周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

石井文書(石井英三氏所蔵)21(完)

    二一 藏田秀信下地賣券寫

 

『半紙竪紙書付』

   永代賣渡申下地之事

    合三段分銭壹貫八百目足

       (安藝賀茂郡

 右之在所者、西条東村世帳田行富名之内田中三反之事、藏田先祖以来爲作職

 抱置候、依用有之ニ付而、代物米貳斗入四十俵、末代賣渡申所實正也、以

 此旨子々孫々ニ至迄、無相違知御行候、爲地頭役納所段銭三段ニ

 百目銭〈四十文」二十文口〉古銭也、但南京ニシテ九百文毎秋可御収納候、

 又三年ニ一度きほうせん是あり、其外まんゝゝそうい事有間敷候、此三段田用水之

 儀ハ、さかせかわ丁いて水十日壹はん先々より分水にて候条、向後共相替儀ハ有

            (若御瑞類ヵ)

 間敷候、於此上者[    ]、縦 天下一同之御徳政行候共、無相違

 於彼下地者、全可御知行候也、爲堅賣渡券之状如件、

   (1586)              藏田次郎右衛門尉

   天正十四年〈丙戌〉正月十一日        秀信

   正力財満孫右衛門尉殿兄龜子代仁参

 

*割書とその改行は〈 」 〉で記しました。

 

 「書き下し文」

   永代売り渡し申す下地の事

    合わせて三段分銭一貫八百目足

 右の在所は、西条東村世帳田行富名の内田中三反の事、蔵田先祖以来作職として抱へ置き候ふ、用有るにより之に付けて、代物米二斗入り四十俵、末代まで売り渡し申す所実正なり、此の旨を以て子々孫々に至るまで、相違無く御知行有るべく候ふ、地頭役として納所する段銭三段に百目銭〈四十文・二十文口〉古銭なり、但し南京にして九百文毎秋御収納有るべく候ふ、又三年に一度きほうせん是れあり、其の外万々相違の事有るまじく候ふ、此の三段の田の用水の儀は、さかせかわ丁井手水十日一番先々より分水にて候ふ条、向後共に相替ふる儀は有るまじく候ふ、此の上に於いては[若し御瑞類]、縦ひ天下一同の御徳政行ひ候ふとも、相違無く、彼の下地に於いては、全く御知行有るべく候ふなり、堅く売り渡さんがため券の状件のごとし、

 

 「解釈」

   永久に売り渡し申す下地のこと。

    都合三段。分銭一貫八百文。

 右の在所は、西条東村世帳田行富名のうち田中三反。蔵田が先祖代々作職を所持してきました。入り用によってこの下地を、二斗入りの米四十俵を代物として、永久に売り渡し申すことは事実である。この内容により、子々孫々に至るまで、間違いなくご所有になるべきです。地頭役として上納する段銭は、古銭(かつての基準額)ならば、三段で百目銭〈段別四十文を納入する土地と段別二十文を納入する土地がある〉である。ただし、南京銭に換算して九百文を毎年秋にご上納しなければなりません。また三年に一度きほうせんがある(を納めなければならない)。その他、さまざまに契約と異なることがあるはずもありません。この三段の田の用水の件は、さかせかわの人夫が、以前から井手の水の管理を十日ごとに分け、一番に水を利用してきましたことを、今後とも交替してはなりません。このうえは、[不明]たとえ国中で徳政令が施行されましたとしても、契約と異なることなく、この下地については、領有を全うなさるべきです。厳密に売り渡すための売券は、以上のとおりです。

 

 「注釈」

「分銭」─斗代に面積を乗じて算出された貢租の米の高。銭で納入すると分銭(「分

     米」『古文書古記録語辞典』)。後掲池論文によると、この史料の場合、

     「分銭」の捉え方は二通りあるそうで、どちらとも決められないようです。

     一つ目は、作職所持者の土地から徴収する総額が「一貫八百文」で、地頭役

     として上納した「九百文」を除いた残り「九百文」が、作職所持者の得分に

     なるという考え方です。二つ目は、土地からの徴収総額は二貫七百文で、地

     頭役段銭「九百文」を除いた「一貫八百文」が、作職所持者の得分になると

     いう考え方です。

「世帳田」─未詳。

「きほうせん」─未詳。「儀方銭」か。「儀方」とは「端午の節句の折、用いるまじな

        いの語」、「儀方を書く・書す」とは「中国で昔行われたまじない。

        五月五日の端午の節句に、儀方の二字を書いた札を家の柱などにさか

        さまにはると、蚊や蝿、あるいは、蛇やまむしを防ぐことができると

        信じられた」(『日本国語大辞典』)。端午節供の費用として徴収

        される公事の一種かもしれません。

「さかせかわ」─未詳。

「正力」─現東広島市八本松町正力。黒瀬川の河谷に位置し、北は篠村、南は米満村、

     西は飯田村に接する。天正十四年(1586)正月十一日付蔵田秀信下地売

     券写(石井文書)に「正力財満孫右衛門尉殿」とある。慶長四年(159

     9)八月十一日付安芸国賀茂郡寺家村石堂村篠村打渡坪付写(同文書)に石

     堂村の名がみえるが、当村西端に石堂の地名があり、飯田村北東部にも石堂

     谷・石堂山があるので、戦国末期に当村の西部から飯田村東部にかけて石堂

     村と称する村があったことが知られる。その頃当村は志芳庄内村から来住し

     た石井氏や賀茂郡に蟠踞した財満氏の勢力下に入った。村の木部にある城福

     寺は石井氏の菩提寺で、天正十三年石井勝家の弟の僧住道が再興したと伝え

     る(広島県川上村史)(『広島県の地名』平凡社)。

 

*池享「中世後期における『百姓的』剰余取得権の成立と展開─戦国大名領国支配の前提として─」(『日本史研究』226、1981・6、のちに『大名領国制の研究』校倉書房、1995所収、96頁、https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/18661)や、本多博之「中近世移行期の貨幣流通と石高制」(『貨幣史研究会・東日本部会』第13回報告、2003・12、https://www.imes.boj.or.jp/japanese/kaheikenkyukai/kaheishi_index.html)を参考にして、書き下し文や現代語訳を作りましたが、わからないところも多いです。

 なお、本多博之「継承基準額と毛利氏の領国支配」(『戦国織豊期の貨幣と石高制』吉川弘文館、2006)は、この史料をとりわけ詳しく説明しているので、重要な箇所をそのまま引用しておきます。

 

 さらにこの史料は、蔵田秀信なる人物が三段の土地の「作職」を売却したことは示す売券である。この場合、売却地に付加されるのは、「地頭役納所段銭」として「三段ニ百目銭〈四十文・二十文口〉古銭」であり、これは「南京」九〇〇文として秋に収納するものとされていた。すなわち、「古銭」基準額のもと、実際は「南京」による収納が慣行であったことを示すものである。先に見たのは給地の事例であったが、この場合は「西条東村世帳田行富名之内田中三反」の「作職」売買に関する史料であり、これによって「古銭」基準─「当料」(南京銭など)納入の仕組みが在地・名レベルまで存在していたことが確認できた(90頁)。

 

 戦国大名毛利氏は、領国拡大に伴う新占領地の支配をおおむね先行権力の支配方式に則ることを領国支配の特色としていたが、同様に寺社仏神寺領や段銭などの額も、前代すでに成立していた基準額を「古銭」額もしくは「清料」額として継承し、領国支配を進めていくうえでの基礎とした。したがって、毛利氏領国内の継承基準額が存在していた地域では、その「古銭」(「清料」)額とそれに相当する通用銭貨での「当料」額とが併存していたはずで、大名権力はもとより、それ以外の諸階層の人々も当然それに直面し、日常生活のなかで関与せざるをえなかったと思われる。しかしその場合、基準額からの実際の通用額への換算値である「和利」は、本来そのときどきの銭貨相場の影響を受けるものでありながら、時には公権力によって設定されるような、きわめて政治的な数値という性格を持ち合わせていた(95頁)。