周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

弁海神社文書2(完)

    二 弁海名得分取帳

 

 (安芸豊田郡)         永和元年〈乙卯〉取帳

  弁海名一丁九反三百歩

  永和之帳前 弁海分

 領家分延米    二石七斗七合    吉書 四百七十七文

 地頭分同     九斗八舛一合    吉書 百六十文

  領家代     九斗六合八夕    吉書 七十文

  地頭代     一斗四舛三合

  公文分     三斗三舛一合六夕

  上使分     八舛二合六夕

  雑事      一斗九舛四合    領家代一斗一舛九合

  文料      一斗六舛四合   公文  二斗八舛三合

  饗料      八舛一合五夕    地頭代一斗一舛九合

  厨屋      八舛一合五夕

          七舛

   已上五石六斗○五合   吉書銭七百十三文

            (斗)

 地頭領家代得分 一石二□八舛七合八夕代七十文

      (紙背)

      「         公 物二斗九升五合

       麦五斗一舛

                御得分二斗一舛五合

 

                公 物一斗二舛五合

       大豆二斗二舛

                御得分九舛五合

 

                公 物七舛六合

       栗一斗五舛二合

                御得分七舛六合  」

 

*書き下し文・解釈は省略します。

弁海神社文書1

解題

 当社の創立年代は不詳であるが、男山(石清水)より勧請した八幡をまつるという。周辺が小字弁海(豊田郡本郷町)であり、この称がある。弁海は中世の弁海名に由来する地名であろう。今川了俊の『道行ぶり』にこの辺のことを記し、男山八幡宮とみえるのは当社をいっているのであろう。

 正和以降の文書多数を有していたが、現在実物はわずか二通を伝えるのみとなっている。

 

 

    一 和気掃部入道譲状

 

 (端裏書)

 「ゆつり状             彦四郎」

 (安芸豊田郡)

  沼田庄梨子羽郷〈南方〉弁海名内彦四郎分

    合

  ゆつりわたす田畠事

 一屋敷一所上□□

 一一所 神田ひかしの方 町三

 一一所 柳の坪田 一反

 一一所 まきの下の田 一反半

     (金堂)

 一一所 こんたうかさこの田 半

 一一所 藤九郎のもちの分 一反六十歩

 一一所 井上の畠

 一一所 林 こんたうかさこ ふろのおかまて

     (1392)

     明徳三年〈癸酉〉三月十一日

                   和気掃部入道譲状(花押)

 

*書き下し文・解釈は省略します。

 

 「注釈」

「弁海名」

 ─梨子羽郷内の名。弁海名内年貢注文(東禅寺文書)に船木村・尾原村の名が見えるが、いずれも南方の地にある。楽音寺から南へ約一キロ、尾原川の支流三次川中流域の谷は現在小船木と呼ばれ、さらに北西に山を越えると尾原である。弁海名はこの一帯に広がり、小船木には弁海神社が鎮座し、境内地北側に弁海の小字が残る。弁海神社は、今川了俊の「道ゆきぶり」に「此南によろづの神々いはひ奉る中に、おとこ山もいますと申」と記されている。

 正和三年(1314)正月二十日の梨子羽郷預所下文写(稲葉桂氏所蔵文書)に、源信継を弁海名名主職に任じたとあり、預所東禅寺文書により橘氏であることが知られ、地頭小早川氏に対抗する領主側勢力が沼田庄内に存在していたことがわかる。名主職は信継・信賢・信成・孫鶴丸・見月と、暦応三年(1340)まで相承されており、東禅寺に四天王像を寄進した信成は、建武元年(1334)五月十二日の梨子羽郷預所下文写(稲葉桂氏所蔵文書)により、羽坂(羽迫)門田三十歩百姓職も与えられた。延文五年(1360)十月八日付と思われる賢阿譲状(東禅寺文書)に弁海名内の田畠・林・屋敷などがみえ、明徳四年(1393)三月十一日の和気掃部入道譲状(弁海神社文書)に弁海名彦四郎分が記されている。しかし、年不詳三月四日付小早川陽満書状写(稲葉桂氏所蔵文書)に「弁海名主分之事」とあり、弁海名は室町時代には竹原小早川家の勢力下にあったと思われ、室町期のものと推定されている弁海名名主職知行注文・弁海名私注文・弁海名内不知行在所注文(東禅寺文書)には、弁海神社後背地に竹原小早川家代官屋敷が見える。これらの文書によると弁海名は、田二町五反六十歩、畠六反ほか十五ヶ所、林九ヶ所、屋敷三ヶ所などで構成されていたことが知られる(『広島県の地名』平凡社)。

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蟇沼寺文書14(完)

    十四 僧鏡賢譲状

 

 (端裏書)

 「楽音寺西方譲状  □□□僧鏡賢」

 譲与 楽音寺西方寺務職三分二事

           僧頼真所

 右於寺務職者、依師資相承之職、鏡賢令伝領地也、而間弟子頼真

 三分二相副手継文書等譲与也、於限寺役等者守三分一三分二

 旨、可其役者也、但至恒例之行法者、無懈怠其節、仍為

 後日亀鏡譲与状如件、

     (1384)

     至徳元年〈甲子〉十二月一日    僧鏡賢

        ○以上、一四通ヲ一巻ニ収ム

 

 「書き下し文」

 譲与する 楽音寺西方寺務職三分の二の事

             僧頼信の所

 右寺務職に於いては、師資相承の職たるにより、鏡賢伝領せしむる地なり、而る間弟子頼信に三文の二を手継文書等を相副へ譲与せしむる所なり、限り有る寺役等に於いては三分の一・三文の二の旨を守り、其の役を勤むべき者なり、但し恒例の行法に至りては、懈怠無く其の節を遂ぐべし、仍て後日の亀鏡の為譲与状件のごとし、

 

 「解釈」

 僧頼信に譲与する、楽音寺西方寺務職三分の二のこと。

 右の寺務職は、師資相伝の職であることにより、鏡賢が伝領した地である。そうしているうちに、手継文書等を副えて、弟子頼信に三文の二を譲与するところである。重要な寺役等については、三分の一・三文の二の取り決めを守り、その寺役を勤めなければならないのである。ただし恒例の修法に至っては、怠けることなくその修法を遂行しなさい。よって、後日の証拠のため、譲状は以上のとおりである。

蟇沼寺文書13

    十三 賢阿譲状

 

 (前闕)

     (弥ヵ)

 一畠一所□二郎作        一畠一所ミや木野か作

 一林一所〈アツし原」但半分宛〉 但公方之所当ニ宛也、又桑代拾貳文宛、

       うとし

 一中四郎屋敷畠 此所当者毎年上貳斗文料貳舛也

 一林一所〈神の迫」半分宛〉 但両人寄合て別合て無勝劣もたるへし、

 一小林一所           一佃尾八十歩文書面小内

 一内検文書之時追損大追損壹匁同

 一赤筆者毎年坪々ニ文書之時被置之上者不注置者也、

 一下人一人右近殿         一右写一 又取人一 又小つほ一

 一鑵子一            一葉茶つほ一

 一な畠三分二但下のより又ならひの藤九郎か作の畠

 右件田畠林以下并雑具等所譲与也、兄弟相互儀水魚之思不威儀

 者也、若又背彼遺命或致違乱或企濫訴者、雖親子庶子

 不是非之理、可不孝之仁上者、雖段歩彼田畠等不

 有其望者也、仍為後日亀鏡譲与状如件、

     (1360)

     延文五年〈庚子〉十月八日八日    賢阿(花押)

         ○本書ハ、東禅寺文書十二号ノ後半部分トミナサル

 

*割書とその改行は〈 」 〉で記載しています。

 

 「書き下し文」

   (前略)

 右件の田畠・林以下并びに雑具等を譲与せしむる所なり、兄弟相互の儀水魚の思ひ異儀有るべからざる者なり、若し又彼の遺命に背き、或いは違乱致し、或いは濫訴を企てば、親子たりと雖も、庶子たりと雖も、是非の理を云はず、不孝の仁たるべき上は、段歩たりと雖も、彼の田畠等其の望み有るべからざる者なり、仍て後日の亀鏡の為譲与状件のごとし、

 

 「解釈」

   (前略)

 右、この田畠・林以下、および雑具等を左衛門五郎に譲り与えるところである。兄弟が互いに水魚のように仲睦まじくし、双方異論を唱えてはならないものである。もしまたこの遺命に背いて、一方では秩序を乱し、一方では無法な訴訟を企てるならば、親子の関係であっても、庶子であっても、是非の道理を論ずるまでもなく、不孝者に違いないので、たとえわずかな土地であっても、この田畠等を望んではならないものである。そこで、後日の証拠のため、譲状は以上のとおりである。

蟇沼寺文書12

    十二 楽音寺例時懺法并念仏番置文

 

 (端裏書)

 「楽音寺置文」

 定

 (安芸沼田庄)

  楽音寺例時懺法并念仏番闕如置禁制帳〈文事〉

 右守結番之次第、雖一時一日、無懈怠勤行、例時懺法者

 及薬師経、已後於念仏番者不辰剋、相互後日番衆渡持蓮華

                                     (マヽ)

 打大鼓時可退散、於難渋輩者時之承仕可両院主申、若於背制方

 之旨者、例時懺法一度闕如念仏番者雖一時半時罸銭五十文、一日一夜

 一向不参之人者、百文致其沙汰、堂塔修理、猶以及懈怠三ヶ度供料田可

 没収者也、仍置文如件、

     (1338)

     暦応元年十月 日         (花押)

                      (花押)

 

*割書は〈  〉で記載しています。

 

 「書き下し文」

 定む

  楽音寺例時懺法并びに念仏番闕如禁制帳文の事

 右、結番の次第を守り、一時一日たると雖も、懈怠無く勤行致すべし、例時懺法は薬師経に及び、已後念仏番に於いては辰の剋を過ぐべからず、相互に後日番衆蓮華を渡し持ち太鼓を打つ時退散すべし、難渋の輩に於いては時の承仕両院主に申すべし、若し制法の旨に違背する輩に於いては、例時懺法一度念仏番を闕如する者は一時半時たると雖も罰銭五十文、一日一夜一向不参の人は、百文其の沙汰致し、堂塔を修理せよ、猶ほ以て懈怠三ヶ度に及ばば供料田を没収すべき者なり、仍て置文件のごとし、

 

 「解釈」

 定める 楽音寺例時懺法並びに念仏番欠如禁制の規則のこと。

 右、結番の順序を守り、一時一日であっても、怠けることなく勤行しなければならない。例時懺法では薬師経までも唱え、法華懺法以後の念仏番については、辰の刻を過ぎてはならない。その日の番衆は、翌日の番衆に蓮華を渡し、太鼓を打ち鳴らしたときに退出するべきである。勤行を渋る者については、その時の承仕が両院主に訴え申しなさい。もし規則に背く者については、例時懺法で一度でも念仏番を怠けた者は、一時半時であっても罰銭五十文、一昼夜まったく参上しなかった人は、罰銭百文を支払い、堂塔の修理費用に当てなさい。さらに怠けることが三度に及べば、その者が領有している供料田を没収するべきものである。よって、当番欠如禁制は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「例時懺法者及薬師経」

 ─未詳。例時懺法は、夕方に阿弥陀経を読誦する例時作法と、朝方に法華経を読誦する法華懺法を指すが、それぞれの儀式のときに、薬師経も一緒に読誦するということか。