五 地頭尼浄蓮代浄円陳状
安芸国沼田庄内梨子羽郷地頭尼浄蓮代浄円謹弁申
当郷内楽音寺僧隆憲称二院主一虚名企二奸謀偽訴一無レ」謂子細事
(裏花押)
右当寺者、天慶年中、本下司草創之寺、建永以後地頭」補任之地也、自レ而以来
為二地頭氏寺一、領家断レ望之上者、云二所」職一、云二免田一、補任改易全為二地頭
進止一者也、爰前預所朝嗣」朝臣、不レ顧二是等子細一、雖レ致二非分之訴訟一、被レ
究二淵底一、一向地頭」進止之由、去弘安十一年関東御下知分明也、然者隆憲縦」
雖レ為二院主職一、依二不調一被二改易一之条、何可レ及二上訴一哉、而背二御下」知
之明文一、領家進止之由、無二左右一載二訴状一之条、過分之濫吹」也、速可三
(東禅寺)
立二申分明之所見一也、次蟇沼寺事以同前、両条早」為レ被三停二止自由之濫訴一、
披陳言上如レ件、
(1292)
正応五年正月 日
「書き下し文」
安芸国沼田庄内梨子羽郷地頭尼浄蓮代浄円謹んで弁じ申す、当郷内楽音寺僧隆憲院主と称する虚名、奸謀偽訴を企つること謂れ無き子細の事、(裏花押)
右当寺は、天慶年中、本下司草創の寺、建永以後地頭補任の地なり、而れより以来地頭氏寺と為り、領家望みを断つの上は、所職と云ひ、免田と云ひ、補任・改易全く地頭進止たる者なり、爰に前預所朝嗣朝臣、是れらの子細を顧みず、非分の訴訟を致すと雖も、淵底を究められ、一向地頭進止の由、去んぬる弘安十一年関東御下知に分明なり、然れば隆憲縦ひ院主職たりと雖も、不調により改易せらるるの条、何ぞ上訴に及ぶべけんや、而るに御下知の明文に背き、領家進止の由、左右無く訴状に載するの条、過分の濫吹なり、速やかに分明の所見を立て申すべきなり、次いで蟇沼寺の事以て同前、両条早く自由の濫訴を停止せられんが為、披陳言上件のごとし、
「解釈」
安芸国沼田庄内梨子羽郷地頭尼浄蓮代浄円が謹んで反論し申し上げる、当郷内の楽音寺僧隆憲が院主であると言い張っている偽りや、奸謀や偽りの訴訟を企てていることに、何の根拠もない詳しい事情。(裏花押)
右、楽音寺は、天慶年中(938〜947)に、もとの下司沼田氏が創建した寺で、建永(1206─07)以降に小早川氏が地頭に補任された地である。それ以来地頭氏寺となり、領家の要求を断ってきたうえは、所職も免田も、補任・改易は地頭の管轄である。ここに、前預所朝嗣朝臣(橘知嗣)はこれらの事情を顧みず、道理に外れた訴訟を起こしたが、細かい事情まで明らかにされ、すべて地頭の管轄である、と去る弘安十一年(1288)関東下知状(3号文書)で明らかになった。だから、隆憲がたとえ院主職であったとしても、不都合な事態により改易されたことを、どうして幕府に訴えることができようか、いやできない。それなのに、下知状の明文に背いて、領家の管轄であると何のためらいもなく訴状に記載していることは、とんでもない狼藉である。すぐに明確な見解を主張すべきである。次に、蟇沼寺のことも同前で、地頭の支配である。この二つの件について、速やかに身勝手な狼藉が止められるように反論することは、以上のとおりである。
*とくに、事書部分の書き下し文と解釈がさっぱりわかりませんでした。