二 毛利元就感状(切紙)
(安芸高田郡相合)
正月十三日、於二宮崎尾一、敵陣切崩之時、高名候、神妙之至也、仍感状如レ件、
天文十(1541)
正月十四日 元就(花押)
渡邊源五郎殿
「書き下し文」
正月十三日、宮崎尾に於いて、敵陣を切り崩すの時、高名候ふ、神妙の至りなり、仍て感状件のごとし、
「解釈」
正月十三日、宮崎尾で敵陣を切り崩したとき、手柄がありました。非常に感心なことである。よって、感状は以上のとおりです。
「注釈」
「宮崎尾」─現吉田町相合(あいおう)。山部村の西に位置し、東南は山部川を境に吉
田村に接し、吉田より高田郡北部ならびに山県郡東部への往還が通る。
「芸藩通志」に「広四町余、⬜︎一里余、村内山多し、離郷印内は北の山門
にあり、本郷は南により、西は平田にて隣村に続く」とある。中世には吉
田・山部などとともに吉田郷と呼ばれ、毛利氏が郡山城に拠って以来、弘
元の代まで毛利一族の下屋敷が集められていた。明応七年(1498)十
月七日付の毛利弘元の書状(『閥閲録』所収宍戸藤兵衛家文書)の宛先に
「あいあふひがしの大かたどのへ」とあり、「相合手づくりのうち一町八
反を梅千代に遣はす」と記される。また毛利元就の異母弟就勝は、相合四
郎とも呼ばれており、のち出家して常楽寺住職となった(毛利家文書)。
天文九年(1540)尼子詮久が三万の大軍を率いて吉田に来侵し郡山城
を包囲した際、初め本陣を相合の風越山に置き、その付近に陣列を布き、
機を見て郡山城下に進出しようとした。「毛利元就郡山籠城日記」・郡山
諸口合戦注文(毛利家文書)によれば、九月五日「吉田上村江打出、家
少々放火」を緒戦として合戦が始まり、同二十三日に「青山三塚山江尼子
陣替、此時敵本陣風越山を一陣此方より焼崩候」とある。続いて十一月二
十六日「相合搦」で合戦、翌十年一月三日には「於相合口合戦、敵十余人
討捕候、味方一人も無越度候」、同十三日は「敵陣宮崎長尾江元就仕懸、
則切崩、三沢・高尾始として宗徒者二百余人討捕、其儘敵陣焼跡に切居
候」などとあり、村内各所はこの時期戦場となった(「相合村」『広島県
の地名』平凡社)。