三〇 祐明山林返進状
(豊田郡)
梨子羽郷南方内一宮領六町の」山林の事
右彼山林ハ、もと一の御ミやの御きしん」のうちたりといへとも、中比木なん
とも」なく候しほとに、あつかり申候て、かたの」ことく、木をもそたて候ぬ、
(得分)
それニよりて、」少とくふんも候あいた、如レ元一の御ミやゑ」返進申候処なり、
此返進状の」むねにまかせて、向後者御知行あるへきものなり、」仍為二後日一
返進状如レ件、
(1400)
応永七年〈庚辰〉八月 日 祐明(花押)
かくおんし大坊とのへ
「書き下し文」
梨子羽郷南方の内一宮領六町の山林の事
右彼の山林は、もと一の御宮の御寄進の内たりと雖も、中比木なんども無く候ひしほどに、預かり申し候ひて、形のごとく、木をも育て候ひぬ、其れによりて、少し得分も候ふ間、元のごとく一の御宮へ返進申し候ふ処なり、此の返進状の旨に任せて、向後は御知行有るべき者なり、仍て後日の為返進状件のごとし、
「解釈」
梨子羽郷南方のうち、一宮領六町の山林のこと。
右、この山林は、もともと一宮(豊田神社)への御寄進地のうちであったが、以前、木などが無くなりましたときに、それを私(祐明)が預かり申し上げて、慣例どおりに木を育てました。それによって少し得分もありましたので、もとのように一宮にお返し申し上げるところである。この返進状の内容のとおり、今後は一宮領として楽音寺大坊殿がご知行になるべきである。よって、後日の(証明の)ため、返進状は以上のとおりである。
*一宮豊田神社の社領は楽音寺が管理していたようですが、その山林が禿山になると、一時期、それを楽音寺僧(ヵ)に貸し与え、植林させていたようです。借り受けた人物が山林を再生し、一定程度の得分を手にすると、それを楽音寺に返還する契約になっていたと考えられます。
*2020.3.15追記
「小早川氏から楽音寺への安堵や諸役の免除など」(『安芸国楽音寺 ─楽音寺縁起絵巻と楽音寺文書の全貌─』広島県立歴史博物館、1996)によると、祐明は竹原小早川氏の奉行人と推測されています。祐明がどのような人物かは判然としませんが、彼は山林の管理に詳しい人物で、一時的に楽音寺から山守に任命されていたと考えられます。
盛本昌広「戦国期関東における山野利用と植林」・「中世の鎌倉と山林資源」・「中世の山守」(『中近世の山野河海と資源管理』岩田書院、2009年、124〜134頁、159・160頁、220〜227頁)によると、山守の基本的な職務は、勝手な伐採が行なわれないように監視すること、植林や下草や下木の伐採をしながら、山林を育成することだったそうです。祐明も同様の仕事をしながら、伐採した下草や下枝などを薪炭・肥料として売却し、利益を得ていたものと考えられます。