一八 安藝国高田郡中馬村打渡坪付寫
一藝州高田郡中馬村打渡坪付之事
田数貳町八反七畝廿歩
以上
畑三反七畝
代五百廿六文め銭四十一文
屋敷壹反三畝
代九百八拾文
并米三拾四石四斗四升三合
六月十四日
小方
太郎左衛門『在判』
三輪 (元徳)
加 賀 守『同』
藏田 (就貞)
東 市 介『同』
兼重 (元續)
和 泉 守『同』
*書き下し文・解釈は省略しました。
「注釈」
「中馬村」─現高田郡吉田町中馬。山手村の西に位置し、西は土師村(現八千代町)、
北は多治比村に接する。「芸藩通志」に「広十八町、□一里、四方、多く
は山なり、南は僅に開く、谷川村中を流て南に出る」とある。本往還から
は離れていたが、早くから開かれた地で、村内明官地には奈良時代とみら
れる山田寺式単弁蓮華文の軒丸瓦が採集される寺跡がある。この寺跡には
観音堂があり、現在、寺名が地名として残る。
建武元年(1334)二月二十二日付源頼高契約状(熊谷家文書)に「安
芸国内部庄中馬村地頭惣領庶子等契約条々事」とあり、中馬の地はこの頃
内部庄に含まれていた。中世後期には毛利氏の領知する所で、毛利時親の
曽孫元春は康暦三年(1381)正月十三日付で、吉田庄地頭職半分を嫡
子広房に譲り(「毛利元阿譲状案」毛利家文書)、同庄竹原郷を広房・広
内・忠広・広世の四子に分与したが、この忠広は中馬を領したらしく、在
名によって中馬氏を称した。忠広はその子忠親と二代にわたって中馬にあ
ったが孫泰親のとき本領のほか長屋を領し、槇ヶ城を築いて移り、中馬を
改めて長屋を姓とした。中馬氏は文安三年(一四四六)六月三日毛利氏一
家中役夫工米段銭配賦帳(毛利家文書)にも、康正二年(一四五六)十月
二十九日付の内宮役夫工米段銭請取状案(同文書)などにも毛利の一家文
として名を連ね、その割り当てを受けている。なお毛利元就のときには山
手村の二ツ山城主中村豊後守の知行地とされた(『広島県の地名』平凡
社)。
「め銭」─「もくせん」ともいう。(1)省陌法によって省かれる銭。省陌は百文未満
の銭を束ねて百文として通用させる銭貨通用上の慣行であり、中国では六世
紀には行われていた。日本では、荘園年貢の代銭納が本格化する十三世紀後
半以降の算用状・支配状にこの用法が見られる。『東寺百合文書』の文永十
一年(1274)安芸新勅旨田年貢米支配状では「已上一貫九百九十五文加
目銭五十七文定」、また『高野山文書』年未詳六月二十六日野田公文代公事
銭皆納状に「五百文めせん十五文おさめ申候」とあり、目銭(めせん)三文
すなわち、九十七文をもって百文とする省陌が行われていたことがわかる。
算用状では、目銭を加えた場合「加目銭定」、除いた場合「目引定」と記さ
れる。なお、室町時代後期には、九十六文を百文とする省陌が一般化し、近
世では九六銭(くろくせん)として広く慣行化した。(2)鎌倉・室町時代
の関銭・津料。『東大寺文書』元弘二年(1332)三月日付の文書に「爰
摂津国三箇津商船目銭者、去正和年中之比、東塔雷火之時、被レ寄二進彼
修理料所一」とあり、鎌倉時代に、兵庫・神崎・渡辺の三箇津で通過・
寄港の商船に対して賦課された通行税が、商船目銭と呼ばれたことがわか
る。(3)酒屋役。『蜷川親孝日記』永正十三年(1516)九月十日条に
「酒屋方柳桶壱荷充代、目銭等事、違二先規一之条、太無レ謂、然者役銭
減少基、不レ可レ然」とあり、室町幕府が酒屋の酒壺に賦課した雑税の
一種が目銭と呼ばれていたことがわかる。なお、室町時代後期には年貢銭納
に際し、悪銭による減損を防ぐため口目銭と呼ばれる付加税が徴収された
が、口目銭は江戸時代には口永(くちえい)として制度化されたものと考え
られる(『国史大辞典』)。