周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史3─1 〜称賛された自殺〜

  応安四(一三七一)年四月一日条         (『後愚昧記』2─31頁)

 

    〔北小路万里小路

 一日、智恵光院辺騒動、相尋之処、土佐国住人佐川〈仮名、実名」不知之、〉居住

     細川頼之

 件寺中、而執事為四国管領之間、仰可発向南方之由之処、固辞之間、為誅伐、差遣

       (佐々木高秀)

 執事被官軍勢并侍所軍勢之処、不能討取之、佐川逃脱了、不知行方、然而合壁土蔵

 以下披求之間、鼓騒無極者也、討入寺中之処、佐川若党・中間等相并四人〈此内

 一人佐川親類、只今」自土州上洛云々、〉切腹了、此内一人一両日存生、然而遂以

 死去、勇敢之至、可感之、後聞、件佐川子息男為宮方在敵方、仍執事元来以便宜可

 追討之所存也云々、後聞、智恵光院長老并寺僧又土蔵法師等為尋問事子細、自侍所

                               〔追〕

 搦取之、然而罪科之条不分明之間、経一両日返送之云々、寺中財産退捕取之云々、

 不便々々、(後略)

 

*割書とその改行は、〈 」 〉で記載しました。

 

 「書き下し文」

 一日、智恵光院辺りにて騒動、相尋ぬるの処、土佐国の住人佐川〈仮名、実名之を知らず、〉件の寺中に居住す、而るに執事四国管領たるの間、南方に発向すべきの由仰するの処、固辞するの間、誅伐せんがため、執事の被官の軍勢并びに侍所の軍勢を差し遣はすの処、之を討ち取る能はず、佐川逃脱し了んぬ、行方を知らず、然かして壁を合はする土蔵以下を披き求むるの間、鼓騒極まり無き者なり、寺中に討ち入るの処、佐川若党・中間ら相并び四人〈此の内一人は佐川の親類、只今土州より上洛すと云々、〉切腹し了んぬ、此の内一人は一両日存生す、然れども遂に以て死去す、勇敢の至り、之に感ずべし、後に聞く、件の佐川子息の男宮方として敵方に在り、仍て執事元来便宜を以て追討すべきの所存なりと云々、後に聞く、智恵光院長老并びに寺僧又土蔵法師ら事の子細を尋問せんがため、侍所より之を搦め取る、然れども罪科の条不分明なるの間、一両日を経て之を返し送ると云々、寺中の財産之を追捕し取ると云々、不便々々、(後略)

 

 「解釈」

 一日、智恵光院あたりで騒動が起きた。それを尋ねてみたところ、土佐国の住人佐川〈仮名、実名ともにわからない〉がその寺に居住していた。そうしているうちに、執事細川頼之は四国管領であったので、南方へ発向せよとお命じになったところ、佐川はそれを固辞したので、佐川を誅伐しようとするため、細川頼之は自身の被官の軍勢と侍所佐々木高秀の軍勢を派遣した。だが、この佐川を討ち取ることができず、佐川は逃亡してしまった。行方はわからない。そうして、智恵光院と隣り合わせている土蔵などを開いて探したので、このうえなく騒がしかったのである。寺中に討ち入ったところ、佐川の若党や中間ら四人〈このうち一人は佐川の親類で、いましがた土佐から上洛したという〉が同じように切腹した。このうち一人は、一、二日の間生きていた。しかしとうとう死んでしまった。このうえなく勇敢で、この切腹に感心せずにはいられない。後で聞いた。この佐川の子息は南朝長慶天皇)方として敵方にいた。そこで、執事細川頼之はもともと都合のよい機会を狙って、追討しようとする考えであったという。後で聞いた。智恵光院の長老と寺僧、また隣接している土蔵法師らに、今回の件に関する事情を尋問しようとするため、侍所が彼らを捕縛した。しかし、罪状がはっきりしないので、一、二日を経て彼らを送り返したそうだ。寺中の財宝は侍所が差し押さえたという。気の毒なことである。

 

 「注釈」

「後愚昧記」

 ─北朝内大臣後小松天皇の外祖父となった三条公忠の日記。1361―83(康安1―永徳3)が伝存するが、途中欠落がある。南北朝後期の政治情勢を知る史料(『角川新版日本史辞典』)。

 

細川頼之

 ─南北朝時代の武将。室町幕府管領(かんれい)。通称弥九郎(やくろう)。右馬助(うまのすけ)、右馬頭(うまのかみ)、武蔵守(むさしのかみ)。法号常久(じょうきゅう)、道号桂岩(けいがん)。阿波(あわ)守護・侍所頭人(さむらいどころとうにん)細川頼春(よりはる)の子。1350年(正平5・観応1)から翌年にかけて父の名代(みょうだい)として阿波にあり南朝方と戦う。52年(正平7・文和1)頼春が京都で討ち死にすると阿波守護を継ぎ、翌々年伊予(いよ)守護を兼ね、畿内(きない)、四国で南朝方と連戦したのち、56年(正平11・延文1)中国管領となって足利直冬(あしかがただふゆ)党を追討し、62年(正平17・貞治1)従兄弟(いとこ)の前幕府執事(しつじ)細川清氏(きようじ)を幕命により讃岐(さぬき)に討ち取り、一族の分立を淘汰(とうた)して讃岐・土佐守護を兼ねた。67年将軍義詮(よしあきら)の遺命により、幕府の管領となって幼少の将軍義満(よしみつ)を助け12年間在任。この間に半済(はんぜい)法の整備、朝廷(北朝)の段銭(たんせん)催徴権などの接収、河内(かわち)、伊勢(いせ)、越中(えっちゅう)などの南軍拠点攻撃、鎮西(ちんぜい)管領九州探題今川了俊(りょうしゅん)の発遣、義満の官位昇進や幕府新第(しんてい)(花の御所)の造営による将軍家の権威増進、五山以下仏教界の風儀粛正、統制強化などに努め、幕府権力の確立に力を尽くす。そのかたわら、弟頼元(よりもと)以下の一族を侍所頭人、諸国守護などに起用して守護大名細川氏興隆の基礎を築いた。やがて斯波義将(しばよしまさ)らの諸大名の反発を招き、79年(天授5・康暦1)失脚し、剃髪(ていはつ)して四国に下ったが、一族、被官を結集して分国の統治に専念した。89年(元中6・康応1)義満の瀬戸内巡歴に協力、翌年備後(びんご)守護となって山名時煕(やまなときひろ)の反乱を討ち、91年(元中8・明徳2)管領に就任した頼元を後見してふたたび幕政に参画し、明徳(めいとく)の乱の鎮定に殊功を収めた。翌92年3月2日病没。墓所は洛西(らくせい)地蔵院に現存する。性篤実で義満の信任厚く、和歌、連歌(れんが)、詩文を愛好し、禅宗を厚く信じ、京都の景徳寺・地蔵院、阿波の光勝院・宝冠寺を建立し、土佐の吸江庵(ぎゅうこうあん)などを再興した(『日本大百科全書コトバンクhttps://kotobank.jp/word/細川頼之-14980)。

 

「佐川郷」

 ─佐川盆地を中心とした中世の郷。天正十八年(1590)の佐川郷地検帳・佐川郷谷地永野地検帳・佐川郷尾川村地検帳が郷名を明記した唯一の現存史料であるが、中世には佐川の地名を冠した有力武士が確認される。上記地検帳が示す佐川郷は、近世の谷地(やつじ・現土佐市)・佐川・三野・永野・尾川の五ヶ村域に比定される。また庄田村も郷域に加える説(「佐川伝聞事記」深尾家文書)もある。地検帳でも単に「佐川郷」と呼ばれた三野・佐川両村が本郷と考えられ、この地に佐川氏が興った。

 南北朝時代、当地方は土佐南朝方の有力拠点で、佐川氏は隣接する越知(現越知町)・斗賀野(とがの)の勢力とともに各地に転戦、北朝方と戦った。暦応三年(1340)正月二十八日付の佐伯経貞軍忠状(西岡家文書)によると「佐河四郎左衛門入道」は花園宮(満良親王)の麾下として大高坂城(おおだかさ・現高知市)攻防戦に加わり、康永元年(1342)九月二十六日の佐伯国貞軍忠状(蠢簡集拾遺)には津野新庄の岡本城(現須崎市)の攻撃に「越知・佐河・度賀野軍勢」が参加したとみえるが、同二年九月二日には逆に「佐河四郎左衛門入道城」に対する北朝方の進行令が出されている(「某軍勢催促状」蠢簡集拾遺)。

 戦国期の佐川の領主は惟宗姓中村氏で松尾城に拠ったが、元亀二年(1571)頃長宗我部氏に降伏。かわって古城山に築かれた佐川城には筆頭家老でのち伊予郡代となる久武内蔵助の率いる佐川番衆が入城、領内外におけるこの地の政治的・軍事的重要性を高めるとともに中世的な支配体制の崩壊に拍車をかけた。つまり佐川郷地検帳の中村分は片岡分や佐川番給地により著しく分断され、松尾城・佐川城の周辺一帯や肥沃な中組・本三野地区をほとんど失っている。これは長宗我部氏治下での領有関係の著しい変容を物語り、慶長二年(1597)の秦氏政事記(蠢簡集)所載の庄屋配置では行政区画としての佐川郷はすでに意味を失い、山内氏入国後の村切により完全に消滅する(『高知県の地名』平凡社)。

 

「佐々木高秀」

 ─没年:明徳2/元中8.10.11(1391.11.7)生年:嘉暦3(1328)南北朝時代守護大名。導誉の子で、兄秀綱や秀宗が若くして戦死したため、京極家を継ぐこととなる。高秀は導誉の死後,出雲国飛騨国の守護に補任されるとともに、評定衆侍所頭人にも任命されている。室町幕府内部における権限は大きく、特に康暦1(1379)年の康暦の政変では、管領細川頼之追放の首謀者のひとりとして暗躍している。なおこの事件によって、一時近江(滋賀県)の甲良にある居館に逼塞していたが、将軍足利義満に赦免されて再び政治の中枢に関与した。<参考文献>『東浅井郡志』1巻(『朝日日本歴史人物事典』コトバンクhttps://kotobank.jp/word/京極高秀-1132293)。

 

「智恵光院」

 ─現上京区智恵光院前之町。称念山平等寺と号す。浄土宗知恩院(現東山区)の末寺。本尊阿弥陀三尊像(安阿弥作)。永仁二年(1294)鷹司家始祖、正一位摂政関白太政大臣鷹司兼平が自家の菩提寺院として僧如一(諱は如空)を請じて創建(蓮門精舎旧詞)。京師七光院の一つ。

 創建の地は法勝寺(現左京区岡崎)北で(拾芥抄)、現在地に移った時期は明らかでない。開山の如一は法を慈心房長忠にうけ、知恩寺(現左京区)の第六世、知恩院第八世となり、晩年智恵光院に移り住み、後醍醐天皇から浄土宗で最初の国師号を賜った。寛永十三年(1636)十二月二十八日、焼失し(蓮門精舎旧詞)、享保十五年(1730)六月二十日の西陣焼けと天明八年(1788)の両大火にも灰燼に帰した(古久保家文書)。現在の建物は安政二年(1855)の再建になる。境内には堂のほか伝小野篁作の六臂地蔵像を安置した地蔵堂、弁財天を祀った小堂等がある(『京都市の地名』平凡社)。

 

 

*「自殺の中世史 part3」では、南北朝室町時代の自殺史料を紹介していきます。

 今回の切腹事件は、土佐国佐川郷を本拠とする佐川氏の一族や若党・中間が引き起こしたものでした。きっかけは、室町幕府管領細川頼之が、佐川氏に出陣を命じたことでした。当時の細川頼之は、四国管領として四国全土を管轄下に置くとともに、土佐の守護でもあったため、麾下にある佐川氏に出陣を命じたのでしょう。ところが、佐川氏はこの命令を固辞します。おそらく、佐川氏の子息が南朝方に与していたので、細川頼之の命令に従わなかったと考えられます。これに対して細川頼之は、自身と侍所の軍勢を、佐川氏が身を寄せていた智恵光院に派遣し、討ち取ろうとしたのです。佐川本人は取り逃がしてしまったのですが、寺内にいた一族や若党・中間の4人はその場で切腹してしまいました。以上が、この事件の概要になります。

 さて、この史料で注目しておきたいのは、以下の2点です。まず1つ目は、北朝内大臣で記主の三条公忠が、敵対勢力である佐川一派の切腹を、「勇敢の至り、之に感ずべし」と称賛しているところです。私は以前に、自殺が称賛されている記事を紹介しました。その多くは説話や吾妻鏡といった「古典籍(編纂物)」だったのですが(「自殺の中世史29・32・40」)、今回の史料は、鎌倉期の『岡屋関白記』の事例(「自殺の中世史2―9」)に続いて、「古記録」で自殺を称賛した事例になります。「自殺の中世史2―9」では自殺者の「賢明さ」を(実際はただの流言)、今回の史料では自殺者の「勇敢さ」を褒め称えました。この2つの史料によって、中世には称賛に値する自殺が実在したとわかります。

 軍記物の分析から武士の名誉意識を明らかにした佐伯真一氏の研究によると、「合戦現場の武士にとって、もっとも必要な名誉とは、強さや勇敢さについての評判だった」そうです(『戦場の精神史』NHKブックス日本放送出版協会、2004、113頁)。中世の軍記物をみていると、敗戦濃厚になった武士たちの、称賛に値する死に様には、大きく2つあることがわかります。その1つは自害であり、もう1つは討死でした。

 高瀬武志氏の研究には、古典籍に記載された死の記述を一覧表にしたものが掲載されているのですが(「武士道思想における死生観に関する一考察 ─中世期の武士像を中心に─」『順天堂スポーツ健康科学研究』第3巻第3号(通巻61号)、2012・5、https://www.juntendo.ac.jp/hss/sp/albums/abm.php?f=abm00007799.pdf)、それを見ると、逃亡せずに命の限り敵に立ち向かうこと、あるいは自ら命を絶つことが勇敢さの証明であり、当時の武士たちは、その勇敢さを示すことが後世に名を残すことにつながると考えていたようです。三条公忠は、佐川一派の切腹に、なかなか真似ることのできない勇敢さを感じ取り、称賛したのだと考えられます。

 2つ目の注目点は、切腹したうちの1人が一両日中は生きていたという情報です。この情報が事実なら、次のようなことが考えられます。細川頼之らの軍勢は、「誅伐」「討取」と表現されているように、本来は佐川一派を殺害する目的で攻め込んだはずです。ところが、佐川本人は逃亡してしまったので、佐川の一族や若党・中間を生け捕ることに目的を切り替えたと考えられます。そうでなければ、切腹した人間を一両日中もの間、生かしておく理由がありません。これ幸いと、すぐに殺したはずです。おそらく、回復した人物から佐川の逃亡先を聞き出すつもりだったのではないでしょうか。

 この推理が妥当であるなら、佐川一派の4人が切腹した動機が、おぼろげに浮かび上がってきます。つまり、細川らの軍勢に攻められたことを原因動機に、生け捕りにされて、佐川の居場所を白状させられることから逃れるという目的動機によって切腹したと考えられます。佐川氏の逃亡先を隠蔽することや、白状させるための拷問から逃避することが、切腹の目的動機だったのではないでしょうか。切腹した4人の「勇敢さ」は、第三者(記主:三条公忠)が感じ取っただけで、彼ら自身は「勇敢さ」を示すために切腹したわけではないと考えられます。