周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

飯田米秋氏所蔵文書1

解題

 毛利氏から渡辺源五郎に宛てられた文書九通である。このほか同氏は元亀四年(1573)宮の前佐伯氏の奥書のある申待縁起と永禄三年(1560)宮の前佐伯清の奥書のある月待縁起を所蔵する。おそらくは賀茂郡乃美(豊栄町)の八幡宮神職の佐伯氏にかかわるものであろう。

 

 

    一 毛利元就感状(切紙)

 

       安芸高田郡)(尼子詮久)

 十月十一日、於青山、尼子衆与合戦之時、太刀打高名誠神妙之至也、感悦不

 浅候、仍状如件、

     天文九年(1540)

       十月十二日         元就(花押)

         渡邊源五郎殿

 

 「書き下し文」

 十月十一日、青山に於いて、尼子衆と合戦するの時、太刀打の高名誠に神妙の至りなり、感悦浅からず候ふ、仍て状件のごとし、

 

 「解釈」

 十月十一日、青山で尼子詮久の軍勢と合戦したときに、太刀打の手柄を立てたことは非常に感心なことである。この喜びは浅くはありません。よって、感状は以上のとおりです。

 

 「注釈」

「青山城跡」─現吉田町吉田。吉田の市街地西、多治比川を隔てて郡山城に対峙する。

       南西部への障壁の役割をもつ戦略的な城である。青山は飛諏訪谷を中に

       して光井山と続き、軍記には青光山、または青光井山と記している。青

       山は比高170メートルで、30カ所以上の平壇が残る。「高田郡村々

       覚書」に「青光井古城山、高三丁・横四丁、是は雲州尼子晴久高陣所、

       毛利元就公と合戦之時在城也」とあり、天文九年(1540)尼子詮久

       (晴久)が三万の大軍を率いて毛利氏を攻めた時、郡山城の向城として

       急造、隣の光井山とともに全山を要塞としたことや、郡山合戦の戦場と

       なったことなど、「陰徳太平記」など諸軍記に詳しい。

       なお丘陵斜面には五世紀代と推定される青山古墳があったが、現在は削

       平されている(『広島県の地名』平凡社)。

「太刀打の高名」─太刀を振るって戦い、敵の首をとったてがら(『日本国語大辞

         典』)。