周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史 41 ─吾妻鏡10(放火と臨終正念往生思想)─

  宝治元年(一二四七)六月七・八日条

                   『吾妻鏡』第卅八(『国史大系』第三三巻)

 

 七日戊子、天晴、胤氏、素暹等襲秀胤上総國一宮大柳之舘、于時當國御家人、如雲霞起而成合力、秀胤兼用意之間、積置炭薪等於舘郭外之四面、皆悉放火、其焔太熾、而非人馬之可通路、仍軍兵安轡於門外、僅造時聲發箭、爰敵軍出逢馬場邊、射答箭、此間、上総權介秀胤、嫡男式部大夫時秀、次男修理亮政秀、三男左衛門尉泰秀、四男六郎景秀、心静凝念佛讀經等之勤、各自殺、其後數十宇舎屋同時放火、内外猛火混而迸半天、胤氏以下郎從等咽其熾勢、還遁避于數十町之外、敢不能獲彼首云々、又下総次郎時常自昨夕入籠此舘、同令自殺、是秀胤舎弟也、相傳亡父下総前司常秀遺領垣生庄之處、爲秀胤被押領之間、年來雖含欝陶、至斯時、並死骸於一席、勇士之所美談也、抑泰村誅罸事、五日午刻、通當國之聽云々、

 八日己丑、天晴、於常陸國、關左衛衛門尉政泰郎從等、與小栗次郎重信致合戰、終彼郎從等雌伏、舎屋悉放火、餘炎及數町、凡村南村北、哭聲尤多云々、今日、被召出法花堂承仕法師一人、是昨日爲備香花陪佛前之處、泰村以下大軍俄乱入堂内之間、失方角于欲遁出、昇天井、聞彼等面々言談之由、達上聽之故也、仍平左衛門尉盛時、萬年馬入道等、召問件子細、令記申詞、及披閲云々、其大意、中山城前司、盛時記之、

  窺天井隙之處、若狹前司泰村以下大名者、兼見知其面之間無子細、其外多以不知之類也、次申詞事、於毎人事者、堂中鼓騒之上、末席言談等不能聞及、而爲宗之仁、称一期之終、語日來妄念、大半是泰村・光村等、令執權柄者、以氏族号飽極官職可掌領所々之趣也、就中、光村萬事有骨張之氣歟、入道頼經御料御時、任禪定殿下内々仰旨、即於思企者、可執武家權之條、不可有相違云々、憖依随若州猶豫、今匪啻愁愛子別離、永欲貽當家滅亡之恨、後悔有餘者、自取刀削吾顔、猶可被見知否問人々、其流血奉穢御影、剰令焼失佛閣、可隱自殺穢體之由結搆、兩事共可爲不忠至極之旨、泰村頻加制止之間、不能火災、凡泰村於事有隱便之氣、其詞云、思數代之功、縱雖爲累葉、可被宥罪條、何况義明以來、爲四代家督、又爲北條殿外戚、輔佐内外事之處、就一往讒、忘多年昵、忽被與誅戮之耻、恨與悲計會者也、後日定有被思合事歟、但故駿河前司殿、自他門之間多申行死罪、亡彼子孫訖、罪報之所果歟、今已赴冥途之身、強非可奉恨北條殿云云、落涙千行、其音振、而言語雖不詳、旨趣假令如斯歟云云、

 能登前司光村首事、被聞食削面之由、所散御不審也、於四郎式部大夫家村首者、于今無在所云々、至件承仕法師者、被返遣本所、此外承仕一人者、去五日依不避本堂内、奔入大床下之間、爲歩兵等被取首之由、七旬老尼悲哭、而被首實檢之時出現云々、

 

 「書き下し文」

 七日戊子、天晴る、胤氏・素暹等秀胤の上総国一宮大柳の舘を襲ふ、時に当国の御家人、雲霞のごとく起こりて合力を成す、秀胤兼ねて用意するの間、炭薪等を舘の郭外の四面に積み置き、皆悉く火を放つ、其の焔太だ熾んにして、人馬の路を通るべきに非ず、仍て軍兵轡を門外に安んじ、僅かに時の声を造り箭を発つ、爰に敵軍馬場の辺りに出逢ひ、答箭を射る、此の間、上総権介秀胤・嫡男式部大夫時秀・次男修理亮政秀・三男左衛門尉泰秀・四男六郎景秀、心静かに念仏・読経等の勤めを凝らし、各々自殺す、其の後数十宇の舎屋同時に火を放ち、内外の猛火混じりて半天に迸る、胤氏以下郎従等其の熾勢に咽び、還つて数十町の外に遁避し、敢へて彼の首を獲る能はずと云々、又下総次郎時常昨夕より此の舘に入り籠もり、同じく自殺せしむ、是れ秀胤の舎弟なり、亡父下総前司常秀の遺領垣生庄を相伝するの処、秀胤のために押領せらるるの間、年来欝陶を含むと雖も、斯の時に至り、死骸を一席に並ぶ、勇士の美談とする所なり。抑も泰村誅罰の事、五日午の刻に当国の聴に通ずと云々、

 八日己丑、天晴る、常陸国に於いて、関左衛門尉政泰の郎従等と、小栗次郎重信と合戦を致す、終に彼の郎従等雌伏す、舎屋に悉く火を放ち、余炎数町に及ぶ、凡そ村南・村北の哭声尤も多しと云々、今日、法華堂の承仕法師一人を召し出さる、是れ昨日香花を備えんがため仏前に陪ふの処、泰村以下大軍俄に堂内に乱入するの間、遁れ出んと欲するに方角を失い、天井に昇る、彼等面々の言談を聞くの由、上聴に達するの故なり。仍て平左衛門尉盛時・万年馬入道等、件の子細を召し問ひ、申す詞を記さしめ、披閲に及ぶと云々、其の大意、中山城前司盛時之を記す。

  天井の隙を窺ふの処、若狭前司泰村以下の大名は、兼ねて其の面を見知るの間子細無し、其の外多く以て知らざるの類なり、次いで申す詞の事、人ごとの事に於いては、堂中鼓騒の上、末席の言談等聞き及ぶに能はず、而るに宗たるの仁、一期の終はりと称し、日来の妄念を語る、大半是れ泰村・光村等、権柄を執らしめば、氏族の号を以て飽くまで官職を極め、所々を掌領すべきの趣なり、就中、光村万事骨張の気有るか、入道頼経御料の御時、禅定殿下内々に仰する旨に任せ、即ち思ひ企つるに於いては、武家の権を執るべきの條、相違有るべからずと云々、憖いに若州の猶予に随ふにより、今啻に愛子の別離を愁ふのみならず、永く当家滅亡の恨みを貽さんと欲し、後悔余り有りてへり、自ら刀を取り吾が顔を削り、猶見知らるべきや否やを人々に問ふ、其の流血御影を穢し奉り、剰へ仏閣を焼失せしめ、自殺の穢躰を隠すべきの由結構す、両事とも不忠至極たるべきの旨、泰村頻りに制止を加ふるの間、火災に能はず、凡そ泰村事に於いて穏便の気有り、其の詞に云く、数代の功を思へば、縦へ累葉たりと雖も、罪條を宥めらるべし、何ぞ況んや義明以来四代の家督として、又北條殿の外戚として、内外の事を輔佐するの処、一往の讒に就き、多年の昵を忘れ、忽ち誅戮の恥を与えらる、恨みと悲しみと計会する者なり、後日定めて思ひ合はさるる事有るか、但し故駿河前司殿、自・他門の間多く死罪を申し行ひ、彼の子孫を亡ぼし訖んぬ、罪報の果たす所か、今已に冥途に赴くの身、強ち北條殿を恨み奉るべきに非ずと云々、落涙千行、其の音振るへて、言語詳かならずと雖も、旨趣仮令斯くのごとしと云々、

 能登前司光村の首の事、面を削るの由聞こし食され、御不審を散らす所なり、四郎式部大夫家村の首に於いては、今に在所無しと云々、件の承仕法師に至りては、本所に返し遣はさる、此の外承仕一人は、去る五日本堂内を避らざるにより、大床の下に奔り入るの間、歩兵等のため首を取らるるの由、七旬の老尼悲哭す、而して彼の首実検せらるるの時出現すと云々、

 

 

 

 「解釈」(『現代語訳 吾妻鏡』12、吉川弘文館、2010)

 七日、戊子。晴れ。(大須賀)胤氏・素暹(東胤行)らが(千葉)秀胤の上総国一宮大柳の館を襲撃した。この時、上総国御家人が雲霞のごとく兵を挙げて味方した。秀胤はあらかじめ用意していたため、炭・薪などを館の郭外の四面に置いて全てに火を放った。その炎はたいそう盛んで、人馬が通ることはできなかった。そこで軍兵は門外に馬を止め、ただ時の声を上げて矢を射かけた。この時、敵軍が馬場のあたりに出て来て、矢を射返してきた。この間に上総権介秀胤、嫡男の式部大夫時秀、次男の修理亮政秀、三男の左衛門尉泰秀、四男の六郎秀景は心静かに念仏読経などをして、それぞれ自殺した。その後、数十件の建物が同時に放火され、内外の猛火が混じって空中を飛んだ。胤氏や郎従らは、その炎の勢いに咽び、数十町の外に逃れ、まったく秀胤らの首を取ることができなかったという。また下総次郎(垣生)時常は、昨日の夕方からこの館に立て籠もり、同じく自殺した。時常は秀胤の弟である。亡父下総前司常秀の遺領である垣生庄を相伝していたところ、秀胤に押領されたため、長年にわたり不満に思っていたが、この時になって共に死ぬ道を選んだのは、勇士の美談とするところである。そもそも(三浦)泰村の誅罰については、五日の午の刻に上総国庁に伝わってきていたという。

 八日、己丑。晴れ。常陸国で関左衛門尉政泰の郎従らが小栗次郎重信と合戦し、とうとう政泰の郎従らは降伏した。建物にすべて火を放ち、その炎は数町に及んだ。総じて村の南北では泣き叫ぶ声がたいそう多かったという。今日、法花堂の承仕法師一人が召し出された。これは昨日、香花を備えるために仏前に侍していたところ、(三浦)泰村以下の大軍が急に堂内に乱入したため、逃げ出そうとして逃げ場を失い、天井に上って彼らがそれぞれ語るところを聞いていたと、(頼嗣の)お耳に入ったためである。そこで平左衛門尉盛時・万年馬入道らがその事情を尋ね、申詞を記して(頼嗣に)披露したという。その大意は中山城前司(中原)盛時が記した。

  天井の隙間から窺っていたところ、若狭前司(三浦)泰村以下の大名は、以前にその顔を見知っていたので間違いありませんが、そのほかの多くは知らない者たちです。次に申した言葉については、人ごとには、堂内が騒然としていた上に、末席の言葉などは聞き取ることができませんでした。そうしたところ主だった者は、もはやこれまでであるといい、このところの思いを語りました。大半は、泰村・(三浦)光村らが権力を握れば、一族は官職を極め、諸所を知行したであろうとのことです。時に光村が、たいそう強く主張していたようです。「入道御料(藤原頼経)の御時、禅定殿下(藤原道家)の内々の命に従ってすぐに計画していれば、武家の権力を握ったのは間違いない。不覚にも若州(泰村)が実行なかったため、今となっては愛する子どもと別れる悲しみを味わうだけでなく、永く当家が滅亡する恨みを残すこととなり、悔やんでも余りある」。自ら刀を手にして自分の顔面を削り、さらに顔が分かるかどうかを人々に訊ねました。「その流血で御影をけがして、その上に寺院を焼き、自殺して穢れた姿を隠そうとする二つの事は、共に不忠の極みである。」と、泰村がしきりに止めたため、火をつけることはできませんでした。総じて泰村は、すべてに穏便のようで、以下のように言いました。「数代の功を思えば、たとえ一族の者であっても罪を許されるべきである。ましてや義明以来の四代の家督として、また北条殿の外戚として、内外のことを補佐してきたところ、一度の讒言により多年の昵近を忘れてたちまち誅戮の恥を与えられた。恨みと悲しみが重なっている。後日になってきっと思い合わされることもあろう。ただし故駿河前司殿(三浦義村)は、自門・他門の者に多く死罪を行い、その子や孫を滅ぼした。罪業の因果であろうか。今はもう冥途に行く身であり、強ちに北条殿を恨んではいない」。涙が溢れてその声は震えており、言葉ははっきりと聞き取れませんでしたが、趣旨はおおよそこのようなものでした。

 能登前司光村の首については、顔面を削ったと聞き及ばれ、御不審を解かれた。四郎式部大夫(三浦)家村の首については、今もって所在がわからないという。その承仕法師については、(身柄を)元のところに帰された。この他に承仕一人が去る五日に本堂の内から逃げられず、大床の下に走り込んでいたため、歩兵らによって首を取られたと、七十になる老尼が泣き叫んだ。そうしたところその首は、検分の時に出てきたという。

 

 「注釈」

宝治合戦」─1247(宝治1)三浦泰村の一族が鎌倉で滅びた合戦。三浦氏は最有

       力の御家人であったが、北条時頼と結ぶ安達氏の挑発にのって挙兵し滅

       亡。娘婿千葉秀胤も滅ぼされ、執権北条氏の独裁体制が確立した(『角

       川新版日本史辞典』)。

三浦泰村」─?─1247(宝治1)。鎌倉前期の武将。父は義村。承久の乱では宇

       治川の渡河に戦功をたて、1238(暦仁1)評定衆に列し、翌年父の

       死により家督をつぐ。北条氏の外戚として勢力があったが、北条時頼

       挑発によって挙兵し、弟光村とともに敗死した(『角川新版日本史辞

       典』)。

「一宮」─現、千葉県長生郡一宮町付近。

「大柳の館」─現、千葉県長生郡睦沢町北山田の三之宮神社付近がその遺址とされる

       が、異説もある。

「秀景」─原文「景秀」を改めた。秀景については寛元二年八月十六日条注122参

     照。

「時常」─?─1247(?─宝治元)。境常秀の男。千葉秀胤の弟。宝治合戦で秀胤

     やその子息とともに上総国一宮の大柳の館に立て籠もり、自害した。

「常秀」─生没年未詳。千葉胤正の男。常胤の孫。

「垣生庄」─下総国埴生郡。垣生は埴生の訛りであろう。現、千葉県成田市の北西部か

      ら印旛郡栄町東部にかけての地域。

「重信」─生没年未詳。小栗重朝の男。

「承仕法師」─寺社にあって内殿の掃除や仏具の管理などの雑用に当たる者。

「大名」─有力な武士。

「義明」─1091─1180(寛治五─治承四)。三浦義継の男。源頼朝の挙兵に応

     じ、衣笠城で討死した。

「大床」─神社建築などに用いられる縁。

 

 

*この記事は宝治合戦の関連史料で、2件の自殺の状況を読み取ることができます。1件目の自殺者は千葉秀胤とその一族です。秀胤は三浦泰村の娘婿で、泰村が滅ぼされた翌6月6日に追討命令が出され、この7日に執権北条時頼方の大須賀胤氏・東胤行から襲撃されました。秀胤はあらかじめ用意していた炭や薪を館に配置して火を放ち、敵の人馬を遮っている間に、家族ともども自殺しています。

 さて、ここで注目しておきたいことは2つあります。1つ目は自邸に放火することの意味で、2つ目は自殺に際して念仏読経を行なっていることです。まず1つ目についてですが、秀胤らは一時のあいだ敵軍の侵入を防ぐために、自邸に放火したのではないでしょうか。かりにそうであったとして、彼らは敵軍の侵入を防いで、何をしたかったのでしょうか。これが2つ目のポイントに関わるところなのです。秀胤とその家族は、心静かに念仏読経などをして、自殺しています。このパターンは以前の記事(「自殺の中世史」22・23・25・26・28・30・36)でも紹介しましたが、中世には、臨終に際して正念を保てば、極楽に往生できるという考え方がありました。これを「臨終正念往生思想」と勝手に呼んでおきますが、秀胤らは正念を保ったまま自殺するための時間を確保するために、自邸に火を放ったのではないでしょうか。

 したがって、千葉秀胤らの自殺をまとめておくと、戦による敗死の予期を原因動機として、そこから逃れることを目的動機として自殺を選択したと考えられます。敵軍によって殺されることから逃れるだけなら、他にもさまざまな方法が考えられそうですが、自殺を選択させた背景には、「臨終正念往生思想」が影響を及ぼしているといえそうです。つまり、正念を保てない状態で敵に討ち取られて死ぬよりも、正念を保って自殺を遂げることで、極楽に往生するほうがよいと判断したのではないでしょうか。

 

 2件目は、三浦泰村一族の自殺です。彼らの最期の場となったのは、鎌倉法華堂(もと源頼朝の持仏堂で、この時は頼朝の廟所)ですが、ここには逃げおくれた承仕法師が天井に隠れており、自殺に至る様子を聞いていました。

 さて、その報告によると、三浦泰村は次のように語ったことになっています。泰村の弟光村が自身の顔を刀で削り、顔がわからないようにしているときに、泰村は「その流血で御影(本尊か頼朝像か頼朝の御霊か不明)を穢し、さらに法華堂を焼いて、自殺して穢れた姿を隠そうとする二つのことは、とんでもない不忠である」と語り、光村の行為を制止しました。

 ここで注目しておきたいことは、前述の千葉秀胤の事例に続き、放火の意味です。この史料によると、三浦光村は自殺して穢れた死体を隠すために、法華堂を焼こうとしているようです。一般的に、自殺した遺体はどのように処理されたのかはわかりませんが、きっと自身の遺体を敵方に渡したくなかったのでしょう。少し古い事例にはなりますが、平治の乱(1159年)で自殺した藤原信西(通憲)の遺体は掘り出され、首を切り取られて獄門に晒されています(『平治物語絵巻』第2軸信西巻、国会図書館デジタルコレクション、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287477)。光村はこのような扱いを受けるのを避けるために、自分の死骸を焼却しようとしたのかもしれません。

 こうした点について参考になるのが、勝俣鎮夫「死骸敵対」(『中世の罪と罰東京大学出版会、1983、57頁)です。この研究によると、「中世の武家では、斬首してその首をさらす梟首の刑が一般的に行われたが、これは合戦において敵の首をとり、これをさらす慣行と同じく、みせしめというより本来的には、死骸の恥をさらすことが目的であったと思われる」、と指摘しています。また、斬首刑や磔刑は、死骸の損壊させる度合いが強いので、絞首刑よりも重罪であったそうです。このような指摘を踏まえると、三浦光村は、自分の死骸や首が敵方に奪われ、死してなお恥をさらすことを恐れたため、法華堂に火を放とうと考えたのではないでしょうか。