周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

井原著書5

 井原今朝男『中世の国家と天皇儀礼校倉書房、2012

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第6章 室町戦国期における天皇権力の二面性

P213

 本節ではまず、国政的統治権力を衰退させていた室町・戦国期の禁裏において、天皇が禁裏の家政職員や家内隷属民に対する生殺与奪権を行使していたことを明らかにし、天皇の家父長制的権力としての側面を明らかにしたい。

 

P216

 ここから第一に、仙洞御所内での事件については、後小松院の専決処分権が存在したことがわかる。院侍と女官との密通事件が露見したとき、院は「御気色快善」を理由に、院侍を夫婦のまま追放処分にした。第一次裁判権の行使である。ところが、「籠居」中に勅免を求めて内外に働きかけ、仙洞御所門前に「直奏」するという行動に出た。御所の「仰」=後小松院の命令によって「門番衆」の細川讃岐守が捕囚した。後小松院は強行に頸を刎ねるように命じた。この処分を、将軍義持も貞成親王も「公家御沙汰」として「誅戮」とか「討」という決定しているが、「頸を刎ねる」という処刑の実行は、武家伝奏広橋兼宣を介して室町殿義持に命じており、義持が処刑の執行を細川讃岐守に命じ六条河原で実行させた。ここでは、幕府権力が後小松院の裁判権を執行する暴力装置の役割を果たしていることがわかる。もとより、幕府は「公家御沙汰」としての処刑を憚り流罪を主張した。こうした天皇への意見具申は「武家執奏」「執申」と呼ばれ、室町殿や御方御所・管領などが天皇や院御所に意見具申する自由が認められていた。しかし、最終決定権はする自由が認められていた。しかし、最終決定権は上皇天皇にあり、その判断を「時宜」と呼んでいる。上皇の命令によって六条河原で院侍が刎首された経過が判明する。幕府権力は明らかに、後小松院の命令を行政執行するための暴力機構としての役割を発揮させられている。

 

P217

 これらの史実は、室町期の院・天皇が、幕府や管領という暴力装置を駆使して院侍の首を刎ねさせたことを示している。まさに、中世の院・天皇は、密通事件を起こした女房や院侍の生殺与奪権を掌握していた事実は明白である。

 

P220

 室町期の天皇が住む禁裏内での女房は、天皇の家父長制的支配権の下にあるものとして天皇の所有物であったから、処刑することも懐妊させることも天皇の自由であったといえよう。

 

P222

 言い換えれば、天皇は御所内の女房は、自分の家父長制的支配下においていたのであり、懐妊も女房官職の安堵も自由に行なっていたといえる。

 

P227

 以上から、中世天皇家では、院侍や御所の女房衆に対する生殺与奪の権天皇上皇が掌握していた。内裏門前での狼藉についても御門を警護する門番衆に犯人を引き渡し、管領や侍所に頸を斬らせる処分を行なった。内裏内部での窃盗事件でも、禁裏小番衆が逮捕権を行使し、検非違使別当武家伝奏の指示に従って門番衆を介して侍所への犯人の引き渡しを行なっていた。禁裏御所の門番衆を管轄する管領・侍所はまさに朝廷のための裁判警察処罰を行う暴力装置の機能をもっていたといえよう。言い換えれば、室町・戦国期の天皇は、検断権・処罰権行使のための暴力装置として幕府の門番衆・侍所管領を手足のごとく使用していた。検非違使別当武家伝奏は、そのための交渉窓口であった。

 内裏や御所内部の侍や女房など家政職員は天皇上皇の家父長的支配権の下に置かれており、将軍家といえども干渉しえない専決処分権を行使できた。管領や侍所など幕府機構は、まさに天皇・院の「暴力装置」として機能していた。天皇の凶暴性は後小松・称光天皇の個人的気質に帰着する問題ではなく、天皇家の家父長制的権力の凶暴性を物語るものといわなければならない。

 

P229

 すなわち、広橋兼顕という公家が抱えていた被官人の内部紛争から傍輩を刺し殺した事件は、広橋家の家政内部の問題であり、殺人事件といえども、第一次裁判権は広橋家の家父長権限に属する事柄であり、禁裏における天皇の警察裁判権は、広橋家の被官衆の内政問題には介入しえなかったと見るべきであろう。

 

P231

 第一に、公卿の被官人が手猿楽衆という一般人を殺害するという事件は、天皇裁判権に帰属する問題になっていた。天皇は「其の儀如何」と裁判の仕方について賀茂伝奏親長に意見具申を求めた。ここから、内裏での公家被官人と一般人との殺人事件は天皇裁判権を行使していたことがわかる。(第二に)公家身分の者は家政権力として被官人に対する第一次裁判権を優先して行使していたといえる。先の公家広橋兼顕の被官人同士の殺人事件に天皇裁判権が及ばなかった事例と同一といえよう。天皇の犯人に対する裁判権は、公家の被官人に対する裁判権を補完する二次的なもので、「公儀御沙汰」と呼ばれていたことがわかる。第三は、公家法においても、犯人が逃亡したときにはその父に生涯させるべきで、子の罪が父に及ぶべきこと、とされ、喧嘩両成敗法が遵守されるべきとする法意識が存在したことが判明する。

 

P235

 黒戸が内裏の仏間であり、天皇の遺体や法会の場にもなったことがわかる。

 

P237

 院政期の公家裁判では、訴人論人である当事者の関係者に対座規定があり、一族・一門は裁判の合議や判決に参加できなかった。

 

P238

 院政期と室町・戦国期の天皇の裁判手続きを比較すると、後者はきわめて家政的性格を強めて、天皇の関係者が集まって身内での合議をするという天皇のための私的諮問機関的性格を強くしていたといえよう。

 

P241

 天皇裁判権は、近臣および公家被官人に有利な判決で、一般の猿楽衆には不利な判決になるという階級的性格を顕著にもっていた。(中略)

 以上、内裏内部で起きた刃傷・殺人・狼藉事件など検断沙汰について、天皇裁判権が行使されていたことは明らかになったといえよう。まさに、天皇家の家父長制的支配権の及ぶ内裏御所での警察・治安維持・刑事裁判権は、天皇の御前定という天皇勅裁によって処理されたことがわかる。

 

 

第7章 中世の国衙寺社体制と民衆統合儀礼

P253

 国衙が免田を公認していた神社・寺院を「国内神社」「国寺」と呼んでいたことはまちがいない。国内の寺院・神社のうち国衙が免田や得分を保証していた寺社を国内寺社と呼ぶ。

 

P254

 院政期に国ごとに「諸寺別当」が庁宣によって補任され、その管轄下に入る国内寺院の注文が作成され「諸寺注文」と呼ばれていた。国ごとに置かれた「国諸寺別当」こそ「国寺」を統括する役職であり「諸寺注文」を管理していたといえる。

 

P259

 以上から六所の神社には通説の言うような六カ所の神社を合祀したものから、八瀧神や雷神のごとく六躰の六宇社殿をもったものや、六所権現社に至るまで多様な形態があった可能性が高いといわなければならない。武蔵や相模の六所宮が、本来、六カ所の神を合祀したネットワークを指すものか、六所権現の御躰が六つのために六所となったのか、どちらが本源的な神観念であったかは判断できない。ただ、合祀説の史料は、鎌倉後期から室町期にかかるものが多いのに対して、六所権現社の史料は荘園・院鎮守などではあるが、平安・鎌倉前半にかかるものが多いことからすれば、六所権現社の信仰がより古いものとみることは許されよう。中世では、神観念の多様性が広がっていたと考えられ、六所宮の多様性の解明は今後の検討課題と指定しておきたい。

 

P261

 この(護国法会の)仏事用途田はすべて寺院ではなく神社に与えられ、国内十七社で、免田を公認された神社よりも範囲が拡大している。神仏習合の原理と並ぶ神事優先の原則が地方でも守られていたことがわかる。最勝講と仁王講・法華講・大般若会・金剛般若会・石塔会では料田のほかに仏供田二反と請僧分三町を基本とした均等田を各神社に配分している。神社に仏供田・請僧分の料田を保証してはじめて護国法会の執行や神前読経が実現できた。民衆統合儀礼の執行体制は伊予国衙による国内寺社への料田の保証というという統一的政策によって実現されていた。

 

P265

 以上から伊予国衙が封戸田・免田・供料・請僧分など経済的保障を与えていた国内寺社は二十七社に及んでいた。伊予国衙は国内寺社の存続、護国法会を執行するための経済的基盤を国制的に保障する体制を維持していた。こうしてみると、惣社国司の巡拝の煩いのため諸社を合祀した神社としたり、国一宮制という特別待遇の神祇体系が存在したとする通説は、再検討が必要であることが判明する。

 

P266

 次に伊予国衙は、国衙所属の「楽所」に三十九町余の免田を保障していた。(中略)音楽専門官としての楽頭と行政管理者としての楽所別当の下に楽人・舞人が配置され、舞の演目や音曲の演目ごとに免田が保証された。地方国衙における楽所の重要性がうかがわれる。

 

P267

 最後に伊予国衙は「道々外半人等」に五十二町七反の免田を保障していた。(中略)護国法会の執行は地方における高度な専門的技術集団の存在なしには不可能である。民衆統合儀礼の執行体制は単なる宗教・文化問題ではなく、地方における専門技術・分業の確保という経済的基盤を必要とした。伊予国衙の寺社免田注進状の中に「楽所」と「道々外半人」が含まれていたのは、国衙楽所の音楽集団と国衙工房の職人集団が、国内寺社の法会・祭礼での音曲舞楽の執行体制と道具什器楽器類の維持修理管理のために不可欠であったことを物語っている。国内寺社と楽所と職人集団は祭礼・法会執行のために三位一体の存在であった。

 

P270

 公武一体となって弘安七・八年に諸国一宮・国分寺・府中惣社復興令を出していた。しかし、中世国家の法令が一律に実施される体制は中世社会にはない。それを実施・受容する地方主体が存在する場合にかぎり法的効力をもちうる。以下、府中・惣社復興令が効力をもちえた常陸を事例に検討してみよう。

 

P272

 在地で国家法令の執行主体になろうとしたのは、目代大掾・税所の連合体である「留守所」であった。それは院政期〜鎌倉前期の知行国主の指揮下にあった留守所とは異質といわなければならない。

 「府中田畠等」とは、「府中車田七段事」(嘉暦三年七月日常陸国庁宣、同二七号)とか、「府中米吉名」(延元元年九月日清原師氏訴状、同三一号)とみえるもので、一般の在庁名・供僧名のうち府中に集中して存在した国衙領公田である。

 

P273

 大掾・税所を頂点とした在庁と供僧との合議体=在庁供僧連署によって構成された一揆=共同組織が、幕府法の永仁徳政令や公家の府中惣社復興令を在地で効力あらしめようとする施行主体であった。(中略)いいかえれば、府中の再編成と惣社との一体化は、在庁と供僧の連合組織を社会基盤にした大掾殿・税所殿の二人に代表される地域の公権力体が生まれていたことが裏づけられる。(中略)院政期と鎌倉期の国衙機構は、在庁官人の共同権力機関とみられてきたが、鎌倉後期の公武一体の国衙興行策によって、府中に結集した在庁、同庁供僧らが、数名の有力在庁を頂点としたタテの社会権力体として再編成されつつあったといえる。

 常陸の府中を代表する地域の公権力体が、大掾殿と税所殿の二人に代表され、その社会基盤が府中在庁と供僧の連合組織であった。こうした関東武士団の県政のあり方は、常陸平氏常陸の真壁氏や八田氏など系譜研究や都鄙往復、市・宿との交通関係から蓄積されている武士団研究とは異なった分析視角として注目すべきであろう。

 

P277

 以上、薩摩国分寺の興行は、天満宮が主体となって国分寺国分尼寺・泰平寺という四つの寺院ネットワークを統合して、惣社や国庁の国衙祭祀をも組み込んで再編成したものであった。薩摩国では天満宮国分寺惣社や国庁の法会も含む一国レベルの仏神事を統合させた新しい民衆統合儀礼を執行する宗教組織に再編成されたといえよう。

 

P283

 公武一体の国分寺一宮興行令を薩摩という在地で推進しようとした在地権力体は、府中に結集した留守惟宗氏を代表とする在庁と一宮新田宮・天満宮・泰平寺・国分寺などの供僧集団であったことが判明する。薩摩の府中でも、地域の公権力体が自立化し、国政改革を現地に呼び込もうとしていたのである。国衙寺社体制も本所領家の荘園制的支配関係に組み込まれていた。

 

P288

 こうしてみると、伊予国分寺文書からも鎌倉極楽寺が諸国国分僧寺尼寺の興行沙汰権と諸国末寺を公家勅願寺化する権利を朝廷から保障されていたことがわかる。(中略)鎌倉極楽寺は諸国国分寺を管轄し興行沙汰権を安堵された。周防国分寺僧が極楽寺は日本国国分寺再興を沙汰したという歴史認識を持っていたこともあながち根拠のないものではなかった。

 

P289

 これまでの研究では、永島福太郎・永井規男・松尾剛次・松井輝昭らによって西大寺が鎌倉末期に諸国の国分寺十九カ寺を末寺にしていたとし、西大寺流律僧と在庁や国衙系技術集団との密接な関係などが指摘されている。(中略)いいかえれば、忍性による西大寺復興の延長線上で西大寺流律僧による諸国国分寺の末寺化が説明されている。それゆえ、鎌倉極楽寺による諸国国分寺興行令の存在に言及したものはみられない。

 

P290

 鎌倉極楽寺俊海が東大寺大勧進になり、北条政権の後見があればこそ、公武一体の施策の下で西大寺も勢力を拡大しえたのである。

 

P296

 以上の検討から、室町期に上総国衙機構は国庁と惣社を頂点にして、多くの所の兄部や下部とともに楽所に舞人・楽人や道々外財人を含め大量の構成員を確保し、府中国庁・府中八幡宮惣社や郡鎮守など国内寺社に免田や寺田・神田を保障した国衙免田制の延長線上で、五月会など護国法会を営み、公事や引物の収納・贈与・出納関係を維持していたことがわかる。このような体制は鎌倉前期伊予国衙の「免田」「郷々祈田」の配置と同一であり、しかも前述したごとく建長七年(1255)の伊予神社仏閣等免田注進状が応永十五年(1408)二月九日に田所の紀良員によって書写・構成されていた・室町期の伊予国衙が建長年間と少しも変化しなかったなどというつもりもない。室町期国衙機構が全体に衰退しつつも、上総府中においても、国庁と惣社などの在庁と供僧の連合組織が地域の公権力体として機能していたことを主張したい。

 

P297

 本稿で明らかにしたことは、鎌倉・室町期の中世国衙は、⑴「国内神社」や「国寺」を「寺社注文」や「神社仏閣等免田注進状」などに登録して数多くの国内寺社を掌握しており、⑵国内寺社での護国法会の用途料を在庁役の下行や免田・供料田等として保障した。⑶法会執行のために楽頭・楽所別当・楽人舞人からなる楽所という音楽集団を地方国衙に配置・養成し、⑷法会のための仏具・荘厳具・衣装類・楽器類・仮面類・什器類などを製作・修繕・維持管理する職人集団を「道々外財人」として編成し免田や得分を保障した。中世の国衙機構・地方楽所の音楽集団・国衙工房の職人集団は、地方寺社における民衆統合儀礼である護国法会を営むための社会的共同執行機関であった。このような地方における民衆統合儀礼の執行体制を国衙寺社体制と呼ぶ。

 国衙による国内寺社の経営・掌握という国政的枠組みは、鎌倉中期までに動揺と矛盾を激化させていたが、蒙古襲来を契機にした国家的危機の中で民衆統合儀礼の執行体制を再建するため、中世国家は公武一体となって弘安七年の国分寺一宮興行令に取り組み、嘉暦二年鎌倉極楽寺長老俊海の東大寺大勧進補任にともなって、極楽寺へ諸国国分寺興行権を安堵し、元弘三年には極楽寺末寺の勅願寺化と国分僧尼寺領安堵の綸旨を与えた。北朝や幕府も建武三年には光厳上皇院宣足利直義直状でこの政策を追認・継続していた。公武一体による一宮国分寺興行令を諸国において施行・推進しようとした在地勢力主体は、府中に結集する大掾・税所・留守所など有力在庁と国庁・惣社を頂点とした国分寺天満宮八幡宮などの供僧集団であり、府中惣社、府中六所などを生み出した府中の地域公権力体であった。

 中世国衙は数十の国内寺社に予想を超える免田や料田を保証する半面で、国衙関係者が国内寺社の祭礼・法会に共同参加し神物の「下し物」を支給され、国衙と国内寺社はギブアンドテイクの双務関係にあった。したがって、中世の諸国一宮や惣社のみを国司と関係する特殊寺社として評価し、一宮惣社制という国政的枠組みが存在したと評価するこれまでの研究は再検討が必要だといえよう。むしろ、国衙による国内寺社の経営・掌握という国衙寺社体制の上で天満宮と一宮や惣社国分寺などが再編され、府中に結集する在庁・供僧連合組織の発展によって府中と惣社国分寺が一体化・特権化した。それは地域の公権力体としての在庁・供僧連合のあり方によって地域的偏差の大きいものであったといわなければならない。

 

 

第8章 中世儀礼における漢詩・管弦・和歌と社会教養

P307

 では「儀礼」とは何か。現在では「社会的習慣として形式を整えて行う礼式」といわれるが、中世の人が儀礼をどう考えたかということは別の問題であり、それ自体大きな研究課題である。しかも儀礼の中で読まれた和歌は、読まれてそのまま消えていくものがたくさんあり、むしろ文字で記録されて残されるものの方が少数であるという問題を歴史学では考えなければならない。ここが国文学研究とは大きな違いだといえる。

 

P309

 国政の基本は、祭祀によって攘災招福・安邦治民を実現すること、これが年中行事の目的であり、中世国家の理念だったといえる。

 では和歌の目的はどうか。『新古今和歌集』の仮名序には、「世を治め民を和らぐる道とせり、かかりければ、代々の帝もこれを捨てたまはず」とある。これも「安邦治民」である。では音楽、管弦はどうなっているか。『管弦音義』には「一切の音楽は皆是、治国治民のため也」とある。管弦も国政そのもので、民のために行うもの、という同一の論理になっている。和歌や管弦も、神事・仏事の執行とまったく同じく治国治民のための国政運営として中世人は認識していたことになる。ここに中世人の共通した国家観・国政観がみられる。中世の国家目標は儀礼によって攘災招福・安邦治民を実現することと中世人は考えていたのである。

 これらを主催する頂点は誰か。当然、天皇の責任において国政運営を行う原理になっていた。(中略)高松宮本の中にも『禁秘抄』という順徳天皇が撰した儀式書・教訓書がある。そこでは、天皇が身につけるべき芸能として、第一「御学問也」、第二に「管弦」が挙げられ、第三に「和歌」が「我国習俗也」と指摘されている。中世で最も重視された学問は、漢籍漢詩文と仏教を含むものだから、中国の漢学だといえる。二番目が管弦、音楽であり、和歌は三番目になっている。

 ところが、室町時代伏見宮貞成親王が子息の後花園天皇のために作成した『椿葉記』になると、第一に「楽道事」、第二に「御学問」、第三に「和歌」となっている。(中略)江戸時だ、後水尾天皇が後光明天皇のために書き残した『教訓書』(宮内庁所蔵 宸翰英華五九一東山御文庫)によると、「和歌第一に御心にかけられ御稽古あるべきこと」となっている。つまり近世には、中世天皇では三番目に指摘されていた和歌が第一に励むべきことに変化している。

 

P310

 「仁王護国般若波羅蜜多経」と「金光明最勝王経」と「法華経」の三つが護国経典として中世国家の基本経典とされた。

 

P311

 人が神仏と法楽すると鬼神力で護国が実現するとする中世的護国思想が展開されている。したがって漢詩・管弦・和歌は法楽のため、神と人とが楽しみ喜び護国を実現するための手段という考え方が中世知の体系であったといえる。いいかえれば、中世国家儀礼において漢詩・管弦・和歌は鬼神や仏が人間の世界と一緒に法楽するための手段であった。鬼神を勧請して神前読経を行い、後宴で漢詩・管弦・和歌によって人と鬼神とが法楽することによって鎮護国家・五穀豊穣が実現されるという宗教的宇宙観・世界観をもっていたといえよう。荒ぶる鬼神を経典と漢詩・管弦・和歌によって崩落して、福神に転じて鬼神の力で鎮護国家・五穀豊穣を実現するという中世的護国思想の論理・法楽主義とも呼ぶべき世界観が中世の時代意識・社会意識になっていた。その意味で、中世社会は通説で言われるような神仏習合の世界ではなく、あくまで仏教は鬼神を楽しませる手段であって神事優先の社会・極思想の強い社会であったといわなくてはならない。中世の国家観は、近代人のそれとはまったく異質であり、鬼神や仏神と人とが法楽して誤字されるという呪術的護国思想と一体のものであった。

 

P312

 『太平記』は四十巻あり、すべて内乱・戦争の記述にもかかわらず、なぜか『太平記』と呼ばれている。戦争と太平とは相反する言葉であるのに、中世人は戦争の書物を『太平記』と名付けた。しかも最後の四十巻目、終わりの巻で重要視して描かれているのが「中殿御会」の場面であり、つづいて関東公方が死去する「基氏逝去」、それから足利義詮が死ぬ「将軍逝去」、管領となる細川頼之が上洛する「細川頼之上洛」で全巻が終わる。最後に「中夏無為ノ代ニ成テ目出カリシ事共也」という文章で終わっている。何故『太平記』は「中殿御会」(宮中清涼殿での御会)をもってこのような終わり方をするのか。これが私の疑問である。

 

P314

 中世人にとって和歌・音楽の道である中殿御会の開催そのものが、公武一統による王道荒廃の道を知るための鏡であり、「世を治め民を和らぐ道」であり「太平の世」の実現ということになる。まさに太平の世の実現の象徴が、この中殿御会の開催であった。それゆえに内乱の中であるからこそ中殿御会を無理して開催する。内乱の世であるからこそ、「太平の世」を予祝する中殿御会の開催で終わらなくてはならない。中世びとはそう考えたわけである。これが私の意見である。

 →太平の世を願って、戦争の物語を世に送り出したということか?

 

 

P319

 (清原船橋家)清原良賢法名常宗の浄居庵では、論語尚書・左伝・礼記などの講義が行われ、公家三十人許り・僧達一三八人以上が参加していた。(中略)環翠軒は、清原業忠・宣賢らの道号であるとともに船橋家が経営する私塾の名前でもあった。

 

P320

 漢詩・管弦・和歌という三つの教養は、中世の宮中儀礼である公事復興に関与する公家・武家・僧侶らの必要不可欠な社会的教養であったといわなくてはならない。(中略)

 室町貴族の苦しい生活の中で、公家の生活を助けたのが、古今伝授の和歌や管弦、漢詩などの教養・文化力などの私塾活動であった。室町期には文化や教養が富を生み出すことが可能になり、地の財産化が進展した時代であると考えられる。

 

 

第9章 中世禁裏の儀礼と知の集積

P324

 室町・戦国期の天皇家や禁裏が、国政運営の上で統治権的権力を衰微させていたことは、中世国家の時代的特質の反映であったといわなければならない。その反面で、天皇家や禁裏は、公家身分はもとより武家・寺社権門をはじめ禁裏御領の百姓・禁裏供御人・禁裏御庭者らを社会的支持基盤として編成しており、家父長制的な社会権力として存続していた。天皇家や禁裏が中世においても大きな社会権力であったのは、年中行事の儀礼・法会・公事執行のための作法に関する膨大な伝統知・儀礼知を集積するための制度的システムを確保していたことによる。とりわけ、中世の儀礼知は、それを行う人間の家や経済的基盤をセットとして存在しており、知識と社会基盤とが一体になっていた。現代人は儀礼知をたんなる知識として理解するが、それでは中世の儀礼知の本来の姿を正しく理解したことにはならない。中世の儀礼知には政治力や経済力とともに儀礼の社会的規制力が伴っていたことに留意しなければならない。

 たとえば、武家政権がいかに政治的権力を行使していても、将軍職就任に際しては、官職の位記・聞書を請けとり天皇に拝謁するために参内が義務づけられた。室町殿の参内作法は、宰相クラスの参内作法が義務づけられ、殿上人の前駆や太刀持や御沓持の諸大夫を備え、威儀を正した行列を組んで、牛車や歩儀の作法まで熟知したうえでなければ実施できなかった。参内行列は、洛中の人々に公開された儀礼であり、社会的承認や民衆的支持を受けるために欠かせないパフォーマンスであった。それゆえ、殿上人や諸大夫を摂家から借用しなければならなかった。位記や聞書を受け取る際には、外記や内記に五百疋の銭や砂金を渡さなければならなかった。儀礼知の執行には相当の経済的負担がついてまわった。時代に即した社会的教養を身につけることは経済力・政治力とセットであり、それなしには、将軍職をつとめることはできなかった。まさに、社会権力が時代の中で権力として存続するためには、社会的教養や儀礼知の集積は不可欠であった。しかも、儀礼知が格式や家格・政治力・経済力と一体で機能していた。そのことを最もよく熟知していた中世の権力体こそ、天皇家であり中世禁裏であった。中世において、儀礼知の集積が同時に政治力・経済力や権威の集積でもあり、それゆえ社会権力として機能するうえで不可欠であった社会システムについて検討することにしよう。

 11世紀後半から院政期になると、国政運営はすべて神事・仏事・諸節供という儀礼・儀式として執行される体制が完成した。諸国の地方行政は受領の家に請負され、中央諸司の行政事務は特定の中級公家や地下官人の家が代々請け負って行政事務を執行した。これを国政運営の儀礼化といい、中世の国政は基本的に諸家の家政として執行される体制ができあがった。(中略)

 天皇や院は国家行事である儀礼・儀式を主催するため、学問・管弦・和歌から鷹狩・闘鶏・武芸や田楽・今様など民間の雑芸・遊芸に至るまで諸芸能を集大成しようとした。(中略)

 とりわけ、中世の儀礼知が、文字知とともに、所作という独特の身のこなし、ふるまいとセットになっており、口伝・秘伝・直伝として伝授される知の体系をもっていた。それこそ中世知がもった時代的特質といえる。その点に留意して、文献史料群を読み解く必要がある。

 

P345

 鎌倉時代には、中世の家がどの世界でも成立し、国家儀礼に必要不可欠な諸芸能は家の芸道や作法として相伝された。中世の家は官位と家職と家領からなる新しい中世的身分秩序に位置づけられ、清華家大臣家羽林家・名家・半家・地下官人などの家格が固定化した。公家・武家が任官する場合、申請書にはその先例を明示するため系図が添付され、花色を全うするため器量が要求された。系図は中世の家になくてはならない必要不可欠なものになった。

 系図とともに伝えられる諸家の芸能の道は、「道々輩」・「職人」などといわれ、職人歌合などにも描かれた。諸芸能の家の事例を書道の家=世尊寺家の場合をみよう。

 世尊寺家の始祖は三蹟のひとり藤原行成であり、その書は権跡として尊重され、その子孫が天皇の書を清書する家柄として名をなした。氏寺である世尊寺に保元二年(1157)後白河天皇行幸したことから書道の家として社会的な評価が定着した。鎌倉時代の行能・経朝父子の代に能書家として独特の書風を樹立し伝書が作成された。書道は入木道、臨池ともいわれ、十七代行末(1476〜1532)まで朝廷の文書や幕府軍の軍旗銘・笠銘なども世尊寺家が染筆した。書様や書法、墨の濃淡、筆の選定や所作などに吉凶があるとされ、書道も呪術とセットであった。たとえば、世尊寺三位行豊が中風で倒れ、子息の侍従行賢に「書様口伝之事」などを伝授した。それによると、火災・禍難・灰塵・死・兵乱・病などの不吉の文字は「墨を薄く細く可書也」とし、福満・寿命などの吉字は「墨黒に可書之」「命などの字は文よりも長く可書也」とあり、美意識とは異なった吉凶による価値観が強かった様が窺われる。「よき唐墨は前の日兼てより摺りためて置宜也、中々わるき墨は俄かに摺りたてたるよき也云々」(『康富記』嘉吉二・十・九条)とする。文字知にはなりえない所作・動作など技能的身体的な知の体系とセットになっていた。書の作品を見た現代人の感覚で推し量った美意識によって書道史を組み立ててきた神田喜一郎・中田勇次郎・是澤恭二らの方法論(『書道全集』平凡社、1957年など)では、中世人の美意識を復元することができないといえる。

 文明十年(1478)世尊寺行豊が死去し「一流能書断絶」になったとき、世尊寺家が知行していた筆公事は、行豊が幼少の頃一条実秋がその任にあったことを先例として、一条中納言実久に安堵された(『親長卿記』文明十一年六月十一日条)。入木道の家には、筆公事徴収権知王経済的恩典が保障されていた。(中略)

 このように中世の諸芸能の家に相伝された儀礼知は、単なる文字知では送電できない作法・所作とともに体で修得する技能知と結びついており、しかも家職と家領とが付属して伝授・相伝される性格をもっていた。儀礼知が政治力・経済力をともなっていたことに留意しなければならない。中世の儀礼知が文字と音声や所作で情報伝達されるという時代的特殊性の解明は今後の研究課題であり、渡辺滋『古代・中世の情報伝達』(八木書店、2010年)は、その足がかりになろう。

 

P359

 中世社会も室町期以降では公家も武家層も名主・百姓層においても家が分立し、惣領から諸家が独立していった家への分裂が進行する過程で、一門としての親類関係や氏長者や氏寺・氏神の下で同族・同名関係を取り結び、親族間での緩やかなヨコの結合組織を発達させた。中世では家の原理とともに氏の原理が国家的な枠組みの中で存続しており、天皇によって氏長者の認定がなされたり、訴訟では一門の連署状の申状が必要とされる事例があった。(中略)

 公家では、勧修寺流が中御門・万里小路・吉田・坊城家・三条・按察などの家に分裂しても、氏寺浄蓮華院を中心に一門がまとまり氏長者を定めて興行に勤めていた(宣胤卿記)。(中略)中世社会では、家が分立してもなお氏族制的原理が室町・戦国期でもまだ生き残っていた。こうして氏神・氏寺信仰が一門の人々の「同心之沙汰を致す」(勧修寺文書)という氏族的結合原理になっていた。

 武家の場合でも、奉行人飯尾氏は一門の中から氏寺吉田浄蓮院の坊主を任命し、氏寺修造のために勧進の猿楽を共同で興行した(康富記)。

 

P360

 内乱や戦争の激化した時期、法楽和歌の勧進天皇・院・将軍家・守護・国人・公家・寺社を含む支配層内部の協調と統合を図るための社会的な統合システムであった。連歌会や法楽和歌などの参加者は政治的な判断や調整が必要とされた。室町殿義政一代中の極盛といわれた寛正六年(1465)三月四・六日の花頂・大原野社の花御覧連歌会の参勤者については、政所執事伊勢貞親の下で事前審議にかけられ決定されている(親元日記)。

 

 →参加者には協調と統合が生まれるが、会に参加できなかった人物はそこから排除されることになる。

 

 中世人が和歌や連歌は神仏の交感で詠むものという意識が強く、氏寺や氏神など寺社への法楽和歌や法楽レンガによってヨコの人的結合関係を再確認しようとしたのである。

 

P364

 当時、能楽師や琵琶法師・平家座頭などが地方に下向する際には、幕府奉行人や朝廷の外記らが下向先の守護や国人らに路地の扶助を依頼する文書を発給した。(中略)こうした領主間のネットワークが、連歌師らの地方下向を可能していた。和歌・漢詩・管弦の伝授と寄合の文化ルートが、幕府・天皇や寺社・公家の権力をしたから支える政治的経済的役割を果たした。文学や儀礼知をめぐる人脈が、信用のネットワークを創りあげ、政治力と経済力を発揮する社会システムと一体化していたのである。

 

P370

 室町・戦国時代には、公家の武家化・武家の公家化が進行して、武家・公家も僧侶も共通した社会教養・社会知識をもつようになり、生活文化の均等化が進行した。漢学や漢詩の能力を身につけるため、清原常宗の浄居軒や業忠・宣賢らの環翠軒が私塾として盛業し、駿河などからも門人を抱えた。和歌・管弦を身につけることは知識人として当然の教養・文化とされた。和歌の冷泉家も、永正十一年(1514)には歌道入門誓詞を集め始めている(冷泉家古文書)。

 在京する守護や武家の一門は、伊勢氏・蜷川氏・斎藤氏・飯尾氏などの事例を見ると、いずれも在京の本家が将軍家の政所執事や奉行人に補任され、親類一門を在京被官とする一方、同名・同族を在国被官として地方の所領や末寺に配置し、公方御料書や禁裏御料所の代官職に補任されている事例が多い(中島丈晴「15世紀中葉における伊勢氏権力構造と被官衆」『国立歴史民俗博物館研究報告』157、2010年)。守護や有力国人らも京都には京都雑掌や申次を在京させており、一族親類を全国的に分布させ、同名関係を結んで独自に京都と田舎を日常的にとり結ぶネットワークをつくり出していた。田舎の屋敷には、京都風の庭や邸宅を構え、会所で茶の湯や絵画・唐物で室礼し、定期的に連歌会や法会・楽会を営むようになった。連歌師・猿楽師・平家琵琶大道芸人など都と鄙を結ぶ人々は、活発に地方寺社の法楽連歌や惣・講など地下の連歌会や祭礼にも参加した。地下の手猿楽や風流・祭礼などの地方の生活文化は地方に下向した公家や僧侶が驚くほど京風・都ぶりになった。

 中世の惣村や村落でも、法楽連歌・和歌や猿楽・神楽・雅楽などの管弦、さらには闘茶・茶寄合・連歌会などが荘園鎮守や村鎮守・村落寺院などで開催され、宮廷文化の民衆化が進展した。

 応仁・文明の乱に始まる戦国争乱の世界は、在京していた守護や公家・僧侶らの地方下向を促進し、地下生活を営むようになった。禁裏や室町殿がたびたび火災にあい、断絶する公家や武家も現れると、禁裏は国政である仏神事や公事など定例の儀式や法会を営むことが困難になった。後土御門天皇や後柏原・後奈良・正親町天皇は、幕府からの用途料の支給によって節会復興などに努めるとともに、禁裏小番を整備し、外様と近臣のふたつの番衆所を組織した。番衆所では、公家・シャケなどの日記や神事・仏事の次第書・和歌集・歌論・楽書などの収書・書写活動を組織した。番衆所には組番ごとに番頭と番帳が置かれ出席勤務を管理する体制ができていた。番頭は地方の知行地に下向した公家らに番衆所への出勤を催促する番文の触を出したり、知行地に下向するときは暇を申請して禁裏の許可を得るシステムになっていた。文明十一年後九月二十三日には禁裏小番衆であった冷泉為富が暇を申請せずに在国し、「拾遺本」の書写を怠ったという理由で、後土御門天皇の勅勘をうけ、小番衆の結改が行われた(親長卿記)。禁裏小番衆の職務として、歌論書・国書・諸家記・儀式書・次第書などの書写活動が行われていたことがわかる。文明年間の禁裏が国家事業として儀礼知の集積事業に取り組んでいたのである。

 

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 室町・戦国期になって内乱・戦闘が激化する中でも、禁裏や将軍家では和歌御会や作文会が頻繁に開催され、大名と公家・僧侶が共同で和歌連句連歌会を開催した。それは、対立や矛盾が激化する中でも皆が努めるべき中世国家の政務=公事であり、当座の連帯と和の世界をつくり出すための国事であった。その開催通知は綸旨や院宣によって命じられ、漢詩奉行・和歌奉行・御遊奉行がそれぞれ選出されて行われる御会が正式のもので「三席御会」と呼ばれた。漢詩と和歌のあとは御遊と言おう宴会が開かれ、管弦による秘曲が演奏された。天皇・院などが主催する三席御会は公務であり、中世知識人が公務を務めるための身分教養こそ漢詩・管弦・和歌の三つが必要不可欠であった。しかし、文明年間以降、公家層が没落する中で、管弦の技量や漢詩の知識の相伝は困難になり、江戸時代には和歌が第一にならざるをえなかった。

 楽道では、豊原氏・多氏・狛氏などの家が相伝し、楽所の系図相伝した。鎌倉幕府鶴岡八幡宮楽所を創設したし、鎌倉期には大寺社や各国衙にも楽所が置かれ、楽人・舞人が養成されていた。今回展示される中世の楽器・龍笛「銘辟邪丸」と倭琴「銘初音」や「銘大桐」は多家に伝来したものであった。楽人である専門の家以外である天皇摂関家や一般公家層も管弦の能力は自ら身につけ、御遊の場で披露すべき公務のための教養と考えられた。天皇儀礼王として管弦に秀でることは義務とされ、笛の秘曲を伝承したが、高騰が分裂した持明院統の歴代天皇は琵琶を学ぶようになった。傍流とされる花園・光明天皇龍笛を芸能とし、北朝上皇南朝によって賀名生に連行されるという危機的状況下で即位した後光厳天皇は笙という楽器を始めた。