周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

極楽寺所蔵文書2

    二 吽奝楽音寺領未進注文

 

 (前闕ヵ)

 「

 一□上一反五十文   四十まへ

                (未進)

  料足二くわん文   是ハ一同みしん

 一吉書

   六十文

  百文     池迫     八十文    古屋敷

                 廿

  百廿文    奥      百○文    江田

  六十五文   胡广迫    七十八文   与一迫

           (ハいヵ)          (ハいヵ)

  七十文    上くいひ   五十三文   下くいひ

  百文     寂仏    已上八百六十六文

     (1493)

     明応貳年癸丑とし  ミしん

 

*書き下し文・解釈は省略します。

極楽寺所蔵文書1

解題

 当寺は佐伯郡廿日市町にある真言宗の寺院である。本文書の内容は室町時代の楽音寺と法持院に関するものが中心である。法持院は中台院とともに楽音寺の両門主として寺務を司った。法持院は梨子羽郷南方に、中台院は同郷北方にあって、それぞれ九坊の子院を従えていた。

 本文書は厚紙に貼り付けられ、折本風の一冊に仕立てられているが、その表紙には「安芸国〈楽音寺」極楽寺〉古文書の題箋が貼られている。

 

 

 「極楽寺」(『広島県の地名』平凡社

 現廿日市町原。標高661メートルの極楽寺山山頂にある。上不見山浄土王院と号し、高野山真言宗別格本山。本尊千手観音。寺伝によると、天平三年(731)行基が諸国巡錫の途次当山の大杉から光明が放たれるのを見、その杉で千手観音を造仏したのが始まりで、大同元年(806)弘法大師がその開眼供養をしたという。

 中世には桜尾城主藤原氏や、大内氏・毛利氏など戦国武将の祈願寺として信仰を集め、伽藍の修造や寺領の寄進を得た。銅製鰐口(県指定重要文化財)には「奉施入鰐口芸州佐西郡極楽寺常住」「明応二年癸丑五月朔日 本願明賢大工久信敬白」との陰刻銘がある。天文(1532─55)頃と推定される極楽寺々領坪付(当寺文書)は後欠文書で全体は不明であるが、五貫文余と「早田宮迫」の地および畠・茶薗が記される。天正十二年(1584)京都仁和寺仁助法親王厳島の西方院で没し、当寺がその葬儀を執行し位牌所とされたことから、(執次詰所記)、仁和寺の直末寺となる。慶長五年(1600)福島正則の入部により、寺領は没収された。

 現本堂(県指定重要文化財)は、永禄五年(1562)に毛利氏が再興寄進したもので、年不詳八月十八日付の毛利秀元書状写(当寺文書)に「極楽寺本堂建立之事可然候」とある。江戸時代にも浅野氏により幾度か修理が加えられた。寺宝として文治三年(1187)後鳥羽天皇より与えられたという勅額がある。

 

 

    一 楽音寺領供田注文

 

 正月一日   二月はつ卯   八月十五日[  ]田

 三月三日   四月三日一反小   五月五日

 同宮六月十四日    七月七日   十一月はつ卯

 半   八月十五日    酒めん一反

     (供)

 厳嶋御くう田一反

 山神畠一反

     (1398)

     応永五年六月十七日

 

*書き下し文・解釈は省略します。

蜂戦 ─「三日蜂」と「しし蜂」─

  応永三十一年(1424)八月二十三日条

         (『図書寮叢刊 看聞日記』3─55頁)

 

 廿三日、晴、時正初日也、入風呂如例、抑今日御所棟上有しゝ蜂巣、三日蜂二卅

  飛来、欲食蜂子、仍巣之廻しゝ蜂数千相集三日蜂合戦、二時余噛合、死有疵

  蜂数多、遂しゝ蜂負退散、三日蜂巣食破、子食、しゝ蜂一二千集歟、

                               〔議〕

  三日蜂纔」二卅也、然而勝了、死疵蒙蜂共御所内落散、希代不思儀事也、但

         (マヽ)

  蜂戦常事云々、抑聞、

 (頭書)           (貞長ヵ)

 「抑聞、此間事也、室町殿御馬伊勢因幡被預、彼馬物言、厩之者聞之、傍

  無人、厩上ニ居人同聞之、馬物を云けるとて驚見、馬うなつく云々、不思儀之

  間披露申、八幡神馬被引進云々、」

 

 「書き下し文」

 二十三日、晴る、時正の初日なり、風呂に入ること例のごとし、抑も今日御所棟上げにてしし蜂の巣有り、三日蜂二、三十飛来し、蜂の子を食らはんと欲す、仍て巣の廻りにしし蜂数千相集まり三日蜂と合戦す、二時余り噛み合ひ、死して疵有る蜂数多、遂にしし蜂負け退散す、三日蜂巣を食ひ破り、子を食らふ、しし蜂は一、二千も集ふか、三日蜂は纔かに二、三十なり、然れども勝ち了んぬ、死して疵を蒙る蜂ども御所内に落ち散る、希代不思儀の事なり、但し蜂戦常の事と云々、

 「抑も聞く、此の間の事なり、室町殿の御馬伊勢因幡に預けらる、彼の馬物を言ふ、厩の者之を聞く、傍に人無し、厩の上に人居りて同じく之を聞く、馬物を云ひけるとて驚き見るに、馬頷くと云々、不思儀之間披露し申す、八幡神馬に引き進らせらると云々、」

 

 「解釈」

 二十三日、晴れ。彼岸の初日である。いつものように風呂に入った。さて、今日は御所の棟上げで、そこにミツバチの巣があった。キイロスズメバチが二、三十飛来し、蜂の子を食べようとした。そのため、巣の周りにミツバチが数千匹集まり、キイロスズメバチと戦った。4時間あまり噛み合い、傷ついて死んだ蜂がたくさんいた。結局、ミツバチは負けて退散した。キイロスズメバチは巣を食い破り、蜂の子を食べた。ミツバチは一、二千も集まっただろうか、キイロスズメバチはわずか二、三十匹だった。しかし勝った。傷ついて死んだ蜂たちは、御所内に落ち散った。めったに起こらないような不思議なことである。ただし、蜂の戦いは普通のことだという。

 「さて、次のようなことを聞いた。先日のことである。室町殿足利義持のお馬が伊勢因幡守(貞長ヵ)に預けられた。その馬がものを言った。厩の者がこれを聞いた。傍に人はいなかった。厩のほとりに人がいて、同じく馬が話すのを聞いた。馬が喋ったと思って驚いて見ると、馬が頷いたそうだ。考えも及ばない不思議なことだったので、室町殿に披露し申し上げた。石清水八幡宮の神馬として進上されたという。」

 

 「注釈」

*数ヶ月ほど前でしょうか、「又吉直樹のヘウレーカ!」という番組の再放送で、ミツバチが「熱殺蜂球」という必殺技を繰り出し、天敵のスズメバチを蒸し殺しにしている衝撃映像を見てしまいました。「約400匹ものミツバチが一斉に取り囲み、胸の筋肉を震わせて発熱し、スズメバチを蒸し殺してしまうの」だそうです(https://www.tamagawa.jp/graduate/news/detail_14741.html)。

 ところで、今回の記事に現れた「しし蜂」と「三日蜂」とは、いったいどのような蜂なのでしょうか。まず、「しし蜂」から検証してみたいのですが、『日本国語大辞典』によると、①「スズメバチ」、あるいは②「ミツバチ」を意味するそうです。ちなみに、後者「ミツバチ」の用例文が今回の史料になります(https://kotobank.jp/word/獅子蜂-2045786)。数千匹も寄り集まって数で対抗しようとするところなど、ミツバチと解釈して間違いなさそうです。

 次に、「三日蜂」ですが、これがよくわかりません。おそらく読み方は「みかばち」だと思うのですが、これも『日本国語大辞典』で調べてみると、「木蜂(みかばち)」という項目があり、「樹蜂(きばち)の古名」だと説明されています(https://kotobank.jp/word/木蜂-2084712)。では、この「木蜂・樹蜂」とは何か、とさらに疑問がわきます。

 そこで、次に平安時代に作成された辞書『和名類聚抄』を見てみると、「木蜂」は土蜂(地中に巣を作る大きな蜂)に似ているが、それよりも小さな蜂で、樹上に巣を作る、という簡単な説明がなされているだけなのです(国会図書館デジタルコレクション『倭名類聚鈔』20巻、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544225/27)。おそらく「土蜂」はオオスズメバチクロスズメバチを指すと考えられるのですが、それよりも小さくて樹上に巣を作る蜂など、掃いて捨てるほどいます。

 そこで、冒頭の「熱殺蜂球」の話に戻るわけです。「三日蜂」はわずか2、30匹で、数千匹にも及ぶミツバチの大群を攻撃し、蜂の子を食べているわけですから、オオスズメバチに負けず劣らず、かなり獰猛な肉食性の蜂だということになります。そう考えると、「三日蜂」は「キイロスズメバチ」か「コガタスズメバチ」になるのではないでしょうか。記主伏見宮貞成親王の蜂の鑑定眼がどれほど優れていたものかはわかりませんが、一応、上記のように解釈しておこうと思います。

 なお、この記事を書くにあたって、以下のホームページを参照しました(「古文書に記されたスズメバチ」『都市のスズメバチhttp://www2u.biglobe.ne.jp/~vespa/vespa075.htm)。

 

 ところで、今回の記事にはもう一つ、物を言う馬の存在が記されています。動物が喋ることについては、すでに「未来からのサイン ─物言ふ動物・予言獣─」という記事で触れましたが、そこでも述べたように、喋る動物というのは、だいたい不幸や災害を予言するようです。今回の馬は何を口走ったのかわかりませんが、どうしてそんな薄気味悪い馬を神馬として石清水八幡宮に寄進したのでしょうか。人語を喋る神がかった馬ではあるのですが、そんなものをもらって本当に嬉しいのでしょうか…。

稲葉桂氏所蔵文書10(完)

    十 小早川陽満弘景書状写

 

      陽満書 文字分リ兼候ニ付、左之通り麁略写し置也、

(紙貳枚重)

 弁海名主分之事、御申上候畢、和童様此処分リ不申 をハ御尋にて、可

 知行候、若此内ゆわれ候て、ぬけくる合事と候ハヽ、そしらゆ事といたすりに被

 分其時可申談候、先被仰付申候、御知行候へく候、恐々謹言、

      三月四日         陽満コヽニカキハンアリ

      (ヵ)

     御披信

         進之候

 

 「書き下し文

      陽満書 文字分かり兼ね候ふに付け、左の通り麁略に写し置くなり、

 弁海名主分の事、御申し上げ候ひ畢んぬ、和童様此の処分かり申さず をば御尋ねにて、御知行有るべく候ふ、若し此の内ゆわれ候ひて、ぬけくる合事と候はば、そしらゆ事といたすりに分けられ其の時に申し談ぜらるべく候ふ、先ず仰せ付けられ申さるべく候ふ、御知行候ふべく候ふ、恐々謹言、

 

*そもそも原本を書き写した人物も、文字が分からぬまま筆写したようなので、ほとんど解釈できませんでした。

稲葉桂氏所蔵文書9

    九 梨子羽郷預所下文写

 

       コヽニカキハンアリ

 下 安芸国沼田庄梨子羽郷

   補任付上毛    弁海名主職事

             見月

 右彼職者、可鶴丸相伝之由、就言上、無左右宛下之処、見月

 帯母儀和与状并代々宛文等歎申之間、如元所任当職也、有限所当公事

                       (庄家ヵ)

 以下、任先例懈怠其沙汰、被下承知敢勿違失、故以下、

     (1340)

     暦応三季八月十三日

 

 「書き下し文」

       此処に書判有り

 下す 安芸国沼田庄梨子羽郷

    補任す、付けたり上毛、弁海名主職の事

             見月

 右彼の職は、孫鶴丸相伝すべきの由、言上せしむるに就き、左右無く充て下さるるの処、見月母儀和与状并びに代々充文等を帯び歎き申すの間、元のごとく当職に補任する所なり、限り有る所当公事以下、先例に任せ懈怠無く其の沙汰致さるべし、庄家承知し敢へて違失すること勿かれ、ことさらに以て下す、

 

 「解釈」

 安芸国沼田庄梨子羽郷に下達する。

    弁海名主職(上毛も付加する)を見月に補任する。

 右、この弁海名名主職は、孫鶴丸相伝するべきであると申請してきたので、ためらわずに補任したところ、見月が母の和与状と代々の充行状を持って訴え申してきたので、元通りにこの名主職に見月を任命するところである。重要な所当公事などを、先例のとおりに怠けることなく納めなければならない。梨子羽郷の住人らはこの命令を承知し、けっして背いてはならない。格別に下達する。

 

 「注釈」

「上毛」─未詳。地名か。