周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

永松庵妊婦殺人事件

  永享七年(1435)三月二十四・二十七日条

                    (『図書寮叢刊 看聞日記』5─98頁)

 

 廿四日、晴、(中略)

 (裏書)

  「廿四日、今暁永松庵僧超俊逐電、相尋之処、舟津下女密会懐妊了、〈為九

                                   

   月」云々、〉件女永松庵門前畠麦中けり、血流之間尋求之処、人告曰、

   女淀川流棄云々、遣人尋山崎まて流行、取上見之、件女数ヶ所被

                                   (玄超)

   刃傷死、薦流棄、超俊所行露顕了、其身不知行方逐電之間、永松坊主

   〈光台寺前住、」此間退了、〉罪科可懸也、如何様可有御沙汰哉之由、浄喜・

   善理等沙汰人参申、件僧坊主甥也、殊更罪科難遁事也、於地下無左右不可

                  〔議〕

   沙汰、宜任上意之由仰、希代不思儀所行、言語道断事也、」

 

 廿七日、晴、(中略)抑永松庵坊主罪科事、公方欲申之処、法安寺坊主執申、就

 (庭田重有室)

  御乳人歎申間、公方可申事先斟酌、但無罪科、向後為傍例不可然之間、先逐電

  之分ニて被隠居、永松庵をは法安寺可預之由被申之間、雖為闕所先預了、(後略)

 

 「書き下し文」

  (裏書)

  「二十四日、今暁永松庵僧超俊逐電す、相尋ぬるの処、舟津下女密会し懐妊し了んぬ、〈九月たりと云々、〉件の女を永松庵門前の畠麦の中に殺しけり、血流るるの間尋ね求むるの処、人告げて曰く、女を薦に裹みて淀川に流し棄つと云々、人を尋ねに遣はすに山崎まで流れ行く、取り上げ之を見るに、件の女数ヶ所刃傷せられ死す、薦に裹みて流し棄つ、超俊の所行露顕し了んぬ、其の身行方を知らず逐電するの間、永松坊主に〈光台寺前住、此の間退き了んぬ、〉罪科を懸くべきなり、如何様に御沙汰有るべけんやの由、浄喜・善理ら沙汰人参り申す、件の僧は坊主の甥なり、殊更に罪科遁れ難き事なり、地下に於いて左右無く沙汰すべからず、宜しく上意に任すべきの由仰す、希代不思議の所行、言語道断の事なり、」

 

 二十七日、晴る、(中略)抑も永松庵坊主罪科の事、公方へ申さんと欲するの処、法安寺坊主執り申し、御乳人歎き申すの間に就き、公方に申すべき事先ず斟酌す、但し罪科無くんば、向後傍例として然るべからざるの間、先ず逐電の分にて隠居せさせられ、永松庵をば法安寺に預くべきの由申さるるの間、闕所たりと雖も先ず預け了んぬ、

 

 「解釈」

 (裏書)「二十四日、今日の明け方に永松庵の僧超俊が逃亡して姿を隠した。在地で探しあったところ、船津村の下女が超俊と密会し妊娠した。〈九月だったという。〉この女を永松庵門前の麦畠の中で殺害した。血が流れていたので尋ね探したところ、ある人が告発するには、(超俊が)女を薦に包んで淀川に流し捨てたそうだ。女を探しに人を遣わしたところ、山崎まで流れていった。遺体を取り上げて見ると、この女は数カ所を刃物で傷つけられて死んでいた。超俊が薦に包んで流し捨てたという仕業が露顕した。超俊の行方はわからず、逐電してしまったので、永松庵の坊主〈光台寺の前住職で、この前職を退いた〉に罪科を懸けなければならない。どのように裁許なさるつもりですか、と小川浄喜と三木善理ら沙汰人が参上して申し上げた。この超俊は永松庵坊主玄超の甥である。とりわけ罪科は逃れがたいことである。地下で何のためらいもなく処置してはならない。上意に任せるのがよいと(私は)お命じになった。世にも稀な思いも寄らないこの所行は、言葉で言い表せないほどとんでもないことである。

 

 二十七日、晴れ。(中略)さて、永松庵坊主罪科のこと。公方足利義教へ申し上げようと思っていたところ、法安寺の坊主が取り次ぎ申し、御乳人が訴え申したので、公方へ申し上げるはずのことをまずは思い止まった。ただし、処罰がなければ、今後の先例として不適切であるので、まずは超俊が逐電した罪科として、玄超を隠居させ、永松庵を法安寺に預けるのがよい、と(法安寺坊主が私に)申し上げたので、永松庵は没収ではあるが、まずは法安寺に預け置いた。

 

 「注釈」

*永松庵・光台寺は未詳。伏見庄の寺院か。その他の人名・地名については、以下の『京都市の地名』(平凡社)の各項目を参照。

 

「伏見九郷」

 ─伏見庄域に存在したとされる郷村の通称。15世紀半ばごろまでに成立したとされる伏見山近廻地図(宮内庁書陵部蔵)に「山村・舟津村・久米村・法安寺村・即成就院村・石井村・森村・北尾村・北内村」の9カ村の名が記されるが、「看聞御記」など室町期の史料で存在が確認できるのは一部村名が異なるが、「三木村・舟津村・山村・森村・石井村・野中村」の6カ村である。

 これらの村には、例えば三木村(そうぎ)を根拠として御香宮(ごこうぐう・現御香宮神社)の神主職をも有した三木氏、伏見庄政所職にあった小川氏をはじめ、内本・下野・岡・芝氏などの地侍が、それぞれ伏見庄の預所下司・公文といった荘官職を兼ねて蟠踞した(看聞御記)。彼らの活動の本拠がいわゆる「伏見九郷」であった。

 伏見九郷の各村のおおよその位置と性格は、右の古絵図と「伏見鑑」によって、ほぼ以下のように推定できる。

 山村は六地蔵清水谷辺りにあった交通集落で、山科や宇治への街道筋に面していた。船津村(ふなつむら・船戸村とも)は港湾集落で、現在の柿ノ木浜町一帯辺りにあたる。久米村は、金札宮(きんさつぐう)の所在する現鷹匠町から白菊井跡の濠川辺りにあった集落で、御香宮を中心とする石井村とともに、伏見九郷の中心的村落。法安寺村は古御香(現御香宮社)の西方現深草大亀谷五郎太町の辺りにあった集落と伝え、法安寺上皇とも称される伏見院の居住地とみられる。即成就院村も寺名にちなんだ集落であるが、橘俊綱藤原頼通第三子)山荘(→伏見殿跡)畔に建立されたのが即成院であるから、その位置も即成院跡すなわち江戸町(現桃山町泰長老・同本多上野)近辺であったと考えられる。森村は江戸時代の伏見奉行所辺りにあった集落で、森の住吉との通称をもつ大椋神社を中心にしてまとまっていた村である。北尾村と北内村は、ともに深草の南端、古御香及び大亀谷辺りにあった集落とされている。石井村は地理的にも、おそらく九郷の中心的位置にあったと思われ、御香宮がその精神的拠り所として鎮座していた。「山城名勝志」(正徳元年刊)は「土人云伏見九郷内自御香宮迄西追手筋号石井村」と記している。

 郷民の指導的地位にあった有力な地下侍として、小川氏と三木氏があげられる。小川禅啓は伏見庄の政所を務める一方、有力守護大名山名氏の被官ともなり、またその子孫も政所や預所といった地位を継いで、九郷の土豪の中でもとりわけ抜きんでた存在として知られる。これに対し、三木氏は小川氏よりも階層的には少々低い位置にあったものの、土豪としての在地性が強く郷民の中での実力は小川氏をも凌駕するほどであった(看聞御記)。三木氏は御香宮の神主をも兼ね、宗教的権威もその実力を補強するのに大きな役割を果たしたようである。このため、小川氏と三木氏の確執は根が深く、「看聞御記」には応永年間における小川禅啓と三木善理の数度の確執に関する記事が散見される。

 伏見庄の鎮守的意味をもった御香宮は、宗教的な面ばかりではなく、郷民の日常あるいは非常時の寄合の場であり、結集の場でもあった(→御香宮神社)。「看聞御記」応永二十四年(1417)六月二日条によれば、即成院に入った盗賊を糾明するため、伏見庄の全員が御香宮において湯起請にかけられ真犯人の鑑定が行われた。更に同記の永享六年(1434)十月四日条によると、比叡山の神輿が下山するとの風聞に接した室町幕府が、醍醐・伏見に対して出動命令を下したが、このとき伏見では即成院の早鐘を打ち鳴らし、晩に至って御香宮へ陸続と人々が集結してきたことを伝えている。小川氏や三木氏をはじめとする地下侍7人、下人50人のほか、船津村63人、三木村100人、山村30人、森村15人、石井村10人、野中村10人が「半具足」で参集している。

 伏見庄の住民が武装するのは、こうした幕府の召集時のみではない。隣郷・隣村との境界争いにも、土豪たちの指揮のもとに武装化し、用水相論や草刈相論、また盗賊集団との対決の場合も、住民たちが団結して立ち上がったことが、「看聞御記」の随所に記される。こうした住民たちの動静は、時代が戦国の世へと移行していくに伴い、その社会的な影響力も増大していったが、そうした郷村の活動も、やがて近世統一権力の枠内に封じ込められていった。

 

「即成院跡」

 ─即成院(即成就院)は、伏見九郷の一つ即成就院村の名ともなった寺であり、「拾芥抄」に「伏見寺一名即成就院」とあるように伏見寺とも呼ばれる。「雍州府志」によれば、正暦二年(991)に恵心僧都が開創した光明院が始まりで、その後伏見長者と称された橘俊綱が同所に山荘を営み、山荘の傍らに光明院を移して持仏堂をとしたのが即成就院であるという。場所は桃山の江戸町付近と伝える。建久六年(1195)、宣陽門院と高階栄子によって再興され、下野国那須庄を寺領として寄せされたという。宣陽門院は後白河院の皇女であり、即成就院の再興には後白河院追悼の意が込められていた。室町時代においては「看聞御記」にも散見する。

 

 

*付き合っていた女性の妊娠が発覚し、邪魔になったために殺害。僧侶のくせに、何と残忍な事件を起こしてしまったことでしょうか。やはり中世はひどい時代だ、と思っていたら、似たような事件が現代でも起こっていました。

 8年前の殺人事件が、今年になって急展開。犯人の男は、女性を殺害した2週間後に、別の女性と結婚し、2人の子どもを儲けて幸せに暮らしていたそうです。殺された女性は、妊娠していたという情報もあります…。

 やれインスタ映えだ、やれAIだ、やれ電子マネーだ、やれiPSだ、やれ宇宙開発だ…と、科学技術の進歩にばかり目を向けて、昔よりも立派になったと勘違いしている現代人の、なんと多いことか。どうやら、技術は進歩しても、人間は進歩していないようです。同じ過ちをずっと繰り返しているように思えてなりません。日々ニュースを見ていて思いますが、政治も経済も社会も科学も文化も、すべて我執まみれです。まったく異なる出来事に見えて、その本質は同じなわけですから、毎日々々、同じ絵画を見せ続けられているようなものです。どんなに優れた芸術作品でも見飽きるように、ニュースを見聞するのも、そろそろ飽きてきました。

 「むしろ現代は、〈異質な近代〉を越えて、中世に近いかもしれない、そう言えるところまで来ているのである」という東島誠さんの言葉(『自由にしてケシカラン人々の世紀』講談社、2010、29〜31頁)が、再び頭を擡げてきます。