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富田論文 ─東寺の寺院組織─

  富田正弘「中世東寺の寺院組織と文書授受の構造」(『京都府立総合資料館紀要』第8号、1980年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

P155

 その第1は、各寺院組織の会議録である「引付」である。「引付」には、評定の日付の次に、これに参加した僧名が序列順に所載されており、これを再構成すれば、各寺僧組織の当該年次の全構成員が明らかになる。また、「引付」を記録するのが年預であり、年預は評定参加僧名の最後に自らの名を連ねるから、当該年の年預も知ることができる。(中略)

 史料の第二は、各寺僧組織の次年次の年預を決める投票状ともいうべき合点状である。合点状には、まず年預の手によって一部を除く全構成員の交名が書き載せられ、これに評定参加者が合点を施して投票する。

 

P157

 中世的な寺院組織の特徴は、網野氏も述べるごとく、自治的な寺僧の法会組織の成立に求めることができる(『中世東寺と東寺領荘園』)。十八口供僧・廿一口供僧・学衆・講堂供僧・護摩供僧・不動堂供僧・鎮守八幡宮供僧・尊勝陀羅尼供僧などの法会組織が、公家や武家の助力によって形成され、それぞれ独自の年預・公文という所務執行機関をもち、独自の供料荘園をもつに至った。しかし、他方これらの法会組織の頂点に立つ、東寺の寺務執行機関である別当・三綱の体制は、一定の変容を遂げながらも建前として継続し、中世を通じて機能していた。中世東寺の寺院組織は、このような二重の組織の統合として考えねばならない。

 

P158

 東寺別当は、造東寺所別当としてはじまり、造寺が終わった後はそのまま東寺別当となったと考えられる。別当は、僧綱別当と凡僧別当があった。僧綱別当は、文字どおり、僧正・僧都・律師など僧綱所の所職を兼帯する別当で、東寺ではこれを長者と呼んでいる。これに対して、凡僧別当とは、総合の地位にない大法師以下の別当で、少別当とも称した。

 僧綱別当すなわち長者は、(中略)」4人となった。これら4人の長者は、すべて天皇太政官によって任命され、鎌倉中期までは太政官符・太政官牒をもって、それ以後は口宣案をもって補任された。そして、﨟次に従い、上首から一長者・二長者・三長者・四長者と称し、一長者が実際的な事務を掌握したから、これを寺務と称した。(中略)」

 寺務は、中世では、東寺の寺僧から出身することは全くなく、真言門徒の貴種で、醍醐寺・勧修寺・仁和寺大覚寺などの門跡から任ぜられるようになった。具体的な例は、表2の寺務の欄のごとくである。寺務の権限は、東寺寺僧はもちろんのこと、高野山神護寺その他東寺の末寺までに及んだ。

 寺務以外の二長者以下の東寺長者は、「寺務」という観点からいえば、全く名誉職にすぎないといえるが、ただ真言門徒の国家的法会である後七日真言院御修法の大阿闍梨、灌頂院御影供の供養法、結縁灌頂大阿闍梨は、すべて4人の長者の一人が勤めることになっていた。

 凡僧別当は、先述のごとく本来凡僧の別当を言うのであったが、天喜三年、時の凡僧別当頼命が法橋に叙せられてもその職を去らなかったのをはじめとし、綱維のものが任ぜられるようにあったといわれる。したがって、中世では、名は凡僧別当であるが、ほとんど僧綱維を有している。これは、凡僧別当の地位が向上したわけではなく、僧綱所僧官の権官数が膨張して、位官の昇進が安易になった結果であり、少別当としての性格に変化がなかった。(中略)ところが、久安元年寺務となった寛信は、凡僧別当覚雅を改め、門弟明海を挙補して以来、凡僧別当は寺務の進止にかかるものとなり、寺僧以外の寺務の執事がこれを兼帯する場合さえあった。ここにおいて、寺務と凡僧別当とは同等の別当ではなく、凡僧別当は寺務の下部機関となり、身分的にも寺務は公家でいえば参議・三位以上の公卿に相当し、凡僧別当は、寺僧と同じく堂上の四・五位というように固定された。そして、寺務は東寺以外の高野山以下にも支配権を有するが、凡僧別当は東寺一寺に関する寺務の代官という性格をもつに至ったのである。

 凡走別当は、寺僧であれ、寺僧以外の寺務執事であろうと、また寺務の代官としての性格をもつとはいえ、一応東寺一寺の統括者であり、寺務と寺僧との連絡調整に当たった。寺務は東寺に在住せず、自坊の門跡寺院に止住したが、凡走別当は、寺僧が当任である場合には、当然ながら東寺に在住している。しかし、寺務の執事が凡走別当である場合には、寺務の住房に侍すから、東寺には不在ということになる。後者の場合、寺務は、寺僧のなかから別当代を補任し、その不便を補った。(中略)

 凡僧別当の補任は、鎌倉中期までは、長者の補任と同様、太政官牒をもって任じられた。しかし、それ以降では、口宣案も出されなかった。(中略)

 東寺別当を論ずる際、除くことができないのに、修理別当すなわち執行がある。執行は東寺の堂舎の管理・修理に当たっていたと考えられるが、その支配下には堂舎の管理・修理を掌る諸堂預・番匠大工以下の下部がおり、凡僧別当・執行と目代の位署を据えた下文でもって補任されていた。執行とその支配下の下部等については、凡僧別当─寺僧とは別の独立した支配構造をもつが、それはそれで一つの所論を必要とすると思われるので、この稿では一応考察の対象から除外することにする。(中略)

 したがって、中世における三綱は、平安時代のごとく寺僧と同等のものではなく、公家でいう地下のものに相当し、身分上、堂上相当の寺僧の下位に位置付けられるようになる。ただ、三綱の補任は、寺僧と同様、寺務・長者・凡僧別当の位署を加える(ただし、三綱の位署は、三綱自身の補任であるため省略される)」、「官符未到之間」云々という文言をもつ東寺政所下文をもって行なわれる。(中略)さて、中世の三綱は、いわば名前だけの建前にすぎないが、寺務─凡僧別当の下で、寺務を処理する政所が必要なことはいうまでもない。この政所の実際上の構成員は、旧来の三綱ではなく、三綱・三綱の権官・前官を含む広く寺官層から選任されたのであり、その政所の長が目代であろう。目代は、寺務・凡僧別当の交替ごとに補任され、政所を統率したが、その僧位・僧官も南北朝期には寺官ながら法眼・法橋の高位を占めるようになった。したがって、東寺別当の政所は、三綱から目代に替わったと言ってもよい。

 以上述べた中世東寺の事務執行機関を図式化すれば、

(建前として)

    (寺務       (上座

  別当 長者    ─三綱 寺主

     凡僧別当)     都維那)

(実際的には)

  寺務─凡僧別当目代

 

 

 

P163 (二)寺僧組織

 南北朝期から戦国期に存続した寺僧組織には、(1)十八口供僧方(2)廿一口供僧方(3)最勝光院方(4)学衆方(5)宝荘厳院方(6)鎮守八幡宮方(7)不動堂方(8)植松庄方などがあった。

 

P163

 (1)十八口供僧方

 朝廷は、延応二年西院御影堂に五口の供僧を置いたのをはじめ、建長四年には十口を加えて十五口となし、講堂・金堂・灌頂院・食堂・不動堂に三口ずつ供僧を配した。さらに弘長三年に一口、文永年中に二口を加え、この三口を鎮守八幡宮に配して成立したのが十八口供僧である。十八口供僧は、正和元年、三口の御影堂供僧を加えて、廿一口供僧を形成するが、前者の十八口供僧を後者の三口供僧と区別し、本供僧と読んでいる。これに対し、後者の三口供僧を新供僧という。本供僧が十八口方を形成するが、このうち講堂の三口は、正中二年講堂供僧六口が置かれた際、塔婆に移された。

 これらは、それぞれの堂舎で公家のための長日行法を行なうが、金堂では薬師供、灌頂院では金剛界胎蔵界行法、食堂では千手供、不動堂では不動供、八幡宮では本地供・最勝王経転読、塔婆では金剛界胎蔵界行法を行ない、また鎮守八幡宮では十八口結番して長日理趣三昧を行なった。これらの供料としては、丹波国大山庄・若狭国太良庄・大和国平野殿庄・伊予国弓削島庄等が宛てられた。

 

 (2)廿一口供僧方

 右の本供僧たる十八口供僧と新供僧三口で形成するのが廿一口供僧方である。新供僧三口は、御影堂舎利塔前で金剛界行法を行なった。この廿一口供僧方は、承和四年以来の定額僧に相当するものであり、公家や武家の命で行なう天変地異等に際する臨時祈祷のうち、定額僧として行なうものは、この廿一口供僧が担当した。室町期には、十八口・廿一口供僧の諸堂の長日行法は退転気味となるが、これに替えて、公武の臨時祈祷、室町殿の四季講堂仁王経読経、伏見殿の正月十七日鎮守八幡宮仁王経読経などを中心的に行なうようになり、誰がどの堂舎の供僧であるかという区別も全くなくなるのである。

 十八口並びに廿一口供僧の補任は、廿一口方で決定する。この供僧職は、所職化していて譲与の対象となり、どの供僧職が本供僧職であるか、あるいは新供僧職であるかは、明瞭に区別されている。新供僧職所帯者が廿一口供僧方に属するのみであるのに対し、十八口供僧=本供僧織の所帯者は、廿一口供僧方と十八口供僧方の双方の構成員を兼ねるのである。(中略)

 廿一口供僧方で支配する所領は、伊勢国大国庄・摂津国垂水庄・大和国原城庄・播磨国矢野庄・山城国上野庄・尾張国大成庄などがあった。

 

P165 (3)最勝光院方

 正中二年、後醍醐天皇の御願によって、講堂に六口の供僧、灌頂院護摩堂に三口の供僧が置かれ、前者は講堂供僧といって仁王般若秘法を行ない、後者は護摩供僧といって長日護摩を修した。この講堂供僧六口と護摩三口を合わせた九口が最勝光院方を形成する。これは、その供料を最勝光院執務職とその所領によってまかなったために名付けられた寺僧組織である。その所領には、備中新見庄・尾張国原田庄・同村櫛庄・山城国柳原などがある。

 供僧の補任方法は、廿一口供僧のうち上﨟より六口を講堂供僧、次の三口を護摩供僧に補任する。ただし、東寺常住のものに限り、他住のものは除く。そもそも、廿一口供僧も常住のものを任ずるのが原則であるが、南北朝期、戦国期は必ずしも原則どおりではなかったのである。講堂供僧の欠員が生ずると護摩供僧から補充し、護摩供僧は廿一口供僧のうち非(最勝光院)供僧一﨟を補任する。講堂供僧は、評定で決定後、公家に奏請し、口宣案で補任される。護摩供僧は、評定で決定するだけで補任状はない(ただし、臨時を申し請うこともある)。

 

 (4)学衆方

 応長二年、後宇多上皇によって七口の伝法会衆が置かれ、その後、十六口に加増された。また、正和四年、伝法会学頭一人が補任され、建武二年、学頭一人を加えて二人となり、学衆(伝法会衆)十六人と学頭二人を合わせて、十八口が学衆方を形成する。学頭・学衆は、春秋二季の伝法会を行なう。伝法会は、大日経疏・釈摩伽衍論等の談義を毎季三〇日間行なうものといわれる。二人の学頭は、春秋それぞれ一季ずつの学頭を勤める。学衆方の支配する所領は、山城国上桂庄・同拝師庄・播磨国矢野庄・八条院院町十三ヶ所・常陸国信太庄等である。

 学衆は、学頭二人、勧学会学頭を兼帯する学衆二人、学衆一﨟一人の合計五人の評定によって、談義等の器要を選任した。(中略)器要を重んじ、常住寺僧からばかりでなく、他寺の住僧からも選任された。学頭は、学衆全員の評定によって選任されるが、多くは法印や僧正などの長老の器要が選任された。南北朝期は、ほとんど他寺の住僧が学頭を勤めたが、室町期には、明徳元年に賢宝が伝法会学頭に補任されて以来、常住寺僧の長老が選任されるようになった。(中略)勧学会衆は、学衆の定員外であるが、その学頭は、学衆のうちから兼帯する定めであった。その選任も、伝法会学頭と同じく学衆全員の評定で行われた。学衆に適任者がいない場合は、伝法会学頭が兼帯することもあった。

 

P167 (5)宝荘厳院方

 元亨二年、後醍醐天皇によって御影堂における勧学会談議がはじめられた。その際、勧学会衆は五人であった。その後四〜二人に減り、その数は不定であり、その学頭は前に述べたごとく学衆あるいは伝法会学頭の兼帯であった。勧学会衆は参籠衆とも呼ばれ、学衆方において本人の申請に基づき補任された。なかには、学衆で勧学会衆になる例もあるが、たいていは学衆以外の﨟次の低い寺僧がこれに任じられた。その料所は、はじめ安芸国別納地、高屋・余田・三田・平田郷が宛てられたが、その実はなかったので、のち宝荘厳院執務職が付された。宝荘厳院領には、近江国三村庄・同嶋郷・丹波国葛野庄、宝荘厳院敷地等がある。

 しかし、宝荘厳院方の構成員は、勧学会衆ではなく、廿一口供僧と学衆であった。廿一口供僧と学衆とで、宝荘厳院とその所領を支配し、勧学会衆を扶助するところに、この寺僧組織の目的がある。したがって、宝荘厳院方の構成員は、定員もなければ、補任することもない。廿一口供僧と学衆とがそっくりその構成員となり、その数も廿一口供僧と学衆とを兼帯する兼帯する寺僧の数の多少によって増減したのである。

 

 (6)鎮守八幡宮

 建武三年、足利尊氏山城国久世上下庄地頭職を東寺鎮守八幡宮に寄進することによって、同五年三〇口の供僧が置かれ、大般若経転読と本地供行法を行なうことになった。鎮守八幡宮供僧は、廿一口供僧と学衆とから補任され、三〇口に満たないところは、非供僧の常住寺僧を﨟次に任せて充補した。しかし、たとえ廿一口供僧や学衆であっても、自動的に鎮守供僧になれるのではなく、鎮守供僧方の評定で承認されなければならなかった。したがって、定員の関係で鎮守供僧補任を見合わせられる供僧、学衆もあった。補任の方法は、欠員が生じた場合、本人が所望状を提出し、評定で器非器を審議し、決定する。補任状は、年預が本人宛てに補任の旨の書札を送ることによって行なう。

 

P168 (7)不動堂方

 元弘三年、後醍醐天皇は不動堂に已灌頂のうちから廿五口の供僧を置き、不断護摩を勤修させた。料所は、若狭国太良庄・丹波国大山庄・備中国新見庄の各地頭職が宛てられたが、建武三年室町幕府の成立に伴い、大山・新見庄の地頭職が退転し、太良庄地頭職のみの供料で、毎日一座の不動供を行なうよう改められた。したがって、この寺僧組織を太良庄地頭方とも称した。

 供僧の補任は、鎮守供僧の補任と同様、希望する寺僧が所望状を提出し、供僧の評定を経て、年預の書札をもって補任する。

 

 (8)植松庄方

 観応三年、足利義詮が武運長久を祈って山城国植松庄地頭職を寄進することによって成立した寺僧組織で、武家のために尊勝陀羅尼を勤修した。その構成、補任の方法などはなお検討を要する。

 

P169

 図からも明らかなように、鎮守供僧は、廿一口供僧と学衆全員を包含し、廿一口供僧と学衆のうちには双方を兼帯するものもある。廿一口供僧と学衆を合わせれば宝荘厳院方であるが、これも鎮守供僧に包含されることになる。廿一口供僧は、十八口供僧を完全に包含しているが、さらに廿一口供僧の常住上首六口は講堂供僧、次の上首三口は護摩供僧であるから、最勝光院方は完全に廿一口供僧に包含される。かくて、鎮守供僧は、不動堂方供僧・陀羅尼供僧以外のすべての寺僧組織の構成員を包含しているということができる

 

 (三)年預・公文

 各寺僧組織は、﨟次による序列があり、その最上﨟の寺僧を一﨟と呼び、その代表となる。しかし、実務は、構成員から選出される奉行(一人)によって執り行なわれる。奉行は一年交代であったから普通これを年預と呼んだ。年預の決め方は、廿一口方・十八口方・学衆方・鎮守八幡宮方では、合点によって選出した。最勝光院方は、講堂供僧六口の﨟次による輪番制であり、宝荘厳院方は、南北朝期には輪番制から合点に変わり、室町期には廿一口方年預の兼帯となった。不動堂方は、南北朝期には﨟次による輪番制であったが、室町期になって合点による選出に改めた。このようにして選出された年預は、各供僧の評定を設営し、その決定を実行に移したのである。

 これらの寺僧組織は、各自の法会を行なうとともに、その供料所領の支配まで行なった。法会は、年預が廻請(回状)を認め構成員寺僧を招集し、供料所領については、個別に寺僧を給主に定め、その経営を委ねた。その際、その給主の補任は、年預の書札をもって行なった。

 これらの寺僧は、身分的にいえば、堂上の四・五位に相当する階層であるが、このような寺僧組織、年預の下で所務を掌ったのが、地下の公文であった。公文は主として、供料庄からの年貢・公事等の収支経理、荘園の代官以下荘官へ下命する文書の作成などに当たった。公文は、各寺僧組織にそれぞれ置かれたと言ってもよいが、廿一口方・十八口方・鎮守八幡宮方、不動堂方は、一人の公文が兼帯した。学衆方・最勝光院方・宝荘厳院方は、それぞれ独自の公文を定めていた。このうち廿一口方の公文は、惣公文といい、署名も、「公文所法眼」・「公文所法橋」と称し、他の公文が「公文法眼」等と署すのと相違している。これは、各寺僧組織が同じ寺僧をその組み合わせ方により、多様な組織を現象させているように、公文所もまた一つのものであることを物語っている。公文所の長が惣公文であり、各寺僧組織の公文とは、公文所内の担当分掌と考えてよいであろう。公文の補任は、各寺僧組織の年預が奥上署判の下文で補任する。日下には、署判がない。なお、これら公文の補任表は、表三に示した。

 

 

P175 二 文書授受の構造

 寺務は公卿(三位以上)、凡僧別当・寺僧は堂上(四・五位)、目代・三綱・公文は地下(六位以下)に相当すると述べた。このような階層構成は、その僧位僧官に如実に示されている。すなわち、寺務および長者は、大抵、法親王・准三宮・前大僧正・大僧正・僧正で、少なくとも権僧正である。その出身階層も、公卿の子弟の場合が多い。これに対し、凡僧別当・寺僧は、大法師から法印権大僧都までで、昇進してもせいぜい権僧正あるいは僧正どまりである。大法師は六位相当であるが、これら寺僧は、ある年数を経ると必ず権律師(五位相当)以上に昇進したのである。ところが目代・公文は長い間大法師(しかも阿闍梨でなく公である)で、(権)都維那・(権)寺主・(権)上座を経験し、その極官は法橋又は律師、よくて法眼どまりである。目代・公文と同一の階層に属するものとしては、前章では触れなかったが、寺僧組織の下にいる雑掌・納所・荘園在地代官などがあり、目代・公文は、これらの人々のから選ばれ、また公文がその職に任ぜられることもあった。

 

P179 寺務から各寺僧組織の年預への文書の伝え方

 

⑴寺僧凡僧別当(凡僧別当寺内止住)の場合

  →仰→執事→執事奉書→凡僧別当→凡僧別当施行状→年預

寺務→執事奉書・寺務自筆御教書→凡僧別当→手交→年預

  →寺務自筆御教書→凡僧別当→凡僧別当奉書→年預

 

⑵執事凡僧別当(凡僧別当他住)の場合

         →凡僧別当奉書→別当代→手交→年預

 寺務→仰凡僧別当

         →凡僧別当奉書→年預

 

 以上、寺務から各寺僧組織の年預への文書の伝え方を述べたが、これは書札様文書お場合である。前述のごとく、書札は水平方向の伝達文書であって、寺務から寺僧への書札も寺務自筆御教書を除けば、事務の口頭命令を受けた執事ないし凡僧別当から凡僧別当別当代ないし年預への水平方向の伝達機能を果たすものといえる。このことは、書札様文書が権門内へ浸透し、寺僧組織が寺務から相対的な独立性をもってきたことの表れであるが、建前からいえば、寺僧は事務の支配に服さねばならない。その文書形式上の表れが、中世を通じて伝存する東寺(政所)下文である。

 

 

 

 富田正弘「中世東寺の寺官組織について─三綱と中綱層─」(『京都府立総合資料館紀要』第13号、1985年)

 

P48

 しかし、問題を少し限定して、中世寺院の組織・構造に関して、意識的に真正面から取り組んだ論考は、稲葉伸道「中世東大寺寺院構造研究序説」であろう。稲葉氏は、網野氏の鎌倉期東寺領荘園における庄務権の東寺長者・執行から供僧・学衆への移行というシェーマを受け継ぎ、中世東大寺における寺院組織権力の「二元性」を明らかにするとともに、はじめて個別の中世寺院組織の全体的枠組みを示した。このような寺院の構造は、後の研究によって他の寺院においても妥当することが確かめられたが、その「二元性」とは、古代的な「政所系列の寺務機関」と寺僧の集会組織を中核とする「惣寺系列」の庶務機関との二重構造性であった。政所系列の寺務機関は、別当・執行・三綱・下所司等であり、これは古代官寺のいずれにも共通して置かれた、律令的古典的寺務・寺官の組織であった。中世国家において、律令的諸政治機関が完全に解体されることなく、中世的国家諸機関を補完し、その正統性を付与したように、これら寺務・寺官組織は、どの寺院においても、中世的な「惣寺系列」の所務機関を補完・正統化するため、中世はおろか近世に至るまで温存された。これに対し、「惣寺系列」の所務機関は、稲葉氏の明らかにした東大寺でいえば、惣寺衆会・年預五師・公人・神人等の組織であったが、これはここの寺院によって多様な形態を持っている。しかし、その多様性にもかかわらず、寺僧の集会を中核とし、その執務機関としての年預、その下部の実務機関としての「公人」等の組織をもつことなど、組織の大枠においてはほとんど他寺の組織と共通しているということができる。この系統の寺院所務組織は、大概網野氏が東寺において供僧・学衆の評定・年預・三上人・預・公文・承仕・主殿等々として検証した系統の組織であり、律令的政所(別当・三綱)系統の寺務・じかん組織と対抗しつつ形成されてきた、新たな中世的寺院組織の形態であった(このような惣寺を、東寺寺家と呼んでいたが、ここではこの惣寺の所務組織を「寺家所務組織」と定義しておきたい。)。しかし、これらの寺家所務組織は、古い政所系統の寺務・寺官組織に完全に取って代わることはせず、自らの足らざるところをこれらの古き組織でもって補完し、また自らの寺院運営や所領支配の正統性の根拠をこれらの古き組織からの権限移譲に求めていたのである。網野・稲葉氏の業績の一つは、このような中世寺院の寺院運営組織の古代からの変遷過程で堆積された二重の地層を明確にした点であろう。すなわち、これらの二系統の寺院組織は、稲葉氏のいうごとき「二元性」というよりも、地層的な「二重構造」というべきではないだろうか。

 従来から、中世寺院の僧侶集団を身分的に大別すれば、学問や修法を掌る学僧(供僧・学衆・学生等)と、供花・堂守・法会の役僧を専らにする堂衆とに分けられ、これらとは別の無縁的な聖集団がいたことが明らかにされている。しかし、このような身分でいえば、諸寺の長官(長吏・長者・別当)を占める貴種出身の門跡層を学侶身分の上に立つ一つの身分層をなしているとしなければならないが、聖を除くこの僧侶の身分階層は、公家社会の身分階層に例えれば、門跡は三位以上の公卿、学侶は四・五位の殿上人、堂衆は六位以下の侍・有位の官人(地下人)に相当するということができよう。

 さきにみた中世寺院の政所系列の寺務・寺官機関は、別当(長吏・長者)・執行・三綱・下所司等からなったが、別当は門跡クラス、執行はほぼ学侶クラス、三綱は堂衆クラスに相当し、寺家所務組織でいえば、惣寺集会の構成員(学侶・供僧)・年預はもちろん学侶クラス、公人・神人等は堂衆以下のクラスといえるであろう。(中略)公人の性格についての稲葉氏の結論は、多岐にわたるが、これを私流にまとめると、

 ①公人は、院家等の私的使人ではなく、寺院の公的使人であり、特に惣寺における使人の性格が強い。

 ②寺院機構の末端に位置づけられ、そのうち中綱・小綱は僧体、堂童子・仕丁・職掌は俗体である。

 ③公人は妻帯し、相互に血縁関係で結ばれ、その職を世襲し、座的構成を有した。

 ④公人の活動としては、所領の支配・検断・課役の徴収を行ない、検断に際しては下部に非人を組織していた。

等々である。

 

P54 一、三綱層と中綱層

 中世後期における東寺の寺僧は、院家に入室して稚児となり、得度受戒して大法師位を得る。同時に寺僧の交衆として待遇され、供僧や学衆に欠員が生じた際には、譲与や推挙によって供僧・学衆に補任される。大法師も伝法灌頂を受法する以前は「公」と称され、受法以降は「阿闍梨」と呼ばれる。次いで、僧綱の僧官を得、次第に権律師権少僧都権大僧都・法印権大僧都・法印と昇進する。法印権大僧都ないし法印が東寺寺僧の極官である。なかでも、特に功績の認められた寺僧の長老は、特別に権僧正に昇れたが、それは供僧・学衆の中でも、一・二名の特例であった。これに対し、下級僧侶においては、得度剃髪して法師位・大法師位を得てこれらの僧侶の交衆となり、欠員あれば中綱職ないし三綱職に補任される。中綱の僧官は特にないが、三綱職を得たものは、(権)都維那・(権)寺主・(権)上座と次第に昇進する。また、三綱・中綱から特に功労のあったものは、僧綱の僧位たる法橋上人位・法眼和尚位を得るが、それ以上の昇進はない。寺僧においては、法橋・法眼に相当する律師・僧都等の僧官は経歴するが、僧位のみ(散位)の法橋・法眼を経ることがないから、寺僧と下級僧の僧位官の経歴には劃然とした区別があった。したがって、その僧の僧官僧位を見ただけでどちらの階層の僧であるか、直ちに確認することができるのである。

 次に、僧侶の通称についてみてみる。俗人においても、自らの正式の名乗りをする場合は実名を称するが、他人がその人を呼称する場合は、官位名・居所名・名字等の尊称や間接的な呼称を用いる。寺僧において、院家の院主ならば、「宝厳院」・「観智院」等の院号を用い、院家の同宿の寺僧ならば、「大納言」・「治部卿」といった律令的官職名をとった仮名を用いた。この官職仮名は、「介」・「帥」・「大貳」といったものを除けば、ほぼ中央官庁の官職名を帯している。その官職も、「大納言」が最高位で、「太政大臣」・「左・右大臣」・「内大臣」等の大臣の官職名はとっていない。したがって、東寺寺僧の官職仮名は、「大納言」以下の中央官庁の職名を用いているということができる。これら官職仮名は、その寺僧が出家当時の実父の官職か、もしくは猶子となった当時の「猶父」の官職をもって呼称されるから、この仮名は、いわば寺僧の出身階層を示す指標といってよいであろう。したがって、東寺寺僧の出身階層は、中流貴族階層と言い換えることもできる。

 これに対し、下級僧侶の通称は、多少複雑で四種類に分けることができる。一つは、寺僧と同じ官職仮名で、「侍従」「式部」「大貳」「大夫」「大輔」等を称するものである。これらは、三綱・中綱職の兼帯者に見えず、特殊に雑掌・公文等の帯職者が称している。おそらく、これらの僧たちは、本来寺僧となるべきものか、あるいは他寺からの流入者と見るべきであろう。二つ目は、官職仮名の延長というべき、「若狭」や「越後」といった国名である。これらは守・介・掾・目のどの官職を示すものか不明であるが、寺僧に「介」の仮名がある以上、掾・目を示すものと解釈できる。三つ目は、全くの仮りの名である。「浄円」・「乗南」といったもので、ここではこれを単に仮名と呼ぶこととする。最後は、俗人の名字にあたるもので、「高井」や「宮野」と称する例であり、これは親から子へと継承されるものである。しかし、この名字も、主として雑掌に関わるときの通称であって一般的ではない。とすると、これら下級僧侶の通称は、一般に国名と仮名であるということができる。これらは、一見して寺僧の院号・官職仮名と区別できるものである。

 僧位・僧官および通称において、寺僧と下級僧侶の身分的相違は明確であるが、これらの僧侶身分の性格はどのように異なるのであろうか。まず、第一に言えることは、寺僧は妻帯をしないのに対し、下級僧侶は一部を除いてほとんど妻帯していると考えられることである。僧侶の妻帯については、すでに多くの指摘があるが、旧仏教の世界に関する限り、寺僧の妻帯は禁止され、下級僧侶の妻帯は社会的に容認されていたのである。したがって、第二に、寺僧の院家・財産は師弟の間で相伝されるのに対して、下級僧侶の所職・給田得分は、父子の間で世襲されることになる。そして、第三に、これら下級僧侶は、その半俗的性格からして、浄行を旨とする法会修法・学問教学から疎外され、これらは専ら寺僧の行なう行業となり、下級僧侶は承仕等の法会の補助や堂舎・仏具の維持・管理、所領支配、寺院経済の実務のみをその職掌とするに至ったのである。さらに、第四に、東寺の場合、惣寺として、寺内の重大事から細々事まで決定をする集会組織である評定は、寺僧の独占するところであり、下級僧侶はそれから全く除外されている。東寺においては、下級僧侶も含む満寺の集会組織などあり得なかった。

 寺僧と下級僧侶の身分はかくも大きなものであったが、これほどでもないにしても、下級僧侶の中でも、三綱に任ぜられうる層と、中綱に補任されうる層の二身分にはっきり分けることができる。ここでは、前者を三綱層、後者を中綱僧と呼ぶことにする。

 三綱層と中綱層を分ける指標は、やはり僧位・僧官と通称(仮名)である。三綱層は、得度して大法師位を得、「公」を称して国名を名乗り、基本的に院家の青侍となる。「公」は、寺僧の「公」と同じで伝法灌頂未受法の大法師であるが、この国名と「公」とは、青侍すなわち六位の侍品の象徴であった。次いで伝法灌頂を受法すれば、「阿闍梨」となり、将来律師に進みうる道が開けるのであるが、この道を進んだ三綱層は少ない。(中略)さて、立ち戻って、青侍はこのままでは院家の私人であるが、青侍のうち浄行のものを精選して夏衆とする。夏衆は、食堂の千手観音に安居の間(すなわち夏十)香花を供える座衆で、供花衆とも呼ばれる。この夏衆は、いわば三綱層の座的結合の中核となる組織である。そして、三綱層が、自ら直接仏神に奉仕できるのは、この供花活動においてのみであり、また多少の教学を身につけ、阿闍梨に進みうるのも、この組織を通じてであった。さらに、青侍のうちから、三綱が補任されるが、その多くはすでに夏衆として寺家に奉公しているものが選ばれた。三綱もまた、建前では浄行のものを選んだためである。夏衆は、三綱への就任によって衆を抜ける必要もなく、三綱を辞しても同様であり、両職の兼帯及びそれぞれの去就は、互いに規制し合うものではなかった。ただ、一般に、夏衆から三綱に進むのが、三綱層の昇進コースであった。(中略)以上のごとく、三綱層は、僧位僧官においては、「公」・「阿闍梨」・三綱官を経て、法眼まで昇進できる階層であり、仮名として国名をもち(ただし後述の中綱層のもつような仮名はもたない)、あるいは名字をもつ(雑掌を兼務するときであろう)ような階層であった。(中略)すなわち、青侍そして三綱層は侍品でなければならなかったし、後述の北面・中綱あるいは院家の小者をもって侍品たる青侍や従僧に取り立てることは、身分制を乱すものと考えられていたのである。このように三綱層の中綱層に対する身分的優位性は寺僧(若衆)も認めるところであった。

 これに対し、中綱層は、得度剃髪後、法師位を得るのみで、それ以上の昇進はほとんどない。大法師位にはなれず、「公」として国名も名乗れず、「阿闍梨」として律師への昇進もかなわず、三綱に補任されることがないから三綱の僧官ももたない。ただし、功労あるものは、大法師位・三綱官を経ず、直接法橋上人位に叙される。その際法橋に叙されても、中綱を辞さないのが特徴である。また、夏衆にも補されないから、学問や仏神への直接奉仕は全く許されない階層である。ただ、中綱に欠員が生じれば、次第にこれに補され、中綱補任をもって、稲荷祭礼の頭役を職掌とともに勤める両座衆を形成する。両座のうち中綱座こそ、これら中綱層の座的結合の中核であった。中綱に任じられた僧侶は、世襲的に北面・不動堂・講堂・金堂・食堂・塔・鎮守八幡宮・灌頂院の諸堂預と、大炊職および真言院少行事職のいくつかを兼帯する。中綱層は、これら所職が世襲的であることから分かるように、ほとんどが妻帯しているとみてよい。通称については、代々「浄」・「敬」・「乗」・「定」等の通字をもつ仮名を使用するが、一族においては何通りからの仮名をもち、これを何代かごとあるいは兄弟間で繰り返し使用することが行われた。(中略)ただし、中綱のうちでも、西院北面の預は、中綱の上といわれるほど、一段高い地位にあり、一般の中綱とは多少異なるところがあった。その象徴としては、仮名の他に、功労によって国名をもつことが特徴である。その国名は、若狭・越後・伊予の三国に限られていた。

 このように、中綱は、僧位僧官としては法師位に甘んじ、大法師(公・阿闍梨)にも三綱僧官にも昇れず、功労あったもののみ法橋に叙せられる階層であり、通称としては北面預を除いて国名は許されず、名字も持たず、ただ数種の仮名を一族で襲名するのみであった。そして、三綱層のごとき夏衆にはなれず、稲荷祭礼の諸役を勤める両座衆となり、堂預等の所職を世襲的に勤める階層であり、本来の僧侶の行業からはほとんど疎外された寺院下部であった。

 

P60(注)18

 『東寺私用集』によれば、稲荷祭礼の役を勤める座として、中綱座・職掌座・寄合座・御酒座・八幡座・赤飯座等が見えるが、このうち前二座を両座と称している。

 

 

P61 二 三綱層と中綱層の所帯諸職

 中世東寺の下級僧侶の二大身分三綱層と中綱層は、それぞれ寺内において寺院経営上の諸職に補され、それぞれの役割を担っているが、これらの諸職にはこの二大身分のどちらかが独占する諸職と、身分に関係なく任ぜられる諸職があった。また、これらの諸職には、終身在任し世襲される所職と、随意に有能なものを登庸し、登庸する側の事情で随時改替できる職とがあった。

 

「院家の諸職」

「青侍」前述のように青侍は、国名を名乗り「公」と称するところからも分かるように三綱層の独占する職である。また、「隆恵僧都青侍」(頼金)のように寺僧個人に属する青侍がいるところを見ると、院主の交替によって改替される職かもしれない。青侍が夏衆や三綱等の公職に就くと、青侍を辞すか否かについては、なお検討が必要である。

 

「寺務・寺官組織系列の諸職」

「三綱」三綱へは、寺内の院家青侍・諸門跡(寺外)の青侍・夏衆のうちから、浄行で有能なものをもって補任する。国名や「公」・「阿闍梨」のものをもって登庸するから、これも三綱層の独占する職である。三綱職の補任は、寺務・凡僧別当連署の補任状をもって行ない、都維那・寺主・上座等の僧官は、官牒や口宣案をもって朝廷が補任したのである。特に任期はなく、法橋に叙されるのをもって三綱を辞すと考えられる。三綱は、本来、寺務処理の正規の実務機関であるが、これは次第に目代─勾当がこれを代行するところとなり、少なくとも平安末期以降では、長者の拝堂や准御斎会の法会に参列して諸役を務める程度の役割しかなく、身分・階梯を表す称号と化している。

 

目代目代は、前述のように三綱に代わって事務の実務を行なう「在庁」(勾当)を指揮するため寺務(長者)から派遣された代官といえるが、このような寺務の代官としては、凡僧別当もいるので、目代は勾当とともに「在庁」的性格をもち、三綱に代わってその実務を処理したと考えられる。ただ、代官としての性格は、凡僧別当とともに、寺務の遷替に伴って改替されることに表れている。(中略)ほぼ、東寺の三綱層をもってこれに補任するが、ときどき寺務の青侍をもって目代とすることもあった。しかし、このような場合は、目代は東寺に派遣されたわけではなく、寺務の住房において執務するのであって、東寺には東寺三綱層のうちから選んだ目代代(目代の代官)を置いたのである。これは凡僧別当別当代との関係と同じである。目代目代代は、寺主あるいは上座をもってこれに宛てる点では三綱と同じであるが、法橋・法眼に叙されてもこれを去らず、またはじめから法橋・法眼をもってこれに任ずることもある点で三綱とは異なる。いずれにしろ、三綱層の補任される所職であることは間違いないところである。もちろん、これに世襲はあり得ないところであるが、永享三年以来、宮野浄聡が十一代二十二年間この職にあり、以後も断続的に文正元年まで目代目代代を勤めた。それ以来、この職は、宮野家の一族である「聡」や「浄」のつく僧侶のものが多く補任され、この家の家職的様相を呈している。

 

「勾当」勾当は目代とともに三綱の代わりをなす職であるが、目代と異なり「在庁」的色彩が強く、必ず東寺在住の三綱層をもってこれに補した。特に、応永三十年の尾張定慶以後は、永禄四年の讃岐定全まで、ほぼこの家に独占的に世襲されている。したがって、一時的に中綱層の浄円寿源や慶一浄甚がこの人についていることは気になるが、これもほぼ三綱層をもって補任される職といってよい。

 

「夏衆」各院家の青侍から補され、定数は正和年中で十二人といわれる。欠員は、所望のものが院主の推挙にて廿一口方に申し出せ、評議を経て、適当ならば、夏衆方の決定に任せて、入衆する。

 

「中綱」中綱が東寺に置かれたのはいつからか不明であるが、少なくとも平安時代末期には、その名がみえ、『東宝記』によればその定数は十三人であるという。補任は、凡僧別当・執行・目代連署する補任状によってなされるため、寺家(寺僧)の配下としてよりも、寺務の被官としての意識が強い。もちろん、補任されるのは、すべて中綱層であり、法橋に叙されてもなおその職にあり、辞退か死没によって、あるいは罪科による処分によってのみ、その職を去った。

 

「諸堂預」東寺内の西院北面(御影堂)・同南面(不動堂)・講堂・金堂・食堂(千手堂)・塔婆・鎮守八幡宮・灌頂堂の八堂の堂守であり、堂舎・本尊の宿直警備・維持管理および諸堂における法会の承仕を勤める職である。凡僧別当・執行・目代連署する補任状によって補されるが、その決定権は廿一口方供僧の評定によった。

北面預、鎮守八幡宮預、灌頂院預、講堂預、不動堂預、金堂預、食堂預、塔婆預。

 

「宮中真言院少行事」毎年正月八日から十四日までの七日間、宮中真言院で行なわれる後七日御修法の少行事を勤める職。大行事は、その度の大阿闍梨の坊人をもってこれに充てるのに対し、少行事は東寺中綱をもってこれに補した。この少行事家は、灌頂院預および鎮守預を兼帯する慣例であった。

 

「諸堂大炊」大炊は東寺諸堂の本尊に仏供を供奉する職掌で、後掲表一六のとおり、鎌倉時代の教仏にはじまると言われる。

 

「夜叉神棚守」食堂脇にあった夜叉神の祠を預かるものであり、主として中綱か職掌をもって補任された。

 

P67

「寺家所務組織系列の諸職」

「公文」公文は供僧・学衆の所領支配の中核となる組織で、各所領代官への供僧・学衆の指令文書の作成、代官からの注進状の取次、年貢の収支決算書である散用状・支配状の作成を担当していた。廿一口供僧方・十八口供僧方・鎮守八幡宮供僧方・不動堂その他の所領を担当する惣公文が一人、学衆方所領を担当する学衆方公文が一人、最勝光院方所領を担当する最勝光院方公文一人、宝荘厳院方所領を担当する宝荘厳院方公文一人の計四人の公文が置かれた。

 

「雑掌」雑掌の職掌として特に有名なのは、公文や武家の法廷における裁判の訴陳であり、提出する申状・陳状にその名を記すことである。いわば、裁判における弁護人であるが、しかし、雑掌の仕事は、何も裁判における弁護に限るわけではない。武士や他領からの所領侵犯・段銭賦課等において、守護被官や他家の雑掌との交渉、日常からの幕府奉行人との付き合いや交渉等々広く公家・武家権力の末端機関および田検問の雑掌との渉外事項一般に及んでいる。一権門たる寺家にとって雑掌の果たす役割は、場合によってはその浮沈に関わる場合もあり、したがって寺家は外交交渉能力のあるものを求め、必ずしも寺内の僧ばかりではなく、他から有能なものを招いたと考えられる。

 

「納所」納所の職掌としては、第一に名のとおり所領の年貢の収納であり、収納した銭貨物品の保管、そして銭貨物品の下行支給である。第二に銭貨の保管に関連して、その融資・融通にもかかわり、第三に、収納に関係して損亡の際の内検使、あるいはその他の上使を勤め、場合によって所領の代官をも勤めた。年貢の収納・支出に関わるから、散用状や支配状の作成にもかかわり、この点で公文や所領の代官の職掌に競合し、何度かその調整が行なわれている。

 

「諸所領代官・上使」諸所領・荘園の代官には、武士や僧侶がその支配と年貢上納を請け切る請負代官と、寺家の被官をもって直接支配する直務代官があるが、後掲表25〜37は、この直務代官を表にしたものである。東寺では、原則として遠隔地の荘園は請負とし、京都近郊の所領は三綱層・中綱層をもって直接支配を行なっていた。(中略)」

 請負代官の諸所領の年貢の収納や、直務代官であっても内検等の必要な場合には、上使が立てられ、これには多く三綱層・中綱層が派遣されている。上使は、諸所領ばかりではなく、東寺境内・寺辺水田・京都近郊荘園所領等の住屋の検封、罪科人の追捕にも派遣された。この上使に対して、通常所領荘園との連絡にあたる恒常的な使者を定使といい、これには、職掌・門指・鐘突等がこれに従事した。

 

 以上、三綱層と中綱層の東寺において所帯する諸職を概観した。その結果、寺務・寺官組織系列の諸職においては、三綱層は、三綱・目代・勾当に任ぜられ、中綱層は、中綱・諸堂預・少行事・大炊職に任ぜられ、お互いにその就くべき職が判然と区別されていた。また三綱層は、院家の青侍でもあり、夏衆となりうる階層であった。これに対し、中綱層は、職掌とともに稲荷祭礼の頭役を勤める両座衆となる階層であり、ここでも判然とした身分的区分があった。

 これに対し、寺家の所務組織系列の諸職にあっては、三綱層と中綱層の就任する職にそれほど厳密な区分はなかった。あえて言えば、惣公文と雑掌は三綱層が独占し、学衆方公文と納所は中綱層の就任する職であった。その他の公文と諸所領代官については、双方が対等にこれに補任されている。概して言えば、寺家の所務組織系統の諸職は能力主義であり、寺務・寺官組織系統の諸職、分けても中綱層の諸職は世襲的であるといいうる。

 

 

P76 おわりに

 東寺の寺院組織も、稲葉伸道氏が指摘するように、別当・政所すなわち寺務・寺官組織系統の機構と惣寺すなわち寺家所務組織系統の機構とに大きく分けて考えることができ、この他に院家の組織がある。

 まず寺務・寺官組織から述べると、別当・三綱・公人がある。別当には、僧綱別当と凡僧別当そして修理別当がある。僧綱別当は四人おり、﨟次順に一長者・二長者・三長者・四長者と称する。このうち一長者をもって寺務といい、東寺の検校すなわち長官であり、他の別当・寺官を統率し、寺務を遂行する。これら四人の長者は、いずれも東寺以外の醍醐寺三宝院・理性院・地蔵院・釈迦院・妙法院、勧修寺随心院仁和寺菩提院・真光院・真乗院、大覚寺金剛乗院等のいわゆる門跡・准門跡寺院の院主であり、社会的身分として、公卿に准ぜられている。これらの長者は、分担して、後七日御修法・灌頂院御影供・結縁灌頂等の御斎会、臨時の修法の大阿闍梨を担当した。なお、東寺寺務は、一部の例外を除いて、僧綱の長官である法務をも兼ねる慣例となっている。

 次に、凡僧別当と修理別当であるが、これらは僧綱別当と異なり、東寺に常住することを原則とする。ともに法印権大僧都を極官とする。まず、凡僧別当は、東寺寺僧のうちから補せられ、もともと綱維をもたない別当であったが、平安時代末頃から、僧侶全体の僧位僧官が高くなるに伴い、僧綱官位をもつものがこれに任ぜられるようになった。また、寺務の側近から凡僧別当が選ばれる例も生じ、その際には凡僧別当が東寺に在住しないこととなる。その場合、東寺には別当代を置き、東寺寺僧のうちから任ぜられた。凡僧別当ないし別当代は、自坊に在住する寺務の東寺における代官であり、寺務から寺家年預への指令の伝達、寺家から寺務への申請の取次等の任に当たっている。また、三綱やそれに代わる目代・勾当を指揮して、儀礼的な寺務処理を行なう。修理別当は、別名執行ともいい、伽藍堂舎の管理・修理、本尊・仏具の管理・保管等を任とする。執行はその下に中綱・職掌・諸堂預・諸職人・下部を配下に置いている。執行は、妻帯し世襲的にこの職に就き、寺僧を兼ねることはできない。

 次に、三綱であるが、凡僧別当の配下にあり、実務は目代と勾当が代行する。これについては、前節で詳述したので省略する。

 次に公人の組織としては、中綱・職掌・下部があり、いずれも執行の配下に属し、堂舎・本尊・仏具の修理・管理の職に従事する。中綱・職掌・下部があり、いずれも執行の配下に属し、堂舎・本尊・仏具の修理・管理の職に従事する。中綱は僧体(法師官)、職掌は俗体(俗官)であり、長者の拝堂等の儀式にも参列する。下部には、建長元年実賢僧正拝堂の際の記録では、小所司十人、職掌廿一人、堂童子二人、諸堂預十二人、木工六人、瓦工三人、壁工二人、鍛冶二人、畳差一人、深草一人、木守二人、供所守一人、湯沸一人、鐘突一人、計六十五人を掲げている。室町期における下部としては、諸堂預(北面預三人・講堂預三人、金堂預一人、食堂預一人・塔婆預一人・不動堂預一人・勘定院預一人・鎮守八幡預四人)、大炊職一人、宮中真言院少行事一人(以上中綱をもって任ず)、夜叉神棚守(中綱・職掌をもって任ず)、宮仕・職事・鐘突・門指等の俗体職、また大工・絵師・仏師その他の職人まで確認できる。物資などは、法印を称するから三綱の上の身分と考えられ、宮仕職・職掌職も職掌層が任ぜられているから、中綱と同格ともいえる。鐘突・門指等はその他の下部であり、寺内百姓とともにさらにその下の身分であったと考えられている。

 東寺の寺家所務組織としては、寺僧の評定がその最高決定機関である。寺僧組織は、廿一口供僧・十八口供僧・学衆・鎮守八幡宮供僧・最勝光院供僧・宝荘厳院方・不動堂方供僧・植松方等の諸供僧組織があり、それぞれ独立した評定期間をもつ。しかし、これらの組織の供僧は互いに各供僧を兼帯しあっているから、同じ寺僧衆のいくつかの面にすぎない。これら諸供僧組織の中で中心になり、惣寺と称するのが廿一口供僧である。さて、この評定の代表者は、各供僧組織の長老すなわち一﨟であるが、これはいわば象徴にすぎない。その決定を執行するのは、評定で寺僧中から選ばれた奉行であり、年ごとに交代するから年預と言われた。これら東寺寺僧は、大法師から権僧正までの僧位・僧官をもつが、一﨟・年預もこの階層に属する。

 これら年預の下で所務の実務を担当するのが、前節で述べた、公文・雑掌・納所であり、さらに諸荘園には代官と上使・定使を派遣した。定使以外は、三綱層・中綱層をもって補任し、定使には下部をもって充てたのである。また、年預の下には、西院御影堂の内陣を預かり、西院文庫の管理をする三聖人と、臨時の造営修造を任とする大勧進とがあった。三聖人は、長福寺その他律僧が、大勧進には泉涌寺長老等の律僧がこれに任ぜられている。

 寺務・寺官および寺家組織以外には、院家があった。院家の数は、時代により多少変動するが、正和二年に後宇多上皇が御願とした院家数は十五であった。各院家には、供僧の宿老である院主があり、供僧の若衆が寄宿しており、これを同宿といった。そして、将来供僧になるべく入室した修行中の童形がおり、これを稚児といった。これらはいずれも寺僧身分であるが、これらの院務を担当する下級僧侶として、まず青侍がおり、その他坊人・下部が付属していたと考えられる。

 以上の東寺の寺務・寺家・院家の諸機関に属している僧侶・役人を、身分階層的に見ると、それぞれの身分ごとに座的構成を見出すことができる。まず、凡僧別当を含む供僧・学衆層である。これらは寺僧として一つの交衆組織をもつ。寺僧のうちでも、権大僧都以上は宿老といい、少僧都以下は若衆といった。若衆は一つの評定組織をもち、宿老も廿一口方の宿老会議をもっている。寺僧のうちに勧学会衆があり、若手の寺僧が寺内に籠もって勉学する組織で、これを監督するのが宝荘厳院方であった。これら供僧・学衆は、修法・法会を行ない、教義学問を行ない、寺院の運営の最高決定をする僧侶集団であった。

 下級僧侶については、前述のごとく、三綱層は、夏衆として、中綱・職掌は両座衆として、座衆を成していたが、寺僧と三綱層・中綱層との中間に、三聖人と大勧進がいる。三聖人は、通常、供僧学衆の修法や教学には関わらないが、光明講においてのみ、一昼夜不断光明真言を修している。中綱・職掌の下の下部等について座的なものがあったかどうかはこれからの課題である。