周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

荒谷文書1

解題

 荒谷保之家の系図によると、応永のころ源宗供の次男が荒谷善一郎吉信と称し、永享三年(一四三一)芸州へ下向する。文明三年(一四七一)本郷亀の城に移る。その後は尚之丞元信 彦二郎根吉 内蔵丞吉長 善五郎勝長となっている。

 荒谷斌幸氏所蔵の文書は本文書の写である。同家の系図によると、永享三年(一四三一)荒谷善一郎重良は備中国高松城下より安芸国へ下向し、竹原小早川氏に従う。重良が初代で、二代良右衛門重道 三代長左衛門重宗 四代喜一郎重長 五代内蔵之丞重高 六代善四郎重景と続いている。同家は中世以来の土居形式の屋敷を今に伝えている。

 

 

    一 小早川弘平預ケ状写

   尚々河内左馬助重而扶持候半名之事候、

                               (安芸賀茂郡

 就祝儀取替之事申候処、料足拾貫文卅俵給候、喜入候、為返弁三津之村太郎

              (マヽ)

 丸半名之事、預遣候、相当之さゐ取知行あるへく候、已後者為給所扶持申候

 也、諸公事者任先例其沙汰候、河内左馬助手次知行候へく候也、謹言、

     永正二年(1505)

       十二月二日          弘平(花押写)

           (根吉)

         荒谷彦二郎殿

 

 「書き下し文」

 祝儀取り替への事に就き申し候ふ処、料足拾貫文・三十俵を給はり候ひ、喜び入り候ふ、返弁として三津の村の太郎丸半名の事、預け遣はし候ふ、相当の財(ヵ)を取り知行あるべく候ふ、已後は給所として扶持し申し候ふなり、諸公事は先例に任せ其の沙汰有るべく候ふ、河内左馬助手次知行し候ふべく候ふなり、謹言、

   なほなほ河内左馬助重ねて扶持し候ふ半名の事に候ふ、

 

 「解釈」

 祝いの品物を取り替えることについて申し上げましたところ、銭十貫文と米三十俵をいただき、喜んでおります。お返しとして三津村の太郎丸半名を、そちら(荒谷殿)に預け遣わします。それ相応の得分を取り領有するべきです。それ以後は、給地として援助し申します。諸公事は先例のとおり上納しなければなりません。河内左馬助は、その地を引き継いで支配するはずです。以上、謹んで申し上げます。

   さらに申しますと、河内左馬助が今後援助します太郎丸半名のことでございます。

 

*解釈はよくわかりませんでした。

 

 「注釈」

「三津村」

 ─現安芸津町三津。三津湾に南面し、東は豊田郡木谷村、北は仁賀村(現竹原市)に接する。賀茂郡に属し、海上の藍之島が村域に入る。標高400─500メートルの山地が三方を囲み、仁賀村境近くの糸谷村付近に源を発する三津大川が、大峠川・蚊無川・岩伏川・正司畑川・隠畑川などの支流を合わせて南流し、その谷が古くから南北交通路となり、河口に港町が形成された。村名は正平十三年(1358)十月日付の小早川実義安堵申状(小早川家文書)に、「当知行安芸国三津村阿曾沼下野守跡間事」とみえる。ついで貞治二年(1363)三月十八日の小早川実義自筆譲状(同文書)に「三津村以木谷・三津・風早三ヶ村号三津村」とあり、三津村が広狭の両義に用いられていたことがわかる。広義の三津村については永享元年(1429)十一月八日の山名常熙施行状(同文書)に「三津三浦地頭職」の語が見え、小早川盛景がそれを領掌している。三津三浦とは木谷・三津・風早をさす。狭義の三津村については、文献的には徴証はないが、大炊寮領高屋保(現東広島市)の外港であったと推定され、南北朝時代には都宇竹原庄の中心であった下野(現竹原市)から仁賀峠を経てこの地に至る交通路が開発され、同庄の外交として往来が盛んであったと思われる(竹原市史)。室町時代末期と推定される正月祝儀例書写(小早川家文書)に「三つ(津)舟はんしやう(番匠)、とひ(問)により代をやり候、たいかい百文いて候」とあり、船作事に当たる船番匠が置かれ、港として賑わっていたことがうかがえる(『広島県の地名』平凡社)。