周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

正村俊之著書 その2

  正村俊之『秘密と恥』(勁草書房、1995)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第3章「ウチとソト」

P135、中根が日本社会を「場の社会」として位置づけたとき、「場」は、集団構成のもう一つの原理である「資格」と対比されていた(中根1967)。資格は、性や身分のように個人が先天的に備えている属性や、学歴・地位・職業などのように、個人が後天的に獲得した属性を指しているが、場は、個人の資格の違いを越えて集団を構成する枠を刺している。場によって構成された集団は、生活共同体=経営体として、次のような二つの特徴を有している。

 まず第一に、場は、体面的関係を基礎にしており、包括的な機能を担っている。例えば、インドでは、兄弟姉妹の強い絆が永続的に保たれているのに対して、日本の家では、いったん独立して家を出れば、実の息子・娘であっても他家のものとして認識され、外から入ってきた嫁よりも疎遠になる傾向がある。このことは、日本では、対面的な関係にあることが血縁という資格以上に重要であることを意味している。(中略)つまり、インドと欧米がいずれも資格を強調するのに対して、日本は場を強調する社会になっているわけである。

 

P136、したがって場は、いわば完結した「小宇宙」をなしており、その完結性(自律性と包括性)のゆえに、ウチとソトを分節する基本単位になっている。場は、場の外にいる同一の資格者との間の溝を深める一方で、場の中にいる資格の異なった者との距離を縮めることによって、ウチとソトの区別を際立たせている。「この感覚が先鋭化してくると、まるで「ウチ」の者以外は、人間ではなくなってしまうと思われるほどの極端な人間関係のコントラストが、同じ社会にみられるようになる」(中根1967:47)こうして場としての家や企業は、ウチとソトの間に厚い壁を設けることによって、ウチとソトを区別する強い指向性を生み出す、と中根はいう。

(ウチとソトを区別することも、ウチの内部の対立を緩和するのに役立つか?)

 

P139、(明治の)このような対外的契機と対内的契機を孕んだ状況のなかで、ほぼ時を同じくして二つのイデオロギーが登場してきた。それが「家族国家観」と「経営家族主義」であった。この二つのイデオロギーは、国内の統合をはるかために戦略として権力の側が打ち出されてきたものであり、これらのイデオロギーが描き出した「家族・企業・国家」の関係と現実の「家族・企業・国家」の関係を同一視するわけにはいかない。とはいえ、どのようなイデオロギーであれ、社会の実態を無視してはイデオロギーとしても機能しえない以上、これらのイデオロギーを支配権力が産み出した観念的虚構として片づけるわけにもいかない。まず、この二つのイデオロギーがどのような論理に基づいて秩序の再編成を企てたのかをみてみよう。

 家族国家観と経営家族主義は、同時期に出現しただけでなく、二つの共通点を含んでいた。それは、第一に、家族に擬制するかたちで国家や企業が構成されていたということであり、第二に、家族関係に擬制された国家内の関係や企業内の関係が、いずれも無私と情という二つの精神的要素によって構成されていたということである。

 「家は小なる国にして国は大なる家なり」という言葉に象徴されるように、国家と家の間にはアナロジカルな関係が設定された。このアナロジーによって、国家は家に擬制され、天皇は大家長、国民は天皇の赤子、天皇家は国民の宗家であるとされた。国家は家の拡大延長として観念されたので、親に対する子の「孝」と天皇に対する国民の「忠」は同一であるという「忠孝一致」の原則が打ち立てられた。

 

P142、経営家族主義は、企業を一大家族に見立て、企業内の雇用関係を親子関係に擬制した。経営家族主義のねらいは、労使関係を親子関係に擬制することによって、労働者と経営者との利害対立を抑えることにあった。そのため、近代的な契約関係から成り立っている欧米企業との違いが強調され、「我が国の伝統的な美風」が解かれた。しかし、「我が国の伝統的な美風」そのものが、当時の社会状況に対処するための人為的な創造物であった。こうして農民層の分解・武士層の窮乏化・職人層の没落・都市民の貧民化といった多様な契機のもとで創出された多数の賃労働者は、企業家族の成員という共通のカテゴリーでくくられることになった。

 

P144、家族国家観や経営家族主義といったイデオロギーに支配された戦前の社会は、戦後と比べて強力な統合を達成した社会であるようにみえる。けれども、そのような見方をすることは、ある意味でこれらのイデオロギーの内容に惑わされており、しかもその医龍は、単にイデオロギーと現実との間に落差が存在したということにあるのではない。むしろ、このようなイデオロギー統合を必要としたという事実にこそ、日本社会の統合力のある種の「弱さ」が潜んでいるのである。

 家族国家観や経営家族主義は、法や契約といった観念に頼ることなく、社会を道徳的に編成することを企てたが、このことは、すでに大きな困難を物語っている。なぜなら、抽象的な行為連関を規定することによって、社会構造を形成しうる法に対して、道徳というのは、対人的な交際様式─例えば、相手に対して尊敬をもって接するといった対人的な行動様式─を定めているからである。ミクロ規範によってマクロ構造を形成することの困難さを克服するために、国家や企業が家に擬制されたが、ここにはマクロ構造を一挙に創出しえない統合力の「弱さ」が潜んでいる。

(西欧社会は法や権力、日本はイデオロギーによって統合した。)

 

P145、西欧の全体主義は、家族をはじめとする中間集団を破壊することによって民衆を掌握しようとした。そのために、例えば子供たちに自分の親を監視させ、古い信念を持ち続ける親の裏切り行為を報告するように、子供たちを学校や青年組織などで訓練した。つまり、秘密の密告が家族関係を破壊するための手段として利用されたわけである。

 これに対して、日本の全体主義は、中間集団を破壊するどころか、中間集団を積極的に活用することを通じて民衆を掌握しようとした。日本では、西欧国家が保有していたような強大な権力や強力な法は不在であった。このことが、先に述べた意味での統合力の「弱さ」につながっていたのである。

 

P146、擬制の論理は、「家・企業・市町村・国家」の間に認識論的なアナロジーを打ち立てたが、それだけで社会を組織しえないことはいうまでもない。戦前の天皇制国家体制を築くうえで、家族国家観と並んで大きな役目を果たしたのが地方自治制度である。山県有朋が創設した地方自治制度こそ、家と国家の擬制的な関係に実質的な裏づけを与える制度であった。

 家族国家観は、天皇を頂点とするヒエラルヒー構造のなかに、すべての人間を位階的に配置したが、家や市町村の中心的存在である家長や地主は、そのなかで中間的な位置を占めていた。「国が大なる家」となり、「家が小なる国」となるためには、家の論理と国家の論理が相互に融合しなければならないが、その媒介的な機能を果たしたのが、これら中間者たちであった。

 ヒエラルヒー構造のなかで、中間者は、上位集団と買い集団の両方に属しており、二重の意味で媒介的な役割を演じている。すなわちは、中間者は、上位集団のなかでは買い集団の代表者として振る舞い、また下位集団のなかでは上位集団の代行者として振舞っている。中間者は、代表者として、下位集団の意思を上位集団に伝達することが期待されているが、反対に代行者として、上位集団の意思を買い集団に伝達することが期待されている。つまり、中間者の媒介機構というのは、上位集団のなかに下位集団の原理を持ち込んだり、下位集団の中に上位集団の原理を持ち込んだりすることにある。

 

P150、西欧的な公(パブリック)と私(プライベート)が「公共性(公開性)vs個人性(秘密性)」を基準にして区別されているのに対して、日本的な公(おおやけ)と私(わたくし)は、「集団の代表者vs非代表者」を基準にして区別されていた。有賀喜左衛門(1967)によれば、パブリックが公共性という抽象的な観念を表すのに対して、「おおやけ」は、「大宅・大家」を原義とし、集団の代表者を(も)指していた。集団の公と集団の代表者は同一視され、そのために公集団を構成する個人を越えた公共性の意味をもつことはなかった。一方、「私(わたくし)」という言葉は、元来民衆や家のことを指していた。

 

P153、したがって、このような公のヒエラルヒー構造のなかでは、公となる権力者は、自らの自由意志に基づいて行使できるような絶対的・専制的な権力を握っているわけではない。しかし、それでいて、権力とヒエラルヒーと(地域)共同体という二つの側面が構造的にリンクしているために、多数の中間的な存在を媒介にして権力の意思を社会の隅々に浸透されることができる。この位階的かつ共同体的な関係を支えていたのが、代表と代行という二つの媒介機能である。そして、興味深いことに、前章で述べた成人の甘えと、この二つの媒介機能の間には、一定の共通したコミュニケーション様式が認められるのである。

 

P160、つまり、個人間の関係にせよ、家同士の関係にせよ、関係を形成するにあたって、同族が家の存続・繁栄を最優先しているのに対して、家の拘束力が同族ほど強くない親類は、個人間の親密さを重視している。

 

P174、したがって、中間者の媒介機能を通じて二つの集団を連結するには、ここでも代表機能と代行機能との対立を隠蔽することが必要であるが、二つの機能がどの程度両立するするのか─また両立しない場合には、どちらの機能が優勢になるのか─は、その時々の社会的条件に規定されている。

 

P187、このように転写の論理には、いくつかのパタンが存在するが、転写の論理が日本社会のなかで作用し続けた根本的な理由は、おそらく「場の社会」という日本社会の特質に求められよう。日本社会が「場の社会」であるということは、対人関係を規制しているミクロ規範が社会構造をかたちづくるマクロ規範に優位していることを意味している。

 

P191、代行機能においては、上位者の権力行使が中間者によって代行されるか、それによって、上位者は権力の直接的な行使を行わずに済む。中間者による代行機能が強力であればあるほど、上位者は、それだけ権力を直接行使する必要がなくなり、それでいて上位者の権力が底辺へ浸透するという、驚くべき事態が生じてくる。最高権力者は、実質的な権力をもたない「空虚な中心」であっても、その支配権力を目立たない方法で堺の隅々にまで浸透させることができるのである。

 しかも中間者は、実際には単なる上位者の代行者ではない以上、権力行使には、上位者の意思以外に、権力行使を媒介するさまざまな中間者自身の意思が介在してくる。そうなると、権力の実質的な主体が上位者(権力の発動者)なのか、それとも中間者(権力の遂行者)なのかがわからなくなってしまう。こうして代行機能が何段階にも働くと、それだけ権力過程は不透明なものになる。

 日本社会には、権力の行使や責任の所在が覆い隠されていることは、これまで多くの論者によって指摘されてきた。例えば、K・ウォルフレンは、日本には、究極的な統治権を有する国家が形の上では存在しているものの、明確にそれとわかる権力集団は存在していないと主張した。形式上の権力と実質上の権力が剥離し、司令の流れる経路、責任の中心は、すべて曖昧模糊としている。現存しているのは、政治的中心としての国家ではなく、〈システム〉であるという。

  この〈システム〉は、明らかなパラドックスをいろいろとみせてくれる。采配をふるう強力な指導者さえいないのに、世界の経済征服を狙う巨人がいるような印象を与えてしまう。政治的中核が存在しないのに、国内の反対勢力をほとんどすべて抱き込んでしまう力がある。…その参加者の大半に、そうとはっきり意識されないまま、〈システム〉は存在する。姿も形もない。それどころか、法に照らした正当性もないのである(Wolferen[1989=1990:110-1]。

 いささか一面的な誇張を含んでいるとはいえ、権力が不可視的な形態を取るというウォルフレンの見解は、日本社会の権力構造の核心をついている。そして、権力の不可視化や政治的責任の不明確さは、代行機能を組み込んだ日本社会の制度的構造に起因している。例えば、稟議制は、意思決定における共同性を確保する代わりに、意思決定の責任を拡散させる効果を及ぼしている。意思決定に参画したものにとって、稟議書に目を通したという事実は自覚できても、自己のとるべき責任の範囲や程度は、容易に自覚できない。起案者(代行者)から見れば、自分の行為は、上位者の代理行為に過ぎないし、一方、決済者(上位者)から見れば、自分の行為は、起案者の行為の承認に過ぎないからである。

→井原論文の天皇制論と同じ見方。

 

P198、言い換えれば、日本では、社会的対立の可能性を最初から前提にして社会的対立を解決するという欧米的な紛争処理様式とは対照的に、社会的対立の可能性を最初から表面化させないような紛争処理様式が確立されているのである。

 こうした紛争処理を可能にしていた要因の一つが、代理機能を内蔵したコミュニケーション様式であった。権利主張や権利行使を代理するという代理者の行動様式と、「隠蔽しつつ表現する」という被代理者の行動様式は対をなしているゆえに、「隠蔽と表現の結合」という恥の発生条件は、社会構造の編成原理にも組み込まれていたのである。

 

P200、ただし、「〝公〟と〝私〟の領域の区別をしないという伝統が日本にはある」(Wolferen[1989=1990:285])というウォルフレンの認識は正確ではない。「公私混同」と見える現象は、公と私を区別する基準が欠落しているために起こっているのではなく、公(おおやけ)と私(わたくし)という別の基準に従っているために、欧米的な意味での公私(パブリックとプライベート)の「混同」が生じているのである。欧米的な公私は、権力のハイアラーキカル(ヒエラルキー)な構造から独立している。人々は、誰しも公的空間と私的空間に属する機会をもつとはいえ、公的空間のなかでは公的原理に、私的空間のなかでは私的原理に従えばよい。理念的には、公的空間と私的空間は、それぞれ別個の原理に基づいているために直和分割されている。例えば、家の個室の発達と都市の広場の発達は、公的原理と私的原理の分化が空間的な分割を伴っていたことを示している。

 一方、日本の公私(おおやけとわたくし)は、権力のハイアラーキカルな構造に密着しており、この権力構造のなかで中間者は、下位集団の公を体現していると同時に、上位集団の私に相当している。中間者は、公と私、代表者と代行者という二重性格を帯びており、この二重性格によって上位集団と下位集団の媒介機能を果たしうる。それによって、上位集団と下位集団の各原理は相互に浸透し、どちらの集団から見ても、集団の内部と外部は、二つの交錯する原理に支配される。こうして、位階的な人間関係を規定する権力構造が、公(おおやけ)と私(わたくし)の分節機能を果たすとき、内部と外部の境界は定かでなくなるとともに、欧米的な意味での公と私は混淆するようになる。

 そして、このような社会領域の相互浸透的な状態が恥を構造的に発生させる基盤となる。というのも、内部と外部のいずれの領域においても二つの原理が混在しているため、予期の期待面と隠蔽面が交錯する可能性が構造的に設定されるからである。二つの領域が完全に同質化した状態においては、いずれの領域に位置していようと、内部と外部をともに支配する一個同一の原理に従えばよく、また内部と外部が明確に分節された状態においても、それぞれの領域に固有な原理に従えばよい。こうした状態のもとでは、秘密の露見は、偶発的に起こっても、構造的に惹き起こされることはない。

 ところが、内部と外部の相互浸透的な状態においては、内部領域と外部領域のいずれに位置していようと、二つの異質な原理に拘束されるために、秘密の露見が構造的に起こりうる。二つの異質な原理に支配されると、予期の期待面と隠蔽面の分節の仕方がずれてくるが、その結果、一方の原理のもとで表出されるべき事柄が、他方の原理のもとでは隠蔽されねばならないといった事態が構造的に惹き起こされる。こうした構造的なズレが、自分の予期に反するかたちで他者の予期を裏切ってしまう「予期の二重の違背」─シェーラー的な言い方をすれば「志向性のズレ」─を誘発する。したがって、転写の論理に基づく「場の社会」の構成は、恥の構造的な発生可能性を孕んでいるのである。

→日本には「公」と「私」という分類が存在しなかった。大きな家(公)と小さな家(私)の階層性と代理機能があっただけ。公もプライベートの一種で、私もプライベートの一種だった。影響力を及ぼす範囲の大きいプライベートが「公」だった。日本には純粋な公的空間が存在しない。内裏は政庁であるとともに、天皇の私的な家でもある。幕府御所も役所であると同時に将軍のプライベートスペースでもあった。現代的・西洋的な意味での公私分類が存在しない。井原論文との共通点・相違点を考える必要がある。

 

 

第4章「行為の意図性と非意図性」

P225、日本では、自然と人為を問わず、出来事を「おのずからなる」ものとして捉える発想が強いが、そうした発想を支える一つの規定的な要因となっているのが日本語である。池上嘉彦によれば、どの言語にも、「場所の変化」と「状態の変化」を表現する言葉があるが、それらの変化を表現する際、英語と日本語では対照的な転用形式が見られるという(以下、池上[1981]をもとにして述べるが、池上のいう「場所の変化」は、位置の変化に該当するので、ここでは「位置の変化」と記す)。

 英語の場合、「go」や「come」のような動詞は、本来「行く」「来る」という「位置の変化」を表しているが、「なる」という「状態の変化」を表す言葉にもなる。(中略)一方、日本語の場合、「なる」という動詞は、本来「状態の変化」を表すが、「御殿様ノオ成リ(御殿様が来る)」という文章からもわかるように、「位置の変化」を表す言葉にもなる。

 

P230、必然性と偶然性は、確かに概念的には対立しており、相互否定的な関係にある。必然性は、存在が自らのうちに十分な根拠をもち、必ず有ることを指すのに対して、偶然性は、存在が自己のうちに十分な根拠を持たず、たまたま有ることをいう。そして、世界のなかに必然性を読み取った場合には、必然性は「法則」「原理」「摂理」として立ち現れるのに対して、世界を偶然性の集積としてみた場合には、偶然性は「宿命」「運命」として立ち現れる。

 けれども、完全な必然性と完全な偶然性─言い換えれば一切の偶然性を排除した必然性と一切の必然性を排除した偶然性─は、どちらも外部からの介入を許さない点で一致している。現象の過程が必然性によって完全に支配された場合にも、また全くの偶然性に委ねられた場合にも、外部からの統制可能性は排除されてしまう。九鬼は、運命を偶然性と必然性の異種結合として位置づけたが(九鬼九周造『偶然性の問題』岩波書店[1935])、運命(宿命)は、むしろ必然性へと転化した偶然性と言えるだろう。

 

P232、一定の必然性と一定の偶然性が存在する限り、人間は、その過程に対して統制的な介入を行えるが、必然性と偶然性がともに働く限り、それらは、異なった意味で意志の介入を打ち砕くようにも作用する。対象に対して選択的に働きかけようとする人間の意志は、絶えず裏切られる危険性に直面している。それゆえ、自由と不自由は、一定の必然性と一定の偶然性との共存という、同一の存在基盤のうえに成り立っているのである。

 このことは、自然と人間との関係のみならず、自己と他者の関係という社会領域においても妥当する。社会的予期の不確定性(コンティンジェンシー)─すなわち予期された事柄が別様でありうること─は、単に自己と他者との相互行為に内在する偶然性のみに起因しているのではない。相互行為の過程が偶然性に満ちているならば、そもそも他者の行為を予期することは不可能であり、また逆に「他者は何をするのかわからない」という予期に関しては、確実に的中することになる。ここでも完全な偶然性は、一種の空虚な必然性へと転化しうる。何れにしても、予期の違背可能性は、同時に予期の充足可能性でもある以上、「他者は何をするのかわからない」という予期は、厳密な意味で充足可能=違背可能であるとは言えない。

 一方、社会的次元において、行為の必然性を生み出す要因には、①自己と他者との相互行為を規制する「社会的規制」と、②その相互行為を営む自己および他者の「個体的同一性」─それは、必ずしも近代的主体としての個体的同一性ではなく、近代的主体を一つの特殊なケースとして含む広義の個体的同一性─という二つの要因がある。

 

P241、社会的規則というのは、自己の人格性と他者の人格性をともに捨象しつつ、自己と他者がどのような人格であれ、二人の行為の必然的な連関を生み出している。自己と他者がそれぞれ社会的規則に従って相互行為を営む場合には、この規則に則って相手の行為を予期することができる。これに対して、自己と他者がそれぞれ人格的主体として対峙する場合には、それぞれの人格的同一性から派生する行為の必然性に基づいて相手の行為を予期することができる。

 

P249、人間が自然に内属しているということは、人間が自然の原理に従属させられる反面、自然に対して能動的に参与するための根本条件でもある。人間が物質的存在でもあるからこそ、自らの物質性を介して物質的対象に働きかけることができる。つまり、「自然への随順」こそ「人間の自由」を可能にしているのである。

 

P257、②無私。本居宣長が儒仏の思想とともに武士の精神を嫌ったのは、それらが「本情ヲ隠シツクロフ」ことを強いる抑圧的な性格を備えていたからである。討ち死に前にして「古里の父母を恋しく思い、妻子にいま一度会いたいと願い、命も少しは惜しいと思う気持ち」を抑えること、これこそ無私の精神にほかならない。無私の精神は、中国から入ってきた禅(鎌倉仏教)と深い結びつきを保ちながら、(東国)武士団の主従関係を成り立たせる精神的な支柱となってきた。武士の主従関係は、情宜的であるとはいえ、けっして「もののあはれを知る心」によって結ばれた関係ではない。それは、この主従関係が(少なくとも一定の)情に対する抑圧のうえに成り立っていたからである。宣長は、武士的精神の本質が本心を隠すという隠蔽性にあることを見抜いていたのであり、それゆえ武士的精神への批判を通じて「もののあはれを知る心」を擁護したのである。

 

P275、要するに、西欧近代社会は、意志に対して意志を以て対処するという方法を選択したのである。意志の自律は、自然と人間の分離のみならず自己と他者の分離と相関しており、自然的世界から切り離された社会的世界に固有な問題を発生させる。カントにとって意志の自律は、意志の働きを規定する道徳法則を意志自らが規定することを指していたが、このことは、医師が自己と他者の分離を通じて惹き起こした問題を意志自身の働きによって解決するということにほかならない。

 

P282、こんどは、戦後日本の保険制度に目を向けてみよう。久枝浩平によれば、日本でも「講」のように、先の見通しが立たないという理由で不時に備えることはあったし、今でも保険の契約は「何が起こるかわからないから保険をかけておこう」という考え方で交わされることが多い。ところが、西欧世界で発達した「近代的保険システム」というのは、そうした発想に基づいているのではなく、合理的な確率計算(場合の数を数えること)によって〝予測しうる損失〟を補填する、という明確な目的をもっている(久枝[1976:21])。

 

P286、一方、日本社会の歴史的発展は、「みずからする」という作為的な契機を増大させてきた。作為的な契機の増大は、近世以降において著しく進行したとはいえ、その萌芽は、すでに中世的な段階に見られる。中世封建社会は、近代個人主義に先行する「封建的個人主義」を育んだ社会であった(桜井庄太郎『名誉と恥辱─日本の封建社会意識』[1971])。「わたくし」という言葉が一人称としての自分を指すようになったのは室町時代であり(安永寿延「公と私の観念の変遷─異文化との接触を軸として」『年報社会心理学』23[1982])、この時代には、家屋空間の内部分節も進んだ(井上充『日本建築の空間』[1969])。そして「〜ならば(必然仮定)」「〜たらば(偶然仮定)」といった仮定表現が多様化したのも、鎌倉時代から室町時代にかけてであり、とくに室町時代において一般化した(阪倉篤義『日本語表現の流れ』[1993])。こうした一連の事実は、日本でも早くから自他の分離が進み、社会的不確定性が高まったことを意味している。