周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史2─4 〜非難されるが、不憫に思われる自殺〜

  治承元年(1177)六月二日条   『愚昧記』中(大日本古記録、231頁)

 

  二日、庚午、朝微雨、(中略)

 西光被斬事

  西光頸今暁斬了、於五条坊門朱雀切之云々、成親卿於川尻邊入水之由

  云々、可彈指、可哀憐、世上事如何、可恐可歎、

 

 「書き下し文」

 二日、庚午、朝微かに雨ふる、(中略)

 (傍注)「西光斬らるる事、」西光の頸を今暁斬り了んぬ、五条坊門朱雀に於いて之を切ると云々、成親卿川尻辺りに於いて入水するの由と云々、弾指すべし、哀憐すべし、世上の事如何、恐るべし歎くべし、

 

 「解釈」

 二日、庚午、朝かすかに雨が降った。(中略)(傍注)「西光が斬首されたこと」今日の明け方、西光の頸を斬った。五条坊門朱雀で頸を斬ったという。藤原成親卿は川尻あたりで入水したという。非難すべきであり、憐れむべきである。世間のことは、いったいどうしたことだろうか。用心しなければならないし、嘆かわしいことである。

 

 「注釈」

「鹿ケ谷の謀議」─平氏打倒の陰謀。平安時代末期の京都で、前太政大臣平清盛とその

         一族が優れた武力を背景に勢力を増し、後白河院を頂点とする旧来

         の貴族勢力を圧迫するに至った。これに対して院近臣の権大納言

         原成親や法勝寺執行俊寛僧都その他が俊寛の鹿ケ谷(京都市左京区

         鹿ケ谷)の山荘に会合して平氏打倒のための謀議を行なった。『平

         家物語』は成親が欲した右近衛大将の地位が清盛の次男宗盛に与え

         られたことから成親が平氏打倒を計画したと説明しているが、この

         説明が正しければ、謀議は治承元年(1177)正月以降発覚直前

         の五月晦日までの間に繰り返されたのである。成親らは院の北面の

         武士を味方に引き入れ、また特に清和源氏多田行綱の武力に期待

         したと伝えられている。清盛は同年六月一日に成親と西光(藤原師

         光)を捕え、西八条の自邸に兵を召集して計画を事前に制した。

         『平家物語』は行綱の密告により陰謀が発覚したと伝える。謀議の

         関係者は相次いで逮捕されて処罰され、院も政治的に打撃を受け

         た。西光は斬首され成親は備前国に流された後、殺された。俊寛

         平康頼と成親の男成経は鬼界島(鹿児島県の硫黄島とも奄美諸島

         総称ともいわれる)に流された。三人のうち康頼と成経は翌年に帰

         京を許されたが、俊寛はついに許されなかった(『国史大辞

         典』)。

「西光」─藤原師光。?─1177 平安時代後期の廷臣。法名西光。出身は阿波国

     在庁官人の子というが不明で、少納言入道信西の家人となり、勅定によって

     鳥羽院の寵臣藤原家成の子とされたという。左衛門尉に任ぜられ、平治の乱

     では信西に従い、京を逃れた信西に渡宋を勧めたものの、信西がこれに応ぜ

     ず、他の家人とともに出家して難を逃れた。のちに後白河院に仕えて近習の

     伝奏として活躍し、院の御倉預として後白河院政を支えた。治承元年(11

     77)の鹿ケ谷の謀議では藤原成親らと平氏打倒の陰謀をめぐらしたのが発

     覚し、捕らえられて拷問のすえ、事件の全貌を白状したが、この間の事情は

     『平家物語』が詳しく記すところである。やがて朱雀大路に引き出されて斬

     首された。治承元年六月一日夜半のことであった(『日本古代中世人名辞

     典』吉川弘文館)。

藤原成親」─1138─77 平安時代後期の公卿。保延四年(1138)に生まれ

       る。鳥羽院の寵臣藤原家成の三男、母は藤原経忠の女。父家成の知行国

       越後・讃岐受領となり、後白河天皇の即位とともにその寵を得て少将・

       中将となった。平治の乱では藤原信頼と行をともにして解官された。し

       かし、平重盛の婿であった関係から死罪を免れ、その後は後白河院

       「男のおぼえ」といわれるほどの寵を得て、仁安元年(1166)に従

       三位に叙され、公卿となった。しかし二条天皇の訴えと、延暦寺の衆徒

       の訴えにより、二度にわたり解官、配流されたが、そのつど後白河院

       保護により復任し、後白河院の寵臣として権勢を振るった。やがて平氏

       の権力の圧迫を蒙り、望んだ右大将の官職に平宗盛が任じられたことか

       ら、ついに反平氏の謀計を後白河の近習西光や俊寛らとめぐらした。だ

       が、摂津源氏の密告で計画は洩れ、治承元年(1177)に備前国に流

       され、ついで同年七月九日に殺害された。四十歳(『日本古代中世人名

       辞典』吉川弘文館)。

 

*前述のように、藤原成親備前国に流されて殺害されたのですが、その前に、入水自殺を遂げたという噂が流れています。これについて『愚昧記』の記主三条実房は、「非難すべきであり、憐れむべきである」という感想を述べています。つまり、自殺は非難される行為であるとともに、憐憫の対象でもあったことがわかります。ただ、「非難」の具体的内実がよくわかりません。自殺行為自体を非難しているのか、罪を償わず(処刑されず)自ら命を絶ったことを非難しているのかなど、いくつか考えられそうですが、断定することはできません。