周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

アルベール・カミュ

  アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』(新潮文庫、2013、初出1969)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

P9、ところでカミュはこの「不条理」l’absurdeという語を特別な使い方をして、「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態」を「不条理」という、「不条理」とはこうした対立関係のことだと説明している。

 

P12、真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるかとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。(中略)いまだかつてぼくは、存在論的論証の結果を理由としてひとが死ぬのに出会ったことはない。ガリレオは重要な科学的真理を強く主張していたが、その心理ゆえに自分の生命が危機に瀕するや、いともやすやすとそれを捨ててしまった。ある意味でこれは当を得た振舞いだった。その真理には、火あぶりの刑に処せられるだけの値打ちはなかったのだ。地球と太陽と、どちらがどちらのまわりをまわるのか、これは本質的にどっちでもいいことである。ひとことでいえば、これは取るにたらぬ疑問だ。これに反して、多くの人々が人生は生きるに値しないことを考えて死んでいくのを知っている。他方また、生きるための理由を与えてくれるからといって、さまざまな観念のために、というか幻想のために殺し合いをするという自己矛盾を犯している多くの人々を、ぼくは知っている(生きるための理由と称するものが、同時に、死ぬためのみごとな理由でもあるわけだ)。だから、ぼくは、人生の意義こそもっとも差迫った問題だと判断する。この問題にどう答えるべきか。あらゆる本質的な問題について、─本質的な問題とは、ときに人を死なしめるかもしれぬ問題、あるいは生きる情熱を十倍にもする問題をいうのだが─おそらく思考方法は二つしかない、ラ・パリス的な思考方法(自明性)とドン・キホーテ的な思考方法(叙情的態度)とである。

 

「人生の意義」こそが本質的な問題(本質的な問題とは、ときにひとを死なしめるかもしれぬ問題、あるいは生きる情熱を十倍にもする問題)である。古事記日本書紀の「他者のための自殺」を理解するには、この考え方が必要。

 

 

P14、あるひとりの人間の自殺には多くの原因があるが、一般的にいって、これが原因といちばんはっきり目につくものが、じつは、いちばん強力に作用した原因であったというためしがない。熟考のすえ自殺をするということは(そういう仮説をたてることできないわけではないが)まずほとんどない。なにが発作的行為の引き金を引いたか、それを立証することはほとんどつねにできない。新聞はしばしば「ひと知れず煩悶していた」とか「不治の病があった」とか書きたてる。一応もっともに思える説明である。だがじつは自殺の当日、絶望したこの男の友人が、よそよそしい口調で彼に話しかけたのではなかったか。その友人にこそ罪がある。そんな口調で話しかけられただけで、それまではまだ宙に浮いていた怨恨や疲労のすべてが、いっときにどっと落ちかかることがありうるのだから。

 

P16、おのれを殺すとは、《苦労するまでもない》と告白すること、ただそれだけのことにすぎない。もちろん、生きるのはけっして容易なことではない。ひとは、この世に生存しているということから要求されてくるいろいろな行為を、多くの理由からやり続けているが、その理由の第一は習慣というものである。自ら意志して死ぬとは、この習慣というものの実につまらぬ性質を、生きるためのいかなる深い理由もないということを、日々の変動の馬鹿げた性質を、そして苦しみの無益を、たとえ本能的にせよ、認めたということを前提としている。

 

P17、この試論の主題は、まさしく、不条理と自殺とのあいだの関係、自殺がどこまで不条理の解決となるかというその性格な度合いである。(中略)

 先験的には、そして問題のたて方を逆にしてみれば、ひとはおのれを殺すか、殺さないかのどちらかであるのと同じように、哲学的解決としてはふたつしかない、しかりという解決と否という解決の二つしかないように思える。とすればなんとも明快すぎるほど明快な話になるだろう。だが、結論を出さずに絶えず問いかける人びとのことを考えに入れなければいけない。ぼくはいま皮肉をいっているつもりはほとんどない。大多数の人びとがそうなのだ。同じくぼくは、否と答える人びとが、まるでしかりと考えているかのように振舞っていることにも気がついている。実際はこういう人びとは、ニーチェの基準を受け入れていえば、どっちみち結局のところしかりと考えているのだ。反対に、自殺をする人びとが、じつのところ人生の意義を確信していたという場合もしばしばある。こうしたいろいろな矛盾は、いつでもあるものだ。いや、いまの場合においてほど、つまり論理をとおすことがつよく要求されるこの場合においてほど、逆に矛盾があらわに示されたことはないということさえできよう。

 

P21、人生が生きるに値しないからひとは自殺する、なるほどこれは真理かもしれない、─だが、これは自明の理というかたちの論理なのだから、真理とはいっても不毛な真理である。とはいえ、このように生存を侮辱し、このような否認のなかへと投げ込んでしまうのは、生存にはいささかの意義もないということから由来するのか。生存の不条理性は、ひとが希望あるいは自殺によってそこから逃れることを要請するものなのか。これこそ、他のいっさいをしりぞけて、あらわに抽き出し、追究し、具体的に説明すべきことである。不条理は死を命じるか、これこそ、超然とした精神のあらゆる思考方法や戯れから切りはなし、他のいかなる問題よりも優先させるべき問題である。《客観的な》精神はどのような問題のなかにも微妙な差だとか矛盾だとか真理だとかを導入するすべを知っているが、そんなものは、いまこの探求、この情熱のなかに入り込むことはできない。ここで必要とされるのは、不当な思考、つまり論理的な思考、ただそれだけである。これは容易なことではない。なるほど、論理的であるということは、つねに楽にできる。が、極限まで論理的でありつづけるというのは、ほとんど不可能なことだ。こうして、みずからの手で死んでゆく人びとは、自分の感情の斜面にしたがって、その最後まで滑り落ちてゆくのである。このように考えてくると、自殺についての考察は、ぼくの関心をそそる唯一の問題、死に至るまで貫かれた論理が存在するか、という問題を提出するきっかけをぼくにあたえてくれる。はたして、そういう論理が存在するのか、しないのか、それがぼくにわかるのは、ぼくがここでその出発点を示そうとしている論証を、過度の情熱のとりことはならず、ひたすら明証の光の中だけで辿ってゆくことによってしかない。それは、ぼくが不条理な論証と名づけるものだ。多くの人びとが、この論証をはじめた。だが、その人びとははたしてこの論証をきびしくつらぬいただろうか、ぼくはまだそれを知らない。