周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史2─8 〜遺恨からの放火、そして自殺〜

 寛元二年(一二四四)四月日付ヵ奈良坂非人等陳状『春日大社文書』

  (『部落史史料選集』第1巻、古代・中世篇、部落問題研究所、1988年、

   127〜139頁、『鎌倉遺文』6316号文書)

 

   (前略)

 一法仏法師令教訓申兄近江法師大田様、豆山一乗院僧正御房之御領也、又真土

  宿御領也、背本寺籠居豆山之張本者、始終不可答令申之処、近江法師以

  法仏法師之教訓之詞清水坂之長吏尓申合須留尓清水坂之長吏聞此由、為令討

  法仏法師紀伊国山口宿打手之使下遣甲斐、摂津法師二人之処、真立宿近江

  法師為誘出、法仏法師申様、山口宿之二﨟蓮向法師之所労、今者万死一生也、

  訪行也、同相具志可訪誘出法仏法師之刻、去仁治二年七月九日酉剋罷付

  山口宿之処、清水坂之長吏之所下遣打手之使甲斐・摂津法師、待請法仏法師、

  弟子大和法師二人討之畢、於法仏之妻子二人者、同日申時近江法師太郎子

  淡路法師申置、於真土宿妻子二人殺害了、如此乍殺害四人之輩、於法仏法師

  者自害之由申之、自法仏以前尓被被殺害妻子二人之意、察之、於置妻子者、法仏

  殺害之後可為敵人也、以殺害妻子者法仏之殺害勿論也、自害之由申造意顕然也、

           (云脱)

  誤者為誤是正也云云、殺害云謀略争可遁罪科哉、

 一法仏法師、妻子等令殺害之事者、七月九日也、若狭法師呼取事者、法仏殺害之後

  十一日後事也、而若狭法師之白状尋問之処、法仏巻舌自害畢云云、此条前後

  相違也、然者自害之由申顕然之謀略也、

   (中略)

 一打入清水坂非人等之住屋、付火、不如思者入炎之中可亡身命之由、奈良坂

  之非人等結構之由令申之状、濫吸之訴訟、奏事不実罪科責而有余者乎、彼等之

  申状、無実虚誕之企、以之可有御𨗈迹、放火当波、依何不当可思寄哉、増申哉

  亡身命思切良牟程之事者、何事之意趣、何事之不審有之哉、自清水坂志天奈良坂

  之為、佐程懸火企自害程之遺恨無之、依何事如然之猛悪於波可思立哉、就中

  公私門々家々神社仏事堂舎塔廟便宜之炎上、縦雖為非人争又不顧逆罪哉、但、

     (存)

  非人之不亡一事申事候欤、其依時折節、昔事気留欤、四海之静謐者所仰

  也、諸方之哀憐者所慕也、依之無為無事尓志天、於彼等猛悪者仰 上裁之処、罷負

  放火結構之訴訟之条、非人等恐怖之思寤寐不穏、凡当代正直憲法狼藉禁罸、

   (後略)

 

 「書き下し文」

 一、法仏法師、兄の近江法師大田に教訓申せしむるの様、豆山と申すに一乗院僧正御房の御領なり。また、真土の宿と申すに同じき御領なり。本寺に背いて、豆山の籠居の張本は、始終、答うべからずと申せしむるの処、近江法師は法仏法師の教訓の詞をもって、清水坂の長吏に申し合わするに、清水坂の長吏この由を聞き、法仏法師を打たしめんが為に、紀伊の国の山口の宿え打手の使いに、甲斐・摂津法師二人を下し遣わすの処に、真土の宿の近江法師は誘いださんが為に、法仏法師に申す様、「山口の宿の二﨟蓮向法師の所労、今は万死に一生なり。訪いに行くなり。同じく相具して訪うべし」と申して、法仏法師を誘い出すの刻、去る仁治二年七月九日酉剋山口の宿に罷り付くの処、清水坂の長吏の下し遣わす所の打手の使甲斐・摂津法師、法仏法師・弟子大和法師二人を待ち請けて、これを討ち畢んぬ。法仏の妻子二人においては、同じき日申の時に近江法師太郎の子淡路法師に申し置きて、真土の宿のおいて妻子二人を殺害し了んぬ、かくの如く、四人の輩を殺害しながら、法仏法師においては自害の由、これを申す。法仏より以前に妻子二人を殺害せらるるの意、これを察するに、妻子を置くにおいては、法仏殺害の後、敵人たるべきなり。妻子を殺害するをもってすれば、法仏の殺害は勿論なり、自害の由申すは、造意、顕然なり。誤りは誤りとなす。これ正しきなり、と云々。殺害(と云い)、謀略と云い、いかでか罪科を遁るべけんや。

   (紙継ぎ目 この間文章接続)

 一、法仏法師、妻子等を殺害せしむるの事は、七月九日なり。若狭法師を呼び取るの事が法仏殺害の後十一日の事なり。しかるに若狭法師の白状尋ね問うの処、「法仏は舌を巻き自害し畢んぬ」と云々。この条、前後相違なり。しかれば自害の由申すは顕然の謀略なり。

   (中略)

 一、清水坂に打ち入りて、非人等の住屋に火を付けて、不如思の者、炎の中に入れて身命を亡ぼすべきの由、奈良坂の非人等、結構の由、申せしむるの条、濫吹の訴訟、奏事不実の罪科、責めて余りあるものか。彼等の申し状、無実虚誕の企て、これをもって、御𨗈迹あるべし。放火とは、何により、不当に思い寄るべけんや。増して申さんや、身命を亡ぼさんと思い切らむ程の事は。何事の意趣、何事の不審、これあらんや。清水坂よりして、奈良坂の為にさほどに火を懸けて、自害を企てる程の遺恨、これなし。何事によりて、しかる如きの猛悪おば思い立つべけんや。就中、公私の門々、家々、神社、仏事、堂舎、塔廟、便宜の炎上、たとえ非人たりと雖も、いかでかまた、逆罪を顧みざらんや。但し、非人の存亡の一事と申す事も候か。それも時の折節により、昔の事に候いけるか。四海の静謐は仰ぐ所なり。諸方の哀憐は慕う所なり。これにより無為無事にして、彼等の猛悪においては、上裁を仰ぐの処、放火結構の訴訟を罷負の条、非人等、恐怖の思い、寤寐、隠れず。凡そ、当代正直の憲法、狼藉禁罰。

   (後略)

 

*原文・書き下し文は、前掲『部落史史料選集』を引用しました。

 

 「解釈」

 一つ。法仏法師(北山宿派)が、兄の近江法師(真土宿の長吏・清水坂派)の大田に戒めて申し上げるには、豆山(奈良坂の末宿)と申す宿は、一乗院僧正御房の所領である。また、真土宿と申すところも、同じ一乗院領である。興福寺北山宿に背いて、豆山宿に立て籠もった張本人の浄徳法師(清水坂派)は、終始、返答するつもりはないと申し上げた。そうしたところ、近江法師は弟の法仏法師の戒めの言葉を聞き、清水坂の長吏に相談し申し上げたところ、清水坂の長吏はこの事情を聞き、法仏法師を討伐したいがために、紀伊国の山口宿へ打手の使者として、甲斐法師・摂津法師の二人を派遣した。すると、真土宿の近江法師は法仏法師を誘い出したいがために、法仏法師に申すには、「山口宿の二﨟蓮向法師は病気で、今のところかろうじて生き延びている。見舞いに行くのである。一緒に見舞おう」と申して、法仏法師を誘い出した。去る仁治二年(1241)七月九日酉の刻に、法仏法師と弟子の大和法師が山口宿に到着したところ、清水坂の長吏が派遣した打手の使者甲斐法師と摂津法師は、彼ら二人を待ち受けて、これを討ち取った。法仏の妻子二人については、近江法師は同じ日の申の刻に長男淡路法師に申し残して、真土宿で妻子二人を殺害した。このように、四人の仲間を殺害しながら、法仏については自害した、と清水坂方は申し上げた。法仏よりも前に妻子二人を殺害した意図を推察すると、妻子を生かしておいては、法仏殺害の後に、清水坂方の敵となるはずである。妻子を殺害したのだから、法仏を殺害したことは言うまでもないことである。自害したと申すのは、清水坂派のつくりごとであることは明らかである。間違いは間違いとする。これこそが正しい判断である、という。殺害も謀略も、どうして罪を逃れることができようか、いやできるはずはない。

 一つ。法仏法師やその妻子らを殺害したのは、七月九日のことである。若狭法師を呼び寄せたのは、法仏殺害後の七月十一日のことである。ところが、若狭法師を尋問したところ、「法仏は何も言わずに自害した」という。このことは、順序が逆である。だから、法仏が自害したというのは、明らかな謀略である。

   (中略)

 一つ。清水坂に討ち入って、非人たちの住居に火を付け、思いどおりにならない者を炎の中に入れて、その身命を亡ぼうそうとしたことは、奈良坂の非人らが企てたことだ、と清水坂方が申したことは、不当な訴訟で、虚偽を奏上する罪であり、どんなに糾弾しても十分ではないだろう。彼ら清水坂の申状は、事実無根の虚偽の企てであり、(幕府は)これによって事件の真相をご推察ください。放火とは、どういう理由で、道理に背いて考えつくだろうか、いや考えつくはずがない。まして、清水坂の非人らの身命を滅ぼそうと決意するほどのことを申しましょうか、いや申しはしない。どのような恨みや嫌疑があろうか、いやない。清水坂から訴えられるように、奈良坂として火を付けて自殺を企てるほどの遺恨はない。どういう理由で、このような乱暴な悪事を決心するだろうか、いやするはずはない。とりわけ、公的な建物や私的な家、門、寺社、堂舎、塔頭、霊廟、手紙などの炎上について、たとえ非人だとしても、どうしてこのような大罪を気に掛けないだろうか、いや気にかけるだろう。もしかしたら、我ら非人の存亡も、とるにたりない一つの出来事と申すにすぎないのでしょうか。それも問題にするまでもない過去の出来事にだというのでしょうか。天下の静謐は願うところである。あちこちからの憐れみは望んでいるところである。これによって無為無事で、清水坂の乱暴な悪事については、幕府の裁決を求めているが、放火謀略の訴訟を引き受けてしまったことについて、非人らの恐怖の思いは、寝ても覚めても消えることはない。そもそも現代の嘘やごまかしのない掟は、狼藉を禁止し罰している。

   (後略)

 

*解釈は、前掲『部落史史料選集』の頭注や、服部英雄「大和国北山非人宿をめぐる東大寺興福寺─奈良坂と般若坂」(『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社、2012年、156頁〜170頁)を参照しながら作成しました。

 

 

 「注釈」(以下、断らないかぎり、『部落史史料選集』の頭注を引用)

「大田」─近江法師と大田の関係、未勘(129頁、頭注26)。

「一乗院僧正」─興福寺の一乗院僧正。当時の一乗院門跡発心院御房実信(近衛基通

        息)をさすか。

「真土の宿」─大和と紀伊の国境、待乳山の付近にあった非人の宿(現在、和歌山県

       本市)(119頁、頭注30)。

「浄徳法師」─真土宿の長吏近江法師の聟。近江法師は浄徳法師に助成するために、興

       福寺北山宿に背いて、清水坂の末宿であると主張した(128頁)。

「山口の宿」─紀伊国那賀郡山崎荘にあった宿。現在の和歌山県那賀町清水坂の末宿

       (129頁、頭注29)。

「若狭法師」─摂津河辺郡。河尻小浜の宿の長吏。清水坂先の長吏の惣後見(130

       頁、頭注38)。

「舌を巻く」─①相手に言いこめられたり、威圧されたりして沈黙するさまをいう。②

       驚き、恐れ、また、感嘆してことばも出ないさまをいう。舌をまろが

       す。③巻き舌でいう(『精選版 日本国語大辞典』)。

「但、非人〜候気留欤」─この部分の解釈がまったくわかりませんでした。

 

 

*前掲服部英雄著書(160〜165頁)によると、今回の史料は、「賤視された人々が自ら執筆した世界最古の相論(争論)文書」として、非常に有名なものだそうです。相論の経緯については煩雑になるので詳しい説明は避けますが、この研究を参考にしながら、まずは史料の位置づけを説明しておきます。この史料が作成された当時、京都・清水坂(末宿)と奈良・奈良坂(本宿)の非人は、利権をめぐって争っていました。訴人は清水坂で、論人は奈良坂でした。残念ながら清水坂の訴状は残っていませんが、奈良坂側の主張がわかる陳状は都合4通残っており、3番目にしたためられた陳状がこの史料です。

 さて、今回示した1・2条目によると、仁治二年(1241)、真土宿が清水坂の働きかけによってその末宿とされたことがわかります。真土宿の長吏近江法師は、清水坂の新しい長吏と連携してこの動きを推進したのですが、弟の法仏法師は奈良坂宿に加担していたため、紀伊国山口宿(那賀郡)に誘き出されて、清水坂長吏の使者である甲斐法師と摂津法師によって、法仏法師と弟子の大和法師は殺害されました。また、法仏の妻子は近江法師によって殺害されたようです。このように、奈良坂側は清水坂側が法仏らを殺害したと訴えているのですが、清水坂側は法仏が自殺したと主張しています。

 また、3条目によると、寛元二年(1244)ごろに奈良坂非人が清水に討ち入り、再度の攻撃により清水坂非人在家は放火され、延焼により清水周辺の寺家堂塔が焼けたということがわかります。

 さて、今回の史料では、自殺の記事が3箇所出てきています。1つ目は、法仏法師の「自害」論争です。前述のように、1・2条目の清水坂側の主張によると、法仏は自殺したことになっていますが、奈良坂側の主張では、清水坂側に殺害されてことになっています。清水坂側の訴状が残っていないのではっきりしませんが、奈良坂側の陳状から判断すると、今回の事件で殺害されたのは、法仏法師・その妻子二人・法仏の弟子、以上4人です。ところが、清水坂側は法仏法師の殺害だけを認めず、自殺したと主張しているのです。かりに、清水坂側が殺害の罪を逃れたいのであれば、4人全員が自殺したと主張すればよいはずです。どうして法仏以外の3人については、自殺したと主張しなかったのでしょうか。ひょっとすると、本当に法仏だけは自殺したのかもしれません。これ以上の情報は読み取れないので、法仏の自害の当否については、疑問のまま残しておくことにします。

 2つ目は、3条目の「自清水坂志天奈良坂之為、佐程懸火企自害程之遺恨無之」という主張です。よくわからないところもありますが、「清水坂から訴えられるように、奈良坂として火を付けて自殺を企てるほどの遺恨はない」という解釈になると思います。この自殺は、「法仏の自害」を指すのか、今回の放火事件と連動した別人の自殺なのか、よくわかりません。ですが、この表現から、中世では「遺恨」があれば、「敵対者の家に火を付け」、そのまま「自殺する」ことがあると考えられていたようです。「遺恨」を引き金にして(原因動機として)、自殺に至る。これが自殺パターンの1つとして、人々に認識されていたことだけは間違いなさそうです。