法」(『増補中世寺院と民衆』前掲書)があるにすぎない。室町期の大元帥法については大元帥法の伴僧をつとめた僧宗詢らの出身寺院である信濃国伊那郡文永寺で、室町期・戦国期・織豊期に勅命で大元帥堂が再建され、大元帥法が実施されていた。宮中の天皇主催での大元帥法執行に合わせて、地方寺院でも大元帥堂がつくられ、大元帥法が実施されていたことが判明した。

 このことは、これまで禁裏での儀礼は、天皇や公家のみが参加する雅な文化で貴族趣味や秘伝性・特権性のみが強調され、平安文化の復興としてのみ評価されていた。しかし、中世の王朝儀礼や宮中法会に連動した儀礼や法会が地方寺院でも連動して実施されており、民衆的基盤に裏づけられていたことが判明したのである。

 

P165

 理性院での大元護摩では、天皇御衣を理性院に持参して玉体の祈祷も合わせて行なっている。室町・戦国期の大元帥法は、中絶した御斎会や後七日御修法がもっていた鎮護国家・五穀豊穣・百姓安穏までも祈願する護国法会に変質していたものというべきであろう。

 

P167

 近年では、即位に際しての仏教行事が解明されつつある。即位とともに一代一度大仁王会が開催され、仁王護国般若波羅蜜多経の購読がなされた。天平勝宝2年(750)孝謙天皇に始まり、貞観2年(860)清和天皇から建長4年(1252)後深草天皇までの大仁王会が知られる。権門や寺社でも季節ごとの季仁王会が恒例仏事となり、民間でも虫払いの祓行事としても仁王会が実施され、一代一度仁王会が絶えた後も民間での仁王会は独自に民間儀礼として発展定着した。

 天皇が即位に先立って高僧から秘印と真言を伝授され、即位式で秘印を結び真言を唱えるという即位灌頂も鎌倉期以降に行われた。(中略)最近、上島享は、即位灌頂の儀礼は殺生関白が天皇に授ける仏教儀礼で、堀川天皇即位式に始まるとする説を主張している。

 

P168

 上皇の葬儀は仏教儀礼として営まれた。(中略)

 中世では天皇の死はなく、上皇の死として扱われ、仏教式葬儀は院司による家政行事として行われた。

 

P169

 (甘露寺親長は)仏事の再興を無益とし、神事優先が室町期の天皇斧近臣公家の社会通念であった。古代・中世の宮中儀礼では神仏習合の原理と並んで、神仏隔離の慣習法が並存していた。(中略)

 院政から織豊期の天皇は、神と仏によって守護され、かつ儀礼王であったから、非人間化・国家機関化が始まり、玉体への鍼治療は忌避することが慣例になった。嘉吉2年(1441)十月十七日後花園天皇が腫物により重体になったとき、医師久阿・内薬者清阿・本道医師らは「御針ヲハ玉躰憚之間、如何に仕るべきや否や」(『康富記』)と主張し、幕府の管領畠山持国が参上させた鍼医師「下郷」と論争になった。鍼治療が玉体への外科手術を伴うため忌避されつつあった。三条・中御門・中山三中納言らが談合して大学者清原業忠の意見を聞いて鍼治療を実施した(『康富記』)。しかし、後土御門天皇も鍼治療なく腫物で死去している。「御針ヲハ玉躰憚る」という玉体神聖化のイデオロギーは、昭和天皇の罹病でも問題になった。

 

 

第5章 王権と儀礼 ─天皇一代一度と田舎の仁王会

P173

 現代科学技術の発達した日本の中で、それとは裏腹に新興宗教や超能力、呪術、攘災招福等を主体とした密教ブームが起きている。日常生活では、現代産業の合理性と科学性にひたりながら、非日常的な儀礼の中ではいまなお神秘性や呪術性が部分的とはいえ国民生活の底流に息づいている。近代になって漁業関係者や医学薬学関係者の中で、魚類や実験動物の供養碑を建立する動向が増えているという。そうした現代生活の奇妙さを象徴的に示したのが、昭和天皇の死去から平成天皇即位式・大嘗会に至る代替わり儀礼であった。天皇儀礼における非日常性・象徴性・神秘性・呪術性を違和感なく受容する素地が、日本国民の多くの中に根強く存在している。そうした今日的状況に対する歴史科学的な考察と分析が必要である。

 もとより、本稿の課題は、王の主催する儀礼のあり方から中世天皇と在地社会との関係の時代的特質を検討することであって、今日的状況への考察や分析は目的外であり、またその能力もない。しかし、中世にあって宗教と呪術は不可分の関係にあり、宗教的呪術的儀礼も民衆の生活技術や原始科学を混沌のままに含んで成立しており、民衆生活や生業の多くが呪術的基盤に立脚していたと見るべきであろう。だからこそ、中世社会にあっては、法的規制力とともに儀礼の社会的規制力が相乗効果を果たして大きな社会的影響力を発揮したと見るべきである。権力と権威は両者が相乗効果を出すように機能したのであり、片方のみでは効果は半減したものといえよう。今日においても、儀礼や儀式が、マスコミやインターネットを通じて社会的経済的効果を発揮するからこそ、社会的規制力や輿論の動向を左右する力をもっている。皇室ジャーナリズムの社会的影響力の大きさが、政治や外交に利用されるのも、そのためであろう。だとすれば、中世における儀礼天皇や民衆について考察することは、あながち今日的状況分析と無関係ともいえまい。

 

P174

 本稿では、そうした諸研究に学びながら、朝廷や公家・武家儀礼が、在地や民間での儀礼・祭礼とどのような社会的関連性をもっていたのかという点からこの問題を考えたい。最近は、朝廷や公家の儀式・儀礼のみを王朝儀礼として取り上げ詳細な分析がなされるようになり、儀礼執行そのものの解明を研究目的にしたかのような論考が目につき、何のための研究か理解し得ないものが見られるように思う。もとより、儀礼・祭礼研究の多様化は研究の前進であることはまちがいない。そこで、本稿では、王権の儀礼が、在地や民間の寺社や衢で行われる儀礼や祭礼とどのように連動していたのか、なにゆえ天皇儀礼の執行に固執したのか、また、最も非政治的非階級的に見える儀礼をめぐって権力と民衆はいかなる関係にあったか、等についてその一端を明らかにしたいい。

 

P175

 山中裕によると、九・十世紀に律令制的で大陸風だった年中行事が、宴を中心にした日本独自のものに再編成されたという。古代の儀礼が、「神祇を祭祀する」という神事優先であったのに対して、中世の儀礼は、神仏習合の影響下で仏教的密教的性格の強固なものになったという。それは神事・仏事・諸節供三者から構成され、国分寺や地方有力寺社をはじめ荘園鎮守や村落寺社での年中行事の形成とともに密接に関係していた。

 年中行事興行のためには、儀礼・法会の場であった寺社の造営・修理とともに、行事執行者の僧侶をはじめ勧進聖・別所聖・山伏・法師など民間僧と、大般若経法華経・最勝王経・仁王経などの経典類の整備も必要不可欠であった。公家や武家の両政権が、年中行事の興行と同時に寺社の修理・造営をセットで在地に命じ続けたのはそのためである。平安末期から鎌倉・室町時代を通じて聖や山伏など民間僧が寺社造営・修理などのために、勧進や奉加を行い、大般若経など社協活動も実施したことは広く知られている。

 では、中世において、公武両政権がともに年中行事の勤行を重要政策としつづけたのはなぜであろうか。それが本稿全体の課題であるとともに、最大の難問でもある。

 →年中行事の執行は、現代の公共事業や公共の福祉の実現と同じ。

 

P177

 いわば、中世国家は理念としての安邦治民=儀礼による天下太平、五穀豊穣の実現を国家目標とし、それゆえ年中行事の勤行を重視していたものといえよう。とすれば、日本史の通説のいうように、奈良時代鎮護国家の思想は、律令制解体とともに衰退したのではなく、むしろ鎌倉時代に入って社会の中により浸透し年中仏神事興隆という中で定着しつつあったと理解すべきではないのか、との疑問が生まれる。中世の王権は、天皇自身のためだけではなく、天下太平、五穀豊穣という社会や国家のための儀礼をも営んでいたことになる。その解明が次の問題である。

 『年中行事秘抄』や『禁秘抄』など儀式書によれば、中世では天皇の身体そのものの安全・恒久を祈る儀礼がいくつか見える。たとえば、天皇の「御衣」は天皇の身体そのものの分身と観念され、宮中ではその日のうちに御衣を祓う「毎日御祓」の儀がなされた。地獄に落ちた場合でも「帝ばかりは御衣をめす、残りはみなはだかなり」(『沙石集』)と信じられた。また早旦御湯を供する際、蔵人は鳴弦を行うのが毎日毎度のこととされた。天皇の御座は、西向きにしてはならなかったし、手水は北向きにすべきであった(『禁秘抄』)。天皇の本鳥は紫糸を用い先を二つに結び分けるのが「帝位ノ御作法」とされた。黒田日出男は日食・月食にはその妖光から天皇の身体を守るため御所を包み、その切れは天皇のみならず将軍家へも波及したことを指摘している。五月五日が丙午・壬午にあたる年に、赤紙をもって神符御護をつくってかければ寿命百年を保つという秘法が、天皇家に伝えられていた。これは「黄帝秘術」といわれる道教的呪術であったらしいが、建長5年(1253)五月五日が丙午壬午にあたったことから、後嵯峨院から将軍家に伝授された(『吾妻鏡』同年五月四日条)。摂家将軍頼嗣が廃されて、皇族将軍宗尊親王が迎えられたことに伴う儀礼の伝授であり、皇族将軍ゆえに許された秘法であった。将軍と天皇との均一化の始まりである。天皇の身体の安全を守るためのタブーがいくつか存在し、天皇のみ許された作法が作られた。天皇のみに許された秘法・儀礼の解明は今後の課題である。

 

P178

 中世の修正会は、後七日御修法・大元帥法・御斎会が三位一体化したものである。そこでは、天皇の玉体安穏を祈願するだけではなく、上皇・関白はもとより万民豊楽を祈願するものに変化していた。

 

P179

 社会や自然の秩序混乱は天皇の責任であり、天皇個人の慎みとともに、公共的呪術儀礼としての仁王会を義務づけていた。(中略)天皇儀礼を営みその法力により旱魃や疫病の流行を鎮め自然・社会秩序を回復することが、社会的公的責務とされた。その結果、降雨という自然現象が起きれば、それは王権の徳=善政を示すものと観念された。(中略)こうして、自然や社会秩序の維持・安定を図ることができないことは王権の罪とされ、責任追及の社会的批判が強まる構造が存在したのである。公共的呪術儀礼は、王権によって諸刃の剣であった。

 天変地異や自然災害に際して、国家の勧農機能が衰退し、荘園制や在地領主制的な勧農機能にとってかわる時代において、公共的呪術儀礼の効力はきわめて不安定にならざるをえない。中世王権への社会的批判は増加し、天皇権力の限界性は社会的に明確になる。だからこそ、儀礼の主催者としての天皇は、同時に社会的責任追及の声から逃れる社会システムによって守護される構造が必要になる。天皇自身が汚れから守護されるべき存在として、いくつかのタブーによって神聖視され、律令制天皇像が転換するようになるのも十世紀以後のことである。

 

P182

 ここで注目されることは、荘園鎮守の年中行事として長日仁王講が前々から実施され、その供料米として四石一斗という巨額の用途が荘園年貢から支出されていたことである。そのうえ、例百座仁王講の布施凡絹十疋代としても一石七斗五升の米が支出された。五大力菩薩像を祀り、仁王経を購読する仏事が九州の田舎でも実施されていた。王権が即位に際して一代一度の儀礼として実施するものと同一の行事が、荘園鎮守での年中行事として存在していたのである。鎌倉時代には、天皇が主催する国家儀礼としての仁王会と荘園鎮守で年中行事としての仁王講とが存在していた。後者の実施用途は荘園年貢から支出されていた。王権の儀礼は、民間儀礼と密接に関連して実施されるという二重構造をなしていたのである。とすれば、二つの系列の仁王講について分析のメスが入れられなければならない。まず最初に、国家儀礼としての仁王会から検討していこう。

 

P183

 王が主催する国家儀礼としての仁王会は三つある。第一が、すでにみた一代一度大仁王会である。(中略)八世紀中葉孝謙天皇から、十三世紀中期から後深草天皇まで代替わり儀礼として一代一度大仁王会が実施され、鎌倉後期、大覚寺統持明院統との分裂・両統迭立とともに実施されなくなったことが判明する。

 

P184

 第二は、季仁王会とされる年中行事である。二月または三月、七月または八月の春秋に行われる仁王会がある。(中略)十一世紀前半頼通政権下において、仁王会料は国家的賦課によって、確保する体制が完成した。天皇代替わり儀式である仁王会は、毎年行われる年中行事としても執行できる国家的制度が成立したのである。

 第三は、天変地異などに際して宣旨等で執行が命じられる臨時仁王会である。開催目的が判明する主要なものを整理すれば、表4(82頁)のごとくである。十世紀以後増加しており、これまでも指摘されていたように虫害・地震・疫病・旱魃などの天災人災、流星・日蝕・月蝕・彗星などの自然現象はもとより、中宮の御産、高倉宮乱・東国逆乱などの兵乱、異国降伏、外寇という国家防衛など、いずれも中世国家の存立基盤にかかわる事件=国家的社会的危機に際して、宣旨・院宣・綸旨や官符等により仁王講の実施が命じられている。(中略)百座の僧侶や百体の仏画ではなく規模が縮小されているが、基本的な執行体制は季仁王会と同じである。自然秩序や社会秩序の安定を祈願し、万民豊楽・利益利民を実現する公共的呪術儀礼として仁王会を全国各地で実施する体制にあった。

 以上から、①仁王会は、天皇代替わり儀礼であるとともに、年中行事や臨時の行事でもあるという重層的な実施体制をもっていたこと、②仁王会は公権力が自然的社会的秩序維持という公共的機能を果たしていることを示すための国家儀礼であり、王権による公共的呪術儀礼といえること、③儀礼・法会は宮廷だけでなく、諸国の国分寺や有力寺社をはじめ全国各地で実施させるため、用途料も国家的賦課によって確保する体制にあったこと、などの諸点が確認される。

 

P186

 (民間の仁王会の内容の)第一は、国司・在庁官人らにより仁王会が立願され、用途料を負担するための供料田が設定され、国一宮や惣社で仁王講が地方の年中行事として定着した事例である。(中略)

 仁王会実施のための経済的保障体制は、僧供料を負担する料田を免田とするものであった。仁王講田は請僧により師資相承され、相伝の中で私領化し、鎌倉後期には他人に転売され転倒される事例も生まれていたのである。

 

P187

 第二は、本家・領家や預所などにより仁王会が保証され、荘園鎮守での年中仏事として定着したものである。(中略)

 山中の私領内に山寺を建立し、別所聖を招いて仁王会などの年中仏事を行うための用途料として私領を寄進して国司の免判を獲得するという事例は隕石にはかなり多くの事例を見ることができる。寄進地形荘園の成立と同様の現象であり、それにより、荘園公領制下の荘園鎮守が成立し、その年中仏事の一つとして仁王講も定着するようになったのである。(中略)

 こうしてみれば、荘園鎮守での仁王講は、本家預所から人民百姓に至るまで荘園すべての安穏を祈願する法会として存在し、その用途料は荘園年貢からの支出や預所の管理の下で請僧に充てがわれるなど、荘園領主による保護政策がとられていたといえる。

 

P188

 第三は、地頭、御家人らによる地方有力寺社や氏寺での仁王講創設、さらには僧侶らによる村落寺院での仁王講が年中行事として実施された事例である。(中略)

 但馬国大岡寺では、応長元年(1311)御家人沙弥覚阿と子息橘盛真・有信が三者連署して、長日仁王講料田として一町二段を寄進した。その立願は「国家執柄并将軍執権を奉らんがため、別に御家⬜︎沙弥覚阿家門安穏、子孫繁昌のため」としている(大岡寺文書、『鎌』24466)。ここには、後部政権担当者の安穏と御家人の家門安穏という個人的呪術儀礼としての性格が合わさっていたことがわかる。

 

P189

 以上の検討から、①在地の仁王講は、国一宮・国分寺惣社など国衙レベルの寺社はもとより荘園鎮守や武士層の氏寺、地方有力寺社をはじめ村落寺社に至るまで重層的なレベルで行われており、民間儀礼として仁王会がかなり浸透流布し定着していたといえる。②在地での仁王講執行主体は、十世紀ごろの受領層から、十二世紀前後には荘園領主層に変わり、十三・四世紀には地頭御家人層・荘官層へと変換する。目的も、鎮護国家・利益吏民から、本家預所をはじめ荘内百姓を含む荘民すべての息災延命・安穏福寿となり、ついには家門安穏・子孫繁盛という個人的利益を含むようになり、階層に応じた多様な要求に基づいて行われていたといえる。③用途料は、免田にされた講田や荘園年貢から支出されるなど経済的保護策が講じられ、社会的必要経費と考えられていた。以上の諸点が判明する。民間の仁王講は、公共的呪術儀礼の性格が顕著であるが、より地域の階層に即した個人的呪術儀礼としての性格をも帯びていたといえる。

 

P190

 天皇による公共的呪術儀礼の執行体制は、国家的社会的制度として保障されていただけではない。全国各地の民間儀礼として重層的に実施される無数の仁王会が存在し、社会階層に応じた下からの呪術儀礼の連鎖構造によって支えられていた。天皇一代一度の大仁王会は、権門寺社はもとより国分寺・一宮・惣社・荘園鎮守・村落寺社に至るまで社会の諸階層に波動のように広がる仁王会の実施体系の頂点に位置していたといえる。仁王会の鎮護国家思想は、王権による公共的呪術儀礼によってだけではなく、民間社会の隅々で行われていた公共的呪術儀礼や個人的利益をめざす個人的呪術儀礼によって支えられる社会的制度を持っていたと見ることができよう。王権の発した一片の法令よりも、儀礼の社会的規制力がはるかに大きな社会的影響力をもっていたといえよう。中世天皇儀礼王としての性格をもって儀式・祭祀の主体として登場するのは、天皇の主体的判断によるものではなく、むしろこうした時代の社会思潮によって下から規制されていた結果として評価すべきであろう。しかも、仁王会が社会に定着して在地での恒例仏事となった鎌倉中・後期には、天皇の一代一度の大仁王会が中絶するに至る。もはや、天皇が上から率先して主宰者として仁王会を実施しなくてもよい時代になっていたのである。

 

P192

 飢饉・疫病の大流行、治安の悪化、社会不安や恐怖心の広がり、妖言の流行と御霊会の盛行こそ十〜十二世紀の京都の特徴である。群集心理とデマゴギーに貴族から庶民に至るまで拘束され、自然休日が生まれ、新しい信仰や祭礼・行事が生まれた。社会的集団的狂心状況の中では公家之定=国家の命令がないまま、御霊会で仁王経が講じられたのである。いまや、仁王経は、飢饉・地震・疫病への恐怖心を鎮め、疫病退治の経典として呪術的儀礼の中心的機能を果たした。(中略)

 仁王講が荘園領主をはじめとする村落寺院の年中行事として定着するのは、都会よりも遅れて十一世紀ごろからで、その目的も疫病退治を含みつつ荘民安穏など多目的な儀礼となっていた。(中略)興味深いものは、丹波国氷上郡安田園柏原別宮の事例である。(中略)ここでは、領主が田舎に寺社を勧請しても、容易に寄人らの信仰を獲得しえなかった。その半面、住人が領主勧請の寺社での神事や仏事に結集し信仰するようになった契機は、十一世紀の旱魃や疫病など社会的気の信仰であったことがよくわかる。(中略)

 田舎での旱魃・災害・虫害や疫病・飢饉などによって再生産構造が破壊され、農村社会の危機が信仰する中で、それを鬼神や御霊の仕業として攘災する儀礼=仁王講が農村でも受容されたのである。田舎での年中行事は、郷中旱魃や疫病、虫害・災害などを除去し、祈雨など生活技術や民衆的原始科学を含んだものが定着していった。大寺社の宗教領主が「村落共同体」をイデオロギー的に編成するのに成功するは十一世紀後半だとする河音説は、政党であろう。

 平安後期から鎌倉時代に入ると、仁王経が大般若経とならんで農村においても民衆に密着した経典になる。鎌倉時代東国の常陸国東城寺では、田舎の習いとして小法師が糞を運ぶことが当たり前であると同様、僧侶が仁王経を読むことは当たり前だったといい、山寺では、所の習いとして田舎の僧たちが文字を知らなくても仁王経や法華経などを暗誦していたという(『沙石集』)。

 

P196

 中世国家権力の飢饉・災害対策は、神仏への祈祷・寺社興行策であった。公武一体の寺社興行・仏神事興行策は、後嵯峨院政と宗尊親王武家政権によって正嘉の飢饉という国家危機の中で本格化したものと見るべきであろう。中世の治世者は、神仏と法楽して儀礼による神の力で攘災招福を実現する顕密国家観に拘束されていた。

 

P198

 これまでの研究では、幕府による諸国社寺の造営が関東分に限定されずに全国化するのは弘安7年(1284)以降とする石井進の見解により文永弘安年間以後、幕府の国家的機関への成長が進展していたとしていた。しかし、本論で見たように、後嵯峨院政と宗尊親王の幕府権力の登場によって、公武一体の政策推進体制が準備され、正嘉の飢饉という社会危機からの復興対策としての仏事神事興行が公武一体で推進され、弘安徳政へと連続していくと見るべきであろう。

 

P200

 巻数と五大力像印仏の利用法の違いなど不明な点が多いものの、仁王講で用いられる五大力像の印仏が攘災招福の護符として在地で信仰されていたことは事実といえる。文字を知らない民間僧までが仁王経や法華経を暗唱していたのは、その経典が、天変地異・飢饉・疫病などの災いを除き、地域の安全と幸福をもたらす呪符・護符の意味をもって民間に受容されていたものと推測される。

 

P202

 ここから、荘民は、主語が虫祓いのために実施した仁王会の用途料賦課に反対しておきながら、虫害被害が拡大すると名主百姓中が除災の儀礼として仁王講の実施を領家側に要請した。仁王会執行による「札」が地下に下され虫害が収まると、その代わりに料足を荘民らは自発的に負担・進上したことが知られる。(中略)

 王権・荘園領主・幕府・守護や地頭などは、旱魃・戦乱・外寇・疫病・虫害等自然災害や社会的危機に際して仁王講などの仏神事を実施する。いずれも公共的呪術儀礼である。民衆はその祈祷と護符によってその被害を免れたと信じるからこそ、その用途料を役として自発的に負担・調進する。権力と民衆は公事調進の代わりに護符を受けるという双務性の論理で結ばれていたのである。天皇は仁王会等の公共的呪術儀礼を実施することによって、公事徴収の社会的正当性を獲得しえたといえる。もとより、これは中世国家の構成員とされた天皇から百姓までの「玉体安穏」と「百姓安穏」を祈願する国家儀礼の大家に組み込まれたものの社会通年・社会思潮の共同観念であるといえよう。私は、これを民衆統合儀礼の体系と呼んできた。

 

P203

 実定法よりも慣習法の効果が高かった中世社会においては、権力による法的拘束力以上に、儀礼と祭礼が社会全体を規制する法的意義をもっていた。中世で公権力たろうとする王権・幕府・荘園領主・権門寺社・守護・地頭などは、社会的危機に際して社会の安全と幸福を祈願する公共的呪術儀礼を執行し、社会的秩序維持の機能を果たそうとした。それは、領主と民衆とが、儀礼の執行と用途の進上をめぐって一種の双務契約関係にあったことに基づいていたといえよう。民衆と領主との双務・互酬的契約は、民衆が公事・役という経済的負担であるのに対して、領主は仏事や護符という観念的行為であり、圧倒的に民衆に不利である。ここにこそ、階級的収奪を合理化するトリックが隠されていた。中世にあって天皇儀礼・法会を執行するのは、民衆との双務・互酬的契約を果たし、公事・役の徴収を正当化するためであったといえよう。そうした行為なしには、中世の王権は公権力としての社会的承認を得られなかったし、公事徴収ができなかった。王権には幻想を振りまく神秘性主教性が不可欠であった。王権の儀礼・法会は在地での民間儀礼と連動し、王権そのものが土着の宗教性や呪術性をもっているかに見える。王権がもつ神秘的な能力こそ、公事や役を収奪するための手段、方法である。儀礼による社会的秩序を安定化させる力は、社会から税を取る力でもあったといえよう。

 民衆が双務・互酬的契約の欺瞞に気づくにつれて、用途徴収は困難になっていき、公事や役の徴収は工場的収取から臨時的一時的なものに限定されていった。

 中世国家の民衆統合儀礼のシステムの欺瞞性・宗教性は、国家儀礼の体系の枠外に置かれた被差別民や社会的弱者、さらには領主・百姓の家父長制支配下に置かれた下人・奴婢らの下層民衆の権利闘争によって克服されていくものであった。法然は、専修念仏を本願とする理由について、「もし、それ造像起塔をもって本願とせば、貧窮困乏の類は定んで往生の望みを絶む」(『選択本願念仏集』)として、貧窮民の往生を第一義的に追求した。親鸞も「善信が身には臨終の善悪を申さず…さればこそ愚痴無知の人も終わりもめてたく候へ、如来の御はからひにて往生するよし、人びとにまふし候しこと、違わずこそ候へ」(『親鸞集』、『鎌』8574)と主張した。『往生要集』が説いた「臨終の行儀」を親鸞は否定し、愚痴・無知の人でも極楽往生を説いた。日蓮も「今生に貧窮下賤の者と生まれ、栴陀羅が家より出たり。心こそすこし法華経を信たる様なれそも、身は人身に似て蕃身也…其中に識神をやどす。濁水に月のうつれるが如し」(日蓮文集、34頁)と述べる。貧窮下賤でも法華経を信じたものはだれでも女人でも成仏すると説いた(日蓮書状・千日尼御前御返事)。栄西・能忍・道元も禅のみでの成仏を説いた。

 諸宗兼学・諸行成仏を説く顕密体制の延暦寺興福寺大衆は、中世国家と一体になって、これら念仏・題目・禅のみによる成仏を成仏を主張する宗教者への弾圧を強化した。建久六年(1195)能忍・栄西の洛中追放、建永二年(1207)法然親鸞らの流罪、嘉禄三年(1227)隆寛・成覚・空阿の流罪、延応二年(1240)道元・専修念仏の洛中追放など、中世国家による宗教弾圧が続いた。これまで宗派史として個別に言及されたり、延暦寺による圧力とされて中世国家による宗教弾圧として分析されることがほとんどなかった。

 年貢公事を負担しうる百姓は中世国家の構成員であり、有産者階級であるから、諸宗兼学・諸行成仏の本願によって往生・成仏の道が保障されていた。それが顕密体制であった。しかし、中世国家の構成員となれない貧窮の民・年貢くじを負担することができない貧窮下賤の民が往生・成仏する道を説く宗教家は、延暦寺興福寺や中世国家の説く諸行成仏・諸宗兼学を否定する教学であるから、弾圧を受けなければならなかった。まさしく、民衆統合儀礼から排除された貧窮下賤の下層民衆は、中世国家儀礼の枠外に置かれ、専修念仏・禅・題目など易行にのみ往生・成仏の道を求めて行かざるをえなかった。それゆえ、中世国家の宗教弾圧を受けたのである。しかし、室町期には、時衆も本願寺日蓮宗臨済宗曹洞宗もすべてが、宣旨によって宗祖の国家的承認を獲得し、護国主義の体制内に組み込まれてしまう。ここに中世国家がもつ統合機能の恐ろしさを垣間見ることができる。

 現代国家の徴税システムは、税による富の社会的不均衡を是正するための再配分機能だとする理論により正当性を獲得した。もはや中世国家のように徴税システムと儀礼による社会的秩序維持とが統合していた時代ではなくなり、両者の機能は完全に分離している。しかも、現代国家はグローバル文化の中で、労働三権や文化的な最低限度の生活を営む権利である生存権を骨抜きにして、社会福祉をも企業の利潤追求の場に組み込み、貧困ビジネスの獲物の場に作り替えようとしている。国家が果たす社会的機能の非人間性への監視の目を強めなければならない。

 →鎌倉新仏教の登場によって、易行往生が可能になったからこそ、自殺のハードルが下がったのではないか。臨終正念が不要になるから、自殺が簡単になる。顕密を信仰する上流階級、鎌倉新仏教を信じる武士と下層民。自殺にも階級性があるのではないか。