周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史 40 ─吾妻鏡9(恥辱と自殺と名誉心)─

  承久三年(一二二一)六月十六日条

                   『吾妻鏡』第廿五(『国史大系』第三二巻)

 

 十六日己巳、相州・武州兩刺史移住六波羅舘、如右京兆爪牙耳目、廻治國之要計、求武家之安全、凡今度合戰之間、雖多殘黨、疑刑可從輕之由、經和談、四面網解三面、是世之所讚也、佐々木中務入道經蓮者、候院中、廻合戰計、官兵敗走之後、在鷲尾之由、風聞之間、聞之武州遣使者云、相搆不可捨命、申關東可厚免者、經蓮云、是勸自殺使也、盍耻之哉者、取刀破身肉手足、未終命間、扶乗于輿、向六波羅武州見其體、違示送之趣自殺、背本意由稱之、于時經蓮聊見開兩眼、快喚不發詞、遂以卒去云々、又謀叛衆於所々生虜之中、清水寺住侶敬月法師、雖非指勇士、從于範茂卿、向宇治之間難宥、献一首詠歌於武州、仍感懐之余、減死罪、可處遠流之由、下知長治五郎宗政云々、

 勅ナレハ身ヲハ捨テキ武士ノヤソ宇治河ノ瀬ニハタヽ子ト

今日、武州遣飛脚於關東、依申合戰屬無爲之由也、

 

 「書き下し文」

 十六日己巳、相州・武州の両刺史六波羅の舘に移住す、右京兆の爪牙耳目のごとく、治国の要計を廻らし、武家の安全を求む、凡そ今度の合戦の間、残党多しと雖も、疑はしきものの刑は軽きに従ふべきの由、和談を経、四面の網三面を解く、是れ世の讃する所なり、佐々木中務入道経蓮は、院中に侯ひ、合戦の計を廻らし、官兵敗走の後、鷲尾に在るの由、風聞するの間、之を聞き武州使者を遣はして云く、相構へて命を捨つべからず、関東に申し厚免すべしてへり、経蓮云く、是れ自殺を勧むる使ひなり、盍ぞ之を恥ぢざるやてへり、刀を取り身肉手足を破る、未だ命終はらざるの間、輿に扶け乗せ、六波羅に向かふ、武州其の躰を見、示し送るの趣に違ひ自殺すること、本意に背くの由之を称す、時に経蓮聊か両眼を見開き、快喚し詞を発せず、遂に以て卒去すと云々、又謀叛の衆所々に於いて生虜らるるの中、清水寺住侶敬月法師、指せる勇士に非ずと雖も、範茂卿に従ひ、宇治に向かふの間宥め難し、一首の詠歌を武州に献ず、仍て感懐の余り、死罪を減じ、遠流に処すべきの由、長沼五郎宗政に下知すと云々、

 勅なれば 身をば捨てき 武士の 八十宇治河の 瀬には立たねど

今日、武州飛脚を関東に遣はす、合戦無為に属するの由申すによるなり、

 

 「解釈」(『現代語訳 吾妻鏡』8、吉川弘文館、2010)

 十六日、己巳。相州(北条時房)・武州北条泰時)の両国司六波羅の館に移った。右京兆(北条義時)の爪牙・耳目として国を治める計略を考え、武家の安全を求めるものである。総じてこの度の合戦では残党が多いとはいえ、疑わしい者の刑は軽くするとの合議を経て、四面に張った(包囲の)網の三面を解いた。これは世の人々が称賛するところであった。佐々木中務入道経蓮(経高)は、院(後鳥羽)に祗候して合戦の計略を考え、官軍が敗走した後は鷲尾にいるとの風聞があったので、これを聞いた泰時が使者を派遣して言った。「決して命を捨ててはならない。関東に申請して恩赦しよう」。経蓮が言った。「これは自殺を勧める使者である。どうしてこれを恥じないことがあろうか」。刀を取って身体と手足を貫き破ると、まだ命があるうちに助けられて輿に乗り、六波羅に向かった。泰時はその様子を見て、「指示した旨に反して自殺するとは、本意に背くことだ。」と言った。この時、経蓮はわずかに両眼を開いて爽快に笑い、言葉を発することなくとうとう死去したという。また謀反の者が諸所で生け捕られた中で、清水寺の住僧である敬月法師は大した勇士ではなかったが、(藤原)範茂卿に従い宇治に向かったため赦すことはできなかった。(しかし)一首の和歌を泰時に献じたので、(泰時は)感心の余り死罪を減刑して遠流に処すよう長沼五郎宗政に命じたという。

  勅ナレバ 身ヲバ捨テキ 武士ノ ヤソ宇治河ノ 瀬ニハタヽネド(勅命であるから、我が身を捨ててここにやって来た。宇治川の浅瀬には立たなかったが〈宇治川の戦いには参陣しなかったが〉。)

 今日、泰時は飛脚を関東に遣わした。合戦が無事に終わったと申すためである。

 

*和歌のみ、私が解釈しました。

 

 「注釈」(以下、断らないかぎり、『現代語訳 吾妻鏡』の注釈を引用)

「四面」─殷の湯王が野に張った四面の網の三面を取り去り鳥獣を逃したという『史

     記』殷紀の故事による。

「経高」─?─1221(?─承久3)。佐々木秀義の次男。母は宇都宮氏。兄定綱ら

     と共に治承・寿永の内乱期より幕府に仕えた。淡路国の守護。

「鷲尾」─京都市東山区の北部。双林寺があり、花の名所として知られる。

「敬月」─生没年未詳。清水寺の僧。承久の乱で京方に参じ、弟子の常陸房・美濃房と

     共に捕らえられる。鏡月とも。

「遠流」─流罪(近流・中流・遠流)のうち最も重く、京都から離れたところに身柄を

     移される刑罰。配流地は『延喜式』では伊豆・安房常陸佐渡隠岐・土

     佐など。

「武士ノ」─「武士ノ」は八十・宇治川などの枕詞として多くの歌が詠まれた。

 

 

*前回に引き続き、この記事も承久の乱に関するものです。今回の自殺者は佐々木経高ですが、この人物は官軍の重要人物だったようです。六月十六日、幕府方は官軍の残党に対して減刑することを決定し、佐々木経高に対しても、助命・恩赦を約束する使者を派遣しました。ところが、この知らせに対して経高は、これは自殺を勧める使者であり、恥辱を受けたと感じたことになっています。そして、経高は刀で身体と手足を貫き、最期は爽快な笑顔で亡くなったそうです。

 武士とはかくあるべし、というような倫理観がプンプンと臭ってきそうですが、それはさておき、敵対者から助命・恩赦の措置を受けることは恥である、とする価値観があったことはわかります。これと似たような事象は、伊東祐親の自殺を紹介した「自殺の中世史32」でも指摘しました。祐親の自殺の約40年後に、今回の経高の事件が起きるわけですが、両者ともに「恩赦されることは恥であり、そのような措置を受け入れるくらいなら、自ら命を絶ったほうがましだ」、と考えていたのではないでしょうか。ひょっとすると、佐々木経高は、伊東祐親の事例を知っていたのかもしれません。彼らにとって、助命・恩赦の措置は、自殺勧告と同じ意味だったと言えそうです。

 伊東祐親とは異なり、佐々木経高はこの時点でまだ捕縛されてはいません。したがって、最後まで幕府軍と戦い抜いて死ぬという選択肢も残されていました。しかし、そのようなことはせず、自殺してしまうのです。戦い抜く気力を失ったのか、あるいは、敗死することも恥であったのか。恥を雪ぐための手段として自殺を選んだ理由がはっきりしません。ですが、最期に「爽快に笑」ったという表現を信じるならば、恩赦・敗死という武士としての恥・汚名を雪ぎ、死後に名誉を残すために、自殺という手段を選んだと考えられます。伊東祐親の事例でも指摘しましたが、鎌倉時代では、理由によって、自殺行為は称賛されました。佐々木経高の自殺に、「恥を雪ぎ名誉を残す」という目的動機を読み取ることも、あながち間違いではないように思います。

 今回の事例をまとめておけば、恩赦という原因動機と、それを受け入れたまま生きながらえる恥を雪ぎ、死後に名誉を残すという目的動機によって、自殺を遂行したということになりそうです。それにしても、恩赦を受けることが、どうして死ぬほどの恥と考えられていたのでしょうか。これがさっぱりわかりません。

 次に考えておきたいことですが、北条泰時は本当に佐々木経高の助命を考えていたのでしょうか。この時期の『吾妻鏡』の記事を見ていても、官軍のほとんどの人物は処刑されています。なぜ、経高だけが助命されようとしていたのかがまったくわからないのです。二人の間に特別な関係でもあったのでしょうか。ひょっとするとこれは、泰時が経高を鷲尾から誘い出して殺害するための策略で、それを見切った経高は、「処刑されるくらいなら自殺したほうがましだ」と考えて、自殺したのかもしれません。最期の爽快な笑顔は、泰時の計略にはまらず、自ら命を絶つことができたという痛快な笑いだったのかもしれません。