周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

応仁の乱

  呉座勇一『応仁の乱』(中公新書、2016年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

P7

 かくして興福寺の僧侶は、出自によって明確に区別されるようになった。摂関家出身者は「貴種」と呼ばれ、とんとん拍子に昇進していき、やがては門主(もんす・門跡の主)になる。摂関家より家格の劣る清華家(せいがけ)、名家(めいか)出身の僧侶は「良家」と呼ばれる。この階層の僧侶も別当になれるが、昇進のスピードは貴種層と雲泥の差である。一例を挙げれば、貴種の大乗院尋尊の別当就任は27歳だが、良家の東北院俊円は42歳でようやく別当に就任している。これは、貴種に対する各種優遇措置の存在に起因する(良家は権別当を経て別当になるが、騎手は権別当を経験する必要がない、など)。僧侶としての実績・能力などとは無関係に、ただ血筋・家柄によって地位が決まるのであり、良家が貴種を凌駕することは決してない。なお、良家の下には凡僧がいる。

 

P9

 この永仁の南都闘乱において、一乗院・大乗院の双方の実動部隊として活躍したのが、衆徒(しゅと)である。もともと衆徒は、大衆(寺僧集団)と同義であった。しかし、前述のような身分差が生まれてくると、興福寺内で衆徒=大衆としての一体性が失われていった。鎌倉中期になると、学問に専念する僧侶は、大衆の中でも特に「学侶」(がくりょ)と呼ばれるようになり、これに対し武装する下位の僧侶は「衆徒」として区別された。

 さらに鎌倉末期には、衆徒の中から中位の僧侶たちが「六方」(ろっぽう)として分出した。一方、下位の僧侶たちは「官符衆徒(かんぷのしゅと)」(官務衆徒)という武装集団を構成した。本書でいう「衆徒」は、基本的にこの官符衆徒を指す。彼らは興福寺の僧侶であったが、一方で興福寺了承園の荘官などを務めていた。興福寺内で仏事に関わることはほとんどないので(資金調達はする)、実態としては武士と変わらない。ただ頭を丸めているというだけのことである。

 彼ら衆徒は興福寺の軍事警察機構として、学侶・六方の指揮下にあった。しかし永仁の南都闘乱など、興福寺内で武力衝突が頻発するようになると、次第に発言権を強めていった。

 同様の存在として国民(こくみん)が挙げられる。国民とは春日社白衣神人(びゃくえじにん)のことで、他国の「国人(こくじん)」(地元武士)と階層的には共通する。春日社は藤原氏氏神を祀る神社であり、中世においては興福寺と一体の存在であった。このため国民は興福寺にも従属しており、興福寺・春日社の暴力装置として機能した。衆徒と性格が似通っているため、「衆徒・国民」と並び称されることが多かった(ただし国民は僧侶ではないので、衆徒と異なり剃髪はしていない。また衆徒よりも興福寺からの自立性が強い)。彼らは、一乗院、あるいは大乗院に属して「坊人(ぼうじん)」とも呼ばれた。

 彼ら大和の武士たちは、毎年九月十七日(現在は十二月十七日)に開催される春日若宮祭礼(おん祭り、第5章で詳述)において流鏑馬を共同で勤仕した。当初は平田党・長川党と他国の武士が参加、13世紀半ばから14世紀初めにかけて長谷川党、乾脇(いぬいわき)党、葛上(かつらぎかみ)党が参加、鎌倉末期〜南北朝期に散在党が参加した。余談ながら、永仁の南都闘乱は、永仁元年(1293)のおん祭りの最中、流鏑馬の行列に紛れ込んで奈良に入った大乗院方の武士たちが一乗院を襲撃し、これに一乗院方の武士が応戦したところから始まっている。

 散在党が参加する頃から、他国の武士の参加が見えなくなり、大和国の武士が独占的に流鏑馬を勤めるようになった。やがて国民層を中心に、長川・長谷川・平田・葛上・乾脇・散在の六党がローテーションを組んでおん祭り流鏑馬を奉仕する体制が確立したのである。

 先行研究は、興福寺おん祭りを通じて大和国内の武士たちを組織・編成した、と説く。その事実を否定はしないが、それ以上に、おん祭りでの流鏑馬勤仕は衆徒・国民たちの連隊強化につながったと考える。興福寺の大和一国支配の進展と見るよりも、衆徒・国民の団結と台頭を評価する方が妥当だろう。

 

P22

経覚は、応永二年(1395)十一月六日、関白左大臣九条経教の子として生まれた。応永十四年、経覚は出家し、大乗院門主だった兄の孝円(14頁)の弟子になった。(中略)

 応永十七年三月二十六日に孝円が33歳でなくなったために、経覚が大乗院門跡を継いだ。十一月十六日には就任式となる「院務始」を行なっている。

 

P24

 本章の1節で大乗院・一乗院は摂関家から門主を迎えると説明したが(7頁)、厳密に言えば摂関家の子弟であればあれでもよいわけではなく、藤氏長者を経験した人物の息子でなければならなかった。

 

P44

 ところが、(経覚の)後任の松洞院兼昭(しょうどういんけんしょう)は永享八年八月、足利義教の怒りを買って興福寺別当を解任され、同年十月には大安寺別当の地位も失った。兼昭は十一月三日に亡くなった。世間では餓死したとも自殺したとも言われた(「経覚私要鈔」「大乗院日記目録」)。いずれにせよ不遇の死であることに変わりない。

 

P72 文正の政変

 寛正五年(1464)12月、足利義政の弟浄土寺義尋が還俗し、足利義視と名乗った。男子のいない義政が自身の後継者になってほしいと弟に頼んだのである。しかし、寛正6年11月、義視の元服直後に、義政の実子(後の義尚。以下義尚で統一)が誕生したことで、事態は複雑化した。義政は義視→義尚とう順での将軍継承によって解決しようとしたとみられるが、当時の幕政は義政の鶴の一声で動かせるものではなかった。

 この時期、幕府には3つの政治勢力があった。第1は、伊勢貞親(67頁)を中心とする義政の側近集団である。義尚の乳父(養育係)である貞親は、義視の将軍就任には反対であった。義政が将軍を続け、成長した義尚が後を継ぐことこそ望ましい。

 なお、一般には我が子を次の将軍にと願う日野富子が義視の排除を図ったと思われているが、義視の妻は富子の妹であり、両者の関係は必ずしも悪くなかった、富子は義尚成長までの中継ぎとしてなら義視の将軍就任を支持する立場であり、この時点では伊勢貞親と意見を異にしていたのである。

 加えて、側近たちは斯波義敏の政界復帰を後押ししていた。家永遵嗣氏はその理由を足利義政伊勢貞親の関東政策の転換に求める。すなわち、関東の足利成氏討伐を強力に推進するためには奥州の武士たちに影響力を持つ義敏の協力が不可欠だったというのである。だが、末柄豊氏が近年指摘したように、それは副次的な目的であり、それは副次的な目的であり、管領人事が焦点だったと思われる。細川派でも山名派でもない管領候補は、斯波義敏しかいなかったのである。

 第2は、山名宗全をリーダーとする集団である。赤松政則を後押しする義政側近集団と敵対する宗全は、義視の将軍就任と義政の政界引退を望んでいた。また、管領には娘婿の斯波義廉を押し込もうと考えていた(管領に就任できるのは斯波・細川・畠山の三家に限られる)。将軍足利義視管領斯波義廉が実現すれば、それは山名宗全政権に他ならない。

 第3は、細川勝元をリーダーとする集団である。勝元は管領職を畠山政長に譲っていたが、勝元の支援で家督になれた政長は勝元の影響下にあった。勝元の政治的立場は、伊勢貞親山名宗全の中間に位置する。勝元は、足利義視を排除する必要を感じていなかったが、一方で足利義政を隠居させる意図もなかった。足利義政→義尚という伊勢路線でもなく、足利義政→義視という山名路線でもなく、足利義政→義視→義尚という既定路線の維持が勝元の真意であったと考えられる。代々、穏健中道を歩んできた細川氏ならではの政権構想といえよう。

   (中略)

 伊勢・山名・細川。この三者鼎立の構造がついに崩れる時が来た。文正元年(1466。寛正7年2月28日に改元)七月、伊勢貞親や禅僧の季瓊真蘂ら側近たちの申請に基づき、足利義政は斯波氏の家督を義廉から義敏に替えた。これに対して山名宗全一色義直土岐成頼と共に義廉支持の動きを見せる。また貞親は、細川勝元と対立していた大内政弘を斜面したため、勝元は隠居を願い出るなど不満の意をしました(「大乗院寺社雑事記」。

 尋尊は成身院光宣からの楽観的な情報を信じ、義敏への家督交替はそれほど大きな波乱を生まないと高を括っていた。だが、朝倉孝景と連絡をとっている経覚は、山名宗全らがこのまま黙っているはずがないと予測していた。八月、足利義政が宗全の娘と義廉との婚姻を解消するよう命じると(「蔭涼軒日録」)、宗全らは分国から軍勢を呼び寄せ、京都は緊迫した情勢となった(「大乗院日記目録」)。

 そんな中、畠山義就が動き出した。

   (中略)

 要するに、伊勢貞親は、反山名の斯波義敏赤松政則、反細川の畠山義就大内政弘を糾合することで、山名・細川に対抗しようとした。従来、将軍側近と諸大名が対決する構図で語られてきたため、貞親の策動は無謀にしか映らなかったが、十分勝算が見込めるものだった。

 けれども、貞親には誤算があった。畠山義就大内政弘が上洛する前に、山名と細川の共闘体制が成立してしまったのである。九月五日の夜、「義視に謀反の疑いあり」との貞親の讒言を信じ、義政は義視を誅殺しようとした。義視は山名宗全、ついで細川勝元に助けを求めた。よく六日、山名・細川らの諸大名の抗議により、伊勢貞親・季瓊真蘂・斯波義敏らは失脚した(「後法興院記」「大乗院寺社雑事記」「経覚私要鈔」)。これを文正の政変という。

 文正の政変により、細川勝元邸に入った義視が事実上の将軍として政務を行ない、山名宗全細川勝元の二大大名が「大名頭(たいめいのとう)」として義視を支える暫定政権を成立した(「大乗院寺社雑事記」)。ところが、11日、義政は義視に害意のないことを誓った。義視は勝元に護衛されて自邸に戻り、勝元ら諸大名は義政に忠誠を誓った(「後法興院記」「大乗院寺社雑事記」)。義政は側近たちにすべての罪をなすりつけることで政務に復帰した。諸大名は貞親本人のみならず、弟の貞藤、嫡子の貞宗ら伊勢一族の追放を決議した(「経覚私要鈔」)。

 状況から判断すると、諸大名を説き伏せて義政の復権を主導したのは勝元である。義視を将軍に据えようという宗全の思惑は外れた。管領として長期にわたって幕政を動かしていた勝元は、政治的駆け引きの面では、宗全より一枚も二枚も上手であった。貞親という共通の敵が消えた今、異なる政権構想を抱く勝元と宗全の激突は避けがたいものになっていた。

 

P111

 前著でも紹介したように、近年の研究は足軽の跳梁を大都市問題として捉えている。すなわち、慢性的な飢饉状況の中、周辺村落からの流入により新たに形成され、そして着実に膨張していく都市下層民こそが足軽最大の供給源であった。また、足利義教期以降、将軍の恣意的な裁定によって多くの大名家が浮沈を繰り返したことも見逃せない。大名家の没落に伴って失職した牢人など武士層の参加によって、下層民・飢民は土一揆として組織化され、強大な戦闘力を持つに至った。

 一方、多賀高忠や浦上則宗赤松政則重臣)に雇われ、土一揆を討伐する側に回る者もいた。そして応仁の乱の勃発により、彼らは足軽として組織化された。土一揆足軽。名称こそ異なるが、参加者も行動(略奪・放火)も共通しており、両者は地続きの存在なのだ。

 足軽に最も期待された役割は、敵の補給路の遮断、補給施設の破壊である。足軽たちは機動力を生かして略奪や放火によって敵軍を披露させた。しかし、略奪や放火は敵軍だけでなく、京都在住の公家・寺社・庶民にも大きな被害をもたらした。足軽の大動員は、京都の荒廃に拍車をかけたのである。

 

P120

 ところが日野勝光は経覚の辞退を無視して、朝廷に働きかけた。結果、朝廷は3月30日に経覚を興福寺別当に任命してしまった(第1章冒頭で説明したように、興福寺は官寺なので、形式的には朝廷が別当の任免権を有する)。四月四日、寺門雑掌(興福寺の京都駐在官)の柚留木重芸(ゆるぎじゅうげい)が経覚のいる仰福寺にやってきて事情を伝えた。

 

P123

 学侶は番条長懐への懲罰として「名字を籠める」という措置を行なっている。「名字を籠める」とは何か。植田信廣氏や酒井紀美氏の研究によれば、寺社に反抗したものの「名字」を紙片に書きつけ、それをどこかに封印し、呪詛する行為を意味するという。今のところ、興福寺薬師寺東大寺など大和国の寺院でしか確認されていない。ここでは興福寺の事例を扱う。

 僧侶の名が籠められることもあるので、ここでの「名字」は苗字のことではなく、呪詛対象者を特定する名前を指す(元服・出家などの折に上位者に命名してもらうことを「名字を賜る」と表現する)。名字を籠める場所まちまちであるが、手水釜に入れたり内陣に籠めたり社頭に打ちつけたりしている。名を籠めた後に南円堂に集まって大般若経を唱え、調伏の祈祷を行なう。籠名と調伏はセットであり、両方を実行することで地涌が完結する。

 名字を籠める主体は、学侶、六方、学侶・六方共同のいずれかであり、たとえば門主が私的に名字を籠めることはできない。学侶や六方は「神水集会」をした上で名字を籠める。集会を開いて全員の参道を得て、神水を酌み交わして神に誓約する形を取らなければ、すなわち一揆を結ばなければ決定できないのである。よって、名字を籠めるという行為は私的制裁ではなく、学侶・六方という興福寺内の意思決定機関において一定の手続きに則って実施された公的な刑罰である。

 

P131

 木阿は経覚の同朋衆である。同朋衆というと貴人のそばに侍って楽しませる芸能者のイメージが強いが、身辺の世話をしているうちに側近的な役割を担う者が多い。木阿も茶の湯に通じていただけでなく、取次や使者としても活躍している。

 

P152 奈良の住民

 興福寺の周辺には数十の小郷が形成され、興福寺はこれらを束ねる上位の行政単位として七つの郷を設置した。南大門郷・新薬師郷・東御門郷・北御門郷・穴口郷・西御門郷・不開門郷(あかずのごもん)の七郷である。戦国時代の文献によれば、「南都七郷」と呼ばれた。他にも大乗院郷・一乗院郷・元興寺郷などがあったらしい。郷には寺社に所属する僧侶のほか、寺社に奉仕する商工業者や芸能民が居住していた。彼ら都市民は「郷民」と呼ばれた。

 郷民は興福寺東大寺、春日社、あるいは大乗院・一乗院(興福寺の院家)、東南院東大寺の院家)など、南都の寺社のいずれかに所属していた。彼らは寺社から公人・神人・寄人といった身分を与えられ、その特権と引き換えに寺社に対して役を負担していた。たとえば、興福寺に燈油を納める代わりに、興福寺から油商人として商売する自由と権利を保障される、といった具合である。

 そうした身分に付随する役とは別に、南都七郷は興福寺から役を課されていた。いわば住民税である。有名なものに、七郷人夫役がある。興福寺別当が建築工事や法会の準備などのために七郷から人夫を動員するものである。