周梨槃特のブログ

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東寺領若狭国太良庄の狸穴(まみあな)と埋納銭盗掘騒動

  応永二十五年(1418)三月日付東寺雑掌申状

   (『東寺百合文書』オ函・125号http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=9784/『大日本史料』7編32冊386頁、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0732/0386?m=all&s=0386

 

 東寺雑掌謹言上

  若狭国太良庄百姓等歎申狸穴間事

                        〔掘、下同ジ〕

 右、去々年二月比、彼所百姓等於当庄内湯屋狸」穴之処、今月十六日

 自国之御代官方百姓等堀取銭壺」由就仰、全非銭瓶、為狸穴

 上者、能々可御糺明⬜︎」旨、百姓等陳答之刻、御代官方両使并寺家

 代官・」百姓等相共莅彼所、令検知之処、為狸穴之條無子細之由」

 両使則領納之処、此事聊依訴人歟、猶以為銭壺之」由被懸之

 結句被置百姓等之條迷惑之至也、近日已」相向耕作時分之処、百姓等

 被召置之間、庄家忽可荒」所之條、寺家周章此事也、所詮猶若有

 御不審者、任」百姓等申請之旨、於実否者被告文、急速被

 之、」為耕作営言上如件、

     応永廿五年三月 日

 

 「書き下し文」

 東寺雑掌謹んで言上する若狭国太良庄百姓等歎き申す狸穴の間の事

 右、去々年二月ごろ、彼の所の百姓等当庄内湯屋谷に於いて狸穴を掘るの処、今月十六日国の御代官方より百姓等銭壺を掘り取るの由仰せらるるに就き、全く銭瓶に非ず、狸穴たるの上は、よくよく御糺明有るべきの旨、百姓等陳答の刻、御代官方両使并びに寺家代官・百姓ら相共に彼の所に莅み、検知せしむるの処、狸穴たるの條子細無きの由、両使則ち領納するの処、此の事聊か訴人有るによるか、猶ほ以て銭壺たるの由之を仰せ懸けられ、結句百姓らを召し置かるるの條迷惑の至りなり、近日已に耕作の時分に相向かふの処、百姓ら召し置かるるの間、庄家忽ち荒所に及ぶべきの條、寺家周章此の事なり、所詮猶ほ若し御不審有らば、百姓ら申し請ふの旨に任せ、実否に於いては告文を召され、急速に之を免じ出だされよ、耕作し営むことを致さしめんが為言上件のごとし、

 

 「解釈」

 東寺雑掌が謹んで申し上げる、若狭国太良庄の百姓らが訴え申す狸穴のこと。

 右、一昨年応永二十三年(1416)二月ごろ、太良庄の百姓らが当庄の湯屋谷で狸穴を掘ったところ、今月十六日に国の御代官(小守護代長法寺氏カ)から、「百姓らが銭壺を掘り取った」と仰せになられた。この件について、「けっして銭瓶ではなく、狸穴であるからには、十分に御糺明になるべきである」と百姓らが反論した。そのとき御代官方の両使(勢間・兼田)ならびに寺家代官・百姓らが一緒にその場所に立ち会い、実検したところ、「狸穴であることに異論はない」と両使はそのまま了承した。だが、この件について少しばかり訴える者がいたからだろうか、依然として「銭壺である」と小守護代は言いがかりをつけなさり、挙げ句の果てに百姓らを捕らえて留め置いていることは、このうえなく迷惑である。まもなく耕作する時期に近づくのに、百姓らが捕らえられて留め置かれているので、荘園(の施設)はすぐに荒れ地になって(荒れて)しまうにちがいない。寺家が慌てふためくというのは、まさにこのことである。所詮、もし、依然としてそちら(守護方)がお疑いになるなら、百姓らが申し出た願いのとおりに、実否に関しては起請文をお取り寄せになり、急いで百姓らをお許しになって解放なさってください。百姓らに耕作をさせるために言上することは、以上のとおりです。

 

 「注釈」

「国之御代官」

 ─この時期の守護は一色義範(義貫)、守護代は三方範忠、小守護代は長法寺納で、守護代三方範忠は京と若狭を行ったり来たりしているので(河村昭一「室町期の若狭守護代三方氏の動向」『兵庫教育大学研究紀要』10、1990・1、http://repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/handle/10132/986)、在国を常態としている小守護代長法寺氏が国の御代官であると考えられます。

 

「両使」

 ─勢間(勢馬)氏と兼田氏か(前掲河村論文参照)。

 

 

*今回は、興味深い内容であるにもかかわらず、その内実がよくわからない、残念な史料を紹介します。注目したいのは史料の前半だけなので、まずはその部分の概要を示しておきます。

 

 1416年2月のこと、東寺領太良庄(福井県小浜市)の百姓たちが、湯屋谷で狸穴を掘りました。ところが、それから2年も経った1418年の3月16日に、小守護代はこの穴掘り行為に対して、「百姓たちは銭壺を掘り取ったのだ」と難癖をつけてきたのです。これに対して百姓たちは、「銭瓶(銭壺)を掘り取ったのではなく、ただ狸穴を掘っただけなので、しっかりと究明するべきだ」と反論し、東寺方に訴え出ました。そして、この百姓らの主張を検証するために、東寺の代官と百姓、そして小守護代の両使の三者が立ち会って検分したところ、狸穴で間違いないという結論に至りました。以後の展開は略します。

 

 さて、以上が史料の概要になるのですが、このなかに気になる点が2つあります。まず、なんと言っても興味深いのは「狸穴」です。これは「まみあな」と読ませるようですが、『日本国語大辞典』の「語源説」によると、「昔、金をほった穴で、マミはマブ」の義〔南留別紙〕」と説明されています。では、「マブ」(間府・間分・真吹)とは何か。これまた『日本国語大辞典』によると、「鉱山の穴。鉱石を取るために掘った横穴。鉱坑。坑道」を意味するそうです。「マミ」の典拠である『南留別紙』も「マブ」の典拠資料も江戸時代の書籍なので、今回の史料解釈にそのまま適用していよいのか不安は残りますが、太良庄の百姓たちが坑道を掘っていたという可能性が出てきました。「狸穴」=「マブ」(坑道)であることが論証できれば、この意味・用法は室町時代まで遡ることができます。

  では、かりに坑道だとして、太良庄の百姓たちはいったい何を採掘しようとしていたのでしょうか。実を言えば、同庄では水銀の採掘が行なわれていた可能性があるのです。古くから知られた水銀鉱産地の近くには、「丹生」という地名が残っているのですが(矢嶋澄策「日本水銀鉱床の史的考察」『地学雑誌』 72(4) 1963.08、https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/72/4/72_4_178/_article/-char/ja)、太良庄にも「丹生谷」という地名や「丹生神社」が残っています(『福井県の地名』平凡社)。この史料が作成された室町時代に、水銀鉱物が産出されていたのかはわかりませんが、かつては一定の産出量があり、この時期にも坑道を掘って、鉱脈を探していた可能性は十分にあると考えられます。

   そうすると気になるのが、当時の水銀鉱物(辰砂)採掘坑道がどのようなものであったのか、という点です。残念ながら中世の坑道ではないのですが、弥生〜古墳時代にかけての坑道跡が発掘されており、YouTubeで公開されています。便利な世の中になったものですね。

 映像は、徳島県阿南市の若杉山遺跡です。 

www.youtube.com

(「若杉山遺跡 辰砂採掘坑跡の内部動画」阿南市公式チャンネル)

 

 この坑道、「狸」の棲む「穴」に見えるのは私だけでしょうか?

 以上のことから、「狸穴」とは「水銀採掘の坑道」のことであり、中世の太良庄では、実際に産出されていたかどうかはさておき、その鉱脈だけは探し続けていたものと考えられます。ひょっとすると、太良庄関係の史料を見直してみれば、水銀採掘に関する記事が見つかるかもしれません…。

 

 

 その次に問題となるのが、なぜ小守護代方は、2年も経ってから言いがかりをつけてきたのか、という点です。おそらく、守護方が以前に埋めた銭壺を掘り出そうとしたところ、その銭壺がなくなっていたため、百姓たちが奪い取ったと言いがかりをつけたのではないでしょうか。そうでなければ、狸穴を掘った時期から2年も経過して言いがかりをつけた理由がわかりません。

  このことから、以下のことが推測できます。まず、小守護代方は銭壺を百姓に奪い取られたとイチャモンをつけているわけですから、銭壺の管理権あるいは所有権は、小守護代方にあったと言えそうです。百姓らも、銭壺は自分たちのものだと主張していないので、このように判断してよいと考えられます。ただし、それを埋めたことは、太良庄では周知の事実であったのではないでしょうか。かりに、銭壺の埋納行為が小守護代方の私的な行為であれば、他者に見つからないように、こっそりと自身の敷地内に埋めるでしょう。百姓に疑いがかけられている以上、銭壺を埋めた行為は太良庄では周知の事実であったと考えられます。もっと言えば、埋納行為は小守護代方と百姓らの共同執行だったのかもしれません。

  遺跡から出土する銭貨は、出土銭・備蓄銭・埋納銭などと呼ばれますが、大量の銭を一括して埋める理由ははっきりとはわかっていないそうです。貯蔵・貯蓄、戦争や天災などに際しての緊急避難、まじないなどの宗教的な意味合いといったさまざまな説があるそうです(「中世の日本で流通した銭貨 ─渡来銭─」『企画展展示図録 海を越えた中世のお金』日本銀行金融研究所貨幣博物館、2009・11、10頁、https://www.imes.boj.or.jp/cm/research/zuroku/)。

  今回の「銭壺(銭瓶)埋納行為」の目的もいろいろと考えられそうですが、前述のように、この行為が太良庄において周知されていたとすれば、小守護代方の私的財産の貯蓄目的という可能性だけは消去できそうです。

  次に、埋められた銭壺がなくなったことが判明しているのですから、それはいずれ掘り出されるものであったと考えられます。埋めっぱなしで掘り出さないものであれば、盗まれたことさえわからないはずです。

  このような点を指摘したところで、何が明らかになるわけでもないのですが、なんとも想像力を掻き立ててくれる史料です。何らかの目的(祭礼執行費用・飢饉対策など)のために、小守護代方と百姓らが共同で銭を貯蓄していたのか(ただし、所有権は小守護代方にある)。小守護代方は銭を緊急避難させるために百姓らを動員したから、百姓らも埋納場所を知っていたのか。小守護代が土地の神への供物として銭を埋納したのだが、その祭祀に百姓も参加した、あるいはその祭祀を百姓が見ていたため、埋納場所を知っていたのか。はたまた、その祭祀は小守護代方と百姓らが公事として共同執行し、銭も両者がともに支出したため、埋納場所を知っていたのか。加えて、銭壺を埋めた「湯屋谷」とはどのような場所だったのか…。

  とにかく、わからないことだらけですが、新たな史料や論文を見つけ次第、書き足していこうと思います。

 

 

*2022.1.6追記

 桜井英治「銭貨のダイナミズム」(『交換・権力・文化 ─ひとつの日本中世社会論』みすず書房、2017年、149頁)によると、備蓄銭の慣行が14世紀後半ごろから日本各地で本格化するのは、中国からの銭の供給が途絶し、銭荒(銭不足)・銭貴(銭の希少化・価値上昇)になったためだったそうです。ここで紹介した事例も、やはり貯蓄ということになるのでしょうか。