周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史2─6 〜「自害」は必ずしも「自殺」に非ず〜

  正治元年(一一九九)十月十三日条 (『猪隈関白記』2─3頁)

 

 十三日、壬申、

   (殿以下十一字、モト十二日條ニ記セリ、今符號ノ意ニヨリテ移ス)

 晴、殿下令参院・内并長講堂、

      (後鳥羽)

 頭権大夫親経朝臣相具文書来、香椎宮神人貞正・宗友与石清水権寺主慶禅致濫行間、

         

 彼貞正・宗友乱入殿内令自害、以流血奉塗渡於数宇神殿事也、須造替神殿之処、

 来廿一日大奉幣也、何様可被行哉、可被行清祓歟、可計申之由有院仰者、止文書

 後日申可計申之由了、被問人々云々、

 

 「書き下し文」

 十三日、壬申、

 晴る、殿下院・内并びに長講堂に参らしむ、

 頭権大夫親経朝臣文書を相具し来たる、香椎宮神人貞正・宗友と石清水権寺主慶禅濫行致すの間、彼の貞正・宗友神殿内に乱入し、自害せしめ、流血を以て数宇の神殿に塗り渡し奉る事なり、須く神殿を造替すべきの処、来たる廿一日大奉幣なり、何様に行はるべきや、清祓を行はるべきか、計らひ申すべきの由院の仰有りてへり、文書を止め後日計らい申すべきの由申し了んぬ、人々に問はると云々、

 

 「解釈」

 (十月)十三日、壬申、晴れ。父である摂政近衛基通後鳥羽上皇土御門天皇・宣陽門院のもとに参上した。

 蔵人頭左京権大夫藤原親経朝臣が文書を持ってやって来た。香椎宮神人の貞正・宗友と、石清水権寺主慶禅とが乱暴な行為をしたので(両者の間で暴力沙汰になったので)、この貞正と宗友は神殿内に乱入し自らを傷つけ、数カ所の神殿にその流血を全体に塗り申し上げたことである。神殿を造り替える必要があるのだが、来たる十月二十一日は大奉幣である。どのように執行するべきだろうか、清祓を行うべきだろうか。よく考えて適切に処置し申し上げよと院が仰せになったという。いったん文書の発給手続きを止め、後日に協議し申すつもりである、と父基通は返答し申し上げた。父は人々にお尋ねになったそうだ。

 

 「注釈」

「猪隈関白記」─近衛家実の日記。1197─1211(建久8─建暦1)の本記と、

        若干の別記・断簡・抄出などが伝来。自筆本23巻と古写本16巻は

        陽明文庫蔵。その名は居邸猪隈殿にちなむ(『角川新版日本史辞

        典』)。

近衛家実」─1179─1242。鎌倉時代の公卿。号、猪隈(熊)殿。猪隈(熊)

       関白ともいう。治承三年(1179)生まれる。近衛基通の長子。母は

       村上源氏の一流源顕信の娘顕子。顕信の叔母には家実の祖父基実を生ん

       だ信子、基実の弟松殿基房を生んだ俊子がいる。建久元年(1190)

       十二歳のとき後白河法皇の御所で元服し叙爵・翌二年従三位に進んだ。

       参議を経ず同八年権中納言、従二位。翌九年権大納言兼左近衛大将とな

       る。翌正治元年(1199)右大臣、正二位となり、元久元年(120

       4)左大臣。建永元年(1206)九条良経急逝のあとを襲って摂政と

       なり、ついで関白となった。以後、承久の乱前後の二ヶ月半を除いて、

       安貞二年(1228)まで摂関の地位にあった。承元元年(1207)

       従一位を極め左大臣を辞したが、承久三年(1221)太政大臣とな

       り、翌貞応元年(1222)これを辞した。暦仁元年(1238)准三

       宮、仁治二年(1241)風病のために出家、法名円心。翌三年十二月

       二十七日猪熊殿に没した。六十四歳。日記『猪隈関白記』がある(『日

       本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。

「長講堂」─宣陽門院か。1181─1252。後白河法皇の第六皇女覲子内親王。母

      は従二位高階栄子(丹後局)である。養和元年(1181)十月五日誕

      生。文治五年(1189)十二月九歳にして内親王宣下あり、名を覲子と

      賜った。またこの日准三宮の宣旨を蒙り、ついで建久二年(1191)六

      月院号宣下あり、宣陽門院と称せられた。法皇の寵愛を蒙ること厚く、建

      久三年法王の崩御に先立って膨大な長講堂領を譲与された。当時院近臣で

      あった源通親は、宣陽門院の院司となり、丹後局と結んで親幕府派の九条

      兼実らの勢力と対抗しており、宣陽門院はその拠点として当時の政界にお

      いて重視され、将軍源頼朝も建久六年四月上洛の際、宣陽門院に伺候して

      いる。元久二年(1205)三月落飾、法名を性円智という。建長四年

      (1252)六月八日七十二歳を以て伏見殿で没した。長講堂領は後深草

      天皇に伝えられ、持明院統の経済的基盤となった。

「親経」─藤原親経。1151─1210(仁平元〜承元四)。鎌倉初期の公卿。父は

     参議俊経。母は大宰大弐平実親の女。承安元年(1171)五月、叙爵。同

     二年六月、宮内権少輔に任ぜられ、治承二年(1178)十二月、東宮学士

     を兼任。同三年十月、蔵人。同四年二月、安徳天皇践祚とともに新帝蔵人・

     高倉院判官代となる。平氏滅亡後の文治元年(1185)十二月、源頼朝

     推挙により右少弁に任ぜられる。以後弁官を昇進、建久六年(1195)十

     二月、右大弁となる。この間、記録所勾当・率分勾当・文章博士などを兼

     ね、後白河院司。九条兼実家司などを務めた。建久九年十二月、後鳥羽院

     当に補任。同年十二月、左京権大夫・蔵人頭正治二年(1200)正月、

     従三位。建永元年(1206)三月、権中納言に任ぜられる。親経は詩文に

     すぐれ、後鳥羽・土御門二代の侍読となり、九条兼実は当時の儒者のうち右

     に出るものはないと絶賛している。元久二年(1205)正月、『新古今和

     歌集』の真名序文を作成した。承元二年(1208)七月、官職を辞し、同

     年十二月、従二位に叙された。同四年十一月十一日、熊野参詣の途次、紀伊

     国藤代宿で没す。六十歳。日記に『親経卿記』(別名『見糸記』)、著書に

     『角黄記』『東大寺供養式』などがある(『鎌倉室町人名辞典』)新人物往

     来社)。

「慶禅」─寛元二年(1244)十月十日付「官文殿続文」(『平戸記』同年十月十四

     日条、『鎌倉遺文』6384号)によると、「建久十年正月廿三日、太宰府

     言上云、八幡聖母香椎宮神人宗友・貞正等、去年十一月十四日、乱入神殿内

     令自害者、〈検校幸清・留守慶禅、検注宮領之時、擬追捕宗友歟之間、逃入

     社内企自害、奉汚穢云々、〉」(〈 〉内は割書)とあり、当時の香椎宮

     校は幸清で、その留守職が慶禅であったことがわかります。また、両者が実

     際に香椎宮領に下向していたかどうかわかりませんが、宮領の検注時に、宗

     友らを捕らえようとしたところ、社殿内に逃げ込んで自害をはかり、社殿を

     流血で穢したことがわかります。なお幸清には、建久八年(1197)五月

     三日に香椎宮の社務の執行を命じる太政官符(『大日本古文書 石清水文

     書』2─428号)と、翌年七月三十日に「香椎社検校職」に補任する太政

     官符(『同』2─429号)が発給されています。幸清の活動については、

     生井真理子「幸清撰『宇佐石清水宮以下縁起』について」(『同志社国文

     学』66、2007、39頁、 

     https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/5541/?lang=0&mode=1&opkey=R155374880529943&idx=15)、

     鍛代敏雄「鎌倉時代における石清水八幡宮寺祠官の印章 ─幸清・宗清・耀

     清─」(『東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報』9、2018・6、

     https://tfulib.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=625&item_no=1&page_id=47&block_id=149)参照。

香椎宮」─福岡市東区香椎四丁目。立花山(367・1メートル)の南西麓、香椎川

      の上流にある。香椎川の下流末社の浜男神社、その先の海中に御島があ

      り同御島神社を祀る。この海岸線はもとの香椎潟である。祭神は本殿に仲

      哀天皇神功皇后、相殿に応神天皇住吉大神を配祀する。旧官幣大社

      橿日・樫日・香襲・哿襲などとも書く。(中略)

      〔中世〕平氏の没落により平頼盛領も平家没官領となったが、頼盛の母池

      禅尼の功によって香椎宮の領家職は返付された建久四年(1193)八

      月、朝廷から石清水八幡宮別当成清に対して当宮領三六ヵ所が与えられた

      (「石清水八幡宮御修理造宮之記」石清水文書/香椎宮史)。しかし具体

      的な所領の全貌は不明である。断片的ではあるが、鎌倉期には壱岐島、筑

      前国野坂庄(現宗像市)・怡土庄(現前原市)、筑後国本吉庄(現瀬高

      町)などが当宮領として確認できる(天福元年五月日「石清水八幡宮寺申

      文」宮寺縁事抄/鎌七など)。建久七年一月に朝廷で「香椎事」が論じら

      れている(「玉葉」同年正月十八日条・同月二十三日条・同月二十四日

      条)。同八年五月三日朝廷は当宮を石清水八幡宮に付し、法眼幸清が社務

      を執行することを命じている(「太政官符案」石清水文書/鎌二)。ここ

      に石清水八幡宮による当宮に対する支配が確立し、両者の関係は南北長期

      まで有機的に継続する。石清水八幡宮で当宮の支配権を有したものは弟子

      を兼業に任じて社務を執行させたが、検校は実際には下向せず、留守を派

      遣して代官支配を行なっていた。同九年十一月十四日、当宮神人宗友・貞

      正らが神殿内に乱入し自害した(「猪隈関白記」正治元年十月十三日

      条)。この事件の背景には神人らの香椎宮検校留守に対する抵抗があっ

      た。正治元年(1199)七月三十日朝廷は大宰府太政官符(石清水文

      書/鎌補一)を下し、石清水八幡宮寺権別当法眼幸清を当宮検校職に任じ

      て社務を執行させ、石清水八幡宮による当宮支配を確認している。

      中世の香椎宮は度々炎上した。本来香椎宮の造営は朝廷により、宇佐宮造

      営に準じて九州一円に造営料を賦課することになっていたが(建治元年十

      二月三日「官宣旨案」旧記雑録/鎌一六など)、承久二年(1220)香

      椎宮検校が朝廷に対して九州各国の造営役不勤を報告していることから

      (同年九月日「幸清解」壬生家文書/鎌四)、鎌倉時代前期にはすでに九

      州一円への造香椎宮役の賦課は困難となっていた。鎌倉時代後期怡土庄が

      当宮の造営料所に設定されており、造営費用の調達が九州各国賦課という

      手段から変容したことがわかる。造営は順調に行われなかった(「関東評

      定事書」近衛家本追加/鎌二〇)。豊後大友氏が進出してくると、建治二

      年(1276)には大友頼廉が石築地築造のために子息を代官として香椎

      宮に派遣することを命じている(同年三月五日「大友頼泰書下」諸家文書

      纂/鎌一六)。正和元年(1312)沽却・質入れなどによって神領から

      外れていた鎮西五社のもと社領を五社に返付するという神領興行令(鎮

      西五社興行令)が発布され、鎮西五社のなかに香椎宮も入っていた(「宇

      佐宮領条々」国分寺文書/鎌三七など)。南北朝期に建武政権は大宮司

      光に香椎宮殿上大宮司職と所領を安堵している(建武元年四月三十日「後

      醍醐天皇綸旨」大友文書/南一)南北朝中─後期の大友氏の所領注文に

      「筑前国香椎社付諸郷」とあり(貞治三年二月日「大友氏時注進状案」大

      友文書/南四、永徳三年七月十八日「大友親世注進状案」同文書/南

      五)、当宮および社領は大友氏領化していた。元亀二年(1571)九月

      十四日の領家勤仕神物社役注文案(三苫文書/香椎B遺跡)および同四年

      十二月二十一日の香椎宮神事用途注文案(同上)によれば、香椎宮の年中

      行事には一月の年頭神事・白馬神事・修正会・踏歌神事・歩射・心経会、

      二月・十一月の正忌神事などがあった。また多々良郷・三苫郷・和白郷、

      立花口村・三代郷・原上郷・相島(現新宮町)、山田郷(現久山町)、新

      原郷などが供物を献納する地として記されている(以下略)(『福岡県の

      地名』平凡社)。

「清祓」─清祓の「清」とは穢物ないし穢が付着した場所の洗浄・撤去を意味し、清祓

     の「祓」とは神への謝罪・贖罪を意味する。つまり清祓の「清」は、言うな

     れば原状回復のための損害賠償としての性格をもつ。したがってその費用

     は、穢した者本人または縁者が負担するのが鎌倉期春日社の基本的なあり方

     であった。そして当事者は、神への冒涜行為を謝罪・贖罪する儀式であった

     祓を執り行うために祭物を提出しなければならないのである(渡邉俊「鎌倉

     期春日社における清祓祭物の徴収とその配分」『中世社会の刑罰と法観念』

     吉川弘文館、2011、212頁)。

「血穢」─山本幸司「穢とされる事象」(『穢と大祓』増補版、解放出版社、2009

     年、27頁)によると、日本では神社や神事そのものと関わらなければ、流

     血に触れること自体が忌まれることはなかったようです。ただ、流血や血液

     全般が忌避されるようになるのは、それが死を連想するからであり、その根

     源には死への嫌悪や死穢の忌避があったと考えられています(井出真綾・牛

     山佳幸「古代日本における穢れ観念の形成」『信州大学教育学部研究論集』

     第9号、2016、84頁、https://soar-ir.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=17949&item_no=1&page_id=13&block_id=45)。

 

 

*さて、前回に引き続き、今回も「自害」という言葉に少しこだわってみたいと思います。「慶禅」の注釈でも引用しましたが、「官文殿続文」(『平戸記』寛元二年(1244)十月十四日条、『鎌倉遺文』6384号)も用いて、まずは今回の「自害」事件を整理しておきます。

 建久九年(1198)十一月十四日、香椎宮領の検注をしていた香椎宮検校留守職で石清水権寺主であった慶禅側と、香椎宮神人貞正・宗友らとの間で暴力事件が起こり、神人らは神殿内に逃げ込んで「自害」しました。そして、その流血を数カ所の神殿に塗りまわりました。おそらく、神人たちは社殿を血で穢し、諸行事の執行を妨害することで、石清水八幡宮による検注を停止させようとしたのだと考えられます。今回の史料は、この事件への処置について、藤原親経が摂政近衛基通に相談にやってきたことを記しているのです。

 では、今回の「自害」は、本当に「自殺」だったのでしょうか。前回の史料と同様に、「自害」を「自殺」と解釈すると、おかしなことになります。神人貞正・宗友らは、神殿内に乱入して自殺した後、数カ所の神殿に彼らの流血を塗ってまわったことになるのです。貞正と宗友が自殺し、その血を別の神人たちが塗ってまわったと解釈することもできるかもしれません。ですが、事件発生から8ヶ月後、正治元年(1199)七月十四日に発給された宣旨によって、貞正・宗友らの捕縛が命じられていることから(前掲「官文殿続文」)、2人は死んでいなかったことがわかります。前述のように、神人たちは社殿を血で穢し、諸行事の執行を妨害することで、石清水八幡宮による検注を停止させようとしただけであって、けっして「自殺」しようとまでは考えていなかったのではないでしょうか。わざわざ自分たちが死ななくても、出血さえすれば、血の穢で行事を妨害することはできるわけですから。「自殺の中世史2―5」で紹介した宇佐弥勒寺の事例に続き、今回も「自害」は「自殺」ではなく、「自ら自身の肉体を傷つけた」という意味だったと考えられます。

 「自害」という言葉の大部分が「自殺」を意味することを否定するつもりはありません。私自身がこれまで紹介してきた「自害」史料も、ほとんどが「自殺」であったと考えられます。ですが、前回と今回の2つの事例によって、「自害」が必ずしも「自殺」を意味するとはかぎらないことを証明できたと思います。では、なぜ私たちは「自害」=「自殺」と思ってしまうのでしょうか。それは、「自害」を説明した辞書に原因があります。試みに、いくつかの辞書で「自害」がどのように説明されているか、提示してみましょう。

 

『邦訳日葡辞書』(岩波書店、1980年)

  ─(我と身を殺す)自殺すること。

大漢和辞典』(修正版、大修館書店、1985年)

  ─我と我が身を殺して死ぬ。自殺。自裁。自残。自盡。自財。

『角川古語大辞典』(角川書店、1987年)

  ─漢語。自分で自分の体を傷つけて死に至ること。自殺。

『学研国語大辞典』(第二版、1988年)

  ─自分で自分の身を傷つけて命を絶つこと。

『言泉』(第九刷、小学館、1989年)

  ─自分で自分の身を傷つけて死ぬこと。古くは、男の切腹に対して、女が喉を刺し

   て自殺したこと。自刃。

『大漢語林』(大修館書店、1992年)

  ─自殺。

 『時代別国語大辞典 室町時代編』(三省堂、1994年)

  ─名ある人が、自らの身体に刃物をつきたてて命を絶つこと。

『古語大辞典』(コンパクト版、小学館、1994年)

  ─自殺。

『新潮国語辞典』(第二版、新潮社、1995年)

  ─自殺すること。自刃。自尽。

『日本語大辞典』(第二版、講談社、1995年)

  ─自分で自分の身を傷つけて、命を絶つこと。自刃。Suicide。

新明解国語辞典』(第四版、第10刷、三省堂、1996年)

  ─刀・ピストルなどで自殺すること。

大辞林』(第三版、三省堂、2006年)

  ─自分自身を傷つけて死ぬこと。自殺。自尽。

『精選版 日本国語大辞典』(小学館、2006年)

  ─自分で自分の身を傷つけて死ぬこと。近世では、男の切腹に対して女がのどを刺

   して自殺するのにいう。自刃。自尽。自殺。

大辞泉』(第二版、小学館、2012年)

  ─自分で自分の体を傷つけて死ぬこと。自刃。自殺。

広辞苑』(第七版、岩波書店、2018年)

  ─自ら傷つけて自分の生命を絶つこと。自殺。自刃。自尽。

 

 

 このように、提示した辞書のすべてで「自害」は「自殺」と説明されているわけですから、「自害」を「自殺」と思い込んでも仕方ないでしょう。「自害」は読んで字のごとし、本来は「自ら害する」だけで、「自ら殺す」という意味までは含んでいなかったのではないでしょうか。「自害」という史料用語を扱うときには、注意する必要があると考えられます。

 今後、私独自の見解を述べるときには、混乱を避けるためにも「自殺」という表現のみを使っていきます。ただし、先行研究や史料用語として「自害」「自死」という表現が使用されている場合は、そのまま引用します。