周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

正村俊之著書 その3

  正村俊之『秘密と恥』(勁草書房、1995)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第5章「情と無私」

P307、この説が正しいとすれば、日本人が単一民族であるという従来の見方は、根底から覆されることになる。実際、東日本と西日本の人間では、さまざまな形質的な違いが確認されている。頭骨のみならず、血液型に関しても、A型遺伝子の分布頻度は、西から東に移動するにつれてA型遺伝子の割合が低下することが知られている。青木健一のシュミレーション・モデルによれば、およそ二千年前(弥生中期)に、現在の岐阜市あたりを境にして、A型遺伝子の異なる二つの集団が交流し始め、一定の継続的な移動が行われると、現在のような分布パタンが発生するという(佐々木高明「畑作文化と稲作文化」『岩波講座日本通史1』、『日本文化の基層を探る─ナラ林文化と照葉樹林文化』日本放送出版協会)。

 

P355、鎌倉幕府の体制的な基盤は、御家人制という主従制にあったが、その主従道徳の核心をなしていたのが、無我や無私である。

 武家社会が誕生した鎌倉時代には、「無心」という言葉の意味が変化したが、その言葉の意味変化は、当時進行した精神世界の転換を象徴している。今日「無心」という言葉は、肯定的な意味で使われることが多いが、鎌倉以前には、「思慮分別がない」「情趣を解する心のない」「人情のない」といった否定的な意味で用いられていた。例えば、鴨長明の作品にある「無心なる女房」とは、「思慮分別のない女官」のことであった(源了圓『型』創文社[1989])。古代の貴族社会では「情」が心の中核をなしていた以上、情を通わし、情趣を解する心が「有心」であり、「無心」は「有心」を欠いた状態であった。ところが、このような心の捉え方は、鎌倉時代から室町時代にかけて根本的な転換を遂げることになった。すなわち「有心」が否定され、「無心」が肯定されたのである。

 一遍の歌が示すように、「こころのなき」状態がいまや「こころ」とされ、自己を捨てようとする意志をも捨てることが理想とされた。情感豊かな古今的世界から、哀愁を秘めた新古今的世界への移行は、すでに「有心」から「無心」への転換を予兆していたが、自然の色を生かした山水庭園から、石組を主とした枯山水庭園への変化、また色彩艶やかな大和絵から、モノクロ的な水墨画への変化─これら鎌倉時代から室町時代にかけて本格的に見られる変化─は、すべて「有心」から「無心」への転換を物語っていた((源了圓『型』創文社[1989])。

 

P357、死は、他者の死である限り、現実的なものとして体験しうるが、事故の死を体験することはできない。自己が死ねば、それを体験する自己も存在しないからである。有・生・現在性が「現実的なもの」として現れるのに対して、無・死・未来性は、つねに「可能的なもの」に止まっている。誰にとっても、死は不可避であるにもかかわらず、誰一人として自己の死を現在的・現実的なものとして体験した者はいない。自己の死は、本来的で不在なものとしてあり続ける。この「未来性」「無」の極致としての「死」に向き合うには、可能的世界を開示する否定の論理に依拠しなければならない。

 中世の段階でこうした否定の論理が発展したのは、「家」の創設に伴って、祖先を祭り(過去の想起)、子孫の繁栄(未来の想定)を願うようになったという一般的な理由のほかに、武士の抬頭が考えられる。武士の抬頭が「無心」に価値をおく精神世界を誕生させたのは、単に武士が戦闘従事者として死の可能性に直面しなければならなかったことによるだけではない。否定の論理を発達させ、「無心」を肯定させる契機は、武士の主従関係のなかに埋め込まれている。なぜなら、この時代の東国武士団の主従道徳の核心をなしていたのは、ほかならぬ無私(無我)であり、無私は、私性の発達を前提に、その私性に対する否定であったからである。

 

P358、内済制度が取り入れられた近世以降、訴訟を回避し、内々に事を処理しようとする傾向が広がったが、鎌倉武家社会は、権利の主張に満ちた社会であった。幕府は、膨大な件数の訴訟を処理する必要に迫られたこともあって「御成敗式目」を制定したが、その末尾には、北条泰時らの起請文が添えられている。そこでは「無私」の精神に即して道理が解釈され、親疎・好悪の感情を離れて、権門を恐れることなく道理を推すことが説かれている。「道理思想は、武士階層の形成期から鎌倉中期に至るまで、系譜的に引き継がれているが、その内容は、「私」の主張からはじまって、ついにその反対の「無私」の理想にまで発展している。それは、おもに武士階層の社会的地位の上昇にともなう意識の変化によるのである」(河合正治『中世武家社会の研究』吉川弘文館[1973]:88)。

 

P359、和辻の「献身の道徳」説が、主従関係を片務的で非利己的なものとみなしたのに対して(和辻哲郎『日本倫理思想史』岩波書店[1979])、家永の「双務契約」説は、主従関係を双務的で、利己的打算的なものとみなした(家永三郎『日本道徳思想史』岩波全書[1954]。論争はこのように主に二つの争点にわたっていたが、今日では一方の説を全面的に支持する人は少ない。

 まず、利己的/非利己的な性格に関していえば、武士は、たしかに利己的な動機に基づいて功なり名を遂げようとする面をもっていたが、そのことから主従道徳の内容が無我の実現にあったということが否定されるわけではない。「無我の実現」を示す証拠が多数あげられるだけでなく、そもそも武士の利己的な性格と没我的な性格は、必ずしも相矛盾する事柄ではないからである。無私が私性の発達を前提にしていたことを考慮に入れるならば、この二つの側面は、むしろ重なり合っている。

 武士の共同体において主君は、具象化された全体であり、主君の命令に従う武士たちは、石田一良が指摘しているように、「時には他を欺いてまでも、われ「一人ぬけ出て」(『承久軍物語』)、「一騎討」に「抜け駆け」に「功名不覚も紛れぬ」ように(『保元物語』)、矢に自分の姓名を記し(『吾妻鏡』)、昼は赤い布衣、夜は白い布衣をかけて戦場を馳駆して、「殊恩」「抽賞」を求めた。こうした強烈な自我の主張は、「武略の本意」(『吾妻鏡』)、「いくさのならひ」(『承久軍物語』)として、武士団の「一揆」(共同団結)を強め、全軍を勝利に導くものとして、是認せられ推奨せられている。一方、主君つまり集団全体のために貢献しない個我の主張は、「雅意」(我意)として厳しく処罰されたのである(『吾妻鏡』)(石田一良『日本文化史─日本文化の心と形』東海大学出版会[1989:118-9]。

 また主従関係の片務性/双務性に関しても、鎌倉武家社会のなかには、主君の強い身分的拘束を受ける主従関係とそうでない主従関係が存在し、双方の主張が二者択一的なものでないことが明らかにされている。御家人、将軍の家人であったが、同時に「惣領」としてそれぞれの武士団を統率する主君でもあった。鎌倉前期、「惣領制」という形態をとっていた武士団の組織は、血縁関係を結合原理にしており、先祖伝来の所領は、惣領を中心に一族の間で分割相続されていた。外部に対しては、惣領が一族を代表していたが、惣領(本家)・庶子(分家)は、それぞれ家子・郎党・所従を率いて所領の経営にあたった。

 鎌倉幕府の体制は、このように①将軍と御家人の関係、②御家人と従者の関係という二段階の主従関係によって構成されていたが、この二つの主従関係は、若干性格を異にしていた(佐藤進一「時代と人物・中世」『日本人物史大系』2朝倉書店[1959])。すなわち、将軍と御家人の関係は、御家人が将軍に対して比較的自由な立場に立ちうることから双務契約的な関係に近いが(「家礼型」)、御家人と従者の関係は、一方的な隷属を強いられるような片務的な関係に近かったのである(「家人型」)。

 →本当か?

 和辻のように「無我の実現」と「献身の道徳」として捉えるならば、無我や無私は、惣領に対する従者の態度を規制している道徳規範にすぎない。しかし「無我の実現」は、惣領(御家人)と従者との関係のなかでのみ妥当する規範ではない。家、武士団、武士団全体の存続をはかるためには、それぞれのレベルの主君も、無我(無私)の態度をとらねばならない。下位の集合的目標は、それだけ全体社会に対して私的な性格をもつが、「無我(無私)の実現」は、主君、従者を問わず、集団の構成員すべてに要求されるのである。

 無私の精神は、武士団の組織が血縁的な性格を脱却するにつれて、消滅するどころか、逆に重視されていった。武士団の組織を支えていた「惣領制」は、鎌倉後期には崩壊し、分割相続が長子相続に移行するとともに、惣領と庶子の関係が主従関係へと変質した。そして、武士団の組織は、全体としてみれば血縁組織から地縁組織へと変化した。武士団が血縁組織である限り、「家族の情

」は、成員を結びつける紐帯として不可欠であるが、武士団の血縁性が薄まるにつれて「家族の情」に取って代わるものが必要になってくる。無私の精神は、主従関係が純化する過程を通じて発達してきたのであり、例えば、北条泰時は、承久の乱の事後処置について「聊モ私シ無ク、理ノマヽニ行候ハバ、罪ニハナルマジキニテ候ヤラン」(『明恵上人伝記』上)と述べている。

 このように「無我の実現」は、和辻の側から主張されたが、和辻と家永の説は、二者択一的な性格のものではない。主従関係において血縁性が薄まり、双務契約的な性格が強まるにつれて、主君と従者にとって選択の幅が広まり、それだけ利己的な行動をとることが可能になるが、無私(無我)は、そうした主従関係を支える道徳的規範であったといっても過言ではないだろう。

 

P391、義理に関しては、第二章で述べたように、武士階級の上下関係的な社会意識であるのか、それとも町人階級の水平関係的な社会意識であるのかを巡って意見が分かれていたが、いまやこの論争に決着をつけることができる。この二つの認識は、それぞれ事の一面を捉えていたとはいえ、義理(心情規範としての義理)の本当の意義は、武士階級の上下関係を支えた無私と町人階級の水平関係を支えた情を結合させたところにある。この二つの社会意識の結合を図った点で、義理は、近世に止まらず、近代日本のあり方を指し示す基本理念として、近代日本の根本規範たり得たのである。

 もちろん、無私と情という二つの精神的形象は、東国と西国、幕府と朝廷(将軍と天皇)、武士と貴族、武士と町人(百姓)といった社会的対立を背景にした以上、容易に統合できるものではなかった。そうだからこそ、心情規範としての義理は、理念として措定することはできても、現実には崩壊せざるを得なかったのである。そして近松の場合にも、無私と情の結合は、ニュートラルな意味での結合ではなく、情の復権を通じてもたらされた。近松も、情を重視していた点で、仁斎や宣長と文化的土壌を共有していたのである。

 武家文化・貴族文化・町人文化の境界領域のなかで生きた近松は、とりわけ個人的に有利な立場に立っていたとはいえ、近世の畿内には、情と無私の結合を可能にするような社会的条件が備わっていた。政治権力の面では、幕府が朝廷の存在を前提せざるを得なかったこと、社会経済の面では、太平の世が続くなかで、京都・大坂を中心とした都市における町人階級の勢力が伸張したこと、そして親族組織の面では、百姓・町人のレベルでも、タテ関係とヨコ関係が交錯した「家」が成立したこと、これらは、近世的な社会基盤のもとで情を復権させ、無私を情によって基礎づける働きを高めた。心情規範としての義理は、そうした社会的・思想的な動向の一つの結晶形態であった。

 

 

第6章 秘密の社会技術

P404、西欧と日本の謝意を問題にするならば、むしろ表現と隠蔽という、コミュニケーションに内在する二つの普遍的な位相に着目する必要がある。いかなる社会であれ、秩序形成の基礎は、内部と外部の差異を確立することにあるが、社会構成の原点に主体的・自律的な個人を据えた近代社会では、自己と他者の差異がとりわけ顕在化されている。このような差異は、社会的対立の源泉となる以上、そうした対立を解決するための社会的装置が開発されている場合にのみ維持されうる。一方、自他の差異の顕在化可能性に対して、日本社会が採用した戦略は、隠蔽メカニズムを発達させ、雑賀作用を中和するという戦略であった。差異の隠蔽というのは、差異を抹殺することではなく、差異を顕在化させることなく潜在的なレベルで働かせることである。

 いかなる社会であれ、自己を構成する過程で一定の矛盾やパラドックスを抱いているゆえに、社会が自らの再生産を継続するためには、そうした矛盾やパラドクスを隠蔽しなければならないが(Luhmann・佐藤勉監訳『社会システム理論(上)』恒星社厚生閣1984=1993])、日本では、隠蔽の技術が社会を構成するうえでひときわ重要な役割を演じてきた。日本社会が秩序形成に払ってきた努力は、内部と外部の差異を隠蔽することに集中的に向けられてきた。個体的・集団的・国家的なレベルを問わず、各種の境界が「あると同時にないような境界」として曖昧さを帯びているのは、この内外差異に対する隠蔽メカニズムに負うている。

 個体レベルの差異を隠蔽する働きは、情と無私をはじめ、「なる」的言語としての日本語や「なる」的世界観によって担われてきた。これらは、人間の意志そのものを隠蔽することによって、自己と他者の差異、そして人間と自然の差異が顕在化するのを抑えてきた。また転写の論理は、擬制や代表・代行の機能を作動させることによって、集団レベルの差異を潜在化させ、集団間の有機的連結をはかってきた。そして「日本人の均質性」の神話は、日本人の形質的な差異や日本社会の地域的・階層的レベルの差異を覆い隠してきた。こうした各種の隠蔽を通じて、それぞれの差異に導かれた境界を曖昧な境界として設定し、内部と外部の相互浸透性を高めてきたのである。

 本音と建前の区別、以心伝心、根回しといった、いわゆる「日本的コミュニケーション」の方法は、どれも隠蔽の技術と関連している。社会的コミュニケーションを行うことは、一般に他者との差異を顕在化させ、社会的対立を惹き起こす原因にもなる。本音と建前の区別、以心伝心、根回し等々は、そうした差異や対立を潜在化させておくための社会的工夫にほかならない。例えば、「本音と建前」は、以前においては「内緒と建前」といわれ(中野卓「内と外」『講座 日本思想3 秩序』東京大学出版会[1983])、「本音」は「内緒」(秘密)にしておかねばならないものを指していた。本音と建前の区別は、「本音」の隠蔽によって社会的対立の発生を防止するためのコミュニケーション技術であった。これらコミュニケーション技術は、日本社会を構成する隠蔽メカニズムの部分装置として機能してきたのである。

 

P408、周囲を眺望できる凸型景観は、山頂・独立丘・独立峰などに象徴され、「眺望のイメージ」「支配のイメージ」「意志のイメージ」を表している。高い尖塔を戴く教会が丘の上に建てられている西欧の景観は、典型的な凸型景観である。そして「眺望のイメージ」「支配のイメージ」「意志のイメージ」という凸型景観の特徴は、西欧近代社会の特徴でもある。さきに近代に内在する支配関係と、無私に基づく支配関係の違いについて述べたが、そこには、もう一つ重大な違いが存在している。それは、支配関係が「見る/見られる」という一方公的な視線によって構成されているか否かという点にある。

 

P410

 一方、山の辺や水の辺といった日本人の偏愛する景観は、凹型景観にあたり、谷・洞窟・入り江などによって象徴される。日本にも、五重塔のような塔状建築は存在したが、それらは上に登ることなはできず、上から眺望するための建物ではなかった。自分の身を隠せる凹型景観は、「隠れ場所のイメージ」「休息のイメージ」を表している。樋口は、日本の景観の原型を「盆地」「谷」「平野」という三つの類型に分類したが、そのなかでも谷は、凹型景観の典型である。谷は、周囲を山で囲まれた「隠れ場所」であり、隠された中心である。

 滾々と水が湧き出す谷は、生命の根源であり、二重の意味での境界でもある。上流への遡行と下流への下行という二つの方向性をもった谷は、第一に、現世と来世を繋ぐ境界になっている。谷は「この世からあの世に至る通路の性格をもち、谷の奥は、現世とあの世との二つの世界の境目と考えられていた(樋口忠彦『日本の景観』筑摩書房[1993:97])。

 そして第二に、山と山に挟まれた谷は、水平的な二つの領域を結びつける境界でもある。例えば、伊勢神宮二荒山神社という二つの聖なる建物は、それぞれ伊勢と日光という、西国と東国、坂東(関東)と奥州(東北)の境界領域にあり、ともに谷間に建立されている。古代において伊勢国がアヅマに入られたり入れられなかったりしたこと、さらにこの地域が日本列島を東西に二分しているフォッサマグナの延長線上にあることは、伊勢が東国と西国の境界に位置していることを示している(大野晋・小浜基次「ことば・身体」『東日本と西日本』日本エディタースクール出版部[1981])。一方、源義朝が日光山を造営した頃、東北には、奥州藤原氏が栄華を誇っており、独自の領域をなしていた。頼朝が藤原泰衡を滅ぼして以来、奥州は鎌倉幕府支配下に組み入れられたが、祖霊以後も、関東と東北は一定の緊張感を孕み続けてきた。伊勢・日光は、そうした二つの異なった境界に位置していたのである。

 原広司は、谷を日本人にとっての「空間の祖型」として位置づけたうえで、次のように述べている。「負の中心にして境界である谷は、微地形に富んだ日本の地理にとっては、どこにでも見られる場所である。…谷の位置は、仲介者、調停者、判断者などの位置、総称すれば媒介者の位置となろう。つまり、ふたつの出来事の渦中にあって、両者の同時存立を可能にする消極的な中心、両者の衝突の境界に立つ媒介者となる。仮に二つの出来事が相互滲透するとすれば、谷は相互滲透部分、重畳部分の中心となる(原広司『空間〈機能から様相へ〉』岩波書店[1987:152])。

 このように凹型景観としての谷は、「見る」に対して「隠す」ことを本質的な契機にしており、二つの世界を相互に浸透させる境界機能を果たしている。このような谷の景観的な特徴は、隠蔽作用を通じて曖昧な境界を設定し、ふたつの領域を相互に浸透させる日本社会の構造的な特徴に通じている。谷が山と山の媒介者として二つの世界の出来事を相互に浸透させるように、中間者には、上位集団の原理と下位集団の原理を相互に浸透させることが期待されている。代表者としての中間者は、下位集団の中心をなしており、その代表機能は、順次より上位の中間者に引き継がれるが、代行者としての中間者は、上位集団の中心性を覆い隠す効果を及ぼしている。なぜなら、代行者が上位集団の代表者を代行する場合には、上位集団の代表者は、自らの中心性を顕在化させずに済むからである。したがって、媒介機能としての代表・代行は、権力ハイアラーキーのなかで中心を拡散・隠蔽し、ウチとソトの相互浸透的な境界を設定するための装置となっている。

 要するに、隠蔽技術は、日本社会を構成する不可欠な技術として、さまざまな社会的・文化的装置のなかに張り巡らされている。ただし、日本では、表現に対して隠蔽が優位を占めているといっただけでは十分正確ではない。というのも、例えば、無私は、隠蔽することによってのみ表現可能であるからである。

 隠蔽を消極的表現としてではなく、積極的表現として捉え直すという発想は、中世文化のなかで培われて以来、脈々と受け継がれてきた。世阿弥足利義満の庇護を受けてから武家文化として発展してきた能は、「かくすことによって現わす文化」(増田正造『能の表現─その逆説の美学』中公新書[1971:26]であり、そこでは「極度に抑制し、かくそうと意図することは、実は高度に現わすことであった」(増田[1971:25])。能舞台には、背後に「松」が描かれているだけだが、それは「松」以外の一切を隠すことによって世界の豊穣さを表現するためである。また、能面お表情は、一見「無表情」であるが、「無限表情」とも呼ばれ、表情を隠すことによって多様な表現を生み出している。空白な能舞台が能役者の演技とのコンテクスチュアルな関係を通じて豊穣な世界へ転成しうるように、無表情に見える能面の表情も、微妙な傾きを加えることによって豊かな表情へと変化しうる。

 『花鏡』のなかで世阿弥は、舞台の上で演者が「なにもしないところ」が面白いといわれる理由を次のように説明している。「なにもしないところ」とは、舞、謡いなどの一切の技を止めた部分であり、技と技の間隙である。演者は、この空白部分においても少しも気を緩めず、内心の緊張を持続するが、この意識の奥底の充実が自ずと外に滲み出るゆえに面白い。もっとも、意識の奥底の充実をありありと見せてしまっては、それ自体が一個の技となってしまい、技と技の間隙ではなくなってしまう。それゆえ、演者は「無心の位にて、わが心をわれも隠す」(世阿弥[1970:220])ことが必要になる。つまり、「なにもしないところ」の面白さは、表現しようとして表現できるものではなく、隠蔽することによってのみ表現可能なのである。

 このような能は、無上の上手(演者)と高度な目利き(観客)との関係のうえに成り立っている。高度な鑑賞眼をもった観客であってこそ、技と技の間隙においても配慮を怠らない演者の意識の奥底を読み取ることができる。演者と観客─ヒョリ一般化して言えば、送り手と受け手─の間に、高度な読みを可能にする了解の地平が共有されている場合にのみ、隠蔽は表現に転化しうるのである。

 したがって、コミュニケーションの過程で隠蔽が積極的表現に転化するためには、自己と他者がまったく異質な存在として対峙するようであってはならない。「日本ほど均質な社会は少ない」という言説は、日本人のなかに存在する形質的・地域的・階層的・文化的な差異を隠蔽する働きを担ったが、自他の差異の隠蔽は、さまざまなレベルの差異の隠蔽と結びつくことによって完成されたのである。

 

P414、「隠蔽することによって表現する」というコミュニケーションの逆説は、別の言い方をすれば、「無が有を生む」という逆説でもある。送り手の隠蔽は、受け手にとっては、メッセージの不在として現象するにもかかわらず、受け手の「察し」によってメッセージの能動的な理解がなされる。受けてから見れば、この顕在的なメッセージの不在は「無」に相当し、能動的に理解されたメッセージの存在は「有」に相当する。世阿弥は、あらゆる表現の根底にあるのが無であることを強調した。『遊楽習道風見』のなかで「有を現はすものは無なり」(世阿弥『日本の思想8 世阿弥集』筑摩書房[1970:277])と語っているように、無が有の本源であり、能においては、本来は無である演者の心の内面的な緊張が多彩な表現を生み出すとした。

 西欧では、古代ギリシャパルメニデスが「有のみが有り、非有は有らず」という矛盾律を唱えて以来、有と無を対立的に捉える見方が根強いが、禅の思想的な影響がみられた日本では、むしろ無は有の根源とみなされてきた。この逆説的な論理を存在論的な次元で展開したのが、西田幾多郎の「場所の論理」である。西田は、主語的基体としての個物を第一実体とみなしたアリストテレスの考え方に対して、無としての場所が一切の有を包含していることを主張した。

 西田によれば、判断というのは、特殊なものとしての主語が一般的なものとしての述語に包摂される構造をもっており、主語がより特殊なものとしての主語に対する述語となりうるように、述語も、より一般的なものとしての述語に対する主語となりうる。主語となりうるものをより特殊化する方向で限定していくと、「主語となって述語となりえない」ものとしての個物に辿り着くが、逆に、述語となりうるものをより一般化していくと、「述語となって主語となりえない」ものに行き着く。述語の一般化を徹底的に推し進めると、述語は、他の述語によって限定されることのないもの、すなわち一切の有を包含した無となる。

 西田のいう「場所」とは、一切の区別を包摂し、一切の有を成り立たせる根源的な地平を指している。述語は、主語を「〜において」という地平的構造のもとで主語を規定するが、その述語が他の述語によって限定されないということは、主語を包含する述語の地平が無限に拡張されていることを意味する。「真の無はかかる有と無とを含むものでなければならぬ、かかる有無の成立する場所でなければならぬ。有を否定し有に対立する無が真の無ではなく、真の無は有の背景を成すものでなければならぬ」(西田幾多郎『場所・私と汝 他六編(西田幾多郎哲学論集Ⅰ)』岩波文庫[1987:77])。

 世阿弥と西田が「無が有を生む」という発想を共有していたのは、単なる偶然ではなく、両者がともに禅的思考の影響を受けていたからである。禅の思想を積極的に受容したのは、個人主義的な思考性の強かった武士層であったが、その武士の主従道徳から発展した無私の精神にも、そして恥の無化作用にも「無が有を生む」という論理が貫徹していた。

 無私は、私心(私利・私欲・私情)を隠蔽することによってのみ表現しうるゆえに、ここでは隠蔽が表現に転化するかたちで無が有を生み出している。日本社会が依拠してきた「秘密の社会技術」というのは、消極的表現としての隠蔽技術のみならず、積極的表現としての隠蔽技術をも含んでおり、秘密を構成する一切の隠蔽技術を総称している。

 隠蔽が積極的表現になりうる可能性を最も探求した中世文化の背景には、積極的表現としての隠蔽技術の発達を促す社会的基盤が存在していた。無私は、隠蔽することによってのみ表現可能であるゆえに、無私の精神に裏打ちされた道徳的規範は、「無が有を生む」という論理を内包していた。そして「無が有を生む」という論理は、無私の道徳規範を実現する過程で働いていただけでなく、この種の規範から逸脱が起こり、逸脱に対する制裁が発動される際にも働いていた。それが恥の「無化作用」である。

 一切の有が無に回帰するとともに、無が有を蘇生させるという反転の論理は、日本の文化・自然・社会に共通して見いだせる。空白の能舞台には「無に回帰して再び有を生む、無限の時間への思惟がこめられている」(増田[1971:55]。日本の谷も、活力が停止した場所としてではなく、抑えられた活力がある場所として存在する。谷には「下向する空間感覚」「始源への回帰の感覚」があるが、始源への回帰は、新たな出来事を生成流出する原点でもある。谷は、「周辺の出来事を重ね合わせ吸収し、そしてまた他の場所へと出来事を生成流出する場所」であり、「母胎であると同時に全世界である」(原[1987:151-2]。そして、恥の無化作用も、規範から逸脱性によって社会関係を無に還元するが、その逸脱性が規範を反射的に指示することによって、恥を体験した者を理想的有の実現に向けて動機づけている。「恥を知れ」といった制裁様式が発動される時、恥も「無に回帰しつつ、無が有を蘇生させる」という論理に依拠していたのである。

 

P417、自他の差異を隠蔽し、そこに曖昧な境界を設定することは、近代日本を構成するための基本的な前提をなしてきた。秘密の社会技術を駆使したコミュニケーションは、そうした前提を創出するとともに、その前提のもとで機能してきた。西欧が自他の差異を表現したうえで、その協調的な関係を確立しようとしたのに対して、日本は、自他の差異を可能な限り隠蔽し、他者をもう一人の自分とみなすことによって、社会的対立の防止をはかってきた。

 しかしここで注目しなければならないのは、差異の隠蔽という、近代日本を構成するための基本的な前提が今日急速に崩れつつあり、従来のコミュニケーション様式が限界に直面しているということである。

 もちろん、将来においても隠蔽技術の価値が消滅するわけではない。情報技術の発展は、伝達不能性という障壁を取り除く反面、これまで隠蔽が保証されていた事柄までも伝達可能性にしてしまうゆえに、表現(伝達)と隠蔽をめぐる選択の自由を保障するには、伝達技術と平行して隠蔽技術が発達しなければならない。高度情報社会における表現技術や伝達技術の進歩は、隠蔽技術の発達を促すことになるだろう。また、日本がこれまで築き上げてきた思想・文化のなかには、いわゆる「ポストモダン」と称される現代的状況のなかで再評価されるべきものもあるだろう。けれども、こうしたことは、近代日本の社会秩序がポストモダン的であり、将来の状況に対して適合的であるということの証しにはならない。

 西欧近代と近代日本がともに揺らぎつつあるなかで、「自他関係において何を表現し、何を隠蔽するのか」というコミュニケーション秩序の問題は、根底から問い直されねばならない。これまで日本の近世と近代、戦前と戦後の連続性を非連続性以上に強調してきたが、近代日本は、いまや根本的転換を迫られつつあるように思われる。

 現代日本の変容に関しては(機会を改めて詳述したいと思うが)、ここでは次の一点を指摘しておこう。それは、日本を取り巻く国際関係の変化である。島国日本とはいえ、これまでの日本の歴史が示すように、日本の社会状態を規定する規定的な要因の一つは、日本を取り巻く国際関係であった。具体的にいえば、中国や西欧との関係であった。日本の歴史には、これらの国から強い影響を受けた時期とそうでない時期とがあったが、いずれにせよ、国内状態のあり方は、国際関係の変数になっている。戦後の高度成長を通じて日本は、複雑な国際関係に巻き込まれ、他国と緊密な関係をもつようになったが、そうした対外関係の変化は、対内関係にもはねかえってくる。

 近代国家というのは、理念的には他国からの影響を受けることなく自国の内部状態を決定できる国家のはずであるが、今日の国家は、そうしたあり方から大きく逸脱しつつある。近代国家のゆらぎは、一方では、国内的な統一を弛緩させ、他方では、国家を媒介することなく、国内地域と他国地域との直接的なつながりを強化するかたちで進行している。こうした二重の運動は、近代日本を構成するための基本的な前提─「日本は均質な社会である」という言説に裏打ちされながら、自他の境界を曖昧にしてきた隠蔽メカニズム─にも甚大な影響を及ぼしている。すなわち、一方では、日本国内における地域差とそれに関連した社会的・文化的な差異を隠蔽する必要が減ずるとともに、他方では、同地つかの対象から外れた他国とのコミュニケーション機会が拡大することに伴って、他国との差異を隠蔽することの困難さが増大してきている。

 今日、国際的コミュニケーションの場面で、他国(他者)と自国(自己)の同一性を仮定し、相互理解の達成をアプリオリに想定することは、大きな危険を孕んでおり、それ自体がディスコミュニケーションの原因となりうる。自他の差異に対する隠蔽メカニズムが効力を発揮するしうるのは、自他の同一性に対する信念が自他の間で受容され、この信念が行為に対する規範的な統制力をもちうる限りにおいてである。その条件が維持されるためには、自他の差異が極端に開いていないことが必要であるが、将来日本が体験するであろう国際コミュニケーションの過程は、そうした限界を超えてしまう可能性をはらんでいる。そして、このような国際関係の変化は、おのずと国内のあり方にも影響を及ぼすことになる。

 伝統的な日本論に対する近年の反省も、このような日本社会の現代的な変容を背景にしている。伝統的な日本論が近代日本の社会的な再生産を担い、ある種のイデオロギー性を帯びていることを暴露することは重要であるが、しかしそうした反省的な営みは、日本社会の再生産から離脱した「客観的・絶対的」な地点に立脚しているのではない。イデオロギー批判を行う言説は、往々に自らを脱イデオロギー的な言説として了解しがちであるが、自覚されねばならないのは、過去の日本論を批判する立場も、日本社会の再生産過程から完全には離脱し得ないということである。むしろ、日本社会がそうした反省的営みの可能性を提供しているのであり、過去の日本論が近代日本の自己意識であったように、(本書も含めて)過去の日本論を批判する言説も、極言すれば、現代日本の社会的再生産の変容の現れにすぎないのである。

 全勝で述べたように、日本人のなかに均質性の観念を定着させることは、長期的に見れば、危険な企てでもあった。均質性の観念がひとたび内面化され、自他の相互行為に対する規範的な統制力を及ぼすようになると、この観念は、たとえ虚偽であったとしても、社会的な均質性を高めていくことになる。

 (→太平洋戦争に突入した日本人意識がまさにそう。間違っていても批判できない、批判しようとも思わない。)

 

このような働きは、近代日本の建設にとっては適合的であったとはいえ、日本社会のダイナミズムを衰退させる危険性を孕んでいた。しかし現代日本が直面している問題は、まさにその枯渇しかけた社会的ダイナミズムを発動させることができるか否かという点にある。本書が描いてきた日本の姿は、戦前から戦後にかけて消滅したのではなく、むしろ今日の時点で消え去ろうとしている。そして、これまでの体制が崩壊しようとしているにもかかわらず、それに変わるべく新しい体制は見出されてはいない。その意味で、日本社会は大きな曲がり角にきているように思われる。

 →現代の日本人には、共通の価値観がない。多様化を推奨しすぎた弊害か。だから、差異を隠蔽しようにもできない。結局、差異が顕在化、隠蔽・中和潜在化できないから対立するだけになってしまっている。このままでは、アメリカのような訴訟大国になってしまう。自己の権利ばかりを主張する中国や韓国のような国になってしまう。かといって、隠蔽しすぎると、忠君愛国者ばかりになって、また大戦争に突入してしまう。どちらかに振り切れたらアウト。いつもバランスが大切。隠蔽という言葉に否定的なニュアンスがつきまとって使いたくないなら、現代バージョンの差異・対立の「中和・潜在化」技術を考えなければならない。言葉の問題ではないが…。