周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

楽音寺文書3

    三 関東下知状案

 

               (豊田郡)      (茂平)

  安芸国沼田庄雑掌実厳、与梨子羽郷地頭小早」河美作守法師〈法名」本仏〉

  女子尼浄蓮代唯心、相論條々、

 一田地十四町余事

  右訴陳之趣、雖子細、所詮去文永八年、遂当庄検注之」時、地頭

  門田事、依相論沙汰、仁治建長新門田者」可入勘之由、被

  下知畢、当郷本門田者八町余也、其外以庄」田十四町余、号本門田

  出田、地頭押領無謂之由、実厳申之」処、本門田者不入勘之由、

  御下知厳重也、以彼出田」十四町、号庄田之旨、唯心雖之、為

  本門田出田之無指」証拠、是一、且仁治建長新門田者、任惣庄下知

  免否」宜検注使意之由、実厳申之処、云新門田下」知事一、唯心

  不申、是二、随本門田八丁余者、入交公」田坪々之由、実厳申之処、

  各別之旨同不陳答、是三、」然則八丁余之外、新門田者、免否宜雑掌之

  意、但」於本門田坪々余残者、不及割取矣、

 一楽音寺田地事

  右本免田之外、掠籠庄田数丁之由、実厳雖之、天慶」年中本下司

  建立也、建永年中以土肥二郎遠平、」被地頭之後、為地頭氏寺

  自往古預所相綺、代々」検注之時、不入勘之旨、唯心陳答之処、

  入勘之状実厳」不申証拠、将又非地頭氏寺之由、実厳雖之、」

  本下司之外、為誰人建立旨、同不申之上、領家進」止之条、無指証拠

   (掠)

  次椋籠庄田之由、同雖之、如毎度」訴状者、為寺内田地之旨

  書載畢、為寺内田地之上者、」縦雖本免田員数之外、不勘落

  仍雑掌所申、」非沙汰之限焉、

 以前両条、依鎌倉殿仰下知如件、

     (1288)                (大仏宣時)

     弘安十一年四月十二日     前武蔵野守平朝臣御判

                         北条貞時

                    相 模 守平朝臣御判

 

 「書き下し文」

  安芸国沼田庄雑掌実厳と、梨子羽郷地頭小早川美作守法師〈法名本仏〉女子尼浄蓮代唯心と相論する條々、

 一つ、田地十四町余りの事、

  右訴陳の趣、子細多しと雖も、所詮去んぬる文永八年、当庄の検注を遂ぐるの時、地頭門田の事、相論致すにより沙汰有り、仁治・建長の新門田は入勘すべきの由、下知せられ畢んぬ、当郷本門田は八町余りなり、其の外庄田十四町余りを以て、本門田の出田と号し、地頭の押領謂れ無きの由、実厳申すの処、本門田は入勘すべからざるの由、御下知厳重なり、彼の出田十四町を以て、庄田と号するの旨、唯心之を陳ずと雖も、本門田出田の指せる証拠無し、是れ一つ、且つ仁治・建長の新門田は、惣庄の下知に任せ、免ずるや否や宜しく検注使の意に任すべきの由、実厳申すの処、新門田と云ひ下知の事と云ひ、唯心論じ申さず、是れ二つ、随て本門田八丁余りは、公田の坪々に入り交じるの由、実厳申すの処、各別の旨同じく陳答せず、是れ三つ、然れば則ち八丁余りの外、新門田は、免ずるや否や宜しく雑掌の意に任すべし、但し本門田坪々余残に於いては、割き取るに及ばず、

 一つ、楽音寺田地の事、

  右本免田の外、庄田数丁を掠籠するの由、実厳之を申すと雖も、天慶年中本下司建立する所なり、建永年中土肥二郎遠平を以て、地頭に補せらるるの後、地頭の氏寺と為る、往古より預所相綺はざるにより、代々の検注の時、入勘せざるの旨、唯心陳答するの処、入勘の状実厳証拠を立て申さず、将又地頭の氏寺に非ざるの由、実厳之を申すと雖も、本下司の外、誰人として建立するの旨、同じく申さざるの上、領家進止の条、指せる証拠無し、次いで庄田を掠籠するの由、毎度の訴状のごとくんば、寺内田地たるの旨書き載せ畢んぬ、寺内田地たるの上は、縦ひ本免田員数の外たりと雖も、勘落する能はず、仍て雑掌申す所、沙汰の限りに非ず、

 以前両条、鎌倉殿の仰せにより下知件のごとし、

 

 「解釈」

  安芸国沼田庄雑掌実厳と、梨子羽郷地頭小早川美作守茂平法師〈法名本仏〉の娘尼浄蓮代唯心とが相論した各争点のこと。

 一つ、田地十四町余りのこと。

  右の訴陳の内容について、その詳細は多岐にわたるけれども、結局のところ、去る文永八年(1271)に、当沼田庄の検注を行なったとき、地頭門田のことで相論となり、裁判になった。仁治・建長年間(1240〜1256)に新しく設定された門田は調査しなければならない、と命令をお下しになった。当梨子羽郷の元来の門田は、八町余りである。その他の沼田庄の庄田十四町余りを、新たに検出した本門田の勘出田だと主張して、地頭が押領するのは根拠のないことである、と実厳が訴え申したところ、本門田は検注してはならないという幕府のご命令は厳重なものである。その勘出田十四町を沼田庄の庄田であると実厳が言い張っていることに、唯心は反論したが、この十四町が本門田の勘出田であるという主張には、とりたてていうほどの証拠はない。これが一つ。また、仁治・建長年間に検注された新門田については、惣庄への命令のとおりに、年貢・公事を免除するか否かを、検注使の意向に委ねるのがよい、と実厳が申したところ、新門田も惣庄への下知も、唯心は反論し申さなかった。これが二つ。それゆえ、本門田八町あまりは、公田の土地に入り交じっている、と実厳が申したところ、唯心は前項と同じように、それは別であると反論もしなかった。これが三つ。したがって、本門田八町余りのほか、新門田について、年貢・公事を免除するか否かは雑掌の意向に委ねるのがよい。ただし、本門田の土地の残りについては、分け取るまでもない。

 一つ、楽音寺の田地のこと。

  右、楽音寺の本免田の他に、沼田庄の庄田数町を浄蓮が掠め取った、と実厳が訴え申したが、楽音寺は天慶年中(938─947)にかつての下司が建立したところである。建永年中(1206─1207)に土肥二郎遠平を地頭に補任された後に、地頭の氏寺となった。昔から預所が干渉しなかったことにより、代々の検注の時にもその土地を調査しなかった、と唯心が反論した。そうしたところ、実厳は土地調査が実施された証拠を示さなかった。さらにまた地頭の氏寺ではない、と実厳は訴え申したが、かつての下司の他に誰が建立したのかを同じく申さなかったうえに、領家が支配していることについても、取り立てていうほどの証拠はなかった。次に、浄蓮が庄田を掠め取ったという主張であるが、毎回の訴状のとおり、楽音寺内の田地であると書き載せた。寺内の田地であるうえは、たとえもとからの免田数の外であっても、没収することはできない。したがって、雑掌実厳の訴えは取り上げるまでもない。

 以上、二つの項目については、鎌倉殿のご命令により下達する。

 

 「注釈」

「門田」

 ─中世の武士・土豪の屋敷地の門前などに接続している耕地。畠の場合は門畠。屋敷地から遠く離れた沖の田や山田と対比される良田。屋敷をめぐる濠の水を用い、水利の条件もよく、多くは下人・所従に耕作させるか、周辺の農民に小作させた。領主・国衙の検注の対象とならず年貢・公事がかからないのがふつうである(『古文書古記録語辞典』)。

 

「出田」

 ─隠田が摘発されて新しく打ち出された田。勘出田と同意か。踏出(ふみだし)・出目(でめ)も同じ。「勘出田」は、検注の結果、新たに見出された田地のこと。勘益田。いずれも『古文書古記録語辞典』より。

 

「土肥遠平」

 ─生年:生没年不詳鎌倉前期の武将。実平の子。相模国(神奈川県)早河庄を領有し、庄名より小早河とも称す。父と共に源頼朝の挙兵に参加。勲功により安芸国広島県)沼田庄地頭職を拝領。孫の茂平の代より沼田庄に移住し、戦国大名小早川氏へと発展していく(『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/土肥遠平-1094913)。

 

「大仏宣時」

 ─連署。弘安十年(1287)〜正安三年(1301)在職(『日本史総覧』二、新人物往来社)。

 

北条貞時

─執権。弘安七年(1284)〜正安三年(1301)在職(『日本史総覧』二、新人物往来社)。