三 毛利隆元願文
「 敬白
(安芸賀茂郡西條)
小倉大明神寄進之事
(具)
一貝足一両奉神納者也、
右願望之旨趣者、為二武運長達 国家 」
(神威)
安全一、仰二□□一所レ抽二丹祈一如件、
(1560)
永禄三年〈庚申〉極月吉日 隆元(花押)
○括弧ノ部分ハ、寫ニテ補フ
*割書は〈 〉で記載しました。
「書き下し文」
敬白
小倉大明神寄進の事
一つ、具足一両を神に納め奉る者なり、
右願望の旨趣は、武運長逹・国家安全のため、神威を仰ぎ丹祈を抽づる所件のごとし、
「解釈」
謹んで申し上げる、小倉大明神への寄進のこと。
一つ、甲冑一揃えを小倉大明神に奉納するものである。
右の祈願の内容は、武運長久・国家安全のために、神のご威光に敬意を払い、丹精を込めて祈願するものである。
「注釈」
「小倉神社」─(原)村内には小倉神社・雷八幡神社・進行八幡神社の三社がある。小
倉神社は西部の小倉山東南麓に鎮座し、源頼政の室菖蒲前を祀る。縁起
によると、菖蒲前は愛児を伴って御薗宇に落ち延びたが、まもなく愛児
が病死すると出家して西妙と号し、小倉山に庵を結んだ。元久元年(1
204)没したため、その霊を村民が祀ったという(賀茂郡志)。永禄
三年(1560)毛利隆元により具足一両を寄進され、当時の祝師は磯
部刑部太夫(秀純)であった(磯部文書)。臨済宗妙心寺派円福寺は聖
一国師が建立して菖蒲前の位牌を安置した瑞鳳山小倉寺に始まると伝
え、当初は小倉神社参道北側にあった。現在も寺院跡らしきものが残
る。室町時代、南方の小見谷に移って瑞鳳山小倉院円福寺と改称し小倉
神社別当寺となったが、槌山城の合戦で消失。明治六年廃寺となった
が、同二十二年に再興、現在地には大正元年(1912)に移った(原
村史)。
ほかに西福寺・極楽寺・西山寺・十林寺・善福寺などの跡がある。西福
寺は蓮華山と号し菖蒲前の創建と伝える。極楽寺は12坊を擁する真言
宗の大寺で五重塔もあったと伝え、塔が峠(国郡志下調書出帳)・極楽
名(田原文書)の地名があった。本尊薬師如来像は田原家に伝来。西山
寺は天正元年(1573)の厳島社回廊棟札(大願寺文書)や同十三年
の史料(田原文書)に名が見える。字西山の跡地近くに五輪塔を残す。
十林寺は杉元氏の菩提所と伝える。曾場ヶ城は峻険な山頂に本丸・二の
丸・午の段など数段の郭・帯郭・空堀・井戸・石垣などが残る。城主は
大内氏家臣杉元氏と言われるが、結城盛貞・杉野義晴・杉野隆兼などと