周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史3─4 〜雪辱目的の自殺と称賛〜

  応安六(一三七三)年十月二十三日条      (『後愚昧記』2─127頁)

 

                 官人大判事、(坂上     明法博士(中原)

 廿三日、伝聞、早旦於正親町烏丸、明宗〈号姉小」路判官、〉・章頼〈号勢多」

                      (後光厳上皇御所柳原殿)

 判官、〉両官人召取人云々、是去月卅日夜推参 仙洞強盗余党人云々、此中一人

                             (三条実継)

 〈十六歳」男云々、〉切腹、暫之死去云々、後聞、切腹之者ハ正親町前内府青侍

 男、今年十八歳云々、非真犯、然而被付縄者称為恥辱自殺云々、人以褒美云々、

            (三条)

 今一人又搦之、是ハ帥卿実音、青侍監物某〈不知」実名、〉云々、此監物後日糺問

 之時、真犯之由白状、多以顕余党之輩、仍両官人〈明宗・」章頼、〉参院、以

 (柳原忠光)           近習欤、

 藤中納言院執権、竊奏聞之、白状之中卿相、雲客相交之、於彼等者、可為無沙汰

 之旨、被仰出之間、人数被隠密之云々、不可説事也、

 

 「書き下し文」

 二十三日、伝へ聞く、早旦正親町烏丸に於いて、官人大判事明宗〈姉小路判官と号す、〉・明法博士章頼〈勢多判官と号す、〉両官人人を召し取ると云々、是れ去月三十日夜仙洞に推参せし強盗の余党人と云々、此の中の一人〈十六歳の男と云々、〉切腹し、暫くして死去すと云々、後に聞く、切腹の者は正親町前内府の青侍男、今年十八歳と云々、真犯に非ず、然れども縄を付けらるるは、恥辱たりと称し自殺すと云々、人以て褒美すと云々、今一人又之を搦む、是れは帥卿実音の青侍監物某〈実名を知らず、〉と云々、此の監物を後日糺問するの時、真犯の由白状す、多く以て余党の輩を顕す、仍て両官人〈明宗・章頼〉参院す、藤中納言院執権を以て、窃かに之を奏聞す、白状の中に卿相(近習か)雲客相交じる、彼らに於いては、無沙汰たるべきの旨、仰せ出ださるるの間、人数之を隠密せらると云々、不可説の事なり、

 

 「解釈」

 二十三日、伝え聞いたことによると、早朝、正親町烏丸で大判事坂上明宗〈姉小路判官と名乗る〉・明法博士中原章頼〈勢多判官と名乗る〉の二人の官人が人を召し捕ったという。これは、先月の九月三十日の夜に仙洞御所(後光厳上皇御所柳原殿)に押しかけた強盗の残党だそうだ。この中の一人〈十六歳の男という〉が切腹し、しばらくして死んだそうだ。後で聞いたことによると、切腹した者は正親町前内府三条実雅の青侍の男で、今年十八歳だったという。真犯人ではなかった。しかし、縄を掛けられたことは恥辱であると言い広めて自殺したそうだ。人々はこのようなわけで褒め称えたという。さらに、もう一人を捕らえた。これは帥卿正親町三条実音の青侍監物某〈実名を知らない〉だという。この監物は後日尋問されたとき、自分が真犯人だと白状した。たくさんの残党の名も明らかにした。そこで坂上明宗と中原章頼の二人の官人は院参し、院執権の藤中納言柳原忠光をもって、ひそかにこの件を奏聞した。白状した人物のなかには近習の公卿や殿上人らが交じっていた。彼らについては、処罰するべきではない、と上皇はご命令になったので、犯人たちの名前は秘密にされたそうだ。けしからんことである。

 

*この史料については、下沢敦「南北朝期に於ける悪党の法的位置付け」(『共栄学園短期大学研究紀要』19、2003・1、32頁、https://kyoei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=164&item_no=1&page_id=13&block_id=21)で検討されており、その解釈を参考にしました。

 

 「注釈」

坂上明宗」

 ─ ?─? 南北朝時代の官吏。明法家(みょうぼうか)。貞和(じょうわ)3=正平(しょうへい)2年(1347)病気の父にかわり文殿(ふどの)衆となり,貞治(じょうじ)元=正平17年大判事。後光厳(ごこうごん)天皇のとき文殿にかわって記録所が復活し,寄人(よりゅうど)となり検非違使(けびいし)庁の役人もかねた(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、https://kotobank.jp/word/坂上明宗-1077517)。

 

 

*今回の事件で注目しておきたいのは、「恥辱」と「自殺」と「称賛」の関係です。これまで私は、この3つの関係について、いくつか事例を紹介してきました。説話や歴史書のような古典籍に記載された「恥」と「自殺」の関係については「自殺の中世史43」で、「自殺」と「称賛」の関係については「自殺の中世史3─1」でまとめておいたので、詳細に振り返ることは避けます。ただ、「自殺の中世史43」を書いたとき、私は次のことを今後の課題として残していました。それは、「雪辱目的の自殺」が「称賛」されている記事を、古文書や古記録といった一次史料でも確認できるのか、という点でした。今回の史料は、まさにその課題に答えてくれる記事ということになります。

 さてここで、今回の事件を簡単に確認してみましょう。応安六(1373)年九月三十日のこと、仙洞御所に強盗の残党が押しかけました。翌十月二十三日、検非違使の官人である坂上明宗と中原章頼は、正親町烏丸でその残党らを捕らえたのです。ところが、その中の一人、今年18歳になる正親町前内府三条実雅の青侍が、なんと切腹してしまったのです。真実は闇の中ということになるのでしょうが、彼はどうやら真犯人ではなかったようで、「縄を掛けられたことは恥辱である」と言い広めて自殺し、この情報を聞いた人々は、青侍の自殺を称賛しました。では、真犯人は誰だったのか。それは、捕らえられたもう一人、帥卿正親町三条実音の青侍監物某という人物でした。彼は後日の尋問で真犯人であること、さらに共犯者である近習の公卿や殿上人の名前までも自供したのですが、後光厳上皇の鶴の一声(叡慮)によって、公卿や殿上人の処分は見送られたようです。

 以上がこの事件の概要になります。自殺した正親町三条実雅の青侍と、正親町三条実音の青侍が、正親町烏丸で一緒に何をしていたのか、また自殺した青侍は本当に無罪だったのかなど、いろいろと気になるところはあるのですが、関連史料が残されていないので、これ以上の推測を重ねることはやめておきます。

 では、いつものように、この事件の動機を整理しておきましょう。三条実雅の青侍は、誤認逮捕によって恥辱を被り、その恥辱を拭い去るために自殺を決行したと考えられます。つまり、「恥辱を受けたこと」が原因動機で、その「雪辱」を目的動機にした自殺だったと考えられます。そして、この「恥辱」を雪ぐために自ら命を絶った行為が、人々の称賛を呼んでいるのです。自殺した青侍は、命を捨てた代わりに、自身の受けた「恥辱」を消し去り、加えて「称賛」を得ることにも成功したわけです。自殺を決行した状況は異なりますが、『吾妻鏡』に描かれた「雪辱目的の自殺」を「称賛」するという社会通念を、南北朝時代の古記録でやっと確認することができました。

 それにしても、死をもって恥辱を雪ごうとするほどの強い自尊心は、「武家」特有の心理かと思っていましたが、今回の自殺者は「公家」の青侍でした。鎌倉から南北朝・室町へと時代が経過したことで、武家の思考パターンが公家にも影響を及ぼしたのかもしれません。