周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

楽音寺文書1

解題

 当寺は、沼田庄の開発領主であった沼田氏が創建した寺である。現在は真言宗であるが、応永以前は天台宗であった。この寺創建の事情を同寺縁起絵巻は次のように記している。沼田氏の先祖藤原倫実は承平天慶のころ安芸国に配流されていたが、藤原純友が乱を起こすや朱雀天皇から命をうけて純友の本拠地備前釜島を攻めることになった。その戦で倫実は髻の中にこめていた一寸二分の薬師像の霊言によって救われ、遂に純友を滅ぼした。このことを謝してこの像をまつるため当寺を建立したという。

 小早川氏が地頭として沼田庄へ入るのは源平争乱の直後で、沼田氏が平家についたのでこの庄が没官領となっていたのであろう。小早川氏が地頭として在地支配に当たるようになってからも下級荘官は沼田氏の系譜に連なる者が多く残存していた。

 地頭小早川氏はこの寺を沼田氏から引き継いで自らの氏寺とし、所領の寄進などを重ねている。小早川氏惣領家は鎌倉時代後期には独自の氏寺巨真山寺(米山寺)を建立するが、楽音寺はその後も小早川氏一門の崇敬を集め、室町時代にはことに竹原小早川氏歴代の厚い保護をうけている。当寺には宝治二年(1248)から慶長五年(1600)までの間、連続した五十八通の文書が残っており、当寺をめぐる領家・地頭・下級荘官などの動向を物語っている。

 楽音寺縁起絵巻と天正十三年(1585)の奥書のある江戸時代の楽音寺略縁起もあわせ収めた。

 

 「楽音寺」(『広島県の地名』平凡社より)

 豊田郡本郷町南方。楽音寺山南麓に位置し、真言宗御室派歓喜山法持院と号し、本尊薬師如来。弘安十一年(1288)四月十二日の関東下知状案(楽音寺文書)に天慶年中(938〜947)沼田庄本下司沼田氏の建立とみえる。沼田庄の中心寺院として二院十八坊を擁し勢力を振るった。もと天台宗で、室町時代初期に真言宗に改宗。楽音寺縁起絵巻によると、沼田の地に流されていた藤原倫実が、護持仏の一寸二分の薬師像の霊験で藤原純友を討ち沼田七郷を与えられたので、これを体内仏とした丈六の薬師像を造立、伽藍を建立して安置したのが楽音寺だという。楽音寺院主職は代々倫実の一族に相伝されていた(元弘三年八月日付「楽音寺院主良承申状」蟇沼寺文書)。しかし、建永年間(1206─07)以後、小早川氏が地頭として沼田庄に来住すると同氏の氏寺となった。その後小早川氏が、巨真山寺(のちの米山寺、現三原市)を新たに氏寺とするに伴い、当寺は小早川茂平の娘の梨子羽郷地頭尼浄蓮の肩入れで梨子羽郷地頭の氏寺化し、地頭尼は領家補任の院主を改易するほどの力を発揮した(正応五年正月日付「地頭尼浄蓮代浄円陳状」楽音寺文書)。鎌倉時代末期から寺務は中台院・法持院の両院が交代であたり、室町時代には竹原小早川氏が当寺の所務に関与している。

 楽音寺は沼田氏の時代から多くの免田をもち、小早川氏時代にはさらに寺領を拡大、当地方の一大勢力として在地に与える影響力も大きかった。正和三年(1314)五月十八日付一宮修正会勤行所作人注文(蟇沼寺文書)によると、当寺は一宮(現三原市の一宮豊田神社)の学頭職を兼ね、正月二日には社前で行われる修正会を執行した。この会には神名帳が読み上げられているが、これが法持院に伝来していた「安芸国神名帳」である。なお、天正年間(1573─92)には小早川隆景により、中台院が三原へ移された。慶長五年(1600)四月の毛利輝元寄進状(楽音寺文書)によると、楽音寺寺領100石余と山林境内一町四反四畝が寄進されている。しかし福島氏によって寺領は没収、坊の多くは廃されて、寺務は法持院が行った。

 近世には南方・上北方・下北方・善入寺の四ヵ村の管理とされ、本堂の費用の三分の二は郡負担、三分の一は四ヵ村負担、法持院・明雲院その他の堂宇の費用は、南方・下北方の二ヵ村に課された(豊田郡誌)。明治六年(1873)無檀無住として廃寺とされたが、同二十年寺号の再興が許可され(同書)、法持院が管理運営するようになった。当寺は、前記楽音寺縁起絵巻一軸、小早川家関係の文書を中心とする楽音寺文書六巻(以上県指定重要文化財)などを所蔵。なお、「安芸国神名帳」には安芸国国府および十郡に鎮座する一九〇の神名が記され、法持院に伝来した原本の写が不完全ながらも「芸藩通志」に収められている。

 

*なお、これから紹介していく史料の改行については、『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』(広島県立歴史博物館、1996)に掲載された写真と翻刻を見て、 」 で記載してあります。

 

 

    一 公文仲原外二名連署下文案

 

 下  乃力名田所

  早可止万雑公事

                         (営)

 右於彼寺者、古乃力名田被」募進、勤修御堂造栄、近来」間人名被

                 (壊)

 堕、仍勤彼役、御」堂已成破懐地畢、于爰」早領家地頭沙汰人相共、」

 停止万雑公事、彼寺可修理」状如件、

   (1248)

   宝治貳年〈戊申〉二月三日

            公文仲原在判

            地頭藤原在判

            御使  在判

 

*改行は 」 、割書とその改行は〈 」 〉で記載しました。以後の史料紹介も同じように記載していきます。

 

 「書き下し文」

 下す  乃力名の田所

  早く万雑公事を停止せしむべきの事

 右彼の寺に於いて、古くは乃力名田募り進らせられ、御堂造営を勤修す、近来は間人名に堕せられて、仍て彼の役を勤め、御堂已に破壊の地と成り畢んぬ、爰に早く領家・地頭・沙汰人相共に、万雑公事を停止し、彼の寺修理すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 乃力名の田所に下達する。

  早くさまざまな公事の徴収を停止させなければならないこと。

 右、この楽音寺では、古くは乃力名の田を集めて寄進し、名主が納入した年貢でお堂の修造を勤めた。近頃では名主のいない間人名に陥ってしまったので、そこをあてがわれた作人らは雑税だけを負担して修造を勤めなかったため、お堂はすでに荒廃してしまった。そこで、早く領家・地頭・沙汰人らは一緒に雑税の徴収を停止し、その分で楽音寺を修理するべきである。

 

 「注釈」

「田所」

 ─①国衙在庁の所の一つ。田積の調査を主要任務とする。②十二世紀半ばから、国衙の田所に倣って荘園にも荘官としての田所が置かれた(『古文書古記録語辞典』)。

 

「間人」

 ─亡人とも書く。「もうど」とも読む。平民百姓の最下層に置かれ、村落共同体の正式メンバーにはなれない。しかし、所従・下人とは異なり、身分的には自由で、経済的に富裕なものもいた(『古文書古記録語辞典』)。

 

*「近来〜地畢」の部分がよくわかりませんでしたが、前掲『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』(34頁)を参考に、一応の書き下し文と解釈を作ってみました。なお、この図録では1号文書を次のように解説しています。

 「蟇沼寺の寺領であった乃力名は、名田から、名主のいない間人名(もうどみょう・間田)になったが、宝治二年(1248)に、荘園での雑税とされる万雑公事を停止して、寺の修理に当たるように命じられている〈1─1〉。中世荘園制社会のもと、名田は、農村社会において指導的位置にあった名主が所有管理等するもので、一方、間田は、名主以外の階層の一つで、半隷属的位置にあった間人が耕作にあたっていたのである。」

 

「間田」

 ─一般には、遊休田、無主田の意。荘園において、本田である名田と本佃を除いた部分。下級荘官の給田や人給田に宛てられたり、名主に宛行われたりし、残りは地子田そして作人に借耕させた。一般には新田や悪田が多いが、地子田として公事・夫役を負担せず、間田百姓には間人身分の者が多かった(『古文書古記録語辞典』)。

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