*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字は常用漢字で記載し、割書は〈 〉で記載しました。本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。なお、森下要治監修・解説『篁山竹林寺縁起』(広島大学デジタルミュージアム・デジタル郷土図書館、http://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/portal/dc/kyodo/chikurinji/top.html)に、竹林寺や縁起絵巻の情報が詳細に紹介されています。書き下し文や解釈はこれを参照しながら作成してみましたが、わからないところが多いです。
ニ □ ヒ ヒ ニテ レ ノ ニ ル ホノメク(火偏+酉) ニ
終学徒等思々装束而被二随従一、件日可レ有二聟入一■ 処、
リ ニ ヲ ノ ノ チ ハナヤカナレハ ノ ハ
自二関白殿一御車並随兵騎馬等給而テ其日出立 聲 花、 見物之輩
シ フ ハ シト ノ ハ イヽ ル リ ソ リ
驚レ目、及レ聞人無二才芸程之宝一云不二浦山一無レ人鳬、
(絵11)
ル テ ノ ト ニ ヲ ヒツキ エ玉フ ヒ ヲ ニ シ ニ
然間成二関白聟一、終其家相続 栄給、振二智弁一天一施二利益万民一、
ノ ヲ ス ノ ト ヘハ シ ニハ リ ト フ ト モ シテ ヒ シト
其名号二小野篁一、喩 昔唐土 在二相如云人一、雖二家貪位賤一、
テ ルニ ニ テ カ ト ニ テ ニ テ ヲ ルニ ノ ニ
能芸依レ勝レ他而成二王孫之聟一、而終入二長安城一、造レ賦奉二漢武帝一、
カト 玉テ ハタ シ シ ヲ エ ヲ シ フ マ ノ ハ テ ニ テ ノ ト
帝見レ之而太 歎、 任レ司与レ禄召仕、今日本篁依二申文一而成二関白之聟一、
ニ ノミカト ニ テ ヒ ヒ リ ヘリ
而終人皇五十二世帝嵯峨帝奉レ仕、位登二參議大夫一給、
(絵12)
キ ニ リ ト シテ ナニ ノナニ ヲ カク ト ネ リ レハ
或時天下有二無悪善云落書一、御門御二覧之一、何人何事 書哉御尋在鳬、
ミテ リ レハ ヲ ル モノ ソノ ハ クハ カリナント トヨミ
篁謹 承 是 君 奉二咒咀一者也、其故無二嵯峨一善 申儀也読
オホヘ ヘリ ス ノ ム ニ □ハ テ ニ ミ ハ テ ニ コヒ
覚 侍言上、其謂悪之宇サカト読也、千字文云、禍因レ悪積、 福縁レ善慶
ト ノ ヲ カト シ シ ノ ハ ス カ トテ ル
候云此意也、此之由帝 聞食、此落書非二余人之業一、汝之所業也可被二遠流一
リヌ テ ヨウハ テ ノ ヲ ヨミ□ト ク □ ヒ トモ ナニ リト リ ナン
定、篁重而申様、 以二才至一而読候、 全非レ犯縦非レ之何成 奉レ読候
ス ノ ミソノコヽロミニ シントアソハシテ
言上、其時君厥嘗 一伏三仰不来待書暗降雨恋筒寝 遊、
ニ ワル ミテ リ ミ ヲ ハ ノ ト シ ヘリ ニソ ハ
而篁賜、畏而 奉レ看二之一此恋歌也申侍、何様書給鳬、
津記与丹和 古怒飛登満多留 可幾久毛利、阿免毛不利南無 古井津□毛袮無
ス(綸) ヲ リ ト コト ル ト ト シ テ リ
読候言上、輪言云、一伏三仰雖有二月夜読一、知人希也、感給而其科被レ免鳬、
(絵13) ○以下、上巻末マデノ字ヤヽ時代下ルカ
コトモナク ミ コトモナク ル レハ シ ノ ニ ニ
如レ此不レ読 万読、不レ知 万知賢才成、 任二文章博士一、度々唐使
ル ス ニ テ ハ リ ン カ ニハ
渡、或時対二白楽一、白語云、篁雖レ為二才人一不レ及二李嶠知恵一云、于レ時即篁
シテ カ ノ ヲ ヨ ノ ヲ ス
気色悪敷、李嶠一期第一詩被レ出見申、其時此詩出、
タリ ノ タリ ノ ヲ ス ハ ニ テ
野草芳菲紅錦地 遊絲繚乱碧羅天 云詩出、篁レ見之我是三倍勝可レ作云々、
ニ リ ト テ ス ヲ ル ノ ニ ク
然者当座作給云、硯懐紙出、篁不レ移レ時詩作、其詩曰、
テハ ニ ヘシク シフ ハ ニ ス ト ク ハ チ ク テ ク ハニシキノ
着レ 野 展敷紅錦繍、当レ天遊織碧羅綾書、楽天口閇暫在云、是錦上加レ
ヌモノヲ ウスモノヽ フ アヤヲ スルコト テ ニ
繍、 羅 上加レ綾事神妙也、感 無レ限、其外於二唐朝一、名誉
ヲ ニ ヒ ヲ ニ ニ ノ テ
不レ知二数一、故振二才芸於和漢一、布二名望於天下一、希代不思儀仁也、斯送二
ヲ テ ニ ヒ リ
日月一、勝二世綺羅之人一其家栄給侍、
(絵14)
上巻畢、
つづく
「書き下し文」
終に学徒ら思ひ思ひの装束にて随従せられ、件の日に聟入り有るべきにホノメク処に関白殿より御車並びに随兵・騎馬等を給はりて其の日の出で立ち声花なれば、見物の輩は目を驚かし、聞くに及ぶ人は才芸ほどの宝は無しと云ひ浦山しからざる人ぞ無かりけり、
(絵11)
然る間関白の聟と成りて、終に其の家を相続ぎ栄え給ふ、智弁を一天に振るひ利益を万民に施し、其の名を小野篁と号す、喩へば昔唐土には相如と云ふ人と在り、家貧しくして位賤しと雖も、能芸他に勝るに依りて王孫の聟と成りて、終に長安城に入りて、賦を造りて漢の武帝に奉るに、帝之を見玉ひて太だ歎じ、司を任じ禄を与え召し仕ふ、今日本の篁は申文に依りて関白の聟と成りて、終に人皇五十二世の帝嵯峨帝に仕ひ奉りて、位参議大夫に登り給へり、
(絵12)
或る時天下に無悪善と云ふ落書有り、御門之を御覧じて、何人の何事を書くやと御尋ね在りければ、篁謹みて承り是れは君を咒詛し奉る者なり、其の故は嵯峨無くは善かりなんと申す儀なりと読み覚え侍りと言上す、其の謂れは悪の字をさがと読むなり、千字文に云く、禍は悪に因りて積み、福は善に縁りて慶び候ふと云ふ此の意なり、此の落書は余人の業に非ず、汝の所業なりとて遠流を被るべしと定まりぬ、篁重ねて申す様は、才の至りを以て読み候ふと、全く犯すに非ず縦ひ之に非ずとも何成りと読み奉り候ひなんと言上す、其の時君厥嘗みに一伏三仰不来待書暗降雨恋筒寝と遊ばして、篁に賜る、畏みて之を看奉り此は恋の歌なりと申し侍り、何様にぞ書き給ひけり、
つきよには こぬひとまたる かきくもり あめもふりなん こいつつもねんと読み候ふと言上す、綸言に曰く、一伏三仰を月夜と読むこと有りと雖も知る人希なりと、感じ給ひて其の科免れられけり、
(絵13) ○以下、上巻末マデノ字ヤヽ時代下ルカ
此くのごとくこともなく万読み、こともなく万知る賢才成れば、文章の博士に任じ度々唐使ひに渡る、或る時白楽に対す、白語りて云く、篁は才人たりと雖も李嶠が知恵には及ばざらんと云ふ、時に即ち篁気色悪しくして、李嶠が一期第一の詩を出だされよ、見申す、其の時此の詩を出だす、
野草芳菲たり紅錦の地遊糸繚乱たり碧羅の天 と云ふ詩を出だす、篁之を見我は是れに三倍勝りて作るべしと云々、然らば当座に作り給へと云ひて硯・懐紙を出だす、篁時を移さず詩を作る、其の詩に曰く、
野に著いては展へ敷けり紅錦繍、天に当つては遊織す碧羅綾と書く、楽天は口閇ち暫く在りて云く、是れは錦の上に繍を加へ、羅の上に綾を加ふる事神妙なり、感ずること限り無し、其の外唐朝に於いて名誉数を知らず、故に才芸を振るひ、名望を天下に布き、希代不思議の仁なり、斯くて日月を送り世の綺羅の人に勝りて其の家栄え給ひ侍り、
(絵14)
上巻畢んぬ、
つづく
「解釈」
結局、学徒らは思い思いの装束で随従させられ、予定の日に婿入りするはずだと、かすかに聞こえてきたところに、関白殿藤原良相から御車や随兵・騎馬などをいただき、その当日の出で立ち装いは華やかであったので、見物人らはたいそう驚いた。その様子を人づてに聞いた人は才芸ほどの宝はないと言い、羨ましくないと思う人はいなかった。
(絵11)
そうしているうちに、篁は関白の婿となり、とうとう良相家を相続し栄えなさった。才知と弁舌を天下に振るい、その恩恵を万民に施し、小野篁と名乗った。たとえば、昔中国に司馬相如という人がいた。家は貧しく位は低いけれど、才能や技芸は他の人よりも優れていたことで王孫の婿となり、とうとう長安城に入って、漢詩を作り漢の武帝に差し上げたところ、帝はこれをご覧になって、たいそう感嘆し、官職を任じ俸禄を与えて召し使った。いま日本の篁は、申文によって関白の婿となり、とうとう人皇五十二世の帝嵯峨天皇にお仕えし申し上げ、位は参議大夫にお昇りになった。
(絵12)
ある時、天下に「無悪善」という落書があった。嵯峨天皇はこれをご覧になって、誰が何事を書いたのかお尋ねになったので、篁は謹んで承り、「これは帝を呪詛し申し上げたものである。その理由は、『嵯峨天皇がいなければよいだろうに』と申していると読みました」と言上した。その理由は、悪の字を「さが」と読むからである。千字文に言うには、禍は悪行によって積み重なり、福は善行によって生じるという意味である。この説明を帝はお聞きになり、「この落書は他の人間の仕業ではなく、お前の仕業である」と言って、遠流に処されるはずだと決まった。篁は重ねて申すには、「学才をもって読み解きました。私が落書を書いたわけではなく、たとえこの文字でなくても、何なりと読んで差し上げましょう」と言上した。その時、帝は試みに「一伏三仰不来待書暗降雨恋筒寝」とお書きになって、篁にお与えになった。恐縮してこれを拝見し、これは恋の歌であると申しました。どのようにお書きになったのか。
「『こんなにいい月夜だと来ない人をしぜんに待ってしまう。空一面雲って雨がざあざあ降ってくれ。そしたら、私は悲観しながら寝ることとしよう』と読みます」と言上した。帝がおっしゃるには、「一伏三仰を月夜と読むことはあるけれど、それを知っている人は珍しいのである」と感嘆しなさって、その罪は許された。
(絵13) ○以下、上巻末マデノ字ヤヽ時代下ルカ
このように、わけもなくさまざまな言葉を読み、たやすくさまざまなことがわかる賢明な人物なので、篁を文章博士に任じ、彼はたびたび遣唐使として唐に渡った。ある時、白楽天に対面した。白楽天が語っていうには、「篁は才能ある人物であるが、李嶠の知恵には及ばないだろう」と言う。その時すぐに篁は機嫌を悪くして、「李嶠の一生で最高の詩を出してください、拝見しよう」(と言った)。その時、次の詩を出した。
「野にはいっぱいに春のかぐわしい花が咲いていて、あたかも紅の錦を敷きつめたようであり、空にはかげろうがゆらゆら揺れて、ちょうど深い緑色の薄絹を張ったようだ」という詩を出した。篁はこれを見て、「私はこれよりも三倍優れた詩を作ることができる」と言った。「それならばすぐに作ってください」と白楽天は言って、硯と懐紙を出した。篁はすぐに詩を作った。その詩には、
「春の野に目をめぐらすと、草花が咲き乱れて、紅の錦や刺繍をした布を繰り広げたようである。晴れた空を見上げると、かげろうが立ち上がって、緑の羅(うすぎぬ)や綾の織物をゆらめかせているようだ」と書いてあった。白楽天は口を閉じてしばらくして言うには、「これは、錦という言葉に、さらに刺繍という言葉を加え、羅という言葉に、さらに綾という言葉を加えたところがすばらしいのである」と。白楽天はこのうえなく感嘆した。その他にも唐王朝での名誉は数えられないほど多い。こういうわけで、篁は才能と技芸を発揮し、名声と人望を天下に広めた、珍しくも不思議な人物である。こうして月日を送り、世の中の権勢を握った人々にも勝って、その家はご繁栄になりました。
(絵14)
上巻終了。
つづく
「注釈」
「李嶠」
─李嶠については、山崎明「百二十詠詩注解題」(『斯道文庫論集』50、2015、385頁、http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00106199-20150000-0385)で、詳しく紹介されているので、そのまま引用しておきます。
李嶠は、字は巨山、趙州賛皇の人。十五にして五経に通じ二十にして進士に及第、制策甲科に擢科して監察御史等を歴任し、武則天の時に同鳳閣鸞台平章事、即ち宰相となった。後に鸞台侍郎に転じて修国史を兼任し、この頃に初唐期の一大類書である『三教珠英』一千三百巻の編纂を主導した。以後転任を重ねて一時貶されるが、再び宰相位である鳳閣鸞台平章事に返り咲いた。中宗が復位すると左遷されるも数月で中央に帰し、翌年同中書門下三品、即ち宰相となり、間もなく中書令に到った。その後には修文館の大学士を加えられ、趙国公に封ぜられた。晩年は睿宗の即位とともに懐州の刺史に下され、玄宗の治世には滁州の別駕や廬州の別駕に貶流されて、七十を以て卒した。生没年は未詳であるが、史料上は『旧唐書』玄宗紀の開元二年(七一四)三月条に李嶠を滁州の別駕に貶したと見えるのが下限であり、故に没年は当年か或いは翌三年、生年はこれに合わせて貞観十九年(六四五)か或いは翌二十年と推定される。(中略)(『百二十詠』は─筆者引用)本邦では平安初期までに将来され、盛唐以降に六朝的修辞が流行らなくなった漢土より反って歓迎され、『蒙求』『千字文』『和漢朗詠集』とともに所謂「四部ノ読書」の一として初学者必修の書となった。
「司馬相如」
─ ?─前118。前漢の文学者。字は長卿。成都(四川省)の人。梁の孝王のもとで鄒陽、枚乗らと交わる。帰郷後、卓王孫の娘と駆け落ちして結ばれた話は有名。「子虚の賦」が武帝の目にとまり、皇帝近侍の官となる。貴州・雲南地方の異民族政策で功を挙げるが、出世を願わず、「上林賦」「大人賦」など、韻文に才を発揮した(『角川世界史辞典』)。
「津記与〜毛袮無」
─この和歌の読みと解釈については、『古今和歌集』(日本古典文学全集、小学館、775首)を引用しました。
「野草芳〜碧羅天」
─この漢詩の書き下し文と解釈については、『和漢朗詠集』(新編日本古典文学全集、小学館、1999、27頁、劉禹錫)を引用しました。
「着野展〜羅綾書」
─この漢詩の書き下し文と解釈については、『和漢朗詠集』(新編日本古典文学全集、小学館、1999、28頁、小野篁)を引用しました。