*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字は常用漢字で記載し、割書は〈 〉で記載しました。本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。なお、森下要治監修・解説『篁山竹林寺縁起』(広島大学デジタルミュージアム・デジタル郷土図書館、http://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/portal/dc/kyodo/chikurinji/top.html)に、竹林寺や縁起絵巻の情報が詳細に紹介されています。書き下し文や解釈はこれを参照しながら作成してみましたが、わからないところが多いです。
チ ハキヽ キコト ヒ テ レ リ テ ヲヨフ ニ
即良相聞レ之難レ有 思、随レ教而被レ申鳬、依二名字呼功力一矣、
ノ ニ サレ シル ト リ ス トテ チ エ サレ ウツ リ
善札被レ注二大般若経云文字一鳬、然間発二大願一者也、則娑婆被レ移鳬、
ノ ヲ ヘ玉フ ヲツラヾヽ ルニ カ ノ ル ニ ノ ニ テ ク レハ レ モ
此由教給人 倩 見 我聟小野篁也、去程彼大王良相語曰、吾是雖レ
リ ノ ニ リニ ス メニハ モ ヲ センカ
為二第三冥官一、為二衆生済度一仮而為二再誕一、為二下万民於度一者、
ノ セン ヒ ヲ ム ト メニ ミ センカ チニ ヒ ヲ ル ニ
田舎之賤女結レ縁而定二悲母一、為二上一天於利一、汝結レ縁奉二主君仕一、
ノ ニハ テ シ ヲ ノ ニハ テ
依レ之昼夜三時覚遊、在二娑婆一而利二益一切衆生一、三時安寝、還二冥途一
ス ヲ カ シ タヽシ ヲ テ ストヘ モ□ リ
裁二断罪業之軽重一、吾悲願如レ此、只此事穴賢穴賢於二娑婆不レ可レ漏二語一
ク クシシ リ ニ フ ヨミガエリ
深約束仕鳬、不思儀所レ念如レ夢 蘇 畢、
(絵21)
カテ テ リ シテ ヲ シテ シト
軈而大般若経一部金泥奉二書写一而従二叡山一屈二請寂光大師一而為二導師一、
ヘ ヲ ヘリ ノ ニ ノ ノ シテ キ メテ テ
展二供養一給、其時小野篁彼寂光大師弁舌無窮矣才覚難レ有讃而作レ詩
ル ノ ニ
奉レ送、其句曰、
タチマチニ キ テ ス ス ヨリ ル ノ ニ ト ノ
明鏡乍 開随レ境照、白雲不レ着下レ山来云々、〈上句明鏡者、鏡上人智恵
カニシテ テ ノ ニ クコト ヲ テ ノ ル ノ ニ トハ ノ
明、 随二人境界一開二不審一、開二鏡箱一如レ顧□、下句白雲、彼上人
リ フニ モ ニ ナリト
自レ山下給、 雲不レ埋智恵明為云、〉
(絵22)
カヽリケル ニ サノ ニ テ ノ リ ヲ リ フ ノ ハ ノ
斯 鳬所良相嬉余姫君奉レ対、冥途在様物語給時、彼篁第三冥官也、
カ ル ヲロソカニ ヒ ノ ノ ノ
不レ可レ奉二 踈 思一云々、其後仁皇五十五代文徳天王御宇仁寿二年〈壬申〉
ノ ロ ニ テ ク コトニ ハ ニテハ ニテ スカト ヒ
初秋之比、姫君篁語曰、実 君冥途而宗帝王而御座歟 問奉、
ラ ノ ヲ コシメシ レ ノ ス ト 玉フ ノ ト ヒ ヘリ リ
篁此由聞食、 誰人申乎言、父大臣仰也答給侍鳬、
(絵23)
ノ ニ ノ ヒヲ レハ レ タリト ノ ニ ノ ク ス
其時小野篁思、 吾 是雖レ為二十天之大王一、為二度衆生一如レ此為二再誕一、
マヒヤシクモ ノ ト レン カリケル ノ トテ ヒ ノ チ ノ ヲ チ リ フ
今鄙 小国之臣謂事口惜鳬 物 哉、 齢五十一歳剋、則彼御所立去給、
ヒテ ニ ケ ス キ シ セケリ ハ クヽヽ ヒテ ヒ フ ヲ テニケヘリ
姫君騒而大臣告御座、可レ留奉由仰鳬、姫君泣々 続追給、東山指逃侍、
ヲタキ ノ ニテ ヲケハツテ ノ ニ リ ヌ ノ リ ニ ニ ハ キ ヘト
愛宕寺之前而大地蹴破而地底入畢、彼霊穴在二于今一矣、終姫君歎給
シテ リ ヘリ モ キシ リヲ シ ヘハ シ ノ リ コノカタ ノ ヲ
無二甲斐一帰侍、大臣過物語後悔給 無二其之由一、自レ其以降 彼所
ク ノ ト チ ノ ト シ エ ヘリ ル タ ノ □ テ ニ
名二六道之辻一、是則炎魔王宮上申伝侍、 尓間洛中諸人、七月盂蘭盆於二此処一
リ レルコト ス
祭来、 于レ今不レ絶也、
(絵24)
つづく
「書き下し文」
即ち良相は之を聞き有り難きことと思ひ、教へに随ひて申されけり、名字を呼ぶ功力によりて、善の札に大般若経と云ふ文字を注されけり、然る間大願を発する者とて、則ち娑婆へ移されけり、此の由を教へ給ふ人をつらつら見るに我が聟の小野篁なり、去る程に彼の大王良相に語りて曰く、吾れは是れ第三の冥官たりと雖も、衆生済度のために仮りに再誕す、下万民を度せんがためには、田舎の賤女縁を結び悲母と定む、上一天を利せんがために、汝に縁を結び主君に仕へ奉る、之により昼夜三時の覚遊には、娑婆に在りて一切衆生を利益し、三時の安寝には冥途に還りて罪業の軽重を裁断す、吾が悲願此くのごとし、只し此の事をあなかしこあなかしこ、娑婆に於いて漏れ語るべからずと深く約束し仕りけり、不思議に念ふ所夢のごとく蘇り畢んぬ、
(絵21)
軈て大般若経一部金泥を書写し奉りて叡山より寂光大師を屈請して導師と為して供養を展べ給へり、其の時に小野篁彼の寂光大師の弁舌無窮にして才覚有り難きを讃めて詩を作りて送り奉る、其の句に曰く、
明鏡乍ちに開き境に随ひて照らす、白雲着かず山より下り来たると云々、〈上の句に明鏡とは、鏡上人の智恵明らかにして、人の境界に随ひて不審を開くこと、鏡の箱を開きて顧みるがごとし、下の句に白雲とは、彼の上人山より下り給ふに、雲に埋もれざる智恵明らかなりと云ふ、〉
(絵22)
斯かりける所に良相嬉しさの余りに姫君に対し奉りて、冥途の在り様を語り給ふ時、彼の篁は第三の冥官なり、疎かに思ひ奉るべからずと云々、其の後仁皇五十五代文徳天皇の御宇仁寿二年〈壬申〉初秋の比、姫君篁に語りて曰く、実に君は冥途にては宗帝王にて御座すかと問ひ奉る、篁此の由を聞こし食し、誰人の申すかと言ひ玉ふ、父大臣の仰するなりと答へ給ひ侍りけり、
(絵23)
その時に小野篁の思ひを、吾れは是れ十天の大王たりと雖も、衆生を度せんがために此くのごとく再誕す、今鄙も小国の臣と謂れん事口惜しかりける物かなとて、齢五十一歳の剋、則ち彼の御所を立ち去り給ふ、姫君騒ひで大臣に告げ御座す、留め奉べき由仰せけり、姫君は泣く泣く続ひて追ひ給ふ、東山を指して逃げ侍り、愛宕寺の前にて大地を蹴破つて地の底に入り畢んぬ、彼の霊穴今に在り、終に姫君は歎き給へど甲斐無くして帰り侍り、大臣も過ぎし物語を後悔し給へば其の由無し、其れより以降彼の所を六道の辻と名づく、是れ則ち炎魔王宮の上と申し伝へ侍り、尓る間洛中の諸人、七月盂蘭盆此処に於いて祭り来たれること、今に絶えず、
(絵24)
つづく
「解釈」
そこで藤原良相はこれを聞き、ありがたいことだと思い、宗帝王の教えのとおりに申し上げなさった。名字を呼ぶ効力によって、善の札に大般若経という文字を記された。そうしている間に、大いなる願いを起こした者として、すぐに現世に戻された。この手立てを教えくださった人をよくよく見ると、自分の婿の小野篁であった。そうしているうちに、あの大王(宗帝王)が良相に語っていうには、「私は第三の冥官であるが、衆生済度のために、かりに現世に再誕し、下は民衆を悟りの境地に導くために、田舎の身分の低い女と縁を結んで慈悲深い母親と決めた。上は天下を救済するために、お前(良相)と縁を結び、主君としてお仕え申し上げた。これによって、昼夜の三時のうち目覚め活動しているときには、現世にいてすべての衆生を救済し、三時のうち安らかに眠っているときには、冥途に帰って罪業の軽重を裁決している。私の悲願はこのようなものだ。ただし、このことをけっして現世で語り漏らしてはならいと、かたく約束し申し上げた。不思議に思うことは夢であるかのようで、良相は蘇った。
(絵21)
すぐに金泥の大般若経一部を書写し申し上げ、比叡山から寂光大師円澄をお招きし、導師として法会を営みなさった。その時に小野篁はこの寂光大師の弁舌が止まることない様子と、才覚の素晴らしさを称賛して詩を作って送ってさしあげた。その句には、
導師の知恵は鏡のように曇りなく、匣を開けて鏡を取り出すとどんな所でも照らし出すように我々を導いてくれる。また、白雲が無心でとらわれないように、師は俗世の我々のために、あっさりと山を下りてきてくれた、という。〈上の句に明鏡とは、鏡上人(未詳)の知恵が曇りなく、人々の認識の対象にしたがって不審を明らかにすることは、まるで鏡の箱を開けてふり返るかのようだ、という意味だ。下の句の白雲とは、あの鏡上人が山から降りていらっしゃるときに、その知恵が雲に埋もれずにはっきり現れているという意味だ。〉
(絵22)
こうしていたところ、藤原良相は嬉しさのあまり姫君に対面し申し上げて、冥途のありさまをお話しになったとき、「あの篁は第三の冥官である。いいかげんに思い申し上げてはならない」と言った。その後、人皇五十五代文徳天皇の御代仁寿二年(852)〈壬申〉の初秋のころ、姫君が篁に語っていうには、「本当にあなた様は冥途では宗帝王でいらっしゃるのですか」と尋ね申し上げた。篁はこの話をお聞きになり、「誰が申したのか」とおっしゃった。「父大臣がおっしゃったのです」とご返答になりました。
(絵23)
そのとき、小野篁が思ったことには、「私は十王の一人であるが、衆生を救済するためにこのように現世に再誕した。いま、かりにも小国の臣下と言われるようなことが残念であるなあ」と言って、五十一歳のときに、自分の邸宅を立ち去りなさった。姫君は大騒ぎをして藤原良相大臣にお告げになった。良相は篁を留め申し上げよと仰せになった。姫君は泣きながらあとを追いなさった。篁は東山を目指して逃げていきました。愛宕寺(旧愛宕念仏寺)の前で大地を蹴破って地の底に入ってしまった。この神秘的な穴は今も残っている。結局のところ、姫君はお嘆きになったが、どうすることもできず帰りました。大臣も、以前に篁の秘密を語ったことを後悔しなさったが、どうしようもない。それ以来、その場所を六道の辻と名付けた。ここは閻魔王宮のちょうど上だと申し伝えておりました。そうしているうちに洛中の人々が七月の盂蘭盆をここで祭ってきた風習は、今も絶えていない。
(絵24)
つづく
「解釈」
「寂光大師」
─円澄。772─837 平安時代前期の天台宗の僧侶。宝亀三年(772)生まれる。俗姓は壬生氏、武蔵国埼玉郡の人。十八歳で鑑真の高弟道忠に従って、受戒し宝鏡行者と名づけられた。延暦十七年(798)二十七歳のとき叡山に登って最澄の門に入り、「澄」の一字を与えられて円澄と改名した。最澄が入唐すると同二十四年春円澄は詔によって紫宸殿で五仏頂法を修し、同年四月唐僧泰信大僧都に就いて具足戒を受けた。同年六月遣唐使とともに最澄が帰朝したので、八月高雄山寺において灌頂の秘法を修せしめ、九月にも桓武天皇のために同寺において毘盧遮那の秘法を修せしめたが、このとき円澄は南都の諸大徳とともに三摩耶戒(密教の戒)を受けた。大同元年(806)十一月叡山止観院で初めて円頓大戒を授けた際、戒を受けた者百余人の中で円澄が上首となった。同二年二月はじめて法華長講(期限をきらずに『法華経』を講讃する法会)を行なったとき円澄は最澄についで第二巻を講じ、翌三年三月の金光明長講のときも講師となった。弘仁八年(817)最澄から天台宗の奥旨を授けられ、この伝燈を永く絶たざるようにと告げられた。天長十年(833)天台座主に補せられ、寂光院・西塔院を創建した。かつて橘嘉智子皇太后に勧めて衲袈裟数百襲を唐の国清寺の大衆に施さしめたことがある。承和四年(837)十月二十六日高弟恵亮に遺命し、天台宗の深旨を入唐中の円仁に聴くように告げて、寂光院に寂した。年六十六。諡を寂光大師という。寂年は天長十年とする説(『続日本紀』『高野春秋』)もある(『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。
「明鏡乍〜下山来」
─「明鏡乍(たちま)ちに開けて境(きやう)に随つて照らす 白雲着かず山より(ヤマヲ)下(くだ)りて来(きた)る(オリキタル)」。この詩句は、小野篁の舅の右大臣清原夏野が金泥の『大般若経』を書写して供養した時、導師をつとめた寂光大師の説法に感激した篁が、大師の智徳を讃えて作ったものという(仮名注)。なお、篁の舅を藤原御守(三守)とするなど、この話には諸説がある(『和漢朗詠集』新編日本古典文学全集、小学館、1999年、318頁、小野篁)。
六道の辻 その1
六道の辻 その2
冥土通いの井戸(社の右側)