解題
詞書と絵を交互に描いた縁起上下二巻があり、この寺の由来を述べている。小野篁にゆかりのある真言宗の古刹である。
竹林寺子院の一乾蔵房の本尊であった地蔵菩薩半跏像の胎内には建武五年(1338)造立になる旨の墨書がある。また、本堂の須弥壇内の板には天文十四年(1545)造立の墨書があり、ともに付録(1180頁)に収めた。
現河内町入野。篁山山頂付近にあり、篁山と号し、真言宗御室派。本尊千手観音。寺蔵の紙本著色竹林寺縁起絵巻(室町時代の作、県指定重要文化財)によると、入野郷に奇瑞を現す山があり、天平二年(730)夏、行基がこの山を訪れ、山上の光り輝く桜樹で千手観音を刻んで本尊とし、桜山花王寺を建立したという。この縁起はおもに上巻は当寺の申し子という小野篁の伝、下巻は篁の冥府勤仕の話からなり、寺号の縁由を小野篁に結びつけている。矛盾するところも多いが、応安四年(1371)今川了俊の記した「道ゆきぶり」に「安芸国沼田の里を越えて、入野といふ山里を通り侍るに、此所は、昔小野篁の故郷とて、やがて篁とも小野とも申侍るとかや、大なる山寺あり」と記し、篁生誕との伝説があったことが知られる。
境内には本堂(国指定重要文化財)・護摩堂・十王堂・鐘楼・宝蔵・庫裏などがあり、北の中河内側からの参道もある。入野(にゅうの)に乾蔵坊・小野寺・南光坊・満願寺、中河内に甘露寺などの子院があったが、今は小堂などを残す。乾蔵坊の本尊と伝える木造地蔵菩薩半跏像(県指定重要文化財)の胎内墨書銘に「建武五年戊寅六月日、大願主知心敬白」とあり、本堂須弥壇内面墨書銘乃美村には「天文拾四年乙巳八月三日」とある。本堂前庭にある七重石塔は享禄三年(1530)、供養碑は永正十一年(1514)の刻銘があり、名井光叶の造立。また当寺の三重塔は、現在東京都の椿山荘へ移されている。本堂南西のやや小高い場所にある鐘楼付近からの眺望は広大で、西は西条盆地、東は沼田川河口、南は瀬戸内海の島々や四国山地を遠望できる。
*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字は常用漢字で記載し、割書は〈 〉で記載しました。本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。なお、森下要治監修・解説『篁山竹林寺縁起』(広島大学デジタルミュージアム・デジタル郷土図書館、http://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/portal/dc/kyodo/chikurinji/top.html)に、竹林寺や縁起絵巻の情報が詳細に紹介されています。書き下し文や解釈はこれを参照しながら作成してみましたが、わからないところが多いです。
大日本国芸州豊田郡入野郷篁山竹林寺之縁起事
ハ ノ ト ノ トリノコホリイエ ノコウノ
抑当寺者行基菩薩建立也、彼薩埵者和泉国大 鳥 縣 家 原 郷 人也、氏者高志
(マ丶) ホウ レ チ ノ テ
也矣、仁皇三十九代天智天皇御宇白鳳八年〈戊寅〉再誕給、是則文殊大士化身也、於
シ ヲ シ ケウ ヲ ス ト ハ シ テ ヲ タテ ヲ
十五歳為出家、而紹隆為レ業、済度為レ心矣、然則諸国往来、而開二霊地一而隆二伽藍一、
キサンテ スルコト ト ソ チ クニヲ ニ テ メ ヲ リ
刻二仏像一而 為二本尊一、凡四十九ヶ処也、分二刻於六十余州一、始而定二田数一作二
ヲ テ ヲ シメシ ノ ヲ □
行路一、別二九重一而示二王城之地一、祈二祷四海泰平 一天静謐 国土安穏 風雨
ノ ヲ コヽニ ノコホリ ニ リ ノ リ ノ テン ヨナヽヽ ツ
順時 五穀成𤎼旨一矣、玆頃芸州豊田郡入野郷有二一山一、自二其絶巓一夜々 放レ
ヲ ヒヽニ アマクタル トモ コレヲ シ ルコト □ ヲ コヽニ ノ
光、日々紫雲降矣、諸人雖レ令レ怪レ之 無レ知 其由、爰仁皇四十五代聖武天皇
御宇天平正暦二年〈庚午〉中夏之比、行基攀二登彼山峯一而 四方 為レ躰 窃
ヲモンミレ ハ ノミネ ク テ メヲク ノ ヲ ク モ ツト ヲ
以、 東西北大慈之嶺 高廻而留二十五種之善水一、白雲遠雖レ隔二四十由旬一、
ソウテンヨウヽヽトシテ ノ カヒ ニ ハ タニ ク チテ ノ ヲ
蒼天杳々矣、 三辰之影浮二玉池一、南大悲渓深落而流十五種之悪水一、青山
ハルカニ モ ト ヲ エンカイマンマントシテ ヲ ル ニ ノ ニ シ
遥 雖レ隔七十余里一、遠海漫漫矣、 普陀落見二眼前一、独一法界故無二
ニ ノ ニ コモヽヽ ヲ ニ レ ココニ リ
続於余山一、森羅万象故 交二万木枝一、誠是希代不思儀之勝地也、加レ之爰 在二
ナル サクラノ ンテ タ ニ ラソナフ ヲ ハ ヲ
大 桜樹一、及二 枝一千一而自備二仏形一、風鳴レ梢者有二慈眼視衆生福聚海無量
キ コレ キニ ノ ツ ヲ モノナリ ニ スイエンノ ノ ヲホヘ ヘル
之響一、玆則先 所レ放二光一於物、 誠法性随縁姿、真如実相理、新覚 侍、
(絵1)
チ (菩薩)ハ テ サクラキヲ ン ト カラ □ウコクシ ノ ヲ
則行基 𦬇 取二彼桜木一 為二御衣木一、自 彫二刻 千手尊容一、而造二立一宇
ヲ ケテ シ □ウ ト フ ノ ヲ
精舎一、名 号二桜山花王寺一、述二供養済会一、令法久住利益人天乃至衆生無辺、
レ
誓願度煩悩無辺、誓願断法門無尽、誓願覚無上菩提、誓願証等之祈念深矣、従レ尓
コノカタ ノ ヘ ヲツキ ヲ ツラネ ヲ シ キ
以来坐禅称名僧庵並レ軒継レ踵、人天陣レ華貴賤成レ市昼夜之参詣不レ怠、無レ
ルコト セ ヲノヽヽノ ウ
不レ 為二各各 願望成就一者也、
(絵2)
つづく
「書き下し文」
大日本国芸州豊田郡入野郷篁山竹林寺の縁起の事
抑も当寺は行基菩薩の建立なり、彼の薩埵とは和泉国大鳥縣家原郷の人なり、氏は高志なり、仁皇三十九代天智天皇御宇白鳳八年〈戊寅〉に再び誕まれ給ふ、是れ則ち文殊大士の化身なり、十五歳に於いて出家を為し、紹隆を業と為(し)、済度を心と為す、然れば則ち諸国往来し、霊地を開きて伽藍を降て、仏像を刻んで本尊と為(す)ること、凡そ四十九ヶ処なり、刻を六十余州に分かち、始めて田数を定め行路を作り、九重を別ちて王城の地を示し、四海泰平・一天静謐・国土安穏・風雨順時・五穀成熟の旨を祈祷す、茲の頃芸州豊田郡入野郷に一つの山有り、其の絶巓より夜な夜な光を放つ、日々紫雲降る、諸人之を怪しましむと雖も其の由を知ること無し、爰に人皇四十五代聖武天皇の御宇天平正暦二年〈庚午〉仲夏の比、行基彼の山の峯に攀ぢ登りて四方の為体を窃かに以れ、東西北は大慈の嶺高く廻りて十五種の善水を留めおく、白雲遠く四十由旬を隔つと雖も、蒼天杳々として、三辰の影玉池に浮かび、南は大悲の渓深く落ちて十五種の悪水を流す、青山遥かに七十余里を隔つと雖も、遠海漫漫として補陀落を眼前に見る、独一法界の故に余山に続くこと無し、森羅万象の故に万木枝を交々、誠に是れ希代不思議の勝地なり、しかのみならず爰に大なる桜の樹在り、枝一千に及んで自ら仏形を備ふ、風梢を鳴らすは慈眼視衆生・福聚海無量の響き有り、茲れ則ち先に光を放つ所の物なり、誠に法性随縁の姿、真如実相の理、新たに覚え侍る、
(絵1)
則ち行基菩薩は彼の桜木を取りて御衣木と為し、自ら千手の尊容を彫刻し、一宇の精舎を造立す、名づけて桜山花王寺と号し、供養の斎会を述ぶ、令法久住・利益人天、乃至衆生無辺誓願度・煩悩無辺誓願断・法門無尽誓願覚・無上菩提誓願証等の祈念深し、尓れより以来坐禅称名の草庵軒を並べ踵を継ぎ、人天華を陣ね貴賤市を成し昼夜の参詣怠らず、各々の願望成就為(せ)ざること無き者なり、
(絵2)
つづく
「解釈」
大日本国芸州豊田郡入野郷篁山竹林寺の縁起のこと。
そもそもこの竹林寺は、行基菩薩が建立した寺である。この菩薩とは、和泉国大鳥郡家原郷の人である。氏は高志である。人皇四十代(カ)天武天皇の御代、白鳳八年〈戊寅〉に再びご誕生になった。この人は文殊菩薩の化身である。十五歳で出家し、仏法を継承して盛んにすることを仕事とし、人々を迷いの苦しみから救って悟りの境地へ導くことを重んじていた。だから諸国を往来し、霊場を開創し伽藍を建て、仏像を刻んで本尊としたところは、およそ四十九ヶ所である。日本を六十余州に分け、始めて田数を定め道路を作り、皇居を区画し王城の領域を示し、天下泰平・天下静謐・国土安穏・風雨順時・五穀成熟を祈願した。この頃、安芸国豊田郡入野郷に一つの山があった。その山の頂上から夜ごと光が放たれ、毎日紫雲がたなびいていた。さまざまな人々がこのことを怪しんでいたが、その理由はわからなかった。人皇四十五代聖武天皇の御代天平正暦二年〈庚午〉(730)五月ころ、行基はこの山の頂上によじ登り、四方の様子を密かに見て思いを巡らせた。この山の東・西・北には、仏の慈愛を表す嶺が高く聳え廻っており、十五種のすばらしい水を留め置いていた。白雲は遠く四十由旬(約400km)も隔たっていたが、大空は遥か遠く、太陽・月・北斗星の光が玉池に浮かび、南は仏の慈悲を表す渓谷が深く削れ落ちて、十五種の汚れたを排出している。青々とした山は遥か遠く七十余里を隔てているが、陸地から遠く離れた海は果てしなく広々として、補陀落が眼前に見えた。(この桜山は、)唯一の実相であるから、他の山に連なることはなく、宇宙に存在する一切のものでもあるから、多くの木々の枝が交わっている。本当に世にもまれな思いはかることもできない優れた地である。そればかりでなく、ここに大きな桜の木があった。枝は千にも及び、ひとりでに仏の形を備えていた。風が吹いて梢を鳴らす音には、観音菩薩が慈悲の目で一切衆生を平等に見て、その恵みが広大であるという響きがあった。これこそが先に光を放ったものであった。本当に、真理がさまざまな縁にしたがって生じるという様相や、永久不変で平等無差別という諸事・諸現象の真相を新たに悟りました。
(絵1)
そこで行基菩薩はこの桜の木をとって御衣木とし、自身で千手観音のお姿に彫刻し、一宇の寺院を建立した。名づけて桜山花王寺と称し、供養の斎会を勤めた。法華経が永久に伝えられていくようにすることや、人間界と天上界の幸せをはじめとして、一切の衆生を救おうとすること、果てしない煩悩を絶とうとすること、尽きることのないほど広大な法の教えを悟ろうとすること、無上の悟りに達しようとすることなどまで、祈念の思いは深い。これ以来、座禅や称名念仏の僧庵が次々と軒を連ね、人間や天人が花を供え、身分の高い人や低い人がたくさん集まり、昼夜を問わず参詣が止まることはなかった。それぞれの願望はすべて成就したのである。
(絵2)
つづく
「注釈」
「行基」
─668─749(天智7─天平勝宝1)。奈良前半期の高僧。河内(のち和泉)国出身。父は百済系渡来人の高志才智(こしのさいち)、母は蜂田古爾比売(こにひめ)。はじめ官大寺で修行したが、民間布教を行ったため国家の弾圧をうけた。三世一身法の発布とともに、灌漑施設の造営と説教を結びつける特色ある運動を行い、広い支持を集めた。その活動は1175(安元1)泉高父宿禰(いずみのたかのりのすくね)著の『行基年譜』にくわしい。東大寺の大仏造営に協力し、745(天平17)大僧正となった(『角川新版日本史辞典』)。
「天智天皇」
─第四十代天武天皇の誤りか。〈戊寅〉は678年(天武天皇7)になります。
「斎会」
─①衆僧に斎食を供養する法会。②神をまつること。神を祭祀する儀式(『日本国語大辞典』)。
*「四弘誓願」について
仏語。すべての仏や菩薩が共通して持っている四個の誓願。衆生無辺誓願度・煩悩無量誓願断・法門無尽誓願学(または知)・仏道無上誓願成の総称。総願。しぐうぜいがん(『日本国語大辞典』)。「衆生無辺誓願度」は「仏語。菩薩が起こす四種の誓願の一つ。一切の衆生を済度しようとする誓い」(『同上』)、「煩悩無量誓願断」は「計り知れない煩悩を滅しようという」(「四弘誓願」『大辞林』)誓い、「法門無尽誓願学」は「尽きることのないほど広大な法の教えを学びとろうという」(『同上』)誓い、「仏道無上誓願成」は「無上の悟りに達したいという」(『同上』)誓い。
『web版 新纂浄土宗大辞典』(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/四弘誓願)によると、大乗仏教の菩薩が初発心時に必ず立てなければならない四つの誓いのこと。①すべての衆生を救おう(度)、②すべての煩悩を断とう(断)、③すべての教えを学ぼう(知)、④この上ない悟りを得よう(証)、という四つの根本的な誓いを言う。「しぐせいがん」とも。菩薩が各自の個性に合わせて立てる個別の誓願(別願)に対し、これはすべての菩薩に共通しているので「総願」とも呼ばれる。だが、この四弘誓願の起源は必ずしも明らかではない。(中略)浄土宗の日常勤行式に見られる「衆生無辺誓願度煩悩無辺誓願断法門無尽誓願知無上菩提誓願証」という表現の起源は、智顗の『釈禅波羅蜜次第法門』や、智顗の説を門人の灌頂が記した『摩訶止観』に求められるが、智顗はこの四つを以て「四弘誓」の内容と考えていたわけではなく、この両者を結びつけて考えたのは天台の灌頂であろうと考えられている。浄土宗日常勤行式の「総願偈」は、『往生要集』において源信が「四弘おわってのちに、自他法界同利益・共生極楽成仏道というべし」(浄全一五・七〇下/正蔵八四・四九上)と記している文を加えて成立した。
今回の史料の表記は、浄土宗の「総願偈」に最も似ています。ただし、「法門無尽誓願覚」と「法門無尽誓願知」の違いはあります。竹林寺は現在、真言宗ということになっていますが、この縁起が作成された時代には天台宗や浄土宗の影響が強かったのか、浄土信仰・念仏信仰に傾倒した僧侶が縁起を作成したのかもしれません。