周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

本宮八幡神社文書1

解題

 創建は明らかでないが、永正十六年己卯、大檀越平朝臣千靏丸、願主藤原衛門大夫是空の再興棟札、慶長元年丙申拾一月吉祥日、大檀越平朝臣乃美三良兵衛元興、本願地蔵院教卯坊・同代官真弓田市助の再興札がある。乃美・別府・鍛冶屋・安宿・清武五村(いずれも賀茂郡豊栄町)の総氏神である。

 社宝として大般若経六百巻を有している。建久元年(1190)僧延増がかなりまとまった部分を入手し、欠巻を僧延増自らが補写したもののようである。保延四年(1138)書写の奥書を有するものがあるが、永久五年(1117)寄進の奥書を有するものも多い。鎌倉時代の補写や版本も交じる。文明九年(1477)則光幸福寺において経巻の修理をし、延享三年(1746)には乃美村庄屋児玉正勝以下の寄進によって補写した(1076〜1078頁)。 

 

 「本宮八幡神社」(『広島県の地名』平凡社より)

 豊栄町乃美 宮迫。乃美西部の丘陵上に鎮座。祭神は宗像三女神仲哀天皇応神天皇神功皇后・建内宿禰など四十二柱。本宮(もとみや)八幡とも称する。旧村社。社伝によると、もと高田郡坂村(現向原町)と乃美村の境にある宮ノ峠(みやのたお)に鎮座したのを現在地に移し、乃美・別府・鍛冶屋・清武・安宿(あすか)の惣社で宮の峠八幡宮とも称したが、乃美隆興が清武・安宿へ分祀して三社としたことから当社を本宮八幡神社と改称したといい、清武の畝山神社もよく似た伝承をもつ。永正十六年(1519)の棟札に、大檀越平朝臣鶴丸の再建中興とある。

 大永七年(1527)八月十五日と、天正七年(1579)八月吉日の乃美八幡宮流鏑馬次第注文(当社文書)によると、大永四年─天正十年頃まで、近郷の名主層や国人衆などによって流鏑馬が行われていることが知られ、天正五年八月吉日付の乃美八幡宮御祭御頭注文(同文書)には大檀那隆興とあり、四十の名と神主・祝師により、二名ずつ二十一年ごとに祭事の御頭を務めることとされている。慶長元年(1596)乃美元興が再建、延宝四年(1676)・元禄十四年(1701)には乃美・別府・鍛冶屋の三村で再建。明治四十三年(1910)乃美の厳島神社・白土神社・八和田神社、別府の新宮神社・竜田神社・冬梅神社を合併した。

 社蔵の大般若経600巻(県指定重要文化財)は奥書によると、大半は建久元年(1190)僧延増が商人から入手し、自ら欠巻を補って完本としたもので、永久五年(1117)細工所目代殿首山永継が寄進したものが多い。嘉慶二年(1388)政信が郷内に勧進して函を60個寄進し、文明九年(1477)には則光の幸福寺(吉原にあった光福寺のことか)で修復されている。江戸時代に散逸したが、延享三─五年(1746─48)乃美村庄屋などの寄進で100巻余りが補われている。社叢は杉・檜・榊などよりなるが、社伝前方の大スギのうち一本は県下有数の大樹で、県天然記念物に指定されている。

 

 

    一 乃美八幡宮御祭御頭次第注文

    乃美八幡頭文之事

 一番   さねもり名     宗延名

 二番   小松宗吉名     才年名

 三番   弘末名       助貞名

 四番   太郎丸名      為正名

 五番   是末名       宗近名

 六番   黒田名       擣原名

 七番   つねさね名     大塚名

 八番   安利名       とり打名

 九番   河原名       かね貞名

 十番   為貞名       貞安名

     寺さこの事也

 

 十一番  重森名       為末名

 十二番  為数名       行宗名

 十三番  為平名       則遠名

 十四番  おてほ名      神主

 十五番  久重名       □安名

 十六番  久国名       国貞為房名

 十七番  重かね名      行正名

 十八番  是貞名       西原名

 十九番  末弘名       為安名

 廿番   かわ原名      祝師

 廿一番  国友名       かね安名

 何茂廿一番ニまわり候て、廿一年ニあたる御まつり也、是ハむかし此分ニわきかつし

                       (貢)(枡)

 候ておく事也、暮々きう人ハかきとう也、百性ハ年具ますにて米八斗上よりたつ也、

 さん田ハ同年貢舛にて米壹石六斗上よりたつ事也、次とう米ハ四十石より貳石つゝ

 也、

     (め)

 一矢ふさ免之事

     (小陣)

  一番 こちん殿方ハ太郎丸ニあたる也、

      (方)

     大かたとのの方ハ為安名ニあたる也、

  二番 こちん殿方ハ久重名ニあたる、

     大かた殿方ハ重森名ニあたる、

  三番 こちん殿方ハ是末名ニあたる、

     大かた殿方ハ宗吉名ニあたる、

  四番 こちん殿方ハ是貞名ニあたる、

     大かた殿方ハ則正名ニあたる、

  五番 こちん殿方ハ為正名ニあたる、

     大かた殿方ハ弘末名ニあたる、

                          (公文)

  何茂如此きう人五番目をハる也、一番ハ上より、二番くもん、三番ハこちん殿、

  四番ハ大方殿、五番給人、以上五番なり、

 一八月一日ニよこしめおろしニ祝師神主宮地頭、友一人つれ候て出る也、大とうにて

 めし酒有也、わきのとうにてハ肴にて酒有也、何も如此ニ仕事也、

 一十日 めうけんちよ大とう仕也、

  十二日 こ口わきのとう仕也、

  十三日 米かし わきのとう仕也、

  十四日 もちつき 同わきのとう仕也、

  十四日 おりいわき之とう仕也、

  十五日 はゝのとう 大とう仕也、

  十五日 御祭りあそひ 大とう仕也、

  十六日 御はけ上 和き之とう仕也、

  十三日ニはゝにて中間衆 百性座ハりやうとうより合候て仕也、

 一渡物之事

  こ物黒米三升つゝ、合六升たなもりニ渡、

  白米貳斗りやうとうニ四斗渡、

  白米八升りやうとうニ壹斗□六升御はん、

  白米八升同一斗六升夜なかり、

  黒米八升同壹斗六升ふく水、

  あつき三升もちニ入、又壹升よなかりニ入、黒米三升大公ニ渡、

         (宮地とう)

  黒米貳升酒一升ミやちとうニ渡、同ふく水おけ一ツ、したみ一ツ、ひしやく一ツ、

  又松おしき八そく、合十六そく、ふく水おけ丸ほそき也、ちんし三ツ、なかさは三

  尺二寸、つまハ一尺三寸又けしよう也、六ツ二尺六寸、つま一尺二寸也、かわらけ

                                      

  八そく、りやうとうニ十六そく也、此内こかわらけ二そくつゝ合十六そく也、あつ

  かミ三ちやう合六ちやう渡也、あつかミすこしつゝ渡、きりぬき十五合卅渡、五と

                            (供僧)

  入九ツはうてしく物之事、御さんじきにはあつかりしく、くそうにはりやうとうニ

  たゝミ二ちやうしく、公文ニかねあしく宮座には弘末よりしく事也、

  のり十四日宮にて入物一ツ、くり一ツ、なし一ツ、かき一ツ、いものくき一ツ、こ

  物一ツ、かちとうふ一ツ、大こん一ツ、ゆす一ツ、せり一ツ、いね二わ、

   (門客神)

  かどまろうと之御まへニ一ツ、あらこも一まいつゝ有増しるしおく事如件、

  暮々此頭文之前よりなをこまゝゝしき事おはしるさす候之間、社人おのゝゝ

  (談合)

  たんこうして御まつりを可勤ト云々、

     (1577)

     天正五年〈丁丑〉八月吉日

        (マヽ)

       大壇那隆興(花押)

 

 一殿様御判於後日[    ]此云々、

               ]右衛門尉大夫常清(花押)

 

 「書き下し文」

    乃美八幡頭文の事

    (中略)

 何れも二十一番に回り候ひて、二十一年に当たる御祭なり、是れは昔此の分に分き割し候ひておく事なり、くれぐれも給人はかきとうなり、百姓は年貢舛にて米八斗上より立つなり、散田は同じく年貢舛にて米一石六斗上より立つ事なり、次に頭米は四十石より二石づつなり、

    (中略)

  何れも此くのごとく給人五番目をはるなり、一番は上より、二番公文、三番は小陣殿、四番は大方殿、五番給人、以上五番なり、

 一つ、八月一日に横注連おろしに祝師・神主・宮地頭、友一人連れ候ひて出るなり、大頭にて飯酒有るなり、脇の頭にては肴にて酒有るなり、何れも此くのごときに仕る事なり、

    (中略)

  黒米二升・酒一升を宮地頭に渡す、同じくふく水桶一つ、湑一つ、柄杓一つ、また松の折敷八足、合わせて十六足、ふく水桶丸細きなり、鎮子三つ、長さは三尺二寸、端は一尺三寸、また化粧なり、六つ二尺六寸、端一尺二寸なり、土器八足、両頭に十六足なり、此の内小土器二足づつ合わせて十六足なり、小紙三帖合わせて六帖渡す、厚紙少しづつ渡す、切幣十合を三十渡す、五斗入り九つはうてしく物の事、御桟敷には預かり敷く、供僧には両頭に畳二畳を敷く、公文にかねあ敷く、宮座には弘末より敷く事なり、

 のり十四日宮にて入れ物一つ、栗一つ、梨一つ、柿一つ、芋の茎一つ、小物一つ、かち豆腐一つ、大根一つ、柚子一つ、芹一つ、稲二把、門客神の御前に一つ、荒薦一枚づつあらましを記し置く事件のごとし、

 くれぐれも此の頭文の前よりなお細々しき事をば記さず候ふの間、社人各々談合して御祭を勤むべしと云々、

 

 「解釈」

    (前略)

 どれも二十一番ごとに回ってきて、二十一年に一度担当するお祭りです。これは昔、このように分割して取り決めたのであります。くれぐれも給人は(解釈不能)である。百姓は年貢枡で米八斗を上から順番に差し出すのである。散田も同じく年貢枡で米一石六斗を上から順番に差し出すのである。次に頭米は(解釈不能)。

    (中略)

 どれもこのように給人が五番目(解釈不能)。

 一つ、八月一日の横注連おろしに、祝師・神主・宮地頭は、供を一人連れて出るのであります。大頭の屋敷で酒飯の饗応をするのである。脇の頭の屋敷では、肴で酒宴をするのである。いずれもこのように執行するのである。

    (中略)

  黒米二升・酒一升を宮地頭に渡す。同じく福水桶一つ、湑一つ、柄杓一つ、また松で作った折敷八足、大頭と脇の頭の両方の分として、合わせて十六足。福水の桶は丸くて細いのである。鎮子は三つで、長さは三尺二寸、側面は一尺三寸で、飾りが施されているのである。他の六つは長さが二尺六寸で、側面が一尺二寸である。土器八足、両方の頭役分で十六足である。小紙三帖、合計で六帖を渡す。厚紙を少しずつ渡す。切幣十合を三十渡す。五斗入りは九つ渡す。(解釈不能)敷く物のこと。御桟敷では預が敷く。供僧に対しては、両頭が畳二畳を敷く。公文に対しては(解釈不能)が敷く。宮座では弘末名の者が敷くのである。

 (解釈不能)十四日、乃美八幡宮で、入れ物一つ、栗一つ、梨一つ、柿一つ、芋の茎一つ、小物一つ、かち豆腐一つ、大根一つ、柚子一つ、芹一つ、稲二把、門客神の御前に一つ、荒薦一枚づつ。頭役の概略は、以上のとおりである。

 この頭文作成以前の、さらに細々としたことは記載しておりませんので、くれぐれも、社人らが各々談合してお祭りを勤めなければならないという。

 

 「注釈」

「頭役」

 ─宮座で、神事舗設の責任者を当座・頭人・頭・頭屋といい、その役を頭役という。頭役遂行に伴う費用を番役として荘内の名田に均等に負担させたところもある(『古文書古記録語辞典』)。以下にあらわれる「大とう(頭)」は「中心的な頭役」、「わきのとう(脇の頭)」は「補佐的な頭役」のことと考えられます。

 

「かきとう」─未詳。

 

「散田」

 ─領主が、春時、請作農民に田を割り当てることをいう。したがって、その田を散田とも呼び、領主直属地の意ともなる。犯罪人や逃散百姓の耕地を領主が没収した場合、この田を散田と呼ぶ(『古文書古記録語辞典』)。

 

「横注連おろし」

 ─神社や頭屋に注連を張ることか(『ふるさと愛媛学』調査報告書、http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/9/view/1645)。

 

「友」─「供」の当て字、あるいは誤記か。

 

「祝師」

 ─「はふりし」。「祝(はふり)」のこと。神社に属して神に仕える職。また、その人。しばしば神主・禰宜と混同され、三者の総称としても用いられるが、区別する場合は、神主の指揮を受け、禰宜よりもより直接に神事の執行に当たる職をさすことが多い。その場合、神主よりは下位であるが、禰宜との上下関係は一定しない(『日本国語大辞典』)。その一方で、「ものもうし(物申)」と読んだ可能性もあります。意味は「祝詞などを奏すること」(『日本国語大辞典』)です。

 

「宮地頭」─未詳。祝師や神主のような神官とは異なり、俗人で社務に携わるものか。

 

「おりい」

 ─未詳。放生会で奉納される舞踊(獅子舞など)のようなものか。『久都内文書』2にも同じ表現があります(http://blog.hatena.ne.jp/syurihanndoku/syurihanndoku.hatenablog.com/edit?entry=8599973812296619080)。

 

「ふく水」─福水か。神に供える神聖な水か。

 

「したみ」

 ─枡(ます)やじょうごからしたたって溜まった酒。転じて、飲み残しや燗(かん)ざましの酒。したみ(『日本国語大辞典』)。

 

「ちんし」

 ─鎮子・鎮紙か。(「ちんじ」とも)調度品の一つ。室内の敷物・帷帳・掛軸などが風であおられたり、飛び散ったりしないようにおさえるおもし。風鎮や文鎮など。ちんす(『日本国語大辞典』)。

 

「黒米」

 ─もみを脱穀したままの米。精白してない米。玄米。生米(きごめ)。くろよね(『日本国語大辞典』)。

 

「厚紙」─鳥子紙の古名の事か(『日本国語大辞典』)。

 

「きりぬき」

 ─切幣・切麻(きりぬさ)の誤字か。麻または紙と榊(さかき)の葉とを細かに切って、米とかきまぜ、神前にまき散らすもの。神前をはらい清めるために使う。切木綿(きりゆう)。小幣(こぬさ)(『日本国語大辞典』)。

 

「預」

 ─①10〜11世紀ごろ、荘園現地で荘務をつかさどる者、荘預。荘検校・荘別当につぐ荘官の一種。預は平安末期には見られなくなる。②官職としての預は、太政官文殿・太政官厨家・後院庁・院庁・侍従所・進物所・御書所・一本御書所・作物所・画所・供御所・贄所・御厨子所・酒殿・氷室・穀倉院などに見られる。また、国司が校班田を行う場合、造班図預が置かれた。③神社の社務を管掌するもの。九世紀から平野社で見られ、寺院では10世紀から見られる(『古文書古記録語辞典』)。今回は、③に当たるか。

 

「かねあしく」─未詳。「かねあ」(未詳)を敷く、という意味か。

 

「のり」

 ─未詳。祝詞(のりと)の「のり」(宣ふ)と考えれば、神の託宣を聞く神事を意味したのかもしれません。

 

「有増」─「あらまし」の当て字か。