周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

大悪年の四十八堂阿弥陀参り

  文明十一年(1479)十一月十五日条

          (『大乗院寺社雑事記』6─513頁)

 

    十五日

 一近日奈良中四十八堂ノ阿ミタ仏ニ参詣スル事在之、当年大悪年也、此参詣ニ除

  諸難云々、今日上下者共令参詣之由聞之、

 

 「書き下し文」

 一つ、近日奈良中四十八堂の阿弥陀仏に参詣する事之在り、当年大悪年なり、此の参詣に諸難を除くと云々、今日上下の者ども参詣せしむるの由之を聞く、

 

 「解釈」

 一つ、最近、奈良の中にある四十八堂の阿弥陀仏に参詣する現象が起きている。今年は大厄年である。この参詣によって、さまざまな災厄を除こうとしているという。今日は身分の高い人も低い人も参詣していると聞いた。

 

 「注釈」

「大悪年」─未詳。大厄年のことか。

 

 

*中世都市奈良には、阿弥陀如来を祀った四十八の御堂があったようです。御堂の数である四十八とは、弥陀の四十八誓願に準えたものでしょうが、その他の巡礼地のように、きちんと順番が決まっていたのか、その順番と誓願の順番が一致していたのかなど、いろいろと気になるのですがよくわかりません。

 個人的な認識ですが、私は阿弥陀如来のことを、極楽往生を叶えてくれる尊格だと思っていたのですが、この史料では厄除けの仏様とみなされています。霊験というものは、時代や地域によってころころと変わってしまうようです。

米山寺文書9(完)

    九 小早川泰雲隆景寄進往生講式装束目録写

 

     往生講式粧束

              (運慶)   (作)

 一仏面 八枚      但うんけひのさく

 一飛行 六ツ      〈但縫はく」悉皆御内様并御局施入〉

 一はたきぬ六ツ     うす紅梅うらせんし

 一天童のはたきぬ貳ツ  〈但縫はく裏同」内壹ツ縫はく施主」

              御内様并はくゑ壹ツ御局施入〉

              (紅)

 一裳  六ツ      但へにしゝら

 一袈裟 六ツ      惣地紋しやひれ縫はく

 一旗  八ツ      惣地唐錦足しやへに

 一幡竿 貳本      付龍頭貳ツ

 一帯  六筋      但はくゑ

 一天童之腰帯貳ツ    〈但縫はく」御内様施入〉

 一帽子 八ツ      但うす紅梅

 一打敷 壹ツ      〈惣金欄裏せんし」中之鏡之金欄施入御内様〉

 一水引 壹ツ      茜裏右同

 一鞨鼓 壹ツ      〈但惣金付撥貳ツ〉

 一光  六ツ

 一かつき 壹ツ

 一せこ 壹ツ 付はち壹ツ

 一ゆかけ 八ツ

 一襪子 八ツ

 一蓮華 貳ツ

 一荷  壹ツ

 一柄香爐壹ツ

                       (1596)

 一行者 一躰      〈隆景公木像之裏ニ」文禄五年丙申二月十五日〉

 右之前、改古新寄進

 小早川中納言隆景号泰雲紹閑

     渡申所如件、

                  包久次郎兵衛

                  正 岡 休 意

                  河井惣右衛門

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 

 「注釈」

「縫箔」

 ─衣服などの模様の縫い取りに金糸または銀糸をまじえること。あるいは、刺繍(ししゅう)をし、金銀の箔を押すこと。また、そのように装飾された衣(『精選版 日本国語大辞典https://kotobank.jp/word/縫箔-593924)。

米山寺文書8

    八 泰雲様小早川隆景位牌免田畠打渡坪付写

 

     自是寺領帳之分

松江之内立田         (六ヵ)    田中

 田壹段貳畝廿歩  八斗七舛     太左衛門

かた田宮ノ前               堂之本

 田七畝歩     九斗八舛     九郎兵衛

樋之坪

 田貳段七畝歩   壹石三斗五舛   同 人

こも口    (マヽ)          樋之坪

 田壹畝廿歩歩   壹斗       次郎四郎

同所

 田貳畝歩      貳斗六舛    同 人

池ノはた大畠              胡广

 田五畝歩      三斗五舛    助九郎

同所                中須

 田八畝歩      七斗貳舛    四郎右衛門

同所                こま

 田六畝歩      六斗      助九郎

ひの坪       (マヽ)       樋ノ坪

 田壹反三畝拾拾歩歩 壹石六斗    次郎四郎

同所

 田壹反四畝歩    壹石八斗貳舛  同 人

同所     (マヽ)

 田九畝拾歩歩    壹石壹斗貳舛  同 人

こも口堂ノ本

 田壹反七畝歩    壹石壹斗三舛  同 人

岸ノ下                としかね

 田貳畝廿歩歩    三斗六舛    四郎兵衛

横畠

 田八畝歩      五斗六舛    同 人

あつ田                 井迫

 田壹反九畝歩    壹石四斗五舛  三郎右衛門

川副                 宮ノ下

 田三畝歩      貳斗壹舛    太郎右衛門

同所

 田六畝歩      四斗八舛    同 人

うしろ山

 田貳段歩      壹石      同 人

まのか谷                尚之

 田壹反歩      三斗      彦左衛門

ミやうと屋しき  (マヽ)          新や

 田三畝拾歩歩    貳斗      彦左衛門

田中     (マヽ)          田中之

 田四畝拾歩歩    六斗五舛    太郎左衛門

真良村之内こほうき反古廿文

 田三畝歩      壹斗貳舛    亀三郎

同所    (マヽ)

 田貳拾歩歩     三舛      同 人

同所    (マヽ)

 田貳拾歩歩     三舛      同 人

同所反古五十文

 田六畝歩      七斗貳舛    同 人

かうけた反古四十文 (マヽ)

 田四畝拾歩歩    五斗貳舛    兵衛三郎

こへかした反古百文

 田壹反四畝歩    壹石七斗五舛  三郎右衛門

大とし    (マヽ)

 田八畝廿歩歩    壹石壹斗貳舛  源左衛門

数床反古貳十文  (マヽ)

 田三畝廿歩歩    壹斗貳舛    次郎右衛門

    反古貳百五十文

 田貳反八畝歩    三石四斗六舛  兵衛次郎

とき畠 反古百拾文

 田八畝歩      壹石壹斗六舛  弥左衛門

大はしの本 反古七十四文

 田九畝拾歩歩(マヽ)  壹石壹斗五舛  神左衛門

くろはた 反古百拾文

 田壹反三畝歩    壹石五斗六舛  同 人

田中ミのこし安直ノ内

 田壹反五畝歩    貳石壹斗    太郎左衛門

辻 同所之内

 田四畝歩      貳斗八舛    同 人

  合田数参町壹段七畝貳拾歩

   分米三拾石六斗壹舛

     同畠方

堂之本

 畠壹反貳畝     代四百八拾文  九郎兵衛

同所

 屋敷貳畝      代百貳拾文   同 人

同所

 畠三畝       代三百文    同 人

よこ畠

 畠貳畝       代貮拾文    同 人

ひの坪ふろノもと

 畠三畝       代三拾文    次郎四郎

同所

 畠四畝       代四拾文    同 人

同所貳所合

 畠壹反五畝     代四百五拾文  同 人

同所

 屋敷壹畝      代六拾文    同 人

同所

 畠壹反       代四百文    同 人

うしろ畠                胡广

 畠三反       代六百文    助九郎

同所

 畠壹反       代貳百文    四郎右衛門

中須

 屋敷三畝      代百八拾文   同 人

同所

 畠四畝       代百六拾文   助九郎

同所                 中須

 畠六畝       代百貳拾文   四郎右衛門

同所

 畠貳反貳畝     代六百六拾文  次郎四郎

田中                 田中

 屋敷貳畝      代百六拾文   太左衛門

真良村之内女子分

 屋敷貳畝      代六拾文    兵衛三郎

 畠六畝       代百八拾文   同 人

とき畠                あしなし

 畠貳拾歩      代三文     三郎右衛門

同所

 畠三畝       代百八拾文   弥左衛門

同所

 畠貳畝       代四拾文    同 人

  合畠数壹町四段四畝

   代四貫四百四拾三文

   米〆四石四斗四舛三合

  并而石辻参拾五石五舛三合

右之地、為泰雲様御位牌免付置之条、真前勤行御茶湯并寺内掃除以下、不懈怠事、肝要候、

    (1597)            井上(春忠)(マヽ)

    慶長貳年〈丁酉〉八月十二日   伯 嗜 守

                  包久(景相)

                    次郎兵衛尉

                  鵜飼(元辰)

                    新右 衛門

                  末守

                    七郎左衛門

                  井上

                    五郎兵衛尉

                  粟屋(景雄)

                    四郎兵衛尉

                  桂 (景信)

                    宮内 少輔

 

*書き下し文・解釈は省略。

中世における寺院の童について

  丹生谷哲一「中世における寺院の童について」(『身分・差別と中世社会』塙書房、2005年、初出、大山喬平教授退官記念論集『日本社会の史的構造 古代・中世』思文閣出版、1997年)

 

*単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

 八 中世における寺院の童について

はじめに

P197

 日本の中世社会を特徴づけている社会的集団の1つに「童」がある。寺院の稚児・中童子・大童子・堂童子をはじめ、一種のした役人ともいうべき小舎人童・牛飼童・樋洗童(ひすましわらわ)、天皇や将軍・門跡の輿舁きを務めた八瀬童子、賤視された穢多童、童名をもって呼ばれた検非違使庁の「放免」、さらには、平家の悪口をいう者の家に乱入し、禁中にも自由に出入りして、「京師の長吏」も目を側めたという六波羅殿の「禿童(かぶろ)」などである。

 

P200 土谷氏の研究

 そしてこの事実(醍醐寺の朝拝と節供における座次の違い)に基づき、氏は、これまで漠然と寺院童の代表のように考えられてきた堂童子と、児・中童子・大童子らと、が実は別個の存在であったこと、前者が「寺家」に属し堂に付く存在であったのに対して、後者は座主の「房」や「院家」に属し僧に付く存在であったことを指摘された。そしてさらに、後者の児・中童子・大童子の階層・序列や役割について詳細に検討を加え、「児」は、上は清華家から下は侍や北面の子であったこと、「中童子」の出自は明確にし得ないものの、その序列は「侍」の次に位置づけられ「大童子」より上位であること、そして以上「児」・「中童子」が「上仕え」の童として行列で華美な衣装で供奉するのに対して、「大童子」はおそらく寺家の職掌・小寺主・堂童子らとともに里在家の出自で、「中童子」の下に位置づけられる「下仕え」の童で、行列でも白張り姿で供奉したこと、などを跡付けられている。これは、何らの根拠もなく、童を年齢によって大・中・小に分けたり、その序列を上童子─大童子─中童子と考えたり、堂童子と中童子・大童子の区別も不分明であったこれまでの常識を完全に打破した画期的な研究といえよう。しかも重要なことは、「児」・「中童子」は成年に達すると出家あるいは元服する(すなわち子どもとしての童子である)のに対して、「大童子」には、それらの途が閉ざされており、遁世するか大童子として生涯を終えるしかなかった(すなわち童姿を強制された大人としての童子である)ことが指摘されて、「大童子」という童の身分的特徴を明確にした点である。かくして氏は、中世寺院の童姿の代表は、堂童子ではなく大童子だったと結論されたのである。

 

P202

 ところで、本来、大童子しか存在しなかったのであるから、これら御童子・座大童子・列大童子は、大童子の分化とみられる(これを→印であらわす)。そしてこの分化にともなって、大童子の語は、次第に、分化で残された部分=大童子長を指称することが多くなったようである(Bのかたち)。

 

P203

 結論から言えば、御童子・座大童子・列大童子は実質的に同じであり、大童子長と御童子長も同じであった。それは多くの記載例から帰納されるところだが、ただ南都寺院では座大童子、京都寺院では列大童子と呼ばれ(列ではなく連・貫と記されていることもあり、すべてツラと呼ばれたのかもしれない)、御童子(列御童子ともある)は、南都・京都両方に見られるようである。

 

P206

  児─中童子─大童子─御童子(座大童子・列大童子

 すなわち、御童子というのは大童子制から分化したもので、その下部集団の呼称である(ただそれは「公家新制」などにはみられず私的な呼称)。御童子が座大童子・列大童子などと呼ばれたり、大童子の語が長・列を含む総称として使われることがあるのも、そのためであろう。

 

P212

 以上、跡付けられる例は僅かであるが、しかしこれによって、古年童が実は御童子らを意味したことは明らかであろう。ことに、春熊・千菊など御童子であることを明証できたものが、いずれも古年童交名の冒頭部分にその名を連ねているという事実は決して偶然とは思われないので、実は、御童子こそ古年童の中核的存在であったと考えられる。すなわち、古年童は、門跡直属の御童子らよりなっていたのであり、その点、寺家所属の堂童子とはやはり別個の存在だったのである。古年童が東西両金堂に編成された南都に特有の存在だったのであろう。

 

P217

 根拠があってのことではないのだが、私は、(聖僧は)文殊像だったのではないかと思っている。

米山寺文書7

    七 米山寺大寺分打渡坪付

 

  米山寺

   大寺分

 畠三畝八歩   壹斗九升六合   与二郎

上ノ中

中ノ中六畝八歩   貳斗五舛     同 人

  寺ノわき

中ノ中壹畝拾二歩  五舛六合     同 人

中ノ中六畝拾壹歩  貳斗五舛三合    同 人

  壹畝あれ   壹舛五合     同 人

 合畠数壹反八畝五歩

   米七斗七舛

  右之内一舛五合あれニひく

    (1601)

    慶長六年十一月吉日     田弥七(花押)

                  坂小右(花押)

 畠六畝二十歩  米壹斗三舛三合  与 吉

上中

 田壹畝十九歩  米貳斗壹舛六合  与二郎

 惣合米壹石壹斗四合

       ○以上、六号、七合ノ二通ヲ一巻ニ収ム

 

*書き下し文・解釈は省略。