周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史2─14 〜現世の浄土と自殺 分析編〜 (Suicide and Heaven on Earth part2)

【「自殺の中世史2─13」からのつづき】

 

 嘉元二年(1304)九月十三日、石清水八幡宮山上の社殿で、閉籠していた大山崎神人たちが集団で切腹事件を起こしました。いったい、なぜこのような事件が起きたのでしょうか。まずは、この事件の概要を説明しておきます。

 この事件の起きる2ヶ月前のこと。七月十六日に後深草法皇崩御しました。これによって「天下之穢気」と認定され、八月十五日に催行する予定だった放生会が九月に延期されました(史料4)。「天下触穢」の期間は三十日であるので(注1)、九月十五日に延引されたのでしょう(『実躬卿記』同年十月五日条所載の宣命案、5─280頁)。その後、八月二十四日に大山崎の神人らが石清水八幡宮に閉籠し(「石清水八幡宮放生会部類録目録」『石清水八幡宮史料叢書』3─334頁)、九月十三日に社務壇妙清が彼らの捕縛を命じました(史料1)。その捕縛者リストが【史料2】ということになります。閉籠した全14名の神人のうち7名が切腹し、その流血によって社殿は穢れてしまいました。こうした流血事件の先例を按察僧都に調査させ、注文として提出させたのが【史料3】だと考えられます。

 大山崎の神人たちが閉籠した事情は明記されていませんが、おそらく勅祭である放生会を妨害することで、自らの要求を石清水上層部や公武政権に認めさせることが目的だったと考えられます(注2)。ところが、彼らの要求は受け入れられるどころか、9名が捕らえられ、5名が自殺によって死に至ったのです。この事件により、放生会は十月十五日に再延期されることになりました(『実躬卿記』同年十月十五日条、5─296頁)。

 

 以上が、「大山崎神人 集団切腹事件」の概要になるのですが、ここで注目しておきたいことは2つあります。まず1つ目は、【史料2】の切腹した神人らの処置です。紀八以外の人物については、切腹した場所からすぐに運び出されたことが、そして死亡した5人については、絶命した場所が、細かく記されています。加えて、「以上五人」という文言をあえて記していることも重要です。つまり、「召捕交名(捕縛リスト)」と銘打ちながらも、この注文の作成主体である祠官や社僧は、神人が死んだか否か、その場所はどこか、ということにも強い関心を抱いていたことがわかります。

 ではなぜ、死とその場所が問題だったのでしょうか。一般的に宮中や寺社に死穢が及ぶと、儀式や仏神事が中止されたり延期されたりすることがありました(注1・山本著書、16頁)。前述のように、この事件の二日後、九月十五日に放生会が予定されていたのですから、神人らが死んだか否かは当然気になるところだったのでしょう。

 続いて、神人が死亡した場所を確認してみると、助二郎と宗永は「山下宿院谷辺」、清三郎と宗吉は「西鳥居外櫟木下」、紀内は「谷坊前」で絶命したと記されています。このうち、本殿から最も遠いと考えられるのが「山下宿院谷辺」です。鍛代敏雄氏の研究によると、石清水八幡宮の境内都市は、天下国家の祈祷・祭祀を勤仕するための、いわば聖なる空間としての「山上」と、地下の俗なる空間としての「山下」との、二元的な構成になっていたそうです(注3)。

 この指摘を踏まえると、祠官らは死穢が山上に及んで、放生会が延期されないようにするため、自殺者を少しでも遠い場所へ移送させたと考えられます。そして、山上に死穢が及んだか否かを判断するために、絶命した場所を詳細に報告させたのでしょう。今回の場合、捕縛時の流血や神殿の破損によって、放生会は延期されたので(『実躬卿記』同年十月五日条所載の宣命案、5─280頁)、死穢は発生していなかったことになります。

 

 それにしても、なぜ全体の半分にあたる7人もの神人が切腹を決行したのでしょうか。「命がけの要求」と言えばそれまでですが、そもそも自殺を脅しに使うにしても、本当に自殺してしまったら、死後に実現された要求を、生きて享受することはできません。自身の死によって、他者や自身の所属する集団の要求が叶えられることに満足感を見出し、自殺を決行する場合もあるのでしょうが、今回の場合、自殺によって神人らの要求が叶えられた様子もありません。神人たちの自殺には、どのような「原因動機」と「目的動機」があったのでしょうか。この疑問に答えるために、もう一度自殺決行に至る事件の流れを追ってみましょう。

 

 【史料1】によると、大山崎神人の強訴は、権別当堯清の奏状によって公家政権に伝えられた後、公武両政権で評議されたのですが、まったく聞き入れられませんでした。そして、神人たちが社殿に放火するという噂がたったので、放生会の前々日九月十三日に、社務妙清はとうとう捕縛を決意したのです。通常、神人たちは祠官らを通じて公家政権に要求を伝え、祠官らが公家政権側と交渉していくのですが(注2・伊藤著書、293頁)、今回はその要求が受け入れられないどころか、代弁者であるはずの祠官(社務妙清)によって捕縛が決行されました(注4)。それを知った神人たちの一部は刀を持って斬りかかり、一部は切腹を遂げたのです(史料2)。自分たちの要求が認められず、祠官にも見放されて捕縛対象になったことで、怒りの感情や報復・抵抗意志が生じた一部の神人たちは刃傷沙汰を引き起こし、絶望感や諦念感が生じた一部の神人たちは自殺に及んだのではないでしょうか。

 以上のような神人たちの心情推理の妥当性はさておき、次のことが気になります。それは、自分たちの要求が拒絶されたうえに、社務からも見放され捕縛対象になったという同じ原因でありながら、一方は傷害事件(他者への暴力)を引き起こし、もう一方は自殺(自己への暴力)を引き起こしているところです。いったい、なぜ暴力の向かう方向性が「他者」と「自己」で真反対になっているのでしょうか。自殺に絞り込んで、もう少し考えてみましょう。

 

 前述のように私は、神人たちが自殺を遂行した際の心情を「絶望感や諦念感」と推測しましたが、これらの感情の生起が、本当に自殺に至らしめる原因になるのでしょうか。「望みを絶たれた・諦めた」のなら、無抵抗なまま捕らえられるという選択肢もあり得たはずです。それこそが、【史料2】の「九郎・源三・源三郎・得一法師」の4人ではないでしょか。「無別子細、召捕了」(とりわけ不都合なこともなく、召し捕った)とあるように、彼らは抵抗も自殺もせず、ただ捕らえられたと解釈できます。つまり、「絶望感や諦念感」の生起は、「自殺」だけでなく「投降」の原因にもなる、と解釈できてしまうのです。これ以上神人たちの心理を推測することにほとんど意味もないので、次に「目的動機」の分析に移りたいと思います(注5)。

 

 では、史料2の自殺者たちは、どんな目的を実現するために、自殺という手段を選択したのでしょうか。たとえば、捕縛されて処罰されるくらいなら自ら命を絶ったほうがましだ、という苦痛からの逃避を、「目的動機」であると推測することは可能かもしれません。ただし、かりにそうだったとしても、「命を絶ったほうがましだ」と考えるほどの「苦痛」とは何か、という疑問はまだ残ります。

 実は、この事件の二十年ほど前から、神人らの集団訴訟を禁止する公家新制が複数発布されており、違反するとその神人職が解却されるという厳しい処罰が下されることになっていたそうです(注2・鍛代著書、26頁)。とすると、ここで私が問題とした「苦痛」とは、「神人身分の剥奪」ということになりそうです。当時の大山崎の神人は、神人身分であるがゆえに油商売の特権を得ていたわけですから、身分が剥奪されれば、即その特権(生きる糧)を失うことになります。強訴が認められなければ、特権の源である身分を失うことになるのですから、強訴閉籠は彼らにとって、まさに命がけの大博打だったのかもしれません。ただ、それでも、本当に身分を失うことが死ぬほどの大問題であったのかという疑問は、まだ残ります。

 その他にも疑問を挙げればきりがないのですが、たとえば、かりに自殺するにしても、わざわざ閉籠した社殿でなくてもよいはずです。捕らえられ、神人身分剥奪の処分を受け、その後別の場所で自殺してもよいはずです。あえて社殿のなかで自殺する理由とは何か、を問わなければならないのではないでしょうか。当時の神人たちが八幡神をどれほど信仰していたのかわかりませんし、その信仰心を数値化することもできませんが、祠官や社僧ほどの信仰心ではないにしろ、神に仕える身でありながら、本殿を血や死で穢すことに、何の躊躇もなかったとは考えられません。本殿を穢してでも、そこで自殺を遂げる何らかの目的や価値があったのではないでしょうか。このような問いの立て方がそもそも間違えている可能はありますが、この疑問を解くうえで示唆を与えてくれるのが、2つ目の注目点です。

 

 前述のように、【史料3】は流血事件の先例をまとめた注進状です。日付以降の文言によると、大山崎の神人助二郎が石清水の社殿で自殺したとき、検校の竹瀧清が先例を尋ね、按察僧都に注進させたものとされています。

 この史料では2人の僧侶の自殺が記されているのですが、1人目の勢田社司(未詳)の親類の僧侶は内殿の廊下で自殺し、絶命前にそこから運び出されたことがわかります。2人目の僧侶は西の経所の前で自殺したのですが、これも絶命前に外に運び出されたようです。【史料2】と同様に、やはり社殿で死に、死穢で汚染されてしまうのを避けるために、外に運び出されたと考えられます。

 ここで注目したいのは次の点です。自殺以外の事件では、争論・口論・強盗といった流血の原因が記されているのですが、自殺事件については、その原因が書いてないのです。おそらく原因がわからなかったから書いてないのでしょうが、そうであるがゆえにより示唆的なのです。1人目の僧侶はただ「参籠」(籠もって祈願)しただけで、訴訟のために「閉籠」したのではないことがわかります。2人目もただ「参詣」しただけのようです。つまり、純粋に石清水に参籠・参詣し、そして自殺したと考えられるのです。まるで自殺するために、石清水に参詣したかのように読み取れるのですが、どうして2人の僧侶は石清水の社殿で自殺を遂げたのでしょうか。それはこの場所が死を迎えるのに適した場所だったからである、と私は考えています。

 

 石清水八幡宮本地仏には諸説あるようですが、平安末から鎌倉期になると、阿弥陀如来(中御前)・観音菩薩(東御前)・勢至菩薩(西御前)の三尊が本地仏とみなされるようになっていました(注6)。つまり、阿弥陀如来の御坐します男山山上は、現世に現れた西方極楽浄土ということになるのです。中世びとは、そこで命を絶てば、そのまま来世でも極楽に往生できると考えていたのではないでしょうか。

 こうした石清水山上を西方極楽浄土とみなす考え方については、すでに先学によって指摘されており、鍛代敏雄氏は、中世における石清水祭祀の最大の目的は、西方極楽浄土の世界を再現することであったのではないか、と考えられています(注7)。また、石清水本殿の周辺に設置された僧坊は「男山四十八坊」と称されていますが、その四十八という数字は阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩の「四十八願」に由来すると考えられています(注8)。こうした男山山上を極楽浄土と見なす考え方を、私は「男山浄土思想」と呼ぶことにします。

 このように、中世の石清水八幡宮の山上が現世の西方極楽浄土と見なされていたからこそ、【史料3】の2人の僧侶は純粋に極楽往生を願い、仏のすぐそばで自殺を遂げたのではないでしょうか。また【史料2】の7人の神人たちは、自分たちの要求が拒絶され、捕縛対象になったことによって絶望感・諦念感が生じ(原因動機)、捕縛・処罰され、特権を失ったまま生きる苦痛を避けたい、そしてそれなら現世の極楽浄土で往生したい(目的動機)と考えて、自殺を遂げたのではないでしょうか。このように考えなければ、神仏に仕える神人や僧侶が、死や血で聖域を穢す理由が説明できないのです。

 【史料3】から判断すると、「男山浄土思想」の普及を背景に、山上で自殺を図ろうとする人々が現れるのは、13世紀中頃と考えられます。こうした事件が当時の人々の頭に先例として残り、今回の「大山崎神人 集団切腹事件」が起きたのではないでしょうか。

 以前、「自殺の中世史30 ─中世の説話9・説話のまとめ─」のなかで、西本宗助氏(注9)の研究を引用しながら、次のようなことを指摘しました。仏教は自殺行為自体を否定的に捉えていたが、浄土信仰への誤解や狂信によって、往生目的の自殺が増加する、と。今回の事例も同様で、浄土信仰への誤解や狂信が、「逃避・往生という目的」と「自殺という手段」を、安易に結びつけてしまったと考えられます。

 

 

 「注釈」

(1)黒田日出男「こもる・つつむ・かくす─中世の身体感覚と秩序─」(『日本の社会史』第8巻、岩波書店、1987、191頁)、山本幸司「穢とされる事象」(『穢と大祓 増補版』解放出版社、2009、16頁)。

(2)伊藤清郎「石清水八幡宮」・「中世国家と八幡宮放生会」(『中世日本の国家と寺社』高志書院、2000、263・293頁)。また、鍛代敏雄氏の研究によると、石清水八幡宮の神人たちの強訴は「神訴」と呼ばれ、神人らが放生会を楯にして、主に神領の保証と、神人の生業の支障や身分特権に関する訴訟を受理、裁許させることを目的としたものだった、と説明されています(「石清水放生会に於ける『神訴』」『国史学』134、1988・3、38頁、「石清水神人と商業」『中世後期の寺社と経済』思文閣出版、1999、26頁など)。なお、この閉籠事件については、伊藤著書262・293頁、鍛代著書26頁、小西瑞恵「都市大山崎の歴史的位置」(『大阪樟蔭女子大学学芸学部論集』39、2002・3、62・63頁、

https://osaka-shoin.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1729&item_no=1&page_id=3&block_id=24)で触れられています。

(3)「戦国期の境内都市『八幡』の構造」(『戦国期の石清水と本願寺法蔵館、2008、10頁)。

(4)神人らを捕縛した社務妙清ですが、この事件を遡ること約二十年、弘安五年(1282)十二月二十日に気になる事件を起こしています。この日、石清水の神人たちは強訴しているのですが、裏で糸を引いていたのは当時も社務であった妙清だったのです(『勘仲記』同日・二十四日条、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949542)。つまり、妙清は神人たちと結託して、彼らに強訴させていたのです。結局そのことが露見し、十二月二十八日に次の社務田中守清と交代しています(「守清」『石清水八幡宮寺祠官系図国文学研究資料館

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00021.jpg

および「妙清」

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200011976/images/200011976_00032.jpg)。以下は単なる憶測ですが、ひょっとすると、今回も社務妙清と神人は裏で結びついていたのに、神人を見放し捕縛へと転じたため、神人たちはその怒りや絶望から、刃傷・自殺事件を引き起こしたのかもしれません。

(5)自殺の「原因動機」を追究することは、「自殺研究」には意味があっても、「自殺防止研究」にはそれほど意味がない、と私は考えています。その理由については、「自殺の中世史17〜21 ─自殺史料紹介の悩み1〜5─」で詳細に述べましたが、簡単に言えば、今回の史料のように、①原因が後から後から現れて、結局何が真の原因か確定できなくなること(因果連鎖の問題)、②原因を指摘したところで、それを解決する効果的な対策をうつことが現実的には難しいこと、を指摘しました。「自殺」は行為です。行為分析には原因動機だけでなく、「目的動機」の解明が必要です。私は、「自殺とは何か」という問いを立てていません。私は、「何を目的に人は自殺するのか」「なぜ目的実現のために自殺という手段を選ぶのか」「自殺でなければその目的は本当に達成できないのか」「どうして目的達成のために自殺という手段が思い浮かんでしまうのか」という問いを立てています。自殺の目的を明らかにし、目的実現のために自殺という手段を選択することの無意味さを説明できなければ、いつまで経っても自殺を防ぐことはできないと考えています。自然科学、社会科学、人文科学のどれでもいいので、早いところ科学的にその無意味さを証明してほしいものです。

(6)新城敏男「中世石清水八幡宮における浄土信仰─本地阿弥陀仏説を中心に─」(『日本宗教史研究年報』2、1979、27頁)、「二十二社の概要 ②石清水八幡宮」(『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000、689頁)、「宮寺縁事抄第一末」(『神道大系 神社編七 石清水』1988、38頁)。

(7)「石清水祭祀と神人の経済活動」『会報』八幡の歴史を探求する会、29、2012・8、https://yrekitan.exblog.jp/22318195/。同「中世から近世における神仏習合の新研究─八幡宮寺の神事と仏事─」科研成果報告書、2017・8、

https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-26370783/26370783seika.pdf。なお鍛代氏はより厳密に、本宮・本社が西方浄土護国寺薬師如来の東方浄瑠璃浄土と見なされていた、と考えています。

(8)本庄良文「八幡における浄土信仰」(『会報』八幡の歴史を探求する会、43、2013・10、https://yrekitan.exblog.jp/22316376/)。

(9)「仏教と自殺」(『京都府立大学学術報告』人文、14、1962、 https://kpu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3549&item_no=1&page_id=13&block_id=17)。

 

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平成の大修造パンフレット その1

 

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 その2

 

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 その3

 

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その4

 

 

*この記事をもって、いったん鎌倉時代の自殺史料の紹介を終え、次から南北朝室町時代に移ります。また新しく鎌倉期の史料を見つけたら、「ライフワーク part2」のカテゴリーに追加していく予定です。