周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史2─1 〜逃避目的の自殺〜

  保元二年(1157)七月十六・十七日条『兵範記』2

                       (増補『史料大成』19─207)

 

 七月十六日己卯 今夕被成流人官符、源頼行被流安芸国、可発軍兵之罪云々、

 上卿右衛門督経宗令成官符於仗座、被内覧奏聞了、次参議師仲卿、少納言通能等向

 結政、於官方座行請印云々、(中略)

 七月十七日庚戌 源頼行、自西七條辺、領送使検非違使信澄追立之間、殺害番長了、

 又自害了、

 

 「書き下し文」

 七月十六日己卯、今夕流人官符を成され、源頼行安芸国に流さる、軍兵を発すべきの罪と云々、

 上卿右衛門督経宗官符を仗座に成さしめ、内覧を被り奏聞し了んぬ、次いで参議師仲、少納言通能ら結政に向かひ、官方の座に於いて請印を行ふと云々、(中略)

 七月十七日庚戌、源頼行、西七条辺りより、領送使の検非違使信澄追い立つるの間、番長を殺害し了んぬ、また自害し了んぬ、

 

 「解釈」

 七月十六日己卯、今夕流罪を命じる官符が作成され、源頼行安芸国に流された。軍兵を発動したとされる罪という。

 上卿右衛門督藤原経宗は官符を陣の座で作成させ、関白藤原忠通の内覧を被り、後白河天皇に奏聞した。次いで、参議源師仲少納言源通能らが結政所に向かい、太政官庁の座で太政官印を押したそうだ。(中略)

 七月十七日庚戌、西七条辺りから、護送役の検非違使信澄が源頼行を追い立てたので、頼行は番長を殺害した。そして自殺した。

 

 

 「注釈」

*今回から、古文書や古記録に書き残された自殺を紹介していきます。なるべく年次のとおりに掲載していこうと思っていますが、順番が前後することもあるかと思います。また、文学作品や歴史書に比べると情報量が少ないので淡白な紹介になりますが、事例を蓄積し少しずつ検討していこうと思います。

 

 さて、今回の記事は、源頼行流刑地へ護送されるときに、護送役の番長を殺害し、自殺したというものでした。自殺に至る状況や背景の説明があまりにも少ないので、はっきりとした「動機」はわかりませんが、1つ注意しておかなければならないことがあります。それは、この事件が「保元の乱」後に起きていることです。

 古代の死刑制度の研究では広く知られていることですが、平安時代は刑罰を軽減する傾向にあり、とくに弘仁元(810)年の藤原仲成から保元の乱(1156)まで、死刑が執行されることはなかったと言われています。つまり、346年ぶりに死刑が復活したその翌年に、この事件は起きたのです(注1)。

 ここから、以下のような推測ができるのではないでしょうか。頼行は役人を殺害した殺人犯なので、最終的には死刑が予期されたはずです。捕らえられ、尋問され、ひょっとすると拷問を受け、その挙げ句にて処刑されるという苦痛から逃れようとして、自殺を遂げたと考えられそうです。すなわち、死刑の予期という「原因動機」と、捕縛・処刑の苦痛からの逃避という「目的動機」による自殺(注2)。これが、今回の事件の内実だったのではないでしょうか。ひとまず源頼行の自殺を「逃避目的の自殺」(「自殺の中世史43─吾妻鏡のまとめ」)と定義しておきます。

 

 

 

(1)平安時代の死刑については、戸川点氏が自説を交えながら、わかりやすくまとめられているので、それを引用しておきます(「保元の乱と死刑」(『平安時代の死刑』吉川弘文館、2015、189頁)。

 

 日本の古代国家は律令を継受した。死刑についても律令で絞・斬とさらに格殺が規定されていた。しかし、律の規定が実際、どの程度遵守されていたか疑問もある。律令自体死刑には慎重を期す規定となっていたが、正史には反逆罪以外の死刑の記録はほとんど現れない。しかし正史が記録しなかった可能性や固有法以来の形など律の規定以外の形で死刑が実施されていた可能性も考えられるだろう。史料的に十分明らかにはできないが、律令制下では死刑は執行されていたものと思われる。

 平安時代に入ると嵯峨天皇が死刑停止を打ち出した。ただし一般的にいわれるような死刑制度を廃止するというものではなく、死刑制度は存続させたうえで、天皇が死刑を減刑するというものであった。これは薬子の変後、自身の王権への求心性を高めることなどから取られた政策であった。

 死刑を減免し、自身の徳をアピールするという手法は恩赦や聖武天皇の政策にも見られるもので特に目新しいものではなかったが、穢意識が拡大したこともあり、その後も代々の天皇は死刑判断を忌避するようになった。死刑停止という嵯峨天皇の発想自体は相対化してみる必要があるが、こうした流れを作ったという意味では大きな意味をもつものであった。

 しかしこうした流れとは別に延喜六年の群盗誅殺の事例をはじめ、実体としての死刑は実施されていた。ホンネとタテマエは日本社会の特徴といわれるが、死刑停止と実態としての死刑も同様であろう。平安中期には武士がその存在感を強めていくが、中央貴族の死刑忌避の一方で武士や検非違使、地方においては国司による死刑・誅殺などが実施されたのである。またその死刑を確認する梟首も行われた。こうしてタテマエとしての死刑停止と実態としての死刑執行というダブルスタンダードが生まれた。

 このような天皇の裁可を経ない、律令の規定に沿わないさまざまな死刑は論者によっては私刑と位置づけられることがあるが、本書では法権が分立しつつもそれらが複合的に社会秩序を維持していたと考え、その意味で「公的」な死刑と考えた。

 平安末期、保元の乱において政治的イニシアティブをとった信西は後白河王権の権威を高めるため死刑を復活させた。しかしこれは実際には合戦の輩を死刑としただけで、公卿らは死刑を減刑され流罪とされていた。つまり朝廷が武士の死刑を判断したという以外、従来の在り方とほとんど変わらないものであった。しかし貴族社会は代々忌避してきた死刑判断を自ら行なったことに衝撃を受け、死刑の復活と位置づけた。そして一層死刑を忌避し拒絶する。こうした中で死刑を請け負っていくのが武士であった。こうして武士はさらに存在感を強め。まさに「ムサノ世」と呼ばれるようになるが、その一つの到達点が鎌倉幕府の罪人請取りであった。(後略)

 

 

(2)ここでもう一度、分析視角について整理しておきます。私は、「自殺」を「行為」と考えています。「行為」を引き起こすには、「原因動機」と「目的動機」の2つが必要であり、両方の視角によって自殺の具体的事例を分析すれば、自殺の実態に迫ることができると考えています。ちなみに、自殺を想起させるきっかけを「原因動機」、自殺の実現によって得られる価値を「目的動機」、と定義しています。そして、最終的には、人間に自殺という手段を選択させる社会通念や、それを生み出した社会的背景を明らかにしたいと考えています。こうした目的意識や分析視角の詳細については、自殺の研究史整理を行なった「自殺の中世史17〜21 ─分析視角・課題・展望 その1〜5─」をご覧になってください。