周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

自殺の中世史3─11 〜喧嘩と自殺 Part2〜

【史料1】

  応永二十七年(1420)八月二十二日条

        (『増補史料大成 康富記』1─113)

 廿二日戊午 晴、

  (中略)

 後聞、今日於八幡御山櫻本坊、土岐宮内少輔ト同右馬頭ト及喧嘩、宮内少輔既

 自害、右馬頭被疵云々、室町殿御参籠中之間、以外上下騒動云々、

 

 「書き下し文」

 後に聞く、今日八幡の御山桜本坊に於いて、土岐宮内少輔と同右馬頭と喧嘩に及ぶ、宮内少輔既に自害し、右馬頭傷を被ると云々、室町殿御参籠中の間、以ての外上下騒動すと云々、

 

 「解釈」

 後日聞いた。今日、石清水八幡宮桜本坊で、土岐宮内少輔と土岐右馬頭とが喧嘩した。宮内少輔はすでに自害し、右馬頭は傷を被ったという。室町殿足利義持がご参籠中だったので、身分の高い人も低い人も大騒ぎしたそうだ。

 

 

【史料2】

  同年八月二十四日条     (『図書寮叢刊 看聞日記』2─78)

 廿四日、朝雨降、晡晴、(中略)

  去廿二日土岐一族両人口論突合、薬師堂警固之間、急両人引出於途中死去云々、

  騒動武家人々馳参、為一家事之上、両方堕命之間、当座之儀無為云々、

 

 「書き下し文」

 二十四日、朝雨降り、晡晴る、(中略)

  去んぬる二十二日土岐一族両人口論し突き合ふ、薬師堂を警固するの間、急ぎ両人を引き出すも、途中に於いて死去すと云々、騒動により武家の人々馳せ参る、一家の事たるの上、両方命を堕すの間、当座の儀無為と云々、

 

 「解釈」

 二十四日、朝雨が降って、夕方には晴れた。(中略)

 さて室町殿が石清水八幡宮にお籠もりしている最中、去る二十二日に土岐一族の二人が口論となり、刀で突き合ったそうだ。土岐は薬師堂を警護していたので、急いでこの二人を境内から引き出したが、その途中で死去したそうだ。  この騒動で、京都にいる武家の面々も石清水八幡宮に馳せ参じたという。土岐一家の内輪もめである上に、両人とも命を落としているので、当座の処分としては何もなされなかったようだ。

 

*解釈は、薗部寿樹「『看聞日記』現代語訳(一四)」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』54、2018・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=390&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用し、これを参考に書き下し文を作りました。

 

 

 「注釈」

桜本坊

 ─石清水八幡宮塔頭。幕府と関係の深い塔頭で、将軍が参籠中に近習たちが控え室として利用したものか、あるいは土岐家と関係の深い寺院か。

 

「土岐宮内少輔」─未詳。

 

「土岐右馬頭」

 ─土岐之康か。『大日本史料』第七編之二十所収の系図(3〜14頁、https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0720/0011?m=all&s=0011)参照。

 

 

*応永二十七年(1420)八月二十二日のこと。石清水八幡宮に参籠した将軍足利義持に、近習として付き従っていたと考えられる土岐宮内少輔と同右馬頭が口論になり、刃傷事件を引き起こしてしまいました。一方の土岐宮内少輔は自害して果て、もう一方の右馬頭は当初、傷を負っていただけでしたが、二十四日には亡くなっていたようです(史料2)。史料1と史料2では、情報を伝え聞いた日時や伝達ルートの違いによるのでしょう、いくぶん内容が異なりますが、以上が史料から判明する事件の概要です。

 さて、今回のような喧嘩に由来する自殺事件は、すでに「自殺の中世史3─8 〜喧嘩と自殺 Part1〜」で検討しているのですが、その状況とやや異なるのが喧嘩相手の状況です。史料1の情報を信じるなら、宮内少輔が自殺した時点で、喧嘩相手の右馬頭はまだ死んでいません。一方、「自殺の中世史3─8」の場合、自殺した「ウソウ」という人物の喧嘩相手「ナカミネ」は、その場で死んでいたのです。ここで詳細に説明することは避けますが、「ウソウ」は「ナカミネ」を殺害したからこそ自殺した、と私は考えました。では、なぜ今回の宮内少輔は、喧嘩相手の右馬頭を殺してもいないのに、自殺してしまったのでしょうか。

 理由の1つとして、宮内少輔は右馬頭を殺したと思い込んでいた可能性があります。実際、2日後には亡くなっているのですから、傷は相当深かったと考えられます。この推測が妥当であるなら、宮内少輔が自殺した動機は、「自殺の中世史3─8」と同じであったと考えられます。すなわち、喧嘩相手(右馬頭)を殺害したことによって、自身(宮内少輔)が死刑に処されることが予期されたのではないでしょうか。このままでは不名誉な死を受け入れるだけになるので、勇気や矜持を示すことのできる自害を決行したと考えられます。

 もう1つの理由として考えられるのが、事件を起こした時と場所の問題です。この8月22日というのは、勅祭である石清水八幡宮放生会(8月15日)のすぐ後であり、しかも将軍足利義持が参籠中でもありました。二木謙一氏の研究によると、義持は石清水八幡宮に強い信仰心を抱いていたようで、放生会の上卿を3度も務めただけでなく、19度も大々的な参詣を行なっています(「石清水放生会室町幕府」『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館、1985年、150・151・156頁)。

 このように、石清水八幡宮放生会のような盛儀の後、将軍自らが強い信仰心をもって参籠している最中に刃傷沙汰を起こしたわけですから、宮内少輔も重い処罰を受けることを、ある程度想定していたのではないでしょうか。

 どちらかが正しいのかを証明することはできませんが、いずれにせよ宮内少輔は、死刑という不名誉な死を避け、名誉の死を手に入れる目的で、自害を決行したものと考えられます。

意志と行為 ─自殺史料の分析に意味はあるか?─

 私は以前、「自殺の中世史17〜21」という記事で、自殺史料の分析視角・課題・展望をまとめたことがあります。ところが、関連文献を読んでいくうちに、いくつか考え直さなければならないことに気づいたので、ここでいったんまとめておこうと思います。

 前置きはそこそこに、まずは次のようなありがちな言説を検証してみましょう。

 

 「1億円の借金を背負ってしまった…。自分にはどうあがいても返せない。債権者からの譴責が毎日続く。私にはどうしようもない。考えれば考えるほど苦しくなる。この苦しみから逃れるには死ぬしかない…。もう死のう…。」

 

 自殺念慮を抱いた人々は、自身を追い込んだ「原因」(借金による苦痛)を的確に見極め、自殺の「目的」(苦痛からの逃避)を明確に意識し、強固な決意をもって自殺するのだ、と私は考えてきました。ところが、自殺を決行するときには、上記のような意識や思考をはっきりと認識していないらしいのです。そればかりか、そもそも人間は「自由意志」などもち合わせておらず、意志によって行動が引き起こされることもないのです。人間の脳は、自身の行動や判断を生み出した原因がわからないにもかかわらず、それを説明するために、後から合理的な理由を捏造するそうです。

 

 脳科学認知心理学が明らかにするように、行為は意志や意識が引き起こすのではない。意志決定があってから行為が遂行されるという常識は誤りであり、意志や意識は他の無意識な認知過程によって生成される(小坂井敏晶『増補 責任という虚構』ちくま学芸文庫、2020年、5頁)。

 

 日常的な判断・行為はたいてい無意識に生ずる。知らず知らずのうちに意見を変えたり、新たに選んだ意見なのにあたかも初めからそうだったのかのように思い込む場合もある。過去を捏造するのは人の常だ。そもそも心理過程は意識に上らない。行動や判断を実際に律する「原因」と、行動や判断に対して本人が想起する「理由」との間には、大きな溝がある。というよりも無関係な場合が多い(前掲小坂井著書、44頁)。

 

 そうは言っても何らかの合理的理由があって行為・判断を主体的に選び取る印象を我々は禁じ得ない。急に催す吐き気のような形で行為や判断の原因は感知されない。なぜか。(中略)被験者はその「理由」を誠実に「分析」して答えたのである。自らがとった行動の原因がわからないにもかかわらず、もっともらしい理由が無意識に捏造される(前掲小坂井著書、45頁)。

 

 そうすると、自殺という行為は何によって引き起こされるのでしょうか。死のうとする意志が行為を誘発せず、自己や他者が自殺の原因とみなしたものが、自己や他者が無意識に捏造した理由であるのならば、上記のような言説は、いったい誰が語った言葉になるのでしょうか。おそらく、①自殺既遂者の遺書、②自殺未遂者の後日談、③関係者の証言等によって、あのような言説は創作されたということになるのでしょう。しかし、前述の小坂井説に従えば、①自殺既遂者の遺書に書かれた「理由」と本当の自殺の「原因」が一致しているとは限らなくなりますし、②自殺未遂者の後日談も、他者から尋ねられて(あるいは自問自答して)合理的な「理由」を創作しただけで、これも本当の自殺の「原因」と一致しているとは限らなくなります。また、③関係者の証言等に至っては、他者による推論にすぎないわけですから、これまた本当の自殺の「原因」と一致するとは限りません。そもそも、自殺者本人は死を迎える瞬間に、本当の「原因」とは異なる合理的な「理由」を捏造しながら亡くなっている可能性もあるのです。

 

 行為・判断が形成される過程は、本人にも知ることができない。自らの行為・判断であっても、その原因はあたかも他人のなす行為・判断であるかのごとく推測する他ない。「理由」がもっともらしく感じられるのは、常識的見方に依拠するからだ。自分自身で意志決定を行い、その結果として行為を選び取ると我々は信じる。だが、人間は理性的動物ではなく、合理化する動物なのである(前掲小坂井著書、46頁)。

 

 そうであるならば、自殺を引き起こす本当の原因を明らかにすることは、永久に不可能ということになります。これまでの記事で私は、自殺の動機を原因と目的に分類し、それらを明らかにしようとしてきました。ですが、それは結局のところ、現代に生きる私が、私の人生経験や学び得た知識に照らし合わせて、史料に記載された他者の自殺を分析し、合理的だと判断した捏造した理由や目的をを書き並べてきたにすぎないことになります。つまり、自殺者の個人的な本当の「原因」ではなく、私を含めた現代日本人が妥当だとみなす自殺の「理由」を説明しただけだったのではないでしょうか。

 では、自殺研究に解明できるのは、いったいどういうものなのでしょう。おそらく、解明できるのは自殺に至るプロセスだかけもしれません。「Why」には答えられないが、「How」には答えられるということになるのでしょうか。実際、「How」型の問いに答えようとしているのが心理学や精神医学になります。

 

 どうして、人は死にたくなるのでしょう。

 〝死にたがる心〟はどこからやってくるのでしょうか。人は本当に〝死にたがって〟いるのでしょうか(下園壮太『人はどうして死にたがるのか』文芸社、2003年、2頁)。

 

 下園氏の著書は、こうした疑問に対して誠実に答えた労作であり、自身のカウンセリング経験を踏まえて、死にたい気持ちが生じる過程を事細かに説明されています。氏によると、「死にたい気持ち」やその準備段階にある「うつ状態」は、本来人間を危機から救ってくれる「感情のプログラム」の誤作動によって生ずるそうです。

 では、感情のプログラムとはどのようなものなのでしょうか。これは生命の非常事態対処プログラムのことで、危機的な状況で生き残るために必要な身体反応を準備するだけでなく、その状況に最も適した行動を自然にとるような気持ちも準備します(前掲下園著書、18〜22頁)。こうした説明は、前述の「意志や意識は他の無意識な認知過程によって生成される」という小坂井氏の指摘を踏まえれば、とても理解しやすくなります。どうやら意志や意識は、「感情のプログラム」によって自動的に発生してしまうようです。そのため、自分では本当の原因がわからず、後から合理的な理由を捏造して納得しようとするのでしょう。

 下園氏の研究によって、死にたい気持ちが生じる過程や自殺に至る過程は明確になったのですが、それでもいくつか疑問は残ります。氏によると、人間は苦境に陥り精神的に疲労しきると、自身の感情や精神的・身体的苦痛をコントロールすることができないという無力感に襲われ、生きていく自信を低下させます。そのとき、人は生きることをあきらめるそうです。そして、このあきらめが自ら死を選ぶという積極的行動に結びつくのは、さらに疲労が蓄積し、その精神的・身体的苦痛から逃れるための一つの手段として、死が脳裏に浮かぶときなのです(前掲下園著書、82頁)。

 では、なぜ逃避と死が結びつくのでしょうか。死にたい気持ちは「生のあきらめ」だけでなく、「怒り」から生じることもあります。

 

 怒りは、攻撃するためのプログラムです。もともと、命をかけて敵と戦える状態を作るので、「死をもいとわない」というプログラム効果をもっています。つまり、怒りが嵩じると、自分が死んでも敵をやっつけたいと思うのです。すでに、そこには、自らの命を守る〝個の保存〟の欲求がはずれた、とても危うい状態が準備されてしまっているのです。(中略)

 元気なときはそうでもないのですが、怒りのプログラムが強く発動しているときは、「正しいことをするためには死をもいとわない」という意識が頭を支配します。そのようなときには、以前触れて感銘を受けた、死をテーマにした小説や映画、尊敬する人物の生きざま、死にざまなどが、「死ぬことが正しい」という思考を進めてしまうのです(前掲下園著書、97〜99頁)。

 

 この指摘を踏まえると、自殺行動は、「感情のプログラムの誤作動」だけではなく、感情の生起とセットで思い起こされる「死生観」の影響も受けることがわかります。下園氏の著書で紹介されているように、自殺に至るプロセスは多様であり、さまざまな感情の誤作動が複雑に絡み合っています。氏の分析方法やモデルを史料分析に適用すれば、今まで以上に史料の理解が深まるかもしれません。しかし、史料を素材として、自殺者の個人的な原因や目的を析出しても、結局のところ実証レベルの低い推論にならざるを得ません。(当たっているかもしれないし、当たっていないかもしれない…。)なぜなら、ほとんどの自殺史料は伝聞史料であり、前近代では自殺者の遺書がほぼ残っていないからです。そもそも、自殺者本人が死を迎える瞬間に、本当の理由とは異なる合理的な理由を捏造しながら亡くなっている可能性があるわけですから、個々の自殺の原因を推論することにほとんど意味がないのです。

 では、自殺を歴史的に研究する意義などないのでしょうか。やるべきことはただ1つ。自殺者に影響を与えたであろう社会通念の研究ではないでしょうか。

 

 自分の感情・意見・行動を理解したり説明する際、我々は実際に生ずる心理過程の記憶に頼るのではない。ではどのようにして人間は自分の心を理解するのか。我々は常識と呼ばれる知識を持ち、社会・文化に流布する世界観を分かち合う。人は一般にどのような原因で行為するのかという因果律も、この知識に含まれる。(中略)すなわち自らの行動を誘発した本当の原因は別にあっても、それが常識になじまなければ、他のもっともらしい「理由」が常識の中から選ばれる。このように持ち出される「理由」は広義の文化的産物だ。つまり行為や判断の説明は、所属社会に流布する世界観の投影に他ならない(前掲小坂井著書、45頁)。

 

 この指摘によると、私たちが自殺の「理由」だとして挙げたものは、自殺者を死へと誘った本当の「原因」であるとは限らず、自殺に関する情報を伝聞し分析した第三者の社会通念(常識・思考パターン・因果律・死生観など)を並べているにすぎないことになります。ただし、下園氏が指摘しているように、その社会通念が「死ぬことが正しい」という思考を進めてしまうわけですから、それがいったいどのようなものであり、どのように形成され、人間にどのような影響を与えたのかを明らかにする役目は残されているように思います。

 したがって今後は、自殺者の「個人的な動機」を明らかにするという目的ではなく、自殺者を死へと誘った「社会通念」をあぶり出すという目的のもと、分析を進めていこうと思います。これまでの記事では、どちらの視角から論じているのかが曖昧になっていたので、改めなければならない点が多々あるでしょう。よって、そちらについても随時書き直していく予定です。

 自殺の歴史的研究には、心理学や精神医学のように、直接的に自殺を止める力はないかもしれません。ですが、自殺の動機がどのように作り上げられ、先人たちにどのように理解され、どのように常識として伝えられてきたか、そして、それらのいくつかはどうして消えてなくなったのか…。このような生成・変化・消滅過程を提示することができれば、自殺の動機が相対的なものにすぎないことだけは証明できるでしょう。人間に自由意志がないのなら、それでもよいです。しかし、自殺という出来事を引き越してしまう原因が絶対的なものではないことが理解でき、知識として記憶されれば、感情のプログラムの誤作動を止め、ひいては自殺を止める役割を少しは果たしてくれるのではないかと考えています。現代人としての常識を極力捨てて史料に沈潜し、前近代の社会通念に依拠しながら、各時代の自殺の動機を明らかにしていこうと思います。

 

 *今後も、新たな関連文献を読むことで、分析視角や意義が変わるようであれば、ためらうことなくこれまでの記事を削除したり書き換えたりしようと思います。

蟇沼寺文書1

解題

 蟇沼寺は東禅寺の旧称である。本文書は弘安五年(1282)から至徳元年(1384)までの十四通からなっているが、鎌倉時代末期から南北朝期にかけての蟇沼寺に関するものを主体とし、楽音寺に関するもの五通が加わっている。

 本文書は東禅寺文書と一体をなすものであるが、ある時期に当寺から離れ、現在は東京大学史料編纂所に「蟇沼寺文書」の名で所蔵されている。

 

 

    一 行阿寄進状

 (端裏書)

 「御寄進状」

 (安芸沼田庄)

  蟇沼寺

    寄進  乃力名田宛文事

   合四丁一反小卅歩加寂仏来善定

    所宛公用捌貫五百文内

     公物六貫四百八十文加御佃分定

     加徴貳貫廿文

 右彼乃力名田者、伝聞元是蟇沼寺領也、而中古以来顛倒而被入間人名

 云々、雖然為山中最薄地之間、不作荒野不熟損亡年々是多、故年貢稍減少大躰

 有名無実也、加之堂舎漸破壊而住侶難安堵事已為顕然之間、且存

 公平、且存隆故請所之間、於彼名田等者停止両方公私之使并

 御公事等、可一円之寺領、但至御年貢加徴米者、依有限公田

 任請状之旨毎年無懈怠弁済、仍宛文之状如件、

     (1282)

     弘安五年三月十五日      行阿(花押)

  (裏書)

  「         (ヵ)□□

    除仏供田三反小佃米定

    三丁七反三百歩

      (八ヵ)

      □反小卅歩   」

 

 「書き下し文」

    寄進する 乃力名田宛文の事

   合はせて四丁一反小卅歩、加ふ寂仏来善定

    宛つる所公用捌貫五百文内

     公物六貫四百八十文、加ふ御佃分定

     加徴貳貫廿文

 右彼の乃力名田は、元是れ蟇沼寺領と伝へ聞くなり、而るに中古以来顛倒して間人名に結び入れらると云々、然りと雖も山中の最薄地たるの間、不作の荒野、不熟損亡年々是れ多し、故に年貢稍減少し大体有名無実なり、しかのみならず堂舎漸く破壊して住侶安堵し難き事已に顕然たるの間、且つうは公平を存じ、且つうはことさらに請所を興隆するを存ずるの間、彼の名田等に於いては両方公私の使ひ并びに御公事等を停止し、一円の寺領と為すべし、但し御年貢・加徴米に至りては、有限の公田たるにより、請状の旨に任せ毎年懈怠無く弁済せしむべし、仍て宛文の状件のごとし、

 

 「解釈」

    寄進する 乃力名田宛文のこと。

   都合四丁一反小卅歩。寂仏名・来善名分を加える。

    給与するのは、公用八貫五百文のうち、公物六貫四百八十文と、御佃の収納分を加える。

    加徴分二貫二十文も加える。

 右、この乃力名田は、もともと蟇沼寺の寺領と伝え聞くものである。しかし中古以来荒廃して、間人名にまとめ入れられたという。しかし、山中のもっともやせた土地であるので、不作の荒野であり、作物の不熟損亡が毎年のように多い。だから年貢はしだいに減少しほとんど有名無実である。それだけでなく、堂舎もしだいに荒廃して、住侶が安心できないことはすでにはっきりしているので、一方では年貢を厳密に徴収することを考え、一方では請所を繁栄させることを考えているので、この名田等については、両方の公私の使者の立ち入りや御公事等の賦課を停止し、一円の寺領とするべきである。ただし、御年貢と加徴米については、重要な公田であるから、請状の取り決めのとおりに、毎年怠ることなく支払わなければならない。よって充文は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「充行状」

 ─あておこないじょう。充文ともいい、宛行状とも書く。「あてがいじょう」とも読む。所領・所職の給与に際して、給与者が被給与者に交付した文書。当初は処分状と区別がつかなかったが、給与者と被給与者の関係が主従など上下の関係になると補任と混同されるようになる(『古文書古記録語辞典』)。

 

「加徴」

 ─荘園・公領の正規の官物・年貢に加えて賦課すること、またその物(銭)。一〇世紀末の「尾張国郡司百姓等解」に見えるのが早い例である。恒例の加徴と、造営料・兵粮米のような臨時の加徴がある(『古文書小記録語辞典』)。

 

「間人名」─徴税単位である名の名称か。

 

「間人(もうと)」

 ─亡人とも書く。「もうど」とも読む。平民百姓の最下層に置かれ、村落共同体の正式メンバーにはなれない。しかし、所従・下人とは異なり、身分的には自由で、経済的に富裕な者もいた(『古文書古記録語辞典』)。

 

「公平」

 ─くびょう・くひょうとも読む。①元来はかたよらない公平の意。②不正のないこと。③年貢のこと。「西たいのそんまうは三分の二の免にて、三分の一くひやうになり候」などと用いる(『古文書古記録語辞典』)。

 

「且存公平、且存興隆故請所」─書き下し、解釈ともによくわかりません。

 

「請所」

 ─荘園・公領において、守護・地頭・荘官また荘民が定額で年貢を請負い納入した制度。請け負われた年貢を請料・請口といい、請負いとなった下地(土地)を請所・請地という。十二世紀末の戦乱期に始まり、鎌倉期には地頭請、室町期には守護請や百姓請(地下請)があらわれ、商人・高利貸業者による代官請もあった(『古文書古記録語辞典』)。

 

「両方公私之使」─未詳。

東禅寺文書19(完)

    十九 東禅寺寺領注文   ○東大影写本ニヨル

 

     定

   東禅寺 所当米年貢等 小足

     合

 一 所当米四反上一石   吉書百六十八文

   公事物 二斗八舛二合四舛

   林代  二百文

 一 畠二反 所当 麦二斗 大豆二斗

       以上    池迫分

         

 一 所当米二反小上■斗 吉書八十文

         

   公事物  一斗八舛八合二舛林代五十文

       以上       道本分

 一 所当米三反 上七斗    吉書百廿文

   公事物  二斗八舛二合二舛八合林代百五十文

                     今ハ五もん

       以上        道海かあと

 一 所当米三反 上七斗     吉書百廿文

   公事物  二斗八舛二合二舛八合林代百文

       以上       右衛門允分

 四町一反ソヘ候今ハ二反 二

 一 所当米  上五斗     吉書八十文

   公事物  一斗八舛八合   林代百五十文

       以上       太郎大夫かあと

 一 所当米一反 上四斗     吉書六十五文

        

   公事物  一斗八舛二合   林代百文

       以上        こまさこ分

 一 所当米  上四斗     吉書百文

   公事物  一斗八舛八合   林代百文

       以上        弥太郎分

 一 所当米二斗 上四斗      吉書七十文

   公事物  一斗八舛八合   林代五十文

       以上        まこ四郎

  上くいひ迫 二反

 一 所当米  上四斗      吉書七十文

   公事物  一斗八舛八合   林代六十文

       以上        四郎三郎分

  面迫小田 荒

 一 所当米  上四斗      吉書七十文

  

   公事物  一斗八舛八合   さこの二郎

       以上

  □松恩内

 一 名荷迫田大三斗       さこにおろ木

 一 寂仏 二反六十歩

   所当米 一石斗定       代百文

       以上        道念分

 一 売田分

   来善  五反代二貫文      馬三郎

 一 苗代田 一反小〈小ハヤシキ分立」代六百文〉 弥五郎兵衛

                       今ハ八百文

 一 六郎丸名内

   二反 代一貫二百文       兵衛

 一 竹原堤田 二反内〈一反代八百文」一反ハ楽音寺〉

    以上寺領分

 一  所当米  上五石八斗 延七石五斗四舛

 一  公事物  延二石七舛六合

 一  吉書   九百四十九文

 一  林代   一貫六十文これハ皆こまになる

    寂仏年貢   延一石

    名荷迫年貢 三斗

     以上米分 十石九斗一舛六合

    吉書林代  二貫九文

    売田代   四貫六百文

        

    寺領分ハ塵も不残去進候、

       (小早川仲義)

 一 此ほか近比天門より給て候、

               (期)

    家光田二反あまりハ身一この程ハ帋金剛にも斗候へく候、

    これハ寺りやう中にてハ候はす候、

    御心ゑのために巨細注進候、

     (1419)

     応永廿六年〈己亥〉八月 日    頼真(花押)

   惣田数事者古文書等候へハ御覧候へく候、

    自作分   一丁五反

 

 

*書き下し文・解釈は省略します。

*割書とその改行は〈 」 〉で記載しています。

東禅寺文書18

    十八 弁海名内知行注文

 

  弁海名内門田五反ハもとよりぬけ候、

 一助太郎分田五段大

  同人分 畠一段 屋敷一所 林〈屋奥」風呂奥〉

  麻畠  以上失原殿御恩にて候、下地進候、

   是ハ元道端持分内公事免ニて候、

 一弥二郎作田一段半  畠一段半

 一藤九郎作田一段六十歩 畠一段

                    九郎大夫

  是ハ道光持分にて候、近年弥二郎藤九郎両人持分を一人ニあつけ候て、御公事仕候、

                      御代管方へ納候、

 此田二段大より年貢失原殿方へ四斗さた申候、末松殿方へ三斗さた申候、道祐の

 方へも一二舛さた申候哉、

 畠二段半より麦四斗大豆二斗

   失原殿へさた申候、門料とて[  ]道祐よりさた候由申候、

 

 

*書き下し文・解釈は省略します。

*割書とその改行は〈 」 〉で記載しています。