周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

仏通寺文書41

    四一 小早川隆景書状   ○東大影写本ニヨル

 

  (端裏捻封ウハ書)     (慶岳)

  「      日名内但馬入道殿

     〆              隆景

         真 田 大和守殿     」

 

    (版木)

 法花経判規仏通寺寄進候、委細十乗坊相含候間、有相談之、末代重宝ニ成候

              (真田景久ヵ)

 様能々可渡之、然者大和守十乗坊同前ニ仏通寺可上事干要候、

 謹言、

      (永禄九年・1566)

       卯月廿五日        隆景(花押)

 

 「書き下し文」

 法花経版木仏通寺へ寄進し候ふ、委細十乗坊に相含め候ふ間、相談之有れ、末代の重宝に成り候ふ様能く能く之を申し渡さるべし、然れば大和守十乗坊同前に仏通寺に上らるべき事肝要に候ふ、謹言、

 

 「解釈」

 法華経の版木を佛通寺に寄進します。詳細は十乗坊に言い聞かせておりますので、そのことを相談しなさい。末代までの大切な宝物になりますように、念には念を入れて版木をお渡し申し上げなければならない。したがって、大和守は十乗坊と同じく仏通寺にお登りになるべきことが大切です。以上、謹んで申し上げます。

歴史・民俗・宗教系論文一覧 Part3

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

出版年月 著者 論題 書名・雑誌名 出版社 媒体 頁数 内容 注目点
2004 清水克行 織豊政権の成立と処刑・梟首観の変容 室町社会の騒擾と秩序 吉川弘文館 著書 240 つまり、これら4点を総合すれば、中世京都において「五条」ないし「六条」近辺は、現実の生活のうえでも、信仰の意識のうえにおいて、共通して都市の境界、もしくは周縁地と認識されていたのである。あるいは、より厳密を期すならば、境界としての性格は「五条」の方が強く、「六条」は境界外の地、周縁地としての意味をもっていたというべきかもしれない。
そして、その背景の一つには、生活圏から遠く離れた場所で処刑・梟首を行うことで、犯罪によって生じた犯罪穢や、死刑によって生じた死穢を極力遠ざけようという中世人独自の観念があったと思われる。
 
2004 清水克行 織豊政権の成立と処刑・梟首観の変容 室町社会の騒擾と秩序 吉川弘文館 著書 242 このように中世京都の処刑は〝場所〟においては都市空間の境界の地で行われるという特徴をもつとともに、〝時間〟においても「日暮」から「夜半」という人気のない時間を選んで行われるという特徴をもっていた。言い換えれば、中世京都の処刑は一貫して人々の日常生活から離れた〝場所〟と〝時間〟で行われるのを大きな特徴としていたと言える。やはり、その背景には、さきに述べたような中世人の犯罪穢や死穢に対する忌避の観念があったと考えるべきだろう。  
2004 清水克行 織豊政権の成立と処刑・梟首観の変容 室町社会の騒擾と秩序 吉川弘文館 著書 243 中世京都の処刑・梟首においても、日常生活から〝場所〟〝時間〟ともに遠ざけられる一方で、同時にひろく人々に「見せしめ」ようという意識が共存していたのである。しかも、この処刑・梟首の両儀的な性格はなにも処刑・梟首を実行する為政者だけの観念だったわけではない。今日に住む一般の都市民衆においても、一方で処刑・梟首は「彼辺民屋計会云々」と忌避される一方で、いざ処刑・梟首が行われると物見高い大勢の人々がその場に駆けつけ「洛中諸人群集見物之」という状況が現出されている。  
2004 清水克行 織豊政権の成立と処刑・梟首観の変容 室町社会の騒擾と秩序 吉川弘文館 著書 246 しかし、『平治物語絵詞』で真に注目せねばならないのは、その信西梟首を描いた場面に重大な誤りがあるという点である。実際には「獄門に懸ける」というのは、なにも獄所の門に首をぶらさげるわけではなく、平安期以来、獄門の前に生えていた楝(樗)の木の枝に首を懸けることを意味していた。しかし、この『平治物語絵詞』では、信西の首は獄門の屋根の端に棟飾りのように吊り下げられてしまっている。これは『絵詞』の絵師が、首を懸ける獄門の「楝木」を「棟木」と勘違いして書いてしまったことによる誤りであることは明らかである。だが、絵師が間違えるのも無理はない。現実に京都において獄門での梟首は、史料で判明するかぎり建仁元年(1201)の城長茂らの梟首を最後に、鎌倉期では行われることはなくなっていた。絵師は少ない情報をもとに想像力に頼って信西梟首の場面を描いたために、誤りを犯してしまったのだろう。ここから、鎌倉期には「朝敵の首は獄門に懸けるべき」という獄門原則を人々は強く認識していたものの、現実にそれが行われることはなく、人々の記憶からその具体的な様態は忘れ去られようとしていたことがわかる。  
2004 清水克行 織豊政権の成立と処刑・梟首観の変容 室町社会の騒擾と秩序 吉川弘文館 著書 250 以上、論証したように、鎌倉・室町期を通じて、王朝国家以来の「朝敵の首は獄門に懸けるべき」という原則は折に触れて唱えられ、人々の共通認識となっていた。しかし、室町幕府はその獄門原則を意識しつつも、それを実行することはほとんどなく、政治的反逆者・一般犯罪者を問わず処刑・梟首の場には六条河原や東寺口四塚を使用しつづけた。その意味で室町幕府は、天皇権威に収斂する獄門原則からは距離を置き、前節で明らかにしたような中世的な処刑・梟首感を持ち続けた、と評価することができよう。  
2006 清水克行 室町人の面目 喧嘩両成敗の誕生 講談社 著書 15  応永三一年(一四二四)六月、奈良で起きた事件も、この金閣寺の事件とよく似ている。この日は奈良の町なかの押上郷の祇園会であった。この恒例の都市祭礼には毎年多くの人出があったようで、街の遊女たちや近在からの見物客で奈良の町はごった返していた。その人混みのなかで、一人の「田舎人」が「酔狂」のあまり「比興の事」(不始末)をした。この「田舎人」がしでかした「比興の事」が具体的に何であるか、残念ながらよくわからないが、たまたまそれを見ていた遊女が、ここでもそれを「笑った」。ただ、それだけのことなのだが、笑われた「田舎人」は突如として逆上し、酒の勢いもあって殺人鬼と化してしまう。彼はまず自分を笑った遊女を斬り、続けてその遊女屋の女主人をも惨殺したうえ、最後は自分自身、切腹して果てたという。彼の行為はほとんど通り魔の所業であり、これだけでも私たちから見ればまったく理不尽な出来事なのだが、このときも事態はこれで終わらなかった。やはり、事件後に「田舎人」の「方人(かたうど)」(支援者)と主張する人々(おそらく近隣住人だろう)が大勢で奈良の町に復讐のために攻め寄せてきて、奈良の町人たちと衝突し、このときは現実に双方にかなりの数の死傷者が出てしまったらしい。具体的な経緯については不明な点もあるが、ここでもさきの金閣寺の話と同じように、「笑う─笑われる」という本当に些細な問題が殺人に発展し、さらにそれが双方が属する集団どうしの殺戮劇にまでエスカレートしてしまっているのである。  このほかにも、同じ頃の北野社では、神前に奉納した連歌の内容がヘタだといって「笑」ったことで、北野社の社僧と参詣人が喧嘩になり、一方が撲殺されてしまうという事件が起きるなど、この時代には「笑う─笑われる」を原因とした殺傷事件は後を絶たない。それほどまでに彼らは傷つきやすく、「笑われる」ということに過敏だったのである。しかも、ここで稚児や遊女に笑われたのを理由にして大惨事を巻き起こした人々は、とくに侍身分というわけではなく、いずれもただの僧侶であったり、たんなる「田舎人」である。彼らの場合、稚児や遊女といった自分たちよりも身分の低い者から笑われたのが、どうにも許せなかったのだろう。この時代の人々は、侍身分であるか田舎を問わず、皆それぞれに強烈な自尊心「名誉意識」をもっており、「笑われる」ということを極度に屈辱と感じていたのである。もちろん室町人の中にも個人差はあり、その程度は人それぞれであるが、それはおおむね現代人の想像を超えるレベルのものだったようだ。  
2006 清水克行 室町人の面目 喧嘩両成敗の誕生 講談社 著書 27  ここに出てくる「下剋上」という言葉が室町・戦国時代を語るうえでのキイ・ワードの一つであることは一般によく知られているが、その「下剋上」の原因は、家臣の側の権勢欲や野心ばかりではなく、しばしば双六の勝敗のようなつまらない事柄であったことには注意をされたい。この時代の武士の間には、主従の間の上下の秩序よりも、自らの自尊心や誇りを維持することの方がときとして優先され、それが「下剋上」を生み出す原因ともなっていたのである。  ちなみに、近年の近世史研究の成果により、江戸前期の武士社会においても、人々のなかに過激な名誉意識が共有されており、しばしばそれが紛争の火種となっていたことが明らかにされている。そうした成果に学んで、あえて本書が扱う室町時代の人々の名誉意識と江戸時代の人々のそれとの相違点を述べるとすれば、大きく二点が指摘できるだろう。すなわち、一つには、すでに述べたように、その名誉意識が侍身分に限定されず、僧侶や一般庶民にも共有されるものであったこと、そしてもう一つには、ここで述べたように、それがより容易に主君への反逆にも転化する性格のものであったこと、である。  もちろん主人の側にとって、このような被官たちの心性ほど厄介なものはない。そのため、主人たちは被官たちの荒ぶる心性を主従秩序の側に矯正しようとしばしば試みるのだが、それはなかなかうまくはいかなかった。ひとたび屈辱を加えられれば相手が主人といえども黙っていてはならない、という当時の社会通念は、それほどまでに根強かったのである。現に、一五歳の細川勝元自身、前田少年の反逆行為を即時に罰することをせず、むしろ当時においては最大級の恩典を与えて、「切腹」というかたちで死に花を咲かせてやっている。しかも、そうした勝元の穏便な措置を「当座つつがなし、後代に名を揚ぐ」「感悦々々」と褒めそやす人々は決して少なくなかったのである。  
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 161 呪詛調伏の代表的な修法に太元帥法や六字経法があるが、まず前者は九世紀中葉より毎年正月に天皇護持のために祈られたものであり、また臨時祈祷では平将門の乱をはじめとする内乱・外寇で修された。大壇の上に刀剣・弓箭・棒鉤・鉄杖など、ありとあらゆる武器を並べて修するのがこの修法の特徴である。これらの武器は諸尊の三昧耶形を表すとされ、僧侶はこれらを想念の世界で駆使しながら敵の姓名に呪詛調伏した。私修が認められなかった太元帥法に対し、貴族たちが日常的に利用していたのが六字経法や転法輪法である。六字経法では人形に敵の姓名を書いて、弓矢で「射殺」す所作をし、さらにそれを切り裂いて炉で焼き、依頼主にその灰を飲ませている。また、転法輪法では行疫神や不動尊を描き、敵の姓名を書いた人形の頭や腹をそれらに踏ませて呪詛している。たんなる所作とはいえ、呪詛調伏が孕んでいる暴力性をよく示していよう。
しかもこうした呪詛は、民衆支配の場でも用いられた。金剛峯寺は四季祈祷で、年貢を未進・対捍するなど寺命に背いた者の名字を書き上げ、彼らに神罰・仏罰が下るように呪詛していたし、興福寺も寺敵の名字を五社七堂に籠めて呪っていた。荘園制社会は基本的に民衆の自発性を組織することによって成り立っているが、最終的にその秩序を支えていた装置の一つがこうした呪詛の暴力であった。
 
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 162 もちろん、呪詛調伏は相手の身体に危害を加えていない以上、近代的な暴力官からすればこれは暴力ではない。しかし、技術と呪術が未分離な中世社会にあっては、暴力と呪術が未分離であり、こうした呪術的暴力が実体的力をもつと見なされていた。呪術調伏で恩賞をもらった事例は無数にあるし、呪詛が重大な政治的影響を及ぼした事件も珍しくない。藤原頼長近衛天皇を呪詛したとの噂が保元の乱の伏線となったし、将軍護持僧による執権北条経時への呪詛が寛元四年(1246)の宮騒動宝治合戦へと連なった。後醍醐天皇は御産祈祷の名目で鎌倉幕府を呪詛させたし、永享六年(1434)には延暦寺の有力山徒が将軍義教を呪詛したことから、室町幕府延暦寺を攻撃している。(中略)
気筒の世界でも攻撃型の手法と防御の祈祷があった。防御の修法を担った代表的存在が護持僧である。
たとえば天皇の護持僧には正護持僧と副護持僧があり、いずれも臨時によって補任されていた。副護持僧(数名)は除目などの際に臨時帰投を要請されたが、それに対し正護持僧の三名は長日三壇御修法を修した。彼らはそれぞれ六口ほどの伴僧を従え、不動法・如意輪法・延命法の三法をおのおの自坊で毎日3度ずつ勤修していた。つまり天皇が健康であり、社会も平穏無事な平時においてすら、正護持僧だけで年に5000石もの費用を使って、3000回以上の手法を行なっていた。膨大な労力が、天皇の護持祈祷に費やされていたのである。この費用と労力は朝廷が呪詛の有効性を信じていたことの証左である。
しかもこうした護持僧による護持祈祷は、武家の世界に波及した。鎌倉幕府では将軍護持僧や得宗護持僧が確認できるし、室町幕府でも5、6名の武家護持僧が一貫して護持祈祷に従事していた。
5億。
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 163 中世の暴力を考える際、武士の暴力だけでなく、こうした宗教的暴力も併せ検討しなければならない。実際、武士が見える世界の侍であるとすれば、護持僧は冥界の侍であり、中世の権力者はこの領主の侍から守護されるのが一般的である。院政期の事例であるが、『朝野群載』所収の「国務条々事」によれば、地方に赴任する際に国司が京都から連れて行くのが望ましい人物として、「堪能武者一両人」と「験者并智僧侶一両人」を挙げている。武士と護持僧とによって、顕の敵と冥の敵から貴人を守るという護衛システムは、地方赴任の国司においても採用されていた。
中世には呪詛への恐怖が薄れたとする赤松氏の主張は、呪詛や護持僧の実態からして従うことができない。中世の政治において宗教的暴力は不可欠の存在であった。この点において、赤松説・石井説ともにその論拠はほぼ崩壊している。
これは国人・土豪層でも同じだろう。上層身分の慣習が下位層にも伝播し、宗教勢力の需要が全国的に高まって行くということだろう。
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 164 さらに、正応三年(1290)本願寺覚如は、治病のために護符を勧められたところ、飲む振りをしてそれを捨てており、護符の有効性を信じていなかった。
中世人が概して神仏に篤い信心を寄せていたにしても、他方ではそうした信仰に冷淡な意識も着実に広がっていた。顕密仏教は、こうした厳しい視線の中で社会的信頼を勝ち取らなければならなかった。社会発展につれて育まれた合理性を宗教の内部に取り込むことができなくては、顕密仏教は中世という時代を生き延びてゆくことができなかったはずである。むしろこの課題を達成しえたところに、原始的な呪術とは異なる顕密仏教の特質があった。
 
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 165 このように『東山往来』では、その結論が呪術的なものであれ、合理的なものであれ、それぞれの質問に対して、必ず内典・外典の文献を博捜して典拠を示した上で結論を導いている。もちろん依拠文献の合理性に限界があるため、呪術性の融着を払拭することはできていないものの、事例は文献で挙証をもとに結論を導く姿勢が貫かれている。『東山往来』の批判精神は挙証主義によって担保されていた。(中略)
 天台三大部私記を著した延暦寺の宝地坊証真や、東大寺の宗性・凝然のような文献学の巨匠は、こうした中から登場した。その影響は密教にも及んでおり、東密の『覚禅鈔』、台密の『阿婆縛抄』『行林抄』『渓嵐拾葉集』はこうした挙証主義を背景に生まれている。また法然の『選択本願念仏集』や親鸞教行信証』をはじめとする異端派の著作も、この挙証主義の伝統を踏まえている。
もとよりそれは、近代的な合理主義とはなお異質である。彼らは論議・講経による仏意の究明が鎮護国家・五穀豊穣につながると確信していた。(中略)
どの宗派の僧侶であっても、顧客を納得させるために、幅広い知識が必要だった可能性がある。僧侶が漢籍を勉強するのも、そこに理由があったか。であるならば、地方の僧侶でも勉強しなければならない。縁起は突拍子もない創作話のように読めるが、当時の人間に納得させるためにも、漢籍の知識を使って説得力を高めたか。
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 166 このように、仏典の一文一句を正確に理解することが、神々への法楽となり、その神威を増して鎮護国家・五穀豊穣につながると、彼らは信じていた。その点で彼らの文献学や挙証主義は近代的なそれとは異質である。しかしニュートン力学神の摂理を解明するものとして登場し、そこでの科学的思考とキリスト教の信仰とが共存しえていたように、顕密僧の呪術的信心と合理的な挙証主義とは矛盾なく併存していた。彼らは神の法楽と鎮護国家・五穀豊穣の実現のために、文献研究に没頭したのである。
『東山往来』にみえる挙証主義や批判精神は、中世の顕密仏教を貫く基本的性格の一つであった。顕密仏教はただの呪術であったのでは決してない。高い合理性を取り込んだ呪術、呪術性を融着させた高度な合理主義、これが顕密仏教の特質であった。
 
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 166 この論文で田中(文英)氏は、①僧侶たちは病の原因を六つに分類しており、病因に応じて対処法を変えていた、②身体的不調が主因であれば懺悔させて祈祷を行なうなど、僧侶は医療技術と祈祷を総合的に駆使しながら治病に当たっていたと論じ、当時としては可能なかぎりの医療技術や知識を動員して祈祷を行なっていたのであり、その修法は医療技術を踏まえた一定の合理性を保持していた、と結論している。(中略)
そもそも医学・薬学などの医方明は、声明・因明・内明・工巧明とともに五明の一つとして、僧侶の学ぶべき学問分野の一つとされていた。実際、慈円はこの五明のうち最低一つに通達していることを大懺法院供僧の補任条件に挙げているし、鎌倉末の天台宗光宗は元一律師や行法・清増から医方明を学んでいた。(中略)
こうした医療技術や薬学的知識を援用しながら祈祷しているがゆえに、彼らの修法は社会的な信任を得ることができたのである。このように顕密仏教は、顕教であれ、密教であれ、一定の合理性を踏まえた呪術であった。
 
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 167 これは二つのことを意味している。第一は中世農業における豊作祈願の必要性である。農書の述作を積み重ねることによって近世の農業技術が次第に呪術性を脱していったのに対し、呪術と技術が未分離な中世社会では、様々な芸能や読経・祈祷による農作祈願が不可欠であった。つまり、日本の中世社会は生産過程のなかに宗教性・呪術性が分かちがたく融着しており、豊作祈願なしに生産活動は完結しなかった。それ故に、修正会をはじめとする予祝神事は、中央では延暦寺興福寺などの権門寺院から、地域の一宮・国分寺や有力寺社、さらには荘園鎮守から村堂・村社にいたるまで全国一斉に実施された。延暦寺興福寺が行なう五穀豊穣の祈りの背後には、方策を祈る地域民衆の素朴な願いが存していた。顕密仏教は民衆と無縁な貴族仏教であったのではない。それは確かに中世の支配イデオロギーのであったが、しかし民衆的基盤のない支配イデオロギーはそもそも支配イデオロギーの名に値しない。技術と呪術の未分離に起因する豊作祈願の不可欠さ、これが中世の顕密仏教を支えた社会的基盤であり、民主的基盤であった。  
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 167 仏教的・神道的な祈りと農作過程の模擬とが組み合わさる形で予祝儀礼が実施されており、そこでの儀礼は農業技術の中世的達成を示すものであったし、それはまた技術伝承の場でもあった。『渓嵐拾葉集』の著者である天台宗光宗が「術法」「作業」「土巧」「算術」を学んでいたように、中世寺院は土木技術・農業技術や天文学的知識を集積しており、呪術と不可分な技術的知識が、顕密寺院を介して地域社会に灌流されていた。こうした技術的背景があったため、顕密仏教の五穀豊穣の祈祷は社会的心因を獲得することができたのである。 黒田日出男『日本中世開発史の研究』、黒田俊雄『寺社勢力』
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 168 それによれば、奉行人は證文によって事実審理を行なうが、それに限界があるときは証人の陳述を採用し、それでも解明できない場合には起請文による神判で当否を判断するという。つまり鎌倉幕府の裁判制度は、その内部に呪術的な審判を構造的に組み込んでいた。中世の裁判制度は呪術と未分離であって、宗教性を払拭できていない。
とはいえ、その呪術性は野放図なものではない。神判の採用は限定的であり、証文や証言による合理的な事実認定をできるかぎり追求している。(中略)このように「失」の客観的な判断基準が明確に定められており、恣意的な運用に歯止めをかけていた。合理性と呪術性との共存・協働は、裁判制度においても確認することができる。(中略)
中世は人間の力が万能ではないが、神仏の力とて万能ではない。中世社会の諸事象に、合理的呪術性や呪術的合理性の共存・協働が見えるのは、ここに原因がある。
 
2010.3 平雅行 中世仏教における呪術性と合理性 国立歴史民俗博物館研究報告157   論文 169 では、なぜ顕密仏教は呪術体系の頂点に登ることができたのであろうか。第一の理由は文献的裏付けの豊かさと質の高さである。仏教の祈祷や読経・講経に功能があることは膨大な仏教典籍で裏付けされており、いわば「国際的」評価が定まっていた。仏教以外の呪術はこの点で大きく遅れをとっていた。『東山往来』は巷間での俗説や巫女の迷妄を厳しく批判しているが、その批判が可能なのは、俗説・迷信が内外の文献による正当化に耐えないからである。膨大な蓄積のある仏教経典、さらに儒教をはじめとする中国古典や日本文献に対する該博な知識、それらを縦横に駆使して現実に生起するさまざまな事柄に対して、対処法を教示しえたところに顕密仏教の文化的強靭さがある。
しかも延暦寺などの顕密寺院における「知」のありようは、狭い意味での仏教に留まるのではなく、和歌・儒教はもとより、医学・薬学的知識や土木技術・農業技術・天文学などまで包含していた。顕密仏教の知的世界は広大であるだけでなく、その「知」が技術的な裏付けも有しており、高い質を誇っていた。知的世界の広さと深さ、これが顕密仏教に対する社会的信頼を醸成したのである。(中略)
武士が日常的に戦闘の訓練に励んでいたように、密教僧は戒律・禅定・智慧(三がく)を磨くことによって自身の祈祷力を鍛えていた。仏教の教えに裏づけられた厳しい日常的修練、この点においても顕密仏教は他の呪術より優位にあった。(中略)
ここに見える慈悲による呪詛、救済のための調伏という考えは密教修法の基本である。呪詛という宗教的暴力の行使を、このような救済論によって正当化することは、他の呪術には成し得ないことであった。
以上、述べてきたように、仏教は文献的裏付けの質と量の両面で他の呪術を圧倒していたし、祈祷者の厳しい禁欲と日常的修練、さらに呪詛を正当化する理論の卓越によって、顕密仏教は中世の呪術体系の頂点に君臨することができたのである。
 
2011 仁木宏 日本中世における「山の寺」研究の意義と方法 遺跡学研究8 日本遺跡学会 論文 58 本稿でいう「山の寺」とは、山中や山麓に立地し、本堂・中心堂舎群(神社である場合も含む)を中核とし、数個から数百の坊院がひな壇状(テラス状)に展開する施設群の総称をさす。禅宗寺院、町の寺(律宗時宗法華宗など)、村の寺(一向宗など)との対比で「山の寺」とくくっているが、必ずしも深山・高山に立地するものには限らない。天台・真言系の寺院が多く、おおよそ9〜16世紀に発達した。陸奥国から薩摩・大隅国まで列島全域に立地した。
それぞれの地域において「山の寺」は、宗教的な中心地であるだけなく、もの作りや経済のセンター、文化・芸能の発信地でもあった。大きな政治力・軍事力を帯びている場合も多い。すなわち、「山の寺」は中世の地域社会における最重要な「核」のひとつであり、「山の寺」を素材に地域社会像を描くこともできるのである。
これまでともすれば、戦国時代や近世の城下町のイメージを前代に敷衍し、室町時代においても武家の政治拠点である守護所が地域社会の核として機能していたかのように論じられてきた。しかし、実態分析が進むにしたがい、人口、経済中心性、行政・裁判機関としての機能など、守護所がもつ都市としての指標がいずれもそれほど高くないことが明らかになりつつある。
一方、中世における地方都市の典型が港町であることも近年の研究によって明らかになった。
『守護所と戦国城下町』高志書院、2006
2011 仁木宏 日本中世における「山の寺」研究の意義と方法 遺跡学研究8 日本遺跡学会 論文 59 しかし、戦国時代の中葉にあたる16世紀初頭以降、武家諸権力が成長し、大規模な城郭や城下町を形成する時代になると、「山の寺」の多くは衰退してゆく。近江国などでは、「山の寺」が城郭や城館に改造され、武家の拠点とされる例も見られる。近江北半「守護」である京極氏の本拠となった上平寺館滋賀県米原市)などが典型である。
一向宗が盛んとなった近江・北陸などでは、一向宗の伸長と反比例して「山の寺」が凋落していった。中世近江の村落の指導者である土豪の多くは、室町時代、「在地山徒」となった。そして、自らの城館の近辺に比叡山延暦寺につながる天台宗寺院を建てていた。ところが、そうした寺院の多くが15世紀末以降、一向宗道場に改宗していった。百姓たちの惣村(共同体)強化の動きに対応し、土豪たちが率先して一向宗に改宗して坊主(毛坊主)となり、百姓たちへの指導性を宗教的な側面から維持しようとしたためである。
以上のように、武家一向宗の台頭が「山の寺」の衰退に結びついたとすれば、大名や国人(有力武士)など(一部の地域では一向宗)が戦国時代中葉以降、地域社会のなかで担う役割・機能の重要な部分を、室町時代までは「山の寺」が担っていたのではないかと推察される。逆にいえば、室町時代まで「山の寺」に結集していた地域社会の力量が、戦国時代には武家側、村落側(一向宗)に分け取られてゆくのではなかろうか。
村々の有力者や村(惣)の力が「山の寺」に集まり「山の寺」が政治・軍事・経済・文化の拠点であったのが室町時代であり、それは鎌倉、平安時代まである程度、さかのぼるのではないかと思われる。
城郭史研究の立場からは、武家の城づくりに先行する形態として「山の寺」が注目されている。
近江国では、戦国大名六角氏の山城である観音寺城滋賀県近江八幡市)の石垣構築にあたり、近隣の「山の寺」から技術援助を得たことを示唆する、同時代の文献史料が注目されている。石垣港地区の技術が「山の寺」から戦国期城郭に伝えられた可能性は高い。
福島克彦畿内・近国の戦国合戦』戦争の日本史、吉川弘文館、2009
2011 仁木宏 日本中世における「山の寺」研究の意義と方法 遺跡学研究8 日本遺跡学会 論文 62 それぞれの地域社会の有力者が、子孫を「山の寺」に入寺させたり、「山の寺」の坊院を氏寺・菩提寺にして結集していることも重要である。周辺農民から集めた債権(借金証文)を、自宅に置いておくと徳政一揆の攻撃目標となり危険なので、「山の寺」の関連坊院に預けておくこともあったらしい。
このように「山の寺」は、一般的な農村とは異なる中心性をもち、その卓越性は顕著である。こうした村落とはちがう存在を「都市」と規定することは誤りではないだろう。
ただ、「山の寺」を宗教のみの空間であると考え、その清浄性だけを強調するのは誤りである。中世の「山の寺」の現実世界には俗人もふくめ多くの人びとが集まり、暮らしていたのであり、それが「山の寺」の活力を生み出し、だからこそ中心性も高まったと考える。中世の「山の寺」の特質はここに認められる。
 
2017.3 藤井雅子 中世醍醐寺における他寺僧の受容 日本女子大学紀要 文学部66   論文 71 (「横入」)寺院においては、近年刊行された『寺院法』の注釈に「同一宗派の他寺僧が寺の住僧として入ってくること。」「他寺から移ってきて寺僧となること。」と記されるように、本稿においても「他寺において出家や修学した僧侶が、別の寺院に移って寺僧(「交衆」)となり、活動すること。」と定義しておきたい。なお「交衆」とは「仲間として交わりを持つ集団」との意であり、「寺僧」として活動することを許された僧侶と考えたい。  
2017.3 藤井雅子 中世醍醐寺における他寺僧の受容 日本女子大学紀要 文学部66   論文 76 実は室町中期から後期における醍醐寺は前述したように、山下の多くの伽藍が焼失し荒廃していたため、多くの僧侶は被害の少なかった山上の院家において活動していたとみられる。ただし山上は山下に比して出自の低い僧侶が住持する傾向にあったとみられ、また応仁文明の乱によって多くの貴族が京都を離れて地方に下向した事例もあり、この時期の醍醐寺諸院家への貴種の入室は減少した。その代わりに嫡流の断絶を防いだのが、「平民」出身の「法流預」であった。  
2018 小松和彦 百鬼夜行」の図像化をめぐって 鬼と日本人 角川文庫 著書 20 したがって、若君が遭遇した鬼たちは、手が三つで足が一つの者や、目が一つの者、目が三つの者、馬の頭をした者、牛の頭をした者、あるいは鳥の首の頭をした者、鹿の形をした者など多様な姿かたちをしていた、ということが推測できるだろう(『今昔物語集』巻十二の第一、『古本説話集』下・第51「西三条殿の若君、百鬼夜行に遇ふ事)。  
2018 小松和彦 百鬼夜行」の図像化をめぐって 鬼と日本人 角川文庫 著書 27 (『泣不動縁起絵巻』)その右脇、一番下の妖怪は長いくちばしを持ち、腰から下の身体は明らかに鳥の羽を思わせるので、鳥の妖怪のようである(図6)。この鳥の妖怪は、上述の「さまざまの異類の形なる鬼神ども」のうちの「鳥の首の鬼」に対応するような絵ではないだろうか。  
2018 小松和彦 百鬼夜行」の図像化をめぐって 鬼と日本人 角川文庫 著書 23 黒田日出男の論文について批判めいた言葉を述べたが、じつは私自身も、絵巻などに鬼の絵像を探すさいに、ついつい現代人が抱く鬼のイメージを手がかりにして絵像を探してきたようである。(中略)しかしながら、自分自身への反省を込めて言うならば、上述のように、平安時代から鎌倉時代の鬼イメージの形成期の鬼の絵像探しは、もはや現代人から見れば鬼とはみなされないような「鬼」探しなのだ、ということである。言い換えれば、これから試みる「さまざまな異類の形なる鬼神ども」の絵像探しは、「百鬼夜行のえぞう表現探しであるとともに、現代人にとっての「妖怪・化け物」の絵像上の先祖探しでもあるわけである。  
2018 小松和彦 百鬼夜行」の図像化をめぐって 鬼と日本人 角川文庫 著書 31 さて、こうした多様な鬼が存在していたことがわかってくると、今日の鬼は、そうした鬼のうちの一部、つまり、角を持った異形な者に限定されていることもわかってくる。すなわち、「角を持たない鬼」は、鬼の仲間から次第に排除され、「化け物」と称されるようになっていったのである。今日でいう「化け物」と総称される異形の者たちを意味する語であった「鬼」が、「化け物」にその総称としての役目を奪われてしまったわけである。
中世の鬼という語は、「化け物」(妖怪)の総称であって、その姿かたち、その由緒・出自も多様であったということを確認することは、とても有意義である。というのは、当時の文献に登場する鬼を、そうした脈絡で考え直す必要を迫るからである。たとえば、当時の文献のなかに「鬼」という文字が出てきたときに、私たちはついつい「角を持った筋骨逞しい異形の者」をイメージしてしまうのだが、その文献の記述者はじつは「多眼の鬼」をイメージしていたのかもしれないし、「角だらいの鬼」をイメージしていたかもしれないからである。
 
2018 小松和彦 百鬼夜行」の図像化をめぐって 鬼と日本人 角川文庫 著書 36 こうした絵巻物(鎌倉時代に制作された不動利益縁起絵巻・融通念仏縁起絵巻、南北朝前後から大江山絵巻・酒呑童子絵巻・土蜘蛛草紙絵巻)の登場は、鬼の歴史に照らしてみたとき、古代から成長してきた鬼伝承・鬼信仰の頂点を物語っているようである。というのは、この時代あたりから鬼のイメージは、「角を持った筋骨逞しい異形の者」へとイメージが固定化し始めたからである。こうした鬼のイメージの固定化は、すでに見たように、逆にいえば、「さまざまの異類の形なる鬼神ども」の宗旨替え、つまり「鬼」から「化け物」へと変わっていくことを意味した。  
2018 小松和彦 打出の小槌と異界 鬼と日本人 角川文庫 著書 64 「お金」は交換ということがあって、初めて意味をもつものである。そうした「お金」が「富」のシンボルとして民俗社会の人々に考えられていたということは、当然のことながら、民俗社会も貨幣経済に組み込まれていたことが、それによって明らかにされていたわけである。
しかしながら、民俗社会に現れる「お金」は、現代人にとっての「お金」とはかなりちがった形で表現されているように思われる。つまり、御伽草子の時代の考え方に極めて近いのだ。
埋納銭の習俗を考える際のヒントになるか。
2018 小松和彦 打出の小槌と異界 鬼と日本人 角川文庫 著書 69 では、「犬」はどうだろうか。この「犬」もまた異界的な存在、媒介的な存在であったのだ。というのは、黒田日出男も指摘するように、「一遍上人絵伝」などいくつかの絵巻に、約束事のように、墓場の場面には、烏とともに犬が描かれているからである。祇園社などに隷属して死体の処理など〝異界〟的な仕事に従事していた下級の神人を「犬神人」と賤称したが、これも犬の媒介的イメージと無縁ではないはずである。犬は「死」や「異界」に深くかかわった動物なのである。だからこそ、「富」を異界から運んでくることができるとみなされたのである。  
2018 小松和彦 打出の小槌と異界 鬼と日本人 角川文庫 著書 71 それでは、こうした「善良な爺」には好ましい「富」をもたらし、「欲張り爺」には負の「富」をもたらす犬は、どこからやってきただろうか。興味深いことに、この昔話のヴァージョン(異話)の多くは、この犬を水界から出現した、と語っているのである。つまり、この犬は、「竜宮小犬」であり、「竜宮小槌(打出の小槌)」の変身、「竜宮童子」の変身であったわけである。  
2018 小松和彦 茨木童子渡辺綱 鬼と日本人 角川文庫 著書 77 しかし、ここで確認しておかねばならないのは、伝説上の茨木童子酒呑童子も、人間社会から逸脱し捨てられ、そして人間社会に反抗する存在だということである。したがって、茨木童子たちの直接の歴史的原像は、童髪童形の非農業民それ自体のなかに求めるのではなく、非農業民の社会秩序からも逸脱して、ときには徒党を組み、時には単独で悪行を重ねる人々、あるいは童髪童形に身をやつして悪行を働く人々の中に、つまり「童盗賊」という表現を貼られるような人々の中に求めねばならないであろう。  
2018 小松和彦 茨木童子渡辺綱 鬼と日本人 角川文庫 著書 78 すなわち、渡辺党の惣領は、武士団の支配者であるとともに、漁業民の支配者でもあり、また河川港湾労働者の支配者でもあったのである。つまり、渡辺党は「川の民」の支配者だったのである。
とすれば、近藤喜博が説くように、渡辺綱伝説は、「川の民」とその支配者、荒ぶる水霊とそれを鎮斎する司祭者という対立が、神話的な表現をとって示されている伝説でもある、と読み解くこともあながち的外れではなさそうである。
 
2018 小松和彦 酒呑童子の首 鬼と日本人 角川文庫 著書 96 ところで、この「鬼隠しの里」と「王土」との間の違いとして、時間の流れの違いが挙げられている。王土=人間世界では、どんなに長生きしても百歳くらいまでしか生きられない。ところが、鬼隠しの里=鬼の世界では、人間世界の時間で言えば二百余歳まで軽々と生きられるのである。別の言い方をすれば、鬼隠しの里では、時間がゆっくりと流れているということになる。この時間の流れは、浦島太郎が訪れたという海底の龍宮世界の時間の流れ方によく似ている。浦島太郎伝説によれば、龍宮の数年が地上の数十年、もしくは数百年に相当する。龍宮世界も鬼の世界と同様、時間はゆっくり流れている。  
2018 小松和彦 酒呑童子の首 鬼と日本人 角川文庫 著書 99 これを整理して述べると、「外部」の発生によって脅かされている「内部」は、その「内部」を守るために武士と陰陽師が動員され、かつ霊的存在について言えば、武士の守護神仏や天台密教の神仏、そして式神が活動している、ということになる。これは中世王権神話に見られる王権の危機とその除去のあり方を、まことによく示している例と言ってよいであろう。中世の都の人々は、王権はそのようにして守られている、と想像していたのである。  
2018 小松和彦 酒呑童子の首 鬼と日本人 角川文庫 著書 102 したがって賢王・賢人を語る説話は、賢王・賢人の偉業を称えるために、鬼の復活と退治を語らねばならない。
伝教大師酒呑童子比叡山から追放し、桓武天皇は近江のかが山から酒呑童子を追放した。それゆえに、彼らは賢王・賢人なのである。賢王はその権力の強さを誇り、かつそれを強化するために、皮肉にも権力の危機を語らねばならず、その危機を克服したことを語らねばならない。こうして、酒呑童子は、賢王・賢人の時代にエネルギーをその身体にみなぎらせ、「内部」へと侵入してくるわけであった。それも結局は、追放もしくは退治されるために。この説話を王権説話と読み解くためのカギの一つは、このあたりにあると見てよいと思う。
 
2018 小松和彦 酒呑童子の首 鬼と日本人 角川文庫 著書 114 もっともこの老狐もまた、酒呑童子の首を焼いたのちに川に祓い流したとするテキストがあったのと同様、『玉藻の草子』(慶應義塾大学図書館蔵)に見られるように、「狐をば、うつぼ舟にのせて、ながされける」とするものもある。すなわち、この狐の遺骸のその後についても、宇治の宝蔵に納めたと語る場合と、祓い流したとする場合とがあったわけである。
酒呑童子の首、大嶽丸の首、そして那須野の妖狐の遺骸。中世中頃から流布した説話群の中に描かれた妖怪退治譚の中で、退治されて宇治の宝蔵に納められたとする妖怪は、この三妖怪である。ということは、中世においてこの三妖怪が、王権を脅かす強い妖怪変化ということになるはずである。余談になるが、こう見てくると、説話の中にその名を見出すことはできないが、宮中に出没し、源三位頼政に退治され「うつほ船」に載せて流し捨てられたという「鵺」なども、知名度が高いところから考えると、宇治の宝蔵に納めるにふさわしい妖怪変化であったのではなかろうか。
 
2018 小松和彦 酒呑童子の首 鬼と日本人 角川文庫 著書 118 なぜ賢王・賢人の時代に、強大な鬼などの妖怪変化(「外部」)が出現するのかというパラドックスは、こうして読み解かれるわけである。賢王とは強大な「外部」と対峙し、それを手中に納めた者である。その「外部」の象徴として語られたのが、古代から中世では海神=龍神の所持する珠(宝珠)であり、酒呑童子の首であり、大嶽丸の首であり、那須野の妖狐の遺骸であった。歴史的コンテクストで言えば、それらの間には影響関係が見られる。しかし、そのような関係はなくともよい。ただ、王権は「外部」の象徴を手中に納めることが重要であったのである。
そうした「外部」が王権によって捕捉されて閉じ込められたところが、象徴論的もしくは「内部・外部」論の立場から言えば、王権の「中心」であった。その「中心」を、中世説話は「宇治の宝蔵」として語ったのである。
こういう作品意図を、いったいどれぐらいの人間が理解していたのか。理屈としては納得できるが、作者は本当にそんなことを考えながら、作品を作っていたのか?無意識で作っていたのか?現代人(研究者)が無理やり難しく考えているだけではないか?
また、作者がこういう意図を実際に考えて、一定層の受容者がそれを理解できたとする。こんな高度な意図が理解できるのは、一部の知識階層だけ。文字も読めないような庶民は絵巻というメディアの受容者ではないことがわかる。文字が読めないということは、メタメッセージが理解できないということ。おそらく、参詣曼荼羅などに込められた本当の意図などを、庶民たち明確に理解できず、描かられたものを事実として受け取っていただけなのだろう。
2018 小松和彦 鬼を打つ 鬼と日本人 角川文庫 著書 148 ところで、こうした妖怪出現の音がそれなりに定式化されるようになった背景には、中世になって盛んに生まれてくる鬼の芸能があったのではないか、と睨んでいる。  
2018 小松和彦 鬼を打つ 鬼と日本人 角川文庫 著書 151 日本の妖怪たちの出現に際しての音は、それほど深刻に考えられてていたとは言えない。しかし、ある程度の定形化がなされたものは雷鳴の音であり、それを芸能や儀礼においては拍子木などによって作り出していたらしい。
幽霊の登場するときのヒュー・ドロドロもまた、笛と太鼓のお囃子の音であったことを考えると、文学作品のなかの妖怪出現の音が、芸能との深い関係の中から形成されていることを、つくづくと思わざるを得ない。
 
2018 小松和彦 鬼の太鼓 鬼と日本人 角川文庫 著書 156 『北野天神縁起絵巻』が制作されたのは13世紀の頃であるが、こうした鬼の姿をとった雷神が背負った太鼓を叩き鳴らして雷音をつくるというイメージは、大陸から伝来したもので、今日まで連綿と語り伝えられ描き続けられた。  
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 168 鬼とはなにか。本書でも繰り返し問いかけてきたが、これに一言で答えることは難しい。ここでの私のとりあえず考えを述べれば、鬼とは人間の分身である、ということになる。鬼は、人間が抱く人間の否定形、つまり反社会的・反道徳的人間として造形されたものなのだ。
一般に言われている鬼の属性を少し列挙しただけでも、そのことがよくわかるはずである。人を食べる、人間社会を破壊する、人に恨みを抱き殺そうとする、夜中に出没し、子女や財宝を奪い取っていく、酒を好みいつも宴会や遊芸・賭け事に熱中する、徒党を組んで一種の王国をつくっている、山奥や地下界、天上界に棲んでいる…。
こうした属性はいずれも、人間それも社会的・道徳的人間の否定項として挙げられるものである。したがって、人が鬼の属性とみなされるような立ち振る舞いをすると、その人は人間ではなく、鬼とみなされることになる。
このように見ると、鬼とは、実は人間という存在を規定するために造形されたものだということがわかってくる。日本人は、個としての人間の反対物として鬼を想定し、人間社会の反対物として鬼を想定し、人間社会の反対物として鬼の社会を想定し、そうした反対物を介して、人間という概念を、人間社会という概念を手に入れたわけである。このために、人々は人間社会の「外部」に棲むとうい鬼についての数多くのストーリーを紡ぎ出してきたのだった。
 
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 170 鬼とはまず恐ろしい姿かたちをした、したがって忌避し排除すべき存在であった。しかしながら、人間にとって必要な存在でもあった。鬼がいなければ人間という概念が成り立たないからだ。それゆえに、人々は絶えず鬼を人間社会に登場させ、そして社会から排除したのだ。すなわち、日本人にとって招かざる客であるがゆえに、招かざるを得ない客であったということになる。日本人は、鬼を必要とし、鬼とともに生きてきたのである。
鬼は異界からやってくる。人間の求めに応じてやってくる。排除され追放され退治されるためにやってくる。それは、いうならば、もう一つの「まれびと」であった。そこに鬼の魅力が隠されているように思われる。
 
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 174 では、人間の側に立ったときはどうだろう。古端将来にとっては牛頭天王は恐ろしい鬼神=悪霊であり、蘇民将来にとっては、福の神であるといことになる。  
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 177 すなわち、ここでは物忌みを守らなかったために鬼の侵入を許してしまっており、古端将来の話の方に近い。
こうした悪霊退散の儀礼と物忌みの話は数多く伝えられている。日本人の鬼や悪霊の来訪に対処する方法は、こうした方法が一般的であった。
では、牛頭天王に祝福された蘇民将来のように、鬼を艦隊することでその攻撃をかわすという方法はどうだろうか。すでに述べたように、「蘇民将来の子孫也」と唱えて、疫病にかかることを逸れようとする人々も、牛頭天王スサノオ神を歓待してはいない。蘇民将来であっても、来訪者が疫病神であることがあらかじめわかっていたら、はたして宿を提供したかどうか怪しいものである。むしろlこの話は蘇民将来の慈悲ある人柄を強調するために語られていると見るべきであろう。慈悲の心があれば、鬼神も心を動かされることがあったのだ。
 
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 178 折口の「まれびと」論で「まれびと」に制圧される「土地の精霊」に「分類される邪悪な神霊たちに対しての人々の饗応も、考えようによっては悪霊歓待説話と見ることもできる。たとえば、古代神話に見える生贄を要求するヤマタノオロチや、『今昔物語』に見える生贄を要求する猿神、あるいは説教や御伽草子「松浦長者」の大蛇(龍神)などは、年に一度、村落に姿を現し、人々を恐怖させ、生贄という饗応を受け取って去っていく。つまり、異界からの好ましくない「まれびと」なのである。そして、ここでは年一度の来訪とそれに対する人々の歓待がなされる限り、悪霊は人々に危害を加えず、共同体の秩序は保障される。つまり悪霊が生贄を受け取ること、食物を受け取ることが、ある意味で共同体の祝福であったとも言えるだろう。 何もないことが幸せ。
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 182 鬼の面がいつ頃から制作されるようになったかはわからない。しかし、おそらくは平安後期のことではなかったろうか。というのは、この頃から、奈良や京都の寺院で行なわれていた修正会に、鬼が登場する儀礼が執り行なわれるようになっていたからである。 修正会のような国家儀礼が地方に伝播し、民衆統合儀礼として普及していくから、日本で画一的な鬼のイメージができあがるということか。井原論文大事。
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 186 もう一点注目しておきたいことがある。それはこうした修正会の追儺式の多くが正月、とくに15日の子正月の日の前後に集中して執り行われていることである。修正会の追儺から派生した節分の鬼追い・豆まきも、この日を年越しの日とする観念に基づいている。すなわち、修正会の鬼は一年に一度、正月に来訪する邪悪な「まれびと」、排除されるために来訪する「まれびと」であった。鬼に扮する儀礼によって、人々は時を定めて鬼を登場させ、そして退散させることが可能となったのだ。 小松著書で描き出された鬼は、予定調和の鬼ではないか?日記に現れるイレギュラーな鬼は、別の捉え方をした方がよくないか?それとも同じように考えればよいのか?いつでも庶民は、ハイソな連中の考えたイデオロギーに踊らされるだけの存在なのか?
P197に疑問の答えがある。
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 193 まず扮装であるが、多くは鬼面を被り、天狗面や獣面を着けたりするところもある。鬼の面と称しつつ角のない面もある。これをもってナマハゲ系の神格をもとは鬼ではなかったとする説もあるが、たとえば「熊野の本地」の絵に描かれているように、鬼とはいわば悪霊の別称であって、角のない恐ろしげなる面を被った者や獣面らしきものを被った者も、九百九十人の「鬼」たちのなかに含められており、とくに奇妙だというわけではない。むしろかつては異形なる者が鬼であり、その属性や行動が鬼であるかどうかを決定したのであった。
この儀礼に登場する神格は、人を殺すことのできる道具を携え、折りあらばそれで刺し殺すぞと脅す。つまり、恐怖を人々に引き起こす神格であり、それゆえ邪悪な鬼と考えるのが妥当であって、これを祝福するためにやってきた善なる神霊=「まれびと」だとか、その原質は「祖霊」だと説いたところであまり意味がない。そうした解釈はむしろナマハゲ系の本質を見逃すものである。
 
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 195 ナマハゲはたしかに私たちが検討してきた鬼の属性と類似する属性をもっている。ナマハゲはその来訪を告げる騒音を立て、家の中に乱入してくる。家の一部や家具などの破壊さえも許されていた。これは明らかに修正会の「乱声」などに通じるものである。
鬼が蓑をつけているというのも古くからの考えであった。とりわけ民間で信じられていた鬼はそうだったらしい。『枕草子』人も「蓑虫…鬼の生みたりければ、親に似てこれもおそろしき、心あらむ」と語られ、よく知られた御伽草子一寸法師』に描かれた、一寸法師に追い払われた鬼たちも蓑と笠を着て出現している。前頁の図を見ていただきたい。一寸法師に追われた鬼たちは蓑と笠と打出の小槌を放り出して逃げ去っている。
このように、古くから鬼たちは蓑笠を着ているのだとする考えが人々の間に浸透していたのである。しかしながら、ナマハゲ系行事の異形者も蓑笠を着けるからというだけで、ただちに悪なる「まれびと」なのだと説くわけにはいかないし、逆に善なる「まれびと」だと断定するわけにもいかないのだ。鬼が蓑笠を着けてやってくることがあったが、それはまた善なる神霊の来訪時の服装でもあったし、死者があの世へ旅立っていくときの服装でもあったからである。
 
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 196 もっとも、ナマハゲは、修正会や節分の鬼のように、牛玉杖で打たれたり、つぶてや豆をぶつけられて退散するのではなく、家の主人の歓待を受け、餅や金銭をもらって立ち去っていく。饗応された方も、この年の豊作や家人の無病息災などの祝福の言葉を述べる。この点に注目すれば、ナマハゲも異界から人々を祝福するためにやってくる「まれびと」ということになる。ナマハゲはこうした二面性を持っている。この二面性を相手に応じて発揮させるのだ。  
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 197 子どもや新参者たちに対しては恐ろしくも乱暴な鬼として臨み、社会の中心部を占める人々には善良なる神格として臨むナマハゲは、言い換えれば、村落共同体が飼い慣らした鬼、コントロール可能になった鬼といえよう。鬼の儀礼に限らず、儀礼とは元来そういうものなのである。 P186の疑問に対する答え。
2018 小松和彦 蓑着て笠着て来る者は… 鬼と日本人 角川文庫 著書 202 蓑着て笠着て来るものは誰か。それは鬼である。それは神霊である。それは死者である。それは旅人である。それは乞食である…要するに、たしかな答えはないのだ。したがって、私たちはこう問い直すべきなのだ。人間もしくは人間社会の反対物は何か。人間の概念をより明確にしてくれるものは何か。つまり反社会的・反道徳的存在は何か、と。それこそが、いかなる名称を持っていようと、日本においてかつて鬼と呼ばれた存在に相当するものなのである。  
2018 小松和彦 鬼と人間の間に生まれた子どもたち 鬼と日本人 角川文庫 著書 223 私の解釈の基本は、いつの時代にあっても程度の差はあるにせよ、民俗社会の人々の異類に対する態度は両義的なものであったであろう、ということにある。さもなければ、昔話におけるこれほど多様なかつ対照的な差異は生じなかったであろうし、また人々に受け入れられなかったはずである。
民俗社会の人々は、一方において異類との交流を通じて「富」を獲得しなかればならないことを充分に承知していたのである。共同体を根底から支配する「富」もしくは「力」は、その外部に存在する。けれども、共同体と外部、つまり異類との関係は一方的な関係ではなく相互的なものであり、そのために外部から得た「富」の反対給付として共同体から外部へと「富」を渡さねばならなかったのだ。すなわち、両者は等価交換の関係に立っているのである。
この昔話群では、交換される共同体側の「富」は女であった。この女を、共同体言い換えれば人間社会の外部に流出させずに内部に留め、内部で交換しようとしたときに異類婚姻の否定、さらには異類それ自体の否定という態度になるのである。
「異類聟・嫁入り」型の昔話を見る限りで、「鬼」や「猿」の場合は、どちらかといえば、否定され排除される異類とみなされ、「蛇」の場合には、肯定と否定の間をさまざまな形で揺れ動いているのがわかる。したがって、人々は「蛇」に対してとくに両義的なイメージを抱いていたらしい、ということになるであろう。つまり、「異類聟・嫁入り」型の差異の多様さは、蛇に対する人々の両義的態度の揺れの大きさを如実に反映しているわけである。
 
2018 小松和彦 神から授かった子どもたち 鬼と日本人 角川文庫 著書 250 この大蛇は「いんない」の淵に住んでいたという。この「いんない」はおそらく「院内」のことであって、堀一郎の『我が国民間信仰史の研究(宗教史編)』(東京創元社)によれば、主として土御門家支配下の下級陰陽師系統の人々を意味する語であった。とすると、この伝説に見える淵の主人としての大蛇とそうした人々の姿がオーバー・ラップしているとも考えられる。速断は許されないが、この伝説は、そうした人々を異類視した結果生まれたものと考えることもできるかもしれない。
だが、それを排除するのではなく、その異類との婚姻を通じて、むしろ特別の力=聖なる力を得て、有力者になったと説いているので、まだ中世の陰陽師の呪力が残っている伝説とも言えるであろう。
 
2018 小松和彦 神から授かった子どもたち 鬼と日本人 角川文庫 著書 256 「蛇女房」の昔話は、〝子ども〟よりも〝目の玉〟の要素の方を強調しているかに見える。しかも、多くは三井寺の鐘と結びつけた伝説的色彩の強い話が多い。おそらく、これには三井寺に集まった盲僧(琵琶法師)との関係や、大蛇(龍神)が持つという「潮満玉(しおみたま)」と「潮干玉(しおひたま)」や仏教化された「如意宝珠」との関係が反映されているためであろう。  
2018 小松和彦 あとがき 鬼と日本人 角川文庫 著書 265 しかしながら、妖怪を研究する私たちには、その違いは明白である。すなわち、「妖怪」は研究者が用い出した学術用語・分析操作概念であり、「鬼」は大昔から日本人が特定の現象や存在に対して用いた民俗語彙・民俗概念なのである。  
2018 小松和彦 あとがき 鬼と日本人 角川文庫 著書 267 私が「鬼」に興味を持ったそもそものきっかけは、日本の歴史における敗者や非征服者、制外(外部)の者たちのさまざまな思いが、「鬼」に託されているのではないかと考えたからである。すなわち、「鬼」とは「王土」の周辺や外部にいる人々に貼り付けられたラベルのようなものと考えていたのである。
しかしながら、その探究を進める過程で、「鬼」にはそうした役割もあったが、それに留まらず、それは「過剰な力」を意味し、その力が社会にとって好ましくない事柄に幅広く適用されたときの用語・概念だということに気づいた。何よりもまず「鬼」は否定すべき邪悪な事柄を意味する概念であり「力」の象徴なのである。これは古代から今日まで変わることがない基本的な意味・概念であると言えるだろう。(中略)
最後に、「妖怪」と「鬼」の関係について述べておこう。
「鬼」は、「天狗」や「妖怪」や「河童」「山姥」「龍蛇」「狐」「狸」等々とともに、学術的操作概念としての「妖怪」概念によってからめとることのできる民俗語彙・概念である。極言するならば、学術的な「妖怪」概念は民俗語彙としての「鬼」を検討する中から立ち上がってきた概念であり、「鬼」とは「妖怪」とほぼ重なるだろうと言っても過言ではないほどなのである。
 
2021 角田泰隆 第3回 存在と時間 ─「有時」の巻 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 60 しかし、道元の解釈は、全く異なっています。道元はこの言葉を「ある時」と訓読せず、「有時」(うじ)と音読しているようです。つまり、「有」というのは「存在」のこと、「時」というのは「時間」のことで、時間と存在が一つであるという現実の在り方を示した言葉と解釈しています。このような解釈は道元の思想の中でも極めて特徴的なもので、冒頭に挙げた学者や多くの思想家・哲学者からも注目されています。  
2021 角田泰隆 第3回 存在と時間 ─「有時」の巻 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 63 私たちは、過去を振り返って、あの時は北海道にいた、あの時は東京で仕事をしていたというように、記憶をよみがえらせることができます。「ああ、あの時はよかった」、「あの時は辛い時期だった」、「あれは十年前のこと、あれからもう十年も経ってしまった」などと過去のことを思い出して、時は過ぎ去ってしまったと考えます。
しかし、時は、私から去ってゆくのではなく、今に移ってきたのでもなく、今の私にすべての時があると道玄は言うのです。過去を思い出している今の私も時であり、今の私の中にすべての時があるというのです。
そして私たちの人生は常に「有時」であり、「今」「ここ」だけであり、そのほかに「私」は存在しないということになります。過去を思い出す私も、今の私なのです。
今の私という存在のなかに、過去・現在・未来のすべての時間が存在している。
2021 角田泰隆 第3回 存在と時間 ─「有時」の巻 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 67 「今・自分がいる」このところ、そして私という存在、そして今という時間、その時その時の時間にすべての時間があり、すべての存在があり、今という時間から除外されている存在はない、それが道元の世界観であり時間論であると言えます。 時間は、存在の数だけ存在する。
2021 角田泰隆 第3回 存在と時間 ─「有時」の巻 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 73 この世の中の出来事は、つながってゆきますが、つながりながらも、その時その時であり、その時その時以外に人生はなく、そのような人生が連なっていくということになります。道元はさらに「有時」という言葉に「吾」という字をつけて、「吾有時」と示しています。存在と時間が一つであるとは、私と存在と時間が一つである、ということになるのです。時間と存在が一つであることは、私と関係なくあるのではなく、私の問題として、私の生き方の中で、捉えるべきものなのです(『本山版訂補 正法眼蔵』(大法輪閣、2019年)。 映画のフィルムと同じか。私の見ている静止画の連続と捉えろということか。
2021 角田泰隆 第3回 存在と時間 ─「有時」の巻 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 75 我々は、もし仮に時間が止まってしまったら、世界のあらゆる物事が静止するかのように考えます。しかし、この道元の説示によれば、時間だけが止まって、この世界のあらゆるものごとが存在しているという状態はあり得ないことになります。時間が静止すれば、存在もなくなるのです。存在がなくなれば時間もなくなるのです。時間だけが止まり、あらゆる存在が静止してそこにあるという状態はあり得ないと言うのです。時間だけがある、あるいは存在だけがあるということはあり得ない、それが道元の見方です。
時間と存在は一体のものなのです。
タイムストップという妄想はあり得なくなる。自分だけ高速で動き、他者には時間を止めているように見せるニノマエジュウイチのスペックなら理論上可能ということか。
2021 角田泰隆 第3回 存在と時間 ─「有時」の巻 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 78 通常は次のように考えます。「私」がこの「世界」の中で「生きている」、そこに「時間」の経過がある、と。しかし、道元は、「私」と「生きている」ということと「時間」と「世界」はみな一つのことであり、それが事実であると言っているのだと思います。私以外に世界はなく、世界以外に時間はなく、時間があるということは、私が生きているということであると言うのです。 過去という時間は知識として存在するだけで、それを思い出して活用しているのは、今の自分。未来は未確定である以上、実在はしていない。常に今の自分が想起することで存在するだけだから、今の自分とともにある。
2021 角田泰隆 第5回 人生は夢のようなもの 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 110 スティーブ・ジョブズは、スタンフォード大学の卒業式に招かれてのスピーチの最後に卒業生たちに「Stay hungry, stay foolish」というメッセージを送っています。〝貪欲であれ、愚直であれ〟とでも訳したらよいでしょうか。禅宗でよく読誦される禅籍に『宝鏡三昧』があります。その末尾に、「潜行密用は愚のごとく魯のごとし、ただよく相続するを主中の主と名づく」と示されています。「潜行密用」とは人知れず密かに行うことです。「愚」も「魯」も、愚かで鈍いという意味です 。他人に知られずとも、誰にも認められなくても愚直にコツコツと修行する、人から見れば、〝ただ坐っていて何になるのか〟と思われるような坐禅をひたすら黙々と行なっていく。愚かなように見えるかもしれませんが、禅僧にとっては、そこに大きな意義があります。その行いが他人から見れば愚かなようなことであっても、そこに素晴らしい意味があるのです。 周梨槃特と同じ発想。ただ掃除を続けている。
結局、世界はものの見方(心)によるわけで、有為転変しないものはない。だから、愚かに見えるものが優れたものになる可能性もあるし、優れたものが愚かなものに変わる可能性もある。愚かなものが愚かなままである可能性もある。そういう現実をきちんと見抜けるからこそ、無意味と思われることを続けることに意味があると言いたいのか。
2021 角田泰隆 第5回 人生は夢のようなもの 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 124 幻聴を聞いたり、幻視を見たり幻臭を嗅いだりする人がいます。そうでない人からすれば、それは異常なことであって、病気であると捉えます。確かにそうかもしれません。しかし、本人にとっては確かに聞こえるのであり、確かに見えるのです。「空華」を現前の事実であると捉える道元は、それをそのまま認めるに違いありません。それを障害であるとして、異常であるとして、疎外することはしないはずです。
道元に言わせれば、おそらく「障害者」でもなく「異常」でもないということになるのでしょう。それは本人にとってそうであるのだから、それが事実であるのだから、ありのままに生きていけばよい、ということになります。人はそれぞれです。人それぞれに、その人なりの生き方があります。人生には正常も異常もない、それぞれがそれぞれの日常を生きているだけです。人生には成功も失敗もない、それぞれの日常があるだけだと思います。その日常のほかに生きる場所はありません。その日常を仏の世界にしなければならない、理想の世界にしなければならない、というのが道元の教えであると私は受け取っています。
私たちのこの日常こそ「夢中説夢」であり「空華」であることになるのです。第2回でお話ししたように、私たちは、自分の感覚器官の能力の範囲で、ものを見たり、声や音を聞いたり、暑さや寒さを感じたりしています。それは千差万別であり、千人が千人、万人が万人、違っているのです。多様性を認めながら、自分にとっての現実を生きていく、それでよいわけです。自分にとっての現実を、前向きに正しく生きていく、それが仏の道の生き方でもあるのです。
 
2021 角田泰隆 第5回 人生は夢のようなもの 道元正法眼蔵』をよむ 上 NHK宗教の時間 著書 138 先述のように私は学生のときに、酒井得元先生の指導を受けましたが、先生はこんなことをおっしゃっていました。「坐禅のときに、ふと何か思いが浮かぶというのは、これは仕方がないのだ。それは私たちの正常な意識活動である。嫌うことはできない」と。いけないのは、座禅のときに、意識的に何かを考えることであって、ふと何かの思いが浮かぶことがあってはならない、ということではないのです。もし、坐禅しているときに、けっして思いが浮かばないように頑張るとしたら、それはまた強い意識の働きです。意識的に〝何も考えないように努力する〟ということになってしまい、それもいけないわけです。「放っておく」という言い方をする指導者もいます。何か思いが浮かんでも放っておき、とりあわない。何か頭に思いが浮かんでも、そのことに次々と思いをめぐらすことをしないということです。  
2021.11 杉山一弥 室町期東国の公家領 國學院雑誌122-11   論文 113 「引付」は「引き合わせる」と訳す。  
2021.11 杉山一弥 室町期東国の公家領 國學院雑誌122-11   論文 114 文安年間における東国荘園からの京納再開は、東国社会の安定にともなう京都─鎌倉間の人流・物流の改善とも連動していたとみることができる。  
2021.11 杉山一弥 室町期東国の公家領 國學院雑誌122-11   論文 118  東国公家領の再生は、文安年間に画期が見える。これは永享の乱から十年間が過ぎ、恩賞としての押領が許されなくなったためである。東国荘園の経営環境は、気候変動よりも政治社会状況に大きな影響を受けていたと言えよう。京納の再開交渉は京都で行われ、文安年間の京都─鎌倉間の人流・物流の円滑化がそれを助けた。寺社参詣は、行動指標のひとつとなりうる。また東国社会の混乱に乗じて、積極的に代官職の獲得をめざす人物の存在もみえた。しかし東国公家領では、守護や守護代の関係者から代官職を選ぶようになっていった。公家にとって、在地社会への影響力を強める守護・守護代との関係は重要になる一方であった。しかしそれもまたすべては自力救済であった。  
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 75 明徳2年末、奥羽両国が室町幕府から鎌倉府へ移管されたことを明示する。
氏満─満兼───────持氏─
     満貞(稲村公方
     満直(篠川公方
 
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 77 二代鎌倉公方足利氏満は自ら奥羽に出兵したが、三代足利満兼のときは、弟満貞を稲村公方として派遣し常駐させて、自分は動かなかった。  
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 78 史料1「不能一二」は「一二らかにする能はず」と読む。
史料2「委細得其意可申之旨被仰出候」は、私満頼が上意を理解して、あなた鬼柳にこの内容を伝達するように命令されたという意味。
「奥方」は陸奥。「羽方」は出羽方。
「改年之祝言、重畳雖事定候、猶以珍重ニ候、」は、「新年のお祝いは毎年の決まり事だか、やはりめでたいことです」と訳す。
 
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 80 第二次伊達政宗の乱では、稲村公方がいながら、鎌倉から上杉禅秀が出兵。そのため、稲村公方の存在意義は低下。  
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 81 四代足利持氏は十二歳で世襲。そのため、関東管領上杉憲定を中心とした評定によって運営。その後、関東管領上杉禅秀に代わり、稲村公方が使えないから、奥羽の直接支配に乗り出した。  
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 82 「行沙汰」は「代行する」という意味。  
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 83 正長の南奥州の騒乱
白川氏─篠川公方(足利満直)─室町幕府足利義教
  私戦
石川氏─稲村公方足利満貞)─鎌倉公方足利持氏) の対立。
 
2021.12 杉山一弥 十五世紀奥羽の地域秩序と室町幕府・鎌倉府 『日本史研究』712   論文 84 この永享の乱結城合戦に伴う鎌倉府崩壊と鎌倉公方稲村公方篠川公方のあいつぐ途絶によって、奥羽をめぐる様相も大きく転換することになる。
奥羽両国は、鎌倉府の崩壊にともない室町幕府へ再移管されたとみられ、京都との関わりが顕在化する。
「何トカイタソト」は「何と書きたるぞと」でよい。
 

歴史・民俗・宗教系論文一覧 Part2

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

出版年月 著者 論題 書名・雑誌名 出版社 媒体 頁数 内容 注目点
1968 永原慶二 村落共同体からの流出民と荘園制支配 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 250 一般に一つの荘園、一つの村落は、いわば封鎖的・牧歌的小宇宙と考えられやすい。だが、現実はそれとは逆であって、一つの荘園の内部でも、荘民たちのある者は領主の神人・供御人などという特定身分となり、あるものは荘官たる在地領主の下人・所従的身分となっている。一つの荘園・村落の農民たちが、個別に上位者とのあいだに特定の人的結合=保護隷属関係をとりむすぶのが中世社会の特有の在り方であったから、農民たちのあいだの身分的分裂は、しばしば、生産・生活面における共同体的関係を破綻させる役割を演じた。またそれに加えて、一つの村落や荘園は、しばしばそれ自体完結的な政治的世界ではなく、支配関係が交錯し、また周辺荘園とのあいだに、山野・水利利用や境界問題などをきっかけとしてたえず小規模な紛争をくりかえし、荘官・在地土豪はたがいに隣荘に精力を浸透させて、百姓たちをここに味方に引き入れようとするのが常だった。従って、そこではたえず荘民のあいだの分裂と抗争がさけられず、したがって叛逆者くりかえし生み出される可能性が大きいのである。 こんな社会であるからそこ、抑うつよりも怒りが許容されなければ、自身の生活を守ることができなかったはず。
1968 永原慶二 村落共同体からの流出民と荘園制支配 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 252 それでは流亡・追放などによって、村落共同体から流出した人々は、どのような形で生命を維持し、どのような社会的な存在形態をとったであろうか。
いうまでもなく、それもまた多様であったに相違ない。個別家族の零落にもとづく流亡の場合には、縁故をもとめて近隣の有力者のもとに家族ぐるみ隷属する場合もあろうし、それが一家ごとの身曳という形態をとることもあった。また場合によって、家族を維持しえず、一家ばらばらに人身売買されて、家内奴隷化してゆくことも稀でない。しかし大規模な飢饉のような場合には、そうした有力者への隷属はほとんど不可能だったから、広範な地域の多数の農民が大挙流亡し、食糧を求め都に流入することが多かった。
 
1968 永原慶二 村落共同体からの流出民と荘園制支配 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 253 つぎに追放の場合はどうか。荘外追放がおこなわれるとき、周辺の縁者たちが犯科人を寄宿させることを禁止する場合が多かったし、それら犯科人が追放後も「荘内経廻」して問題になっていることが少なくない。したがって追放即流亡と見ることは速断にすぎ、むしろ荘域外の地に小屋住みし、縁を求めて還住の機会を求めたり、小屋住みのまま河原や谷あいの奥地に定住することが多かったと見た方が無難であろう。
およそ以上のような過程を念頭におけば、村落共同体からの流出者の中世的存在形態は、⑴乞食・非人、⑵散所、⑶間人という三類型に整理することが可能である。以上順を追って検討しよう。
 
1968 永原慶二 村落共同体からの流出民と荘園制支配 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 255 非人宿と交通路上の宿駅との関係は必ずしも明らかでないが、非人集団の宿々はたんに物乞いの便宜から自然に非人が集まっただけではなく、領主制がゆき倒れ人の処理や、交通路に不可欠の牛馬が斃死した場合の処理、あるいは牛馬取引などに関係させていたからと考えられるのである。そのように見れば、中世の社会秩序のもとにおいて非人はそれなりに不可欠の社会的機能をもっているのであり、それは皮仕事にたずさわる関係から武具製造に関連し、非農業者の集団として宿に蝟集する点からはのちの馬借につらなる交通業務にも関連する可能性が生まれてくるのであって、そすれば、非人集団が賤視されて、一般村落共同体から切り離され、権門社寺に直属することは、一般農民とそれら特定の技能者を切り離し、領主制が独自にそれを掌握することによって支配権力を強化する役割を果たすことは明らかである。
以上で乞食・非人の主要な存在形態の輪郭を見たのであるが、もちろんかれらのすべてがこのような形をとるとはかぎらないのであって、各地の荘園村落から、完全に遊離しない場合も稀でなかった。その一つの例としては、越後国荒河保の在家注文にみえる非人所がある。(中略)これによれば、非人在家五宇は入出山の山堺にあり、集団をなして定住し、いくらかの水田や開発耕地をもっているが、非人個々人の名前もはっきりしないような存在であった。この非人について、井上鋭夫氏は、入出山の位置を考証し、それが現在鍬江沢と呼ばれる地域に属し、勝つ付近には金掘沢という小字名もあったことが江戸期明暦四年の検地帳から知られる点から、ここで鉱石採掘がおこなわれていたと推定し、この非人は金掘りに従事していたといわれたのである。井上氏の推論は、鍬江沢・金掘沢という地名と否認とを直接結びつける点で、論証方法としてはなお検討の余地もあろうが、農業外労働が賤視される傾向は中世社会に一般的に認められるから、非人が採鉱労働に従事していたことも十分ありえたと考えられる。この点が承認されるなら、非人労働力は非農業部門=手工業、鉱山などにかかわる下級労働力としてひろく機能していた可能性もあるわけで、かれらの領主への直接隷属は、それら生産物の領主的支配にも通ずることになり、いっそう大きな意味をもつものとして注目する必要が起こってくるのである。
 
1968 永原慶二 村落共同体からの流出民と荘園制支配 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 266 中世後期に入って卑賤視=差別意識がかえって強化される重要な根拠は、この時期に入ると、村落共同体の、社会的・政治的機能が強化され、「村の自治」が進展することと深く関わっている。すなわち、アジア型の総体的奴隷制社会を史的前提として成立してきた日本の中世社会においては、中世前期では、支配権力への抵抗のとりでとなる村落共同体の社会的・政治的結合=自治権は弱いため、共同体の排他性が稀薄であり、従って、共同体成員の非成員に対する排他的意識も弱い。それに対し中世後期に入って、村落共同体の政治的機能が強まり「自治」が強まると、成員の非成員に対する差別意識は強められていくのである。  
1968 永原慶二 村落共同体からの流出民と荘園制支配 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 267 以上きわめて荒けずりな素描に終始したが、荘園体制は、このようにして村落共同体からの流出民を支配の体制に適合的に再編することによって、その基盤を強化していったのである。もちろん荘園体制の基本的な社会基盤は、名主的階層であり、それのとりむすぶ村落共同体にあった。しかしそれと同時に、その共同体から流入した人々を特定の身分に編成し、それに特有の社会機能を付与することによって、支配の体制が補完強化されているのであり、そこに律令体制の転形の中から成立した荘園体制の、いわばアジア的ともいうべき特徴があると考えられる。  
1971 永原慶二 付説 富裕な乞食 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 268 これによれば、かれらはやはり塩の施しを受けねば生きられないような窮乏者だったが、少なくとも乞食の頭は、第一の話のように豊かな暮らしができた。したがって、「乞食」とは、当時、たんなる生活状態をさす概念ではなく、一定の身分的状態を表す言葉であったことがわかる。  
1971 永原慶二 付説 富裕な乞食 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 269 ここでも巨万の財宝をもっていることと「乞食」であることに矛盾していないから、乞食はやはり一定の身分的状態だといわねばならない。(中略)
これは乞食ではないが、放免という前科者で死体片づけなどの雑役をしていた人の手下にされた青侍が観音の御利益で大金持になるという筋の話の背後に、当時、死体片づけにあたっていた、いわゆる「卑賤」民が、金の面では案外にゆたかであったとも読み取ることができよう。その点ではやはり富裕な乞食と相通ずる話だといってよい。
 
1971 永原慶二 付説 富裕な乞食 永原慶二著作選集3 吉川弘文館 著書 270 子を見殺しにしても、卑賤視する人々に肌をゆるさぬ行為を、ほめたたえる物の考え方の強烈さは、今日のわれわれには到底理解できぬものがある。しかも『今昔』をよんですぐわかるように、一般には、男女間の貞操はきわめてゆるやかであり、他人の女房であれ、行きずりの姫であれ、男たちはつねに大胆に女に働きかけるし、女もまた自由であるのである。したがって、この乞丐を拒否した女の場合は、相手の身分なるがゆえの拒否であって、一般に母性愛よりも貞操を重しとしているのではないのである。
こう解すると、差別意識の強烈さにはあらためておどろかざるをえないのものがある。右に紹介した最初の話では、無縁の若僧が比較的かんたんに乞食頭の聟となるように思われるが、それはあくまで「無縁」の者のうえ、聟となったからには生涯、世間から隔絶した生き方をえらばねばならない点を強調しているのである。物語は、むしろ、富裕という物質的な現実と、身分的差別とが、はっきりk区別されねばならないことを強調しているようである。
 
1978 上田正昭 第1章 史心映像 古代からの視点 PHP研究所 著書 43 応仁・文明の大乱で、京都の大半が荒廃に帰したころのできごととして興味深いエピソードが、当時の記録にみえる。文明十三年(一四八一)六月、堺の福神の女房たちが入洛し、京都の貧乏神の男たちが堺へ下ったという風説がそれである。堺からの福神らの入洛説には、京都の復興を切望する町衆のこころが投影されていた。  
1982.2 黒田日出男 史料としての絵巻物と中世身分制 歴史評論382 歴史科学協議会 論文 72 したがって、網野氏や大山氏が論じられているのは、基本的な非人たちの身分規定ではない。両氏の規定に実体として対応するのは、座的な編成をとっている非人の長吏とその配下の者たち、すなわち、非人の長吏集団ないし長吏層ともいうべき存在なのではあるまいか。史料解釈のレヴェルでは、前述のように「疥癩の類」とありながら、実体は宿の長吏で、癩者たちではなかった場合があるように、史料上の「非人」のどれに対応するものなのかに十分留意するべきである。
すなわち、獄囚が、平安期以来非人施行の対象であることは周知のことであるが、その囚人と非人の両者に共通する可視的な特徴のひとつは、蓬髪や坊主頭であって、烏帽子を被れない存在であるというところにある。
 
1982.2 黒田日出男 史料としての絵巻物と中世身分制 歴史評論382 歴史科学協議会 論文 73 すなわち、坊主頭を含む髪型・被り物のレヴェルからは、次の四つの存在に分類されるのである。説明を単純化するために、第一は、「童」=「童髪」、第二は「人」=「烏帽子」、第三は「僧侶」=「坊主頭」、第四は「非人」=「蓬髪」と把握しておきたい。
第一の「童」は、まだ「人」ではない。「童」は成人儀礼によってはじめて「人」になる存在である。それは髪型・被り物のレヴェルでは、童髪から、髻を結い烏帽子を被ることによって変換されるのである。
第二の「人」は、髻・烏帽子によって象徴される。この「人」の世界は、「出世間(聖)」に対する「世間(俗)」であり、上は天使から下は諸人(凡下)に至るまで、烏帽子(有帽)の体系をなしているのである。これは、峰岸純夫氏の中世の身分体系図式の第一の部分(「俗」の身分)にほぼ対応するが、私の場合、①そのX軸を、国家の成員⇄非成員とされ、Y軸の世間⇄出世間とは異質な軸の設定である。②下人・所従は、「童」⇄「人」の対立に位置づけられる点を考慮されていないように思われる。この世間における身分秩序の原理的把握には、やはり黒田俊雄氏が利用された『普通唱導集』の十分な分析が必要であって、わたくしは、この「人」の世界のうち「聖霊」の身分秩序は、(a)国家的官位・官職の体型と、(b)家族的・血縁的紐帯に媒介された主君⇄主従関係によって成り立っていると考えている。
 
1982.2 黒田日出男 史料としての絵巻物と中世身分制 歴史評論382 歴史科学協議会 論文 74 第三は、髪型のレヴェルで坊主頭によって象徴される「僧侶」である。彼らは、「世間」(俗)と対立する「出世間」(聖)の存在であって、『普通唱導集』の「聖霊」出世間部に見られるように、僧綱制や師範⇄弟子の関係によって体制内に位置づけけられている。そして、「人」と「僧侶」は、剃髪・還俗という行為によって相互に移行しあうのである。
第四は「非人」であって、蓬髪によって象徴され、囚人、乞食僧ないし非人僧、乞食非人・不具者、そして最も穢れた存在とみなされる差別された癩者が位置づけられる。
ここで「非人」に焦点を当てれば、①「非人」の子は、基本的に「非人」として生まれるので、「子」→「非人」という矢印はない、②また「非人」→「人」という→も、「非人」→「僧侶」も捨象しうる。とすると、「非人」は、点線の矢印のように、罪・病気などによって穢れた存在とされて「人」の世界から追放・転落させられ、「人」の身分標識たる烏帽子を取り上げられて、新たなる身分標識としての蓬髪を強制された存在なのである。また、同じく点線の矢印のごとく「僧侶」の清浄なる世界から離脱し、遁世した存在もまた「非人」となる。「非人高弁」と自署した明恵の場合はそれにあたる。いわば「僧侶」は、聖なる世界における「人」であって、その体制からの離脱=遁世は「非人」化にほかならないのである。
「非人」→「人」の可能性はありうるか。乞食門次郎が米商人となったのは、その事例になりそう。
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 14 それで、仏教自身も穢ということをひじょうにやかましくいうわけです。とくに法相宗がそうです。  
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 15 それで法相宗では「薫修」ということをいって、身も心もきれいなものにして浄土にいけるようにするわけです。  
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 19 いや、室町以降じゃないですか。まだ鎌倉の段階では、移動するから賤視するというよりも、むしろ自由に移動できるというのは、きわめて重要な特権なんだと思いますね。そういった室町以降に出てくる賤視の根をたどれば、いろいろ問題は出てくると思いますが、そういう賤視の観念が庶民の世界に定着する方向へ向かっていったのは、やはり室町以降じゃないでしょうか。
もうひとつ米づくりに関連していいますと、筋目という問題があります。スヂがいいとか悪いとかのスヂです。そのスヂというのはじつは種もみのことなんです。スヂダワラというのはじつは種もみのことなんです。スヂダワラというのを正月に飾って年神を祀るわけですけど、そのスヂダワラを持っている家が筋目のある家ということになるんです。
 
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 20 そして、だんだん種もみをもつ人間が増えてきて、惣村の段階になると種もみをもつ人間のほうが多数派になるんですね。そうしますと意識の質的な変化がおこり、種もみを持っていない人間は、スヂのない人間だということで排除されるようになって、そこで差別観念の定着化がおこったのではないかということなんです。ですから鎌倉のころはまだ、種もみをもっている人間のほうが少なかったんじゃないか…。 結局、マイノリティーが差別されるということになる。とある集団がマジョリティー化し、固定化すると、マイノリティーも固定化されて差別されるのではないか。
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 22 それからゲザイという鉱夫のことをいう言葉がありますね。それが明治のころ「下罪」という字があてられている。
江戸時代は「下財」ですね。
ところがこのことばの源流をたどっていきますと、「身体の外の財産」というのがほんとうの意味なんです。だからこれは職人の芸能と不可分の関係にあるんですね。たんに鉱山労働者や技術者だけじゃなくて、「内財」つまり家のなかの財産にたいする外の財産なんです。ですから供御人の課役は「外財」に賦課する課役なのだというようなことも出てくるわけです。
それはいつごろですか。
鎌倉時代ですね。つまりこのころは、「外財」で、なんら差別的な意味はないわけです。ところが室町以降になると、「下財」「下才」という字もつかわれ、いやしめる意味が入ってきて、特定の鉱夫という職業だけに、このことばが使われるようになる。これは散所の場合も同じで、もともと散所御家人とか散所召次のように、賤視の意味はなかったと思いますが、室町期以降、散所非人にもっぱら使われるようになり、その段階になってはじめて賤視の入ったことばになる。これは脇田晴子さんのいわれるとおりだと思います。それから「当道」ということばがありますね。
盲人のばあいにも使いますね。
ところが鎌倉時代では、これは「道道の朝柄」らが自分たちの道をいうときのことばなんです。それがやはり江戸時代には特定の職掌のことばに分化・定着していくわけです。
 
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 23 それから差別の要因についても、遍歴からくる差別、穢からくる差別、根拠のない「異民族」(たとえば朝鮮人)ゆえの差別、それから技術・職掌からの差別、課役を負担しないことからくる差別などひじょうに多様ですよね。これをたんに「被差別部落」として、ひとしなみにまとめたり、一つの要因だけに、差別の原因を求めるのではなくて、もっと相対化してみる必要があると思うんです。とくに歴史学の問題としてはですね。  
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 24 けっきょくたんなる区別であったものが、ある特定の人びとに不利益や損害を与えるようになるのが差別だろうと思うんですけど、そういう意味ではなんでもかんでも差別しようと思えばできるわけですよ。  
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 26 ただ、だいじなことは、中世前期でも「職人」は課役を負担しないというところに、身分としての特徴がありますね。これはもともと、自由通行権とおなじく特権だったと思うんです。この特権はずっとあとまでつづくわけですが、室町時代には、あるばあいその点がひっくりかえって逆に差別の原因となりうることを考えておく必要がある。平民が、あの連中は自分たちとおなじように課役を負っていないのだといいだして、差別視するばあいがあるんですね。ですから、職人が現実にはすべて差別されたわけではないんですが、こうした平民の気分が、職人の一部を差別するときの根底にあるのではないか。そのことをもっと明らかにすれば、被差別部落形成史のなかになる。職業起源論を克服する道もひらけるのじゃないでしょうか。  
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 32 外国人にたいする差別意識は国家意識の成立と関係すると思いますが、私は安土桃山時代西洋文化との接触後に本格化するのだと思うんです。あの時期に国家意識がはっきりするようになるのであって、それ以前の段階で、中国人や朝鮮人にたいする差別意識は存在しなかったでしょうね。  
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 35 そういったいろんな条件のなかで、生活程度があがっていくと、差別意識が出てくるんですね。つまり生活程度があがった部分で、差別というものが理由に使われてくる。中世までのふつうの村では、おたがいに差別できるほどの差はなかったと思います。
生活程度が大幅にあがればいいんだけど、中途半端にしかあがらないから差別が出てくるんですね。だからもっとあがりたいんだけどあがれないから、けっきょく下をみて弱いものをみつけてくることになる。これは世界に共通する差別心理じゃないですか。
そういう意味では、中世の惣村というのは、以前にくらべればかなり生活がよくなったんだけど、全体としてはもうひとつあがりきれない。
 
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 36 琵琶湖の北の端に菅浦という有名な集落があります。ここは中世の段階では惣村というより、むしろ小さな都市といったほうがいいと思いますけど、あそこでは門があって、家事を出した人はその外に追い出してしまうんです。たぶん、間人もはじめは門の外に住まわされたのでしょうね。だから門の外に追い出されれればある種の差別をされたのでしょうけど、門の内にいれば、これは階層のちがいはあったでしょうけど、差別されるというのとはちがうようです。
差別ではないですね。
そういった門とか堀のようなものが南北朝ごろからはっきり出てきて、その内にいるか外にいるかということが差別の意識につながるというケースは、かなり出てくるでしょうね。
けっきょく中世のばあいは、門の外にはじき出されたのが被差別民になるわけですし、それが近世になると、はじき出された人間をまとめて場所を指定するようになる。それが被差別部落になるわけでしょう。
そのことが中世と近世のもっともはっきりしたちがいですね。たとえば遊郭なんかにしても、中世では遊女じゃなくて、遊行の女婦(うかれめ)だったのが、近世になると遊郭という特定の場所を指定されて、そこから出てはいけないことになる。そうすると遊女という存在におし込められる。それとおなじことですね。
区別による不利益や損害があって、はじめて差別と呼べる。階層差による蔑視程度は、差別とは呼べないということか。
1983 原田・高取・網野 中世の賤民とその周辺 中世の被差別民 雄山閣出版 著書 42 網野:それから赤ですね。興福寺の非人を統括しているトガメ(戸上)、カサイデ(膳手)という公人がいるんですが、この二人は嗷訴のときや祭のときに真っ赤な狩衣を着ているんです。検非違使の看督長も赤い狩衣を着るし、やはり、赤は非人と関係があるようですね。
おそらく、赤は清めの機能とひじょうに関係があるんじゃないでしょうか。破邪とおいう意味でね。
おそらくこういった赤は、さっきの柿色のばあいと、また別の意味があると思いますね。
その赤色は、悪党、悪七兵衛の悪とおなじような意味じゃないでしょうか。
 
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 290 以上、長々と具体例を紹介してきたが、南北朝から室町期にかけての土豪層による開発の進展は、その多くが、以前の用水路の復旧や新しい池の築造によって、畠地の水田化を目指す再開発であったことを明らかしえたと思う。もちろん荒廃地を直接開田する場合もあったであろうが、この時期の特徴を示す開発としては荒川荘や蒲御厨や上野庄の場合のような畠地の水田への展開にもとめたいと思う。  
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 291 第一は、鎌倉期を通じて展開した畠作の発展と、鎌倉後期以後特徴的に現出してくる小規模開発の蓄積とを基礎に、経営的な安定を獲得した小農民が、名体制を克服し村落内の地位を上昇させつつあるのに対抗して、土豪層が小農民層の農業生産・技術の成果と彼らの水田耕作に対する欲求を吸収しつつ、逆に自らの主導で畠地の水田かを実現することによって、村落内の地位を確立しようとするものであった。
そして、その開発が用水の復旧や池の築造を重要な要素としていることは、開発耕地に対する領有権にとどまらず、用水権をも掌握することによって、村落内のより具体的な勧農権を掌握したことを意味し、それが土豪層の領主権を確固たるものにしたと考える。有名な暦応年間(1338〜42)の桂川今井用水をめぐる土豪連合の用水契約も、以上のような文脈のなかで理解することも可能であろう。
 
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 291 しかし第二に、畠地の水田化は、上野庄の事例から明らかのように、土豪層だけではなく名主百姓を含めた階層の欲求であったことは注目しなければならない。そしてこれは畠地の水田化ではないが、小百姓層の小規模な水田開発も活発化してくることを考え合わせるならば、この時期の水田に対する欲求の高まりは幅広い階層のものであったとしなければならない。峰岸氏のいう、中世後期の農業生産力発達の方向としての二毛作可能乾田の開発とはこのような事態を意味しているのであろうが、このことは、畠地の水田化を第一の土豪層の階級的指向性からのみでは説明できないことを意味し、別の要素の存在を想定しなければならないことになろう。  
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 291 それを、佐々木銀弥氏が中世後期の産業経済の特色として指摘されている畿内を中心とした米市場の発展と、地方特産物の豊富化と固定化という現象に求めたいと思う。前者は、室町幕府の成立による京都周辺への支配層の集中、そして一方における荘園制の解体にともなう荘園領主層の畿内米市場への依存の強化などによって、米の需要が増大したため水田造成の方向が強められることになったと理解できよう。
問題は後者との関係であるが、地方特産物の豊富化と固定化は、鎌倉期を通して進展してきた畠作生産や畠作物の価値の分化をもたらしたのではないだろうか。すなわち単純化していえば、特産物として中央市場への商品流通のルートに乗った畠作物と、それに乗れず地方の市場圏の中でしか流通しえないような畠作物の分化である。
例えば、国内産業において大きな比重を持っていた養蚕・製糸の関連史料が著しく少なくなり、その一般的衰退が推測される一方で、京都など畿内諸都市における絹織の発展と結びついて、品質が優れ、運送条件に恵まれていた山陰・北陸地方の養蚕・製糸が著しく進出してくるという現象が指摘されていることも裏付けとなろう。
 
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 292 平安後期から、耕作の安定性とその生産力的価値に注目された畠作物は、鎌倉期を通して飛躍的に発展するが、それはいわば量的な(面積という意味だけではない)発展であったと考えられる。それが鎌倉末期・南北朝期の農業技術と商品経済の発展にともなって質的な発展に転化し、流通経済との関わり方における分化が生じたと理解したいと思う。
このような現象と、一方における米市場の発展という現象が重なったとき、畠地の水田化という欲求が土豪層だけでなく、百姓層を巻き込んで展開したのではないだろうか。もちろん、特産物生産以外の畠地のすべてが水田化されたというつもりはない。地方の市場圏との関係のなかで新たな発展を作り出していくが、上記のような傾向がこの時期に生じたのではないか、と考えるのである。
とはいえ、土豪層が積極的に畠地の水田化に取り組んだのは、村落の全階層の利益を代表して行なったわけではない。それは第一で指摘したように、百姓層の欲求を吸収しつつ、かつ、彼らの小規模な水田開発をこえた再開発を主導し推進することによって、自らの村落内の地位を確立することにこそ真の目的があったのである。
一部地域で畠作の価値が下がるから、水田化が望まれる。

村落内の地位の向上と確立というが、本当にそれを第一の欲求として生きていたのか?
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 293 第三に、佐々木氏が指摘されえているもう一つの特色に注目したい。それはこの時期の特産物や産業のあり方が、近世初頭のそれに著しく傾斜・接近を始めているという点である。そして、前述のような水田農業への転換が畿内や中間地帯にとどまらず、九州南部の薩摩入来院でも生じていることなどを考え合わせると、稲作と畠の商品作物栽培とを中心とする近世的な農業構造の特色が、すでにこの時期に形成されはじめていると理解することも可能であろう。永原慶二氏は豊富な史料を駆使して、木綿作が十五世紀末から急速に普及することを指摘されているが、それも以上のような中世後期の農業構造の発展過程の延長線上で理解できよう。黒田日出男氏の言葉を借りるならば、「中世末期ないし戦国期の農業が、そのような商品作物の栽培に実に鋭敏に対応しうるレベルに達していたことを、端的に物語っている」のである。  
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 294 村落内部における情報の交換は、文字では残さなかったものの、座や講などのさまざまな集団のなかで活発に行われていたであろうし、それを通じて中世的な農業技術の維持・伝承と発展が実現されていったのである。その一端は「田植え草子」の歌詞の中に読み取れよう。  
1992 木村茂 中世後期における農業生産の展開 日本古代・中世畠作史の研究 校倉書房 著書 295 (寛元2年(1244)の「大隅やさ入道・同西面連署田地売券」の付図「八条朱雀田地差図」)このように、鎌倉前期に播種期、播種量、施肥の有無など集約的な経営の維持のために不可欠の農業技術の蓄積が一定度実現されていたこと、そしてそれらを伝える意識がすでに形成されていたことに注目したい。
(中略)(共同体外の)五人の所有者に次々と伝領されていることをなどを考えるならば、古島氏のいう慣行として維持・伝承する集団=村落共同体が存在しない京中=「都市」の耕地のためにこのような注記が残されたとも考えられる。
このように、中世の農業技術は文字を用いて体系化された形で残されることはなかったが、「旧来の社会関係のなかで、集団的な慣行として維持・伝承される」とともに、経験をもとに確定された技術として文字で残される可能性も存在したことを指摘しておきたい。
 
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 114 身分とは、社会ことに前近代諸社会に存在する各種自律的集団・社会組織の存立とかかわって、その内部に形成される多少とも永続的な人間の類別─不必要な部分の集団外への放逐も含めた─であり、類別は上・下に序列化されることが一般的である。類別、序列の永続化・固定化に一定の役割を果たすものが、それら諸集団(組織)の内部を律する諸規範(掟・法)であるため、身分は発達した形態では法制的関係としてもあらわれるが、その成立の真の根拠は、法の場合と同様集団自体のうちにある(大山喬平「中世の身分制と国家」、矢木明夫『身分の社会史』)。
以上のことからして、人の身分は彼の所属集団自身によって決定せられた。人はまた、彼の身分に応じて集団(組織)に対する諸役(義務)を負い、具体的な権利の主張を認められる。義務を遂行せず、集団の秩序を破壊することは、身分の放棄・剥奪につながる一方、権利の享受およびより上位身分への上昇の裏付けとなるものは、主として彼の実力であった。
 
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 115 日本中世の社会において、今日我々が身分と呼ぶところのもは、分・分際・分限・品・種姓(しゅしょう)・種などという語で呼ばれていたらしい。当時、身分を生み出す主要な自律的集団・社会諸組織として、およそ以下のものが見られた。
(イ)社会単位としてのイヘ(家)─典型的には農民・在地領主のイヘ。
(ロ)族縁的集団─一類・一家・惣領制的武士団・党・一族一揆など。
(ハ)地縁的・職能的に形成された共同団体─ムラ(村)・チョウ(町)・国人一揆国一揆・商工業者の座など。
(ニ)権門勢家とその家産的支配体制─王家・摂関家・幕府・大寺社など。
(ホ)日本国全体。
(ロ)は(イ)の展開形態、(ハ)は(イ)の横の連合である。(ニ)は大寺院の場合を一応除くと、他は(イ)・(ロ)・(ハ)を包括する極度に拡大された擬制的な大イヘ、実体としては多くの場合上位のイヘと下位のイヘの縦の連合形態(社会組織)である。
このように、個人ではなくイヘが各種集団の基礎単位であるのは、中世においては個々の人間が通例イヘと一体化しており、言ってみれば、人格化されたイエだからで、近代的意味でのたんなる個人ではなかったからである(黒田俊雄「中世における個人と『いえ』」)。
個人として振る舞っているように見えるが、その行動原理にその人が属している集団の利害が強く影響していたり、他者からの認識のされ方として、個人の前に、所属集団の身分・階層が強く現れるということか。
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 116 集団・組織内に人間(イヘ)の類別を生み出す契機、すなわち集団・組織の維持(統合)・発展・拡大の契機であり、それを通して身分を成立せしめる契機となるものは、各種の分業、支配─被支配の関係、管理能力をそなえた集団上層の形成と再生産、イデオロギーほかである。
分業には大別して、各種自律集団内にみられる「自然発生的分業」─性別・年齢別等の「純粋に生理的な基礎の上」に発生する分業(マルクス資本論』)─と、社会的分業─「もとから違っているが互いに依存し合ってはいない諸生産部面のあいだの交換によって成立する分業(同右)─がある・支配─被支配の関係は、土地支配を媒介として成立する人間支配と、人間支配そのものが先行する関係の両局面を含む(これも主従関係と所管─被官関係に分かれる)。内容的には必ずしも、単純な搾取─収奪の関係に限定されることなく。贈与─返礼の互酬的な関係、保護─被保護の関係をともなうことが多い。集団の上層は、ムラやチョウなど下位の集団にもみられるけれど、もっとも発達したかたちは、いうまでもなく日本国における国家機構、中央・地方の行政にかかわるそれである。
 
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 123 だから、ムラ仕事や共同の負担によって維持された生産諸条件(灌漑水利や山野)も、用益にあたっては、住人(成員)の優越的・特権的占取と、間人(準成員)らのこられ諸条件からの一定の排除、という冷厳な現実が串貫していた。
ムラでは、村内の神社・堂・寺院の仏事祭礼を遂行するため、祭祀組織たる宮座がつくられた。これらは構成員の同席による地縁的な共同組織であり、惣の母体にもなるという意味で、中世のムラ共同体の中核をなした。宮座には座入りの資格が有力住人に限定されるものと、間人も含めて広く開かれた村座の形態をとるものがあった(肥後和男『宮座の研究』)。今堀郷のように、間人の宮座出仕が認められても、同時に座入りした一般の村人より﨟次で三歳の格差がつけられたり、末席の新座の者は惣並の意見が禁じられる場合も珍しくなかった(仲村研『中世惣村史の研究』)。
 
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 126 第二は、平民が荘園公領制下の被支配身分の基本だという点である。平民は年貢と公事、とくにくじを負担する義務を負った。公事の負担は、荘園領主国衙にたいする、彼らの人格的「自由」や自立性を基礎づけるものと観念され、その意味において、むしろ彼らの特権・権利とでもいうべきものであった(網野善彦『日本中世の民衆像』)。  
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 131 このイヘの社会的な格づけ=家格とかかわって成立する身分系列が、ハインリッヒ・ミッタイスのいう出生身分である。人間に生得的区分のみならず生得的不平等をもたらす出生身分こそ、常識的な意味でもっとも身分らしい身分であろう。「各人はその生まれに応じて、他人の上位仲間となりまた下位仲間となる」のである(『ドイツ法制史概説』)。  
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 135 社会的分業が家業=イヘの職能として固定する時、身分の一類型が生まれる。ふたたびミッタイスにならって右の類型を、職業身分と呼ぶことにしたい。
権門の職能的分類である公家・武家・寺家・社家を一応別格とすれば、日本中世の職業身分の大枠は、(イ)文士・武士、(ロ)農人、(ハ)道々の細工、の三つに分類される。
 
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 137 彼ら(道々の輩)の中には、積極的に家業というよりは、エタのように社会からドロップ・アウトした弱者が、劣弱な立場ゆえに、特定の卑賤・不浄視されてゆく職業に固定的にかかわらざるを得なくなった婆も、少なくないと判断される。山水河原者に「屠家に生まれる」という自己認識があったことは(『鹿苑日録』延徳元年六月五日条)、イヘと無縁であったはずの彼らの意識の中にさえ、歪んだ社会的分業観にもとづく家業・家職の観念がおしよしせていたことを示す(彼らの中に擬似的なイヘを形成するものが生じたことは否定しえない。かかる被差別民こそ、大山喬平氏の「凡下百姓の特殊形態」という規定[前掲論文]が適合する。  
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 141 身分は、各種自律的集団・諸組織の存立とかかわって形成されるため、それなりの社会的な現実性と「合理」性をそなえていた。一方これら集団(組織)が搾取と収奪をうちにともなう組織体でもある場合、身分が表現する人間の序列や分業関係は、同時にこの搾取関係を維持固定するための手段として、また経済外強制そのものとして機能せざるを得ない。
この時身分は、成立の経緯や、存在の現実性から離れて独り歩きしはじめ、逆に支配・差別・搾取などを当然視させ合理化するところの根拠と化す。諸身分がこのような機能を有するにいたる過程で、大きな役割を果たすのはイデオロギーであろう。というより、身分と身分発生の契機の因果連関を、観念的に逆転させてとらえ、上・下の身分にあるがゆえに支配・被支配の関係が成立し、尊貴・卑賤の身分に生まれたがゆえに差別・被差別が生じると説明する、意識・無意識を問わない倒錯した虚偽の観念そのものが、すでにして一個のイデオロギーないしイデオロギーの萌芽である。
国家全体の序列というよりも、集団内の序列の厳しさの方が、日常的であるがゆえに恥を生み出しやすかったのではないか。
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 145 イデオロギー的な身分も含め、いったん全社会的に、確固たる身分制が成立すると、身分は不可避的に、可視的・明示的な表現を随伴せざるを得ない。前近代における人と人の関係は、当然に身分人と身分人、または身分人と身分人たり得ないなもの(身分人たり得ないというのも、結局そのような特殊な身分人ということであるが)の関係であるから、社会生活をつづけてゆく以上、人はいついかなるところにあって、自他の身分上の位置関係を確認し、それぞれの分に応じたふるまいをせねばならないからである。 個人が先立つのではなく、その身分としてふさわしいふるまいをすることが大切にされ、要求される社会。男は男らしく、女は女らしく、白人は白人らしく、黒人は黒人らしく、アジア系はアジア系らしく、ということか。
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 146 立烏帽子・風折烏帽子・平礼烏帽子(ひれ)・折烏帽子・萎烏帽子など各種の烏帽子があり、それぞれ殿上人・地下・従者・武士・衆庶の料として用いられたという。
人ナラヌモノとしての童や非人の外見が、無帽・覆面と童髪・蓬髪であったことも、自然に理解し得よう。
自分より身分の低い者に対しては、身分秩序の可視的表現は、いわゆる徽章のようなものになるだろうが、自分より身分の高い者に対しては烙印となり、慢性的な恥の原因となるのではないか。子どもは「人ナラヌモノ」。
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 149 もちろん、過差禁令がしばしば出されるのは、服装規定によって示される身分秩序が、決して安定したものではなく、たえず無視・否定の動向に脅かされていることを意味する。禁制の贅沢な衣装を身にまとうかと思えば、「あるいは裸行、腰に紅衣を巻き、あるいは放髻、頂に田笠を戴」(『洛陽田楽記』)く異形の振舞におよんだ、永長の大田楽のように、いったん、民衆運動の大きな高揚がおこると、国家の身分秩序は一時的に麻痺されられた。 厳格な身分秩序の中にいるからこそ、それへのストレスによって大田楽が起こったのではないか。祭りは本来、そうしたストレス解消の意味合いもあったのかもしれない。宗教的ファナティシズム
1997 高橋昌明 中世の身分制 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 153 以上述べてきたことを総括すると、南北朝期を画期とする身分体系の変貌は、大別して、
⑴下位身分にある者の上位身分への直接的な上昇。
⑵ある身分の中心・上層をなした実体の上昇離脱の結果、同じ身分呼称の下落・卑賤化の進行。
⑶出生身分の職業身分化、社会的分業の進展による商人の独立。
の三つの傾向を示しながら進んだといってよい。
⑴は、まさに中世後期の〝下剋上〟の動向を直接表現するものである。そして、このたえざる下剋上現象こそ、中世後期の身分制をついに体系的・固定的たらしめなかった最大の要因であった。
これにたいして⑶の傾向は⑵とあいまって、士・農・工・商を大枠とする近世的身分制の成立へと、遥かに連続するものといえるであろう。
身分体系は変貌していったが、上昇する人間もその身分制に依存している以上、新たな差別を受けることになる。
たとえば、百姓が侍身分に上昇した場合、その人物は百姓身分を卑賤視するだろうが、同時に最下層の侍身分として本来の侍身分からは卑賤視されることになる。結局のところ、上昇しても、身分社会のなかで生きている以上、恥から逃れることはできない、ということ。
1997 高橋昌明 付論1 「中世の身分制」執筆にあたって力点をおいたこと 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 163 ある個人が自らの身分を維持するにあたって、もっとも拠りどころとなるものは法でも制度でもない(法や制度は補助的な役割を果たすことができるだけである)。前近代社会─中世社会において典型的─にあっては、権利は現実的な支配を欠いたただの抽象的な権原ではない(観念的な権利を主張するだけで、国家・共同体によってそれを保護してもらえる近代社会とは違う)から、自らの権利や立場をまもるためには、当事者主義的性格に彩られれたながながしい訴訟、またはそれ以外のなんらかの実力行使によらねばならない、というあの原則(自力救済の原則)が貫徹している(もちろん近代社会も、強力な国家機関の存在を前提とした、別の実力主義的な競争社会であるが)。
身分が権利や立場や序列上の位置の主張・享受である以上、これもまた当然同じ原則の支配下にある。このことは中世では、実力の有無によって、身分間移動(より上位の身分への上昇・下位身分への下落)が比較的容易に起こったということでもある。そして、下位身分出身者の流入が進行すればするほど、その流入を受けた上位身分の下落・卑賤化が進む。歴史の展開とともに身分の下落現象が起こるのは、一種の法則的な傾向である。
なお、近年日本文化論などで、日本社会の特徴の一つとして、階層間移動が容易であることが指摘されている。真偽のほどがまず問題であろうが、仮にそういうことがいえるとすれば、日本封建制の特質論とも関連する問題であろうし、身分論の立場からも、慎重に検討してみる必要がある。
鎌倉時代西園寺家室町時代の日野裏松家などが、序列の厳格な公家に社会にあっても起きた身分間上昇の1つと言える。

下落現象の事例は、職人や下人のこと。

かりに階層間移動がしやすかったとしても、それでも身分秩序(上下関係)が厳格に存在していることが、恥を考えるうえでは最も大事。
1997 高橋昌明 付論1 「中世の身分制」執筆にあたって力点をおいたこと 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 164 このことは、中世の苛烈な生活諸条件のもとにあった集団が、自己維持をはかろうとすれば、それらの社会的弱者を切り捨てることも決して不思議ではない。つまり、差別にもそれなりの根拠と合理性があるということになる。
以上が差別を合理化しようとしての言説ではないことは言うまでもない。むしろ、このことを通して、最近プラスメリットをもつものとして強く喧伝されている、日本社会における「集団主義」が、差別や排他的措置をたえず生みだしている現実を指弾し、近代社会の理念たる自然権思想・基本的人権論の、あらゆる人間は生まれながらにして存在の価値をもっており、等しく犯すことのできない固有の権利をもつという主張の、画期的な意味を確認したいと思っているのである。
非人は集団から排斥された存在で、非成員。下人はイヘ集団の準成員。間人はムラの準成員。
1997 高橋昌明 付論1 「中世の身分制」執筆にあたって力点をおいたこと 中世史の理論と方法 校倉書房 著書 165 四で述べた自力救済、実力主義が原則の社会では、躍動的な個性、致富の才能、武的能力、旺盛な闘争心・競争心等を必須とするが、それは健康・境涯等の不幸・不運に容易に左右される。また、このような競争原理の支配する社会は、直接競争に役立たないその他の多面的な人間的諸能力の豊かな発達・開花を阻害するから、真の意味での人間的実力・能力が発揮されるようなことはありえず。実力主義の反対物を不断にうみだす。実力主義は身分的な流動と固定をともども作り出すのである。
今日の日本において「自力・自助」ということが声高に主張されているのは、国民の側において、基本的人権意識の空洞化・形骸化という事態が進行していることとも関係があろうが、歴史的には前近代の野蛮への回帰であり、現実には弱者切り捨ての体制化にほかならない。それは、必ずあらたな差別を生みださざるを得ない。
現代の自己責任社会がまさにそう。
これはブルデューや小坂井と同じ発想。東島が現代と中世にアナロジーを感じたもの納得。
現代のアメリカ社会の姿を見事に表現した言説であり、これが中世社会の姿でもある。つまり中世は、症状的には、現代日本よりも現代アメリカに近いのではないか。
経済至上主義の再生産が、一部の富裕層と、大多数の貧困層という階級を生み出し、富裕層が捏造した(本人たちはそう思ってない)自由や自己責任というロジックがその階級差を再生産し、のちの世代へと固定化し、差別を生み出しているのが現代社会。
1998 小松和彦 はじめに 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 9 すなわち、「福」とは、「神」などから直接に授けられた「富」や「仕合わせ」を身しているのである。(中略)
言い換えると、はっきりと神仏などが登場しなくとも、「福引き」「福袋」「福相」「福茶」など、「福」の字を冠した言葉の背後には、神的なもの、異界的なもの、神秘的なものが隠されているのである。それが、現代ではたんなる世俗的な「富」や「幸せ」を意味するだけになっていたとしても、わたしたちは、少なくとも、当初はそれを感じ取っていた時代があった、ということを忘れるべきではないのである。
 
1998 小松和彦 はじめに 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 12 「幸せ」とは、このように、みんなが欲しがるから自分も欲しがり、その結果、ますます手に入れにくくなり、ますます価値が高くなる、という構造をもっている。そして、苦労の末にそれを手に入れた時に「幸せ」と感じるわけである。このことはまた、個人的な事柄のように見えながら、じつは欲望というものがきわめて社会的な性格をもったものなのだ、ということも語っている。  
1998 小松和彦 七福神」物語の世界 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 24 その後、髪を肩のまわりに切りまわし、柿色の帷子を着て、手には団扇をもった30人ほどの貧乏神が集まり出てきて、梅津の里に入ってきた。 梅津長者物語
1998 小松和彦 七福神」物語の世界 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 30 これは、二重構造になっており、第一段階が貧乏をもたらしている「厄」すなわち「貧乏神」の追放であり、第二段階が富裕になった段階で、この「福」、つまり「富」を隙を見ては奪い取り破壊しようとやってくる「盗賊」や、「怨霊」を撃退するとして語られている。つまり、「福」とは、こうした「貧乏神」や「鬼」や「盗賊」を遠ざけることによってもたらされるということでもある。  
1998 小松和彦 七福神」物語の世界 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 31 このように、「福」を語るということは、「厄」を語ることでもあり、これらの物語がそうであるように、福神の活躍を語るということは、貧乏神=厄神の退散を語ることでもあった。  
1998 小松和彦 七福神」物語の世界 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 32 さらに、貧乏神を「かむろ髪の、柿色の帷子を身につけ、団扇をもっている」と描いているということも興味をひく。慎重な検証が必要であるが、このイメージ形成には、想像上の存在である鬼や天狗のイメージとともに、実在の乞食僧(非人)や「童子」のイメージも利用されているかに見える。  
1998 小松和彦 七福神」物語の世界 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 37 こうした物語や「大黒舞」の歌詞の中に語り込まれた「福」から明らかになってくる「福」の具体的なイメージ。それは、貴族的な社会での出世であり、それによって獲得される領主としての地位、それによって蓄積される物質的な「富」である。屋敷に蔵が建ち並ぶことが、「長者」のシンボルなのであった。
これが中世の庶民が思い描いた「幸せ」であり、「富」のイメージであり、そのようなイメージが描きつつ日々を過ごしていたのである。
そのような生活を手に入れることを夢見て、当時の人々は、福神系の寺社に参詣し、祝福芸人・宗教者の売る「福」を買い、家の中に福神の神像を祀ったのである。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 40 神像の「鯛」と「米俵」の対比からうかがえるのは、恵比寿がもたらす「福」は「海産物」=海の幸であり、大黒のもたらす「福」は「五穀」=里(山)の幸である。「烏帽子」と「大黒頭巾」の対比からうかがえるのは、神道(神官)的なイメージと仏教(僧侶)的イメージで、これは二神の出自を暗示している。
そして、興味深いことに、実際、福神としての大黒天は、支配者層が海の向こうから迎え入れた神あるのに対して、恵比寿は民間の中から出てきた神であった。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 41 日本では、天台宗の開祖の最澄が、この厨房の神としての大黒天を日本に持ち込み、天台系の寺院の厨房で、「三面大黒」として祀ったのが始まりだという。「台所の柱」「手に金袋」「大黒という名称」などに、大黒天がその後「福神」へと変貌を遂げていく可能性がすでに示されているといえるかもしれない。(中略)
したがって、民俗学者宮田登が、大黒天がもたらす繁栄・富は、家を単位にしたものであり、当初は台所の大黒天の祀り手が、必然的に台所仕事をする女性たちであった、と推測しているのもうなずける。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 42 ネズミは火災などを予知することができるとみなされていたため、古くからその挙動で福禍の予兆を判断することが行われていた。特別な霊性を認めていたわけである。しかし、その一方では、作物を荒らし、家の中を徘徊し、食べ物などをかじったり盗んでいったりする害獣としてひどく嫌われていた。
ところが、大黒天が台所の守護神として勧請されることになったためめに、大黒天にはこのネズミ駆除の役割も付与されるようになり、さらに、ネズミにはいささか不本意だったかもしれないが、大黒天はネズミを意のままに操ることができる、とみなされるようになったらしい。
もっとも、大黒天の縁日は干支でいう子の日ということになっているので、ネズミも大黒天信仰に影響を与えたと言っていいかもしれない。(中略)
民俗学者南方熊楠は、子の日は民間ではネズミ駆除の呪術的な祭をする日であった、と推測している。したがって、わたしはネズミが大黒天の縁日の決定に影響を与えたとする方が妥当だと思っている。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 45 後世、記紀神話のなかの蛭子や事代主命などに否定されたりしているが、宮本常一や吉井貞俊といった研究者は、恵比寿が、もともとは海辺の民の間で信仰されていた、性格の荒い「寄り神」(漂着神)だったのではないか、と推測している。(中略)
すなわち、漁民・航海者の信仰であったものが、やがて、魚介類を他のものと交換するための市が立つところにも祀られて「市神」となり、それが都市地域では商業の神へと変貌し、さらには農村地域に浸透するにつれて、農神的な性格も獲得していったのである。ところが、漁村のみならず、都市部や農村部に入っても、その神像には原初の漁業の神としての痕跡をと留め続けたわけである。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 48 大黒天信仰は、大筋においては、天台系諸寺院の台所を介して、民間の家々の台所に浸透するという形で、「家に富(米その他の食料)をもたらす守護神」としての民衆の間に受容されていった。しかし、恵比寿の場合には、海産物を交換する市を介して、商人たちの間に浸透し、それが「商売繁盛をもたらす守護神」として商家をはじめとする民間の家々に受容されていった。  
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 52 西村千穂は、民俗学者の若尾五雄などの研究に導かれながら、「ムカデ」(毘沙門天の使者)という語は動物の百足を意味するだけでなく、その形態の類似から鉱脈も意味する語であって、「百足を制圧する」ということは「鉱脈を発見する」ということであった。したがって、毘沙門天信仰の初期の信者層は鉱山業関係者であり、さらにそれが刀鍛冶など、金属加工業者の間に広がっていたのであろう、と説いている。
つまり、初期の毘沙門天に期待された「福」は、金や銀、鉄などの鉱物であったが、その信仰が広く民衆の間に流布するにつれ、中世では「福」一般になっていった、というわけである。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 58 おそらく、天台系の修験僧たちが琵琶湖周辺の山や島を修行の道場として開拓し、その信仰圏の中に組み入れる過程で、中世の初期に弁才天が勧請されたのではなかろうか。
弁才天は相当ややこしい神である。弁才天は天女(女神)とされていたことから、穀物の霊である宇賀神や水神、その化身としての蛇や狐との間にも信仰的連関が生じたようで、これは弁才天が海辺や湖や池の島、あるいは洞窟などに祭祀されていることが多いことからもうかがうことができるであろう。
もっとも、弁才天は、恵比寿や大黒天、毘沙門天などに比べれば、中世においてそれほど福神として人気があったわけではない。竹生島弁才天は、水神信仰を基盤に、むしろそれ以前に人気のあった観音信仰や吉祥天信仰、ダキニ天(稲荷)信仰などを吸収・継承することで、人気が高まったものと思われる。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 59 もう少し具体的にいうと、弁才天が吉祥天の地位や属性を奪い取ってしまったのである。たとえば、密教系寺院に祀られている三面大黒像では、大黒の右に毘沙門天、左に弁才天を配している。  
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 60 このように、弁才天は、仏教の教義に由来する「福」とは別に、民衆が期待する豊穣・多産・エロス・蓄財・出世といった、「生命」や「現世利益」に深く関わる「福」を授ける神としての性格を膨らませていったわけである。この延長として、中世末頃から、恵比寿や大黒とともに「七福神」に選び出され、加速的に福神としての性格を強めることになったのであろう。
その結果、「弁才天」を「弁財天」と書くといったことにも示されるように、きわめて即物的な意味での「福」=蓄財の神とする観念が生まれてきたのである。
 
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 61 日本では神格化されてしまったが、布袋は、中国唐代の実在の人物で、生涯、放浪の生活を送った乞食僧であった。  
1998 小松和彦 福をさずける神々 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 62 こうしたことを考え合わせると、私には、三神のみならず、七福神のすべての選考にも、禅僧たち、少なくとも禅僧文化が深く関わっていたのかもしれないということを想像してみたくなってくるのであるが、さてどうであろうか。  
1998 小松和彦 厄を祓い、福を売る 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 70 「大黒舞」「恵比寿かき」(恵比寿まわし)「毘沙門経」などを行なった、下級の宗教者・芸能者の先祖は、歴史学者盛田嘉徳によれば、「声聞師」に求められるという。  
1998 小松和彦 厄を祓い、福を売る 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 73 多くの研究者が指摘してきたように、この「散所の乞食法師」、つまり「声聞師」と呼ばれるような人々は、既成の身分秩序や職の体系におさまらないような周縁的な仕事を行う人々、言い換えれば、既成の身分や職の枠内にある人々が忌み嫌うようなことに従うとともに、そのような仕事を媒介にして、新しい仕事を作り出していく人々であった。
これらの仕事の内容は多岐にわたっている。その仕事を大きく分けると、二つのカテゴリーがあった。
一つは、ケガレとみなされたものを、物理的・具体的に除去したり、あるいは呪術的・精神的な意味で除去することで、清らかな状態(=ハレの状態)を作り出す「キヨメ」の仕事、たとえば、清掃、死人や死んだ牛馬の片づけ、罪人の追捕・処刑といったけがれに関わる仕事から、目に見えない、あるいは直接扱うことのできないような自然の秩序の乱れや、社会の秩序の乱れなどのケガレ=災厄の除去という仕事である。
もう一つは、そうしたキヨメによって生じた好ましい状態を祝福し、その末永い存続を祈念・祈願するための「言祝ぎ」に関わる仕事であった。表面的には、この二つの仕事は、対極にあるかに見える。一方はケガレに、他方はハレに関係した仕事である。しかし、これは表裏一体になったものなのである。
 
1998 小松和彦 厄を祓い、福を売る 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 75 丹生谷哲一は、中世の八坂祇園社に属する下級の宗教者であった「犬神人」は、延暦寺の大黒天を祀る釈迦堂の「寄人」でもあったという。その一年間の仕事を見ていくと、犬神人は、ケガレとハレに関わるまことに多様な職能をもっていたことがわかる。  
1998 小松和彦 長者と貧者 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 104 こうした成り上がりの物語は、毎年、いや何世代にもわたって、ほとんど同じことを繰り返していく農村世界では、成り立ち得ない話である。農村に生まれた貧者がどんなに神仏に祈っても、そして勤勉に働き、「徳」を重ねようとも、農村世界にとどまっている限り、長者になることは難しい。生産できる「富」は限られているからである。
もちろん、民俗社会にも、長者伝説や長者の登場する昔話が伝承されてきた。しかしながら、落合清春などの長者伝説に関する民俗学的な研究によれば、民俗社会の長者伝説は、黄金を発見することを主題にした話と、水田などの耕地の大規模開発者にまつわる話の、大きく二系統があり、しかも、前者が長者の繁栄を語るのに対して、後者は長者の没落を語る傾向があるという。圧倒的に多いのが前者である。
 
1998 小松和彦 長者と貧者 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 107 はっきりいえば、支配層(貴族や武士)とは異なり、農民層とも異なる人々、すなわち、商い・交換に従事している層の貧者の中からこそ、長者は生まれてくると言っていいだろう。そして、そのような仕事は、賤視される仕事であった。(中略)
つまり、飛躍した言い方をすれば、「長者」とはケガレた仕事と見做されがちであった職能者の中から立ち上がってくる者であったのである。
「貧者」から「長者」へというプロセスは、「貧乏神」から逃れて、「福の神」に選ばれるというプロセスであり、それは「厄」から「福」へ、「賤」から「浄」へ、「ケガレ」から「ハレ」への以降のプロセスでもあった。
 
1998 小松和彦 福神信仰の民俗化 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 110 これまでの検討から、福神信仰が、下克上・成り上がりの可能な動乱の時代を背景に、京を中心とする都市部で発生し、下級の商人や職人、芸人たちに支持されて広まっていったらしい、ということが明らかになってきた。 室町時代は身分秩序の厳格な社会だと思っていたが、乞食が米商人に成り上がった事例もあるように、成り上がりの可能な時代でもあった。どう理解すれば、整合性がつくか。公家・武家・寺家内部と、公家・武家・寺家とそれ以外の格差が激しいと理解しておけばよいか。厳密に定義できないか?
1998 小松和彦 福神信仰の民俗化 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 116 七福神たちは、長者の家でどんちゃん騒ぎの宴会を楽しんでいた(梅津長者物語)。いってみれば、福神たちは長者になった者たちを訪問しては、その「富」のお裾分けに浴する「たかり」や「物乞い」の類なのである。(中略)
もっとはっきりいえば、福神とは、福をもたらす神ではなく、福を持っている者のところに、それを祝福するためにくる神なのである。
もっとも、「山崎長者」伝説が語っていたように、「施行」というかたちで長者から「富」を引き出すのも、「福の神」のきわめて重要な仕事であり、その意味では「福の神」が、目に入った長者・有力者の家を、彼らがそのことを自覚しているかどうかは別にしても、まず訪問するのは納得できるものである。
しかし、そのかげで、貧者こそが「福の神」の来訪を待っていたのであり、わずかな「施し」であっても、それによって、「梅津長者物語」のように、貧者を助けて長者に成り上がらせた恵比寿のような福の神が訪問してくるのを期待して待っていたのだ、ということも忘れるべきではないだろう。その期待が、門付が訪れた町や村で、その芸能をさまざまなかたちで吸収し、自分たち自身で演じることになった各種の土着・民俗的な「福神」系の芸能や儀礼を生み出したのだと思われる。
 
1998 小松和彦 福神信仰の民俗化 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 139 ところで、私はこうした「民俗化」、つまり村落の外部からやってきた人たちによる儀礼・芸能から、村落の内部の人々による儀礼・芸能への移行に伴って、相対的にいえば、外部に向かって開放されていた村落が、閉鎖的な性格を深めていくことになったのではないか、と推測している。
なぜならば、たとえ乞食同然の芸能者であっても、村落内部に蓄積された「富」の一部が、たとえわずかなものであっても、外部の人々に分け与えられていたのに対し、それを村落内の人々が演じることになったならば、そうした「富」は村落の内部での分配に留まってしまうからである。
この「民俗化」が、祝福芸人が来なくなったから自分たちで演じるようになったのか、それとも祝福芸人を排除する心性が強まったからそうなったのかは定かではない。
しかし、これまで見てきたような「民俗化」は、村落の内部と外部の間の「交換」から、村落内部での「交換」への変化であり、それがもたらすものは、「共同体」内部の「富」の偏在の調整=「富」の平準化ではあるが、それは同時に、村落共同体の排他性も高めることになったとも思われるのだ。
簡単に言ってしまえば、「長者」の「施行」の対象が、村落の「外部」から「内部」へと変化したというわけである。物部村の場合もそうだった。その結果、村落に寄生するかのような、「周縁的・外来的な存在」であった祝福芸人たちの生活すべき領域が狭まり、消滅を強いられていくことにもなったのではなかろうか。
さらにいえば、「福」がどこからくるのか、といった事柄に関する民俗社会の人々の観念にも、大きな変化が生じていたのかもしれない。つまり、それは、民俗社会が「異人」という「外部」を失っていく過程でもあったのかもしれない。
そして、この均質化した領域の彼方に、「貨幣」という新たなる「外部」が登場してくるのである。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 150 ところで、「地蔵」は村はずれの峠や辻に祀られている仏像で、ムラとマチ、ムラとムラの境界の標識になっていた。しかし、この仏像の本来の役割は、「この世」と「あの世」の境界にいて、善人を「極楽浄土」に導くことにあった。つまり、「現世」の「利益」ではなく、「来世」の「利益」をつかさどる神であったのである。
しかし、こうした異界・他界との媒介者的な機能のために、村落共同体においてはその社会が認識する「異界」との境界に祀られることになり、さらには「現世利益」を得るという役割まで託されるようになっていったらしい。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 158 つまり、民俗社会では、人々が普段は恐れている妖怪変化に近い「鬼」や「山姥」に、時と場合によっては「福の神」の役割を担わせていたのである。善良な心を持っていれば、たとえ「鬼」や「山姥」でも、心を和らげ、「富」を授けていくれる、というわけである。  
1998 小松和彦 「富」はどこからくるのか 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 164 たしかに、古代の神話や伝説には、神が「小さ子」の形をとって現れることがある。したがってそうした信仰の系譜の中に、この「子ども」を位置付けることは可能だろう。
しかし、私は、柳田國男も指摘しているように、太古の方に目を向ける前に、足元の文化からの影響にもっと目を向けるべきだと思っている。というのは、この「小さ子」には、古代以降に展開した「童形」信仰・「童子」信仰が複雑な形で入り込んでいるからである。
その中でも、最も重要だと思われるのは、仏教の側から説かれ出した「護法童子」信仰や「竜宮」信仰である。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 170 「福子」とは、民俗社会で、心身に何らかの「異常」(知的障害や脳性小児麻痺、水頭症が多い)を持っているとみなされた人、とくに「子ども」を意味し、日本のかなり広い地域において、そのような子どもが生まれると、家に富をもたらしてくれる好ましい子どもが、神から授かった子どもと考えて、大事に育てる習慣があった。近世に「福神」として人気のあった「福助」も、実在の人物が福神化したもので、この人物は水頭症であったらしい。  
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 171 しかしながら、心身に何らかの「異常」をもった子どもが、すべて「福子」とみなされたわけではない。その対極には、そうした類の「異常」を、人間社会や家の不幸をもたらす子ども、つまり悪霊に類が送りつけてきた子どもと理解して、生まれたときにすぐに殺してしまうこともあった。そうした子どもたちは、「鬼子」とか「魔物の子」「化け物の子」といった表現がなされた。
注意しなければならないのは、「福子」と判断される子どもの「異常」と、「鬼子」と判断される子どもの「異常」の特徴が同じであるわけではない、ということである。
たとえば、生まれたときに、黒々とした神が生えていたり、歯が生え揃っていた子どもを「鬼子」とみなして忌み嫌い、そのような子どもが生まれると間引く習慣があった地方は多いが、そのような「異常」を逆に「福子」の印とみなして喜ぶ地方があったわけではない。しかし、ある種の「異常」は両義的な性格を帯びていて、「福子」とみなされたり、「鬼子」とみなされたりしていたのであった。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 173 「福子」伝承は、「障害児」にとって、一見したところ好ましい伝承であるというふうに理解できるかもしれない。しかしながら、現在のような福祉制度や人権意識が発達していなかった時代においては、むしろこうした「神話」とは裏腹に、「障害者」に対する民俗社会の処遇の仕方は、まことに厳しいものがあった。右で紹介した話に見える「宝子」を産んだ女房が、その子の「生涯」を恥じていることにも示されるように、つまり「化け物の子」(鬼子」と判断したらしいことにも示されるように、さまざまな形の差別・排除が加えられたのである。  
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 174 もっとはっきり言えば、そのような子どもを大事に育てることができる自信と勇気、あるいは経済的余裕がないものは、同様の子供が生まれたとしても「化け物の子」としてその子どもをやむなく「処分」したらしい。
つまり、「福子」とは、「大事に育てるとその家に福が来る」というのではなく、「経済的に豊かな状態にあるから育てられている子ども」ということになる。このことは、「福神がやってきたから長者になったのではなく、長者だから福神が移り住んだのであり、貧乏神が移り住んだから貧乏になったのではなく、もともと貧乏だから貧乏神が移り住んできた」ということと、同じことなのである。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 175 しかし、忘れてはならないのは、そのかげに、裕福内では「福子」として大事に育てられることになるはずの子どもが、貧しい家に生まれたために「化け物の子」として処分されなければならなかったということが隠されている、ということである。「福子」伝承をもって、近代以前の「福祉制度」などと簡単には言えないわけである。
貧乏な家の者が「福子」を授かったとき、「福子」が生み出すさまざまな「不幸」を克服して莫大な「富」を築き上げ、この子は本当に「福子」であって、と感謝できるようになる人生を体験することは、農山村ではめったになかったのである。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 176 「富」についても同様である。村の中にある旧家がずっと長者であり続けているのはなぜか、急速に長者になったのはなぜか、急に長者が没落したのはなぜか。それはかくかくしかじかであると、嘘とも本当ともいえるような、しかしもっともらしい因果物語が、人々の間で作られ、納得のいくと思われる話が選び出されて、定着・共有化されていく。
それが民俗社会の伝承なのである。そして、その目の前の事実を説明するための「知識の収蔵庫」のようなう役割を果たしているのもまた、「伝承」なのである。もちろん、その中には「信仰」や「昔話」や「伝説」も含まれている。
「知識の収蔵庫」としての役割を、かつては宗教も担っていたが、現代では「科学」が担うようになっている。信用できるものが変わったというだけ。信用の精度が変わった?というだけ。合理性の説明根拠が変わっただけ。
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 177 (科学的な説明方法を)十分には知らなかった昔の人々は、その事実をどのように説明し納得しようとしたのだろうか。
その一つは、その「富」は神=共同体の外部から授けられたり、奪われたりするものである、という説明である。つまり「富」は「異界」からもたらされ、「異界」に消えていくのである。あの家が金持ちになったのは、山で鬼や山姥に出会って、「打出の小槌」の類を手に入れたからであるとか、竜宮の主から人には見えない「不思議な童子」をもらってきたからだ、というような説明の仕方がなされるわけだ。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 179 もう一つの説明は、共同体内部の「富は限られている」、という観念を前提とした説明の仕方である。ゼロサム理論である。「限られた富」の考えに立てば、誰かが急速に長者になれば、それが誰だとは言えないにはせよ、共同体内部の誰かの「富」がそこに移動したことになる。村の中である者が急に長者になり、別のある者が急に没落したということがあれば、その繁栄と没落の間に連関を見出し、後者から前者へ「富」が移動したと解釈することになる。(中略)
しかし、こうした(「憑きもの」信仰:動物霊が住み着いて、その家の主人の望みを叶えるために働くという)説明の中には、マヨヒガから富を授けられた者に対する羨望の念とは異質な感情が込められている。というのは、この動物霊は、自分が住み着いている家を富ますために、隣家に災厄をもたらしたり、その富を密かに盗み取ってきたりする、と考えられていたからである。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 180 「憑きもの」がいる家では、それは「福の神」である。だが、その被害を受ける家にとっては「邪悪な神」ということになるわけである。このために、「憑きもの持ち」の家に対するさまざまなかたちでの反感や排除の行動がとられることがあった。
ここでは、「富」は村落共同体の内部にあった、その内部の「富」が神秘的で邪悪なやり方で変動しているということになる。
遠野地方の「座敷わらし」伝承は、「マヨヒガ」タイプの説明と、「憑きもの」タイプの説明の中間に位置するような説明である。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 181 金持ちになったから福の神がいるとされた典型例であろう。
自給自足的な生活をしている村落共同体では、「富」の急速な変動が、内的な要因で生じてくることは少ない。大きな変動は共同体の外部からの働きかけ、とりわけ貨幣経済の浸透がなければ考えられない。「福子」がいるから長者になったとされる家も、マヨヒガから「富」を授かった家も、「憑きもの持ち」と指弾された家も、さらには「座敷わらし」の移り住んだ家も、いずれも市場経済貨幣経済の原理に従って、その家の者たちの努力と才覚によって利潤をあげて、その結果、長者になることができたのだ、と分析することができる。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 184 こうした昔話と比較したときに、この「異人殺し」伝承の特徴が浮かび上がってくる。「大年の客」や「竜宮童子」では、乞食や座頭の背後に「異界」の神々が控えているのである。乞食や座頭はそうした神々が身をやつした姿かもしれないし、神々が派遣した使者かもしれない。そういうメタファー(暗喩)が働く仕掛けになっているのだ。つまり、「富」の源泉は「異界の神々」なのである。
ところが、「異人殺し」伝承では、その「異界の神々」のメタファーであった「六部」などの「異人」が殺されてしまうのである。これは明らかに、この伝承の語り手たちの観念のなかで、すでに「異界の神々」が殺されてしまっていることを物語っているはずである。つまり、「異人殺し」伝承とは「神殺し」以降の伝承なのである。そうでなければ、このような伝承は成立し得ないはずである。
 
1998 小松和彦 昔話のなかの「福の神」と「富」 福の神と貧乏神 筑摩書房 著書 185 村に急速に金持ちになった家がある。人々はその家が貨幣経済の原理に従って成功したことを知っている。その世界を生きる才覚があったことを承知しているのである。しかし、これまでの村落共同体を破壊していく貨幣に反感を抱いている人々は、そうした成功者を村落からさまざまなかたちで排除しようとした。その理由が「強盗殺人」という犯罪事件の「想像」(創造)であった。
「異人殺し」伝承には、はっきりと、「貨幣」が本来の「貨幣」の機能をもって立ち上がってくる姿が描きこまれているのである。そして、この伝承のすぐ向こう側に、貨幣経済に組み込まれて解体してく共同体としてのムラの未来が待っているのである。
 
2003 大山喬平 ゆるやかなカースト社会 ゆるやかなカースト社会・中世日本 校倉書房 著書 28 トリルのもっとも本質的な意味はジャジマーニー関係を随伴し、そうした関係を成立せしめている一個の儀礼空間における有意労働であるところに存しています。その労働は多かれ少なかれ、純粋な経済行為としてではなく、経済外的な、宗教的な領域に踏み込んでおり、そうした空間において直接的に意味のある有意労働として現れます。近代社会はあらゆる労働を純粋な経済行為に大規模に還元させたのですが、中世社会においては多くの労働が直接的に意味をもっていたのであり、それらは純粋な経済関係に還元することがもともと不可能な種類の労働であったということができます。  
2003 大山喬平 ゆるやかなカースト社会 ゆるやかなカースト社会・中世日本 校倉書房 著書 36 くわしいことは申せませんが、平安時代に日本貴族層のあいだに上下の家格と家職が形成・固定され、王家と摂関家のあいだに、ほとんど内婚制に等しいような婚姻がくりかえされると同時に、彼らの世襲的な儀礼行為が犯しがたく確立していきました。これは新しい一つのジャーティーの形成にほかならないのであり、彼らの世襲的で排他的な儀礼行為は南インドタミル社会の差別されたアーサーリーやヴァンナールがうけもつ儀礼行為と内容こそちがえ、本質的には通底する性格のものであったということができます。平安時代にケガレの意識が浸透し、この列島社会に被差別身分が姿を現すようになるのも同じ流れに乗った現象と見ることができます。平安後期の列島社会はカースト制への傾斜を示し、そうした色彩を明らかに強めていたと認められます。
私の判断では、日本の王権である天皇制がどうして断絶することなく続いてきたか、という素朴な問いにたいする簡単な回答は、それが一つのジャーテイによる世襲的な職能として確立していたからだ、ということになります。カースト社会における特定の職能は特定のジャーテイによって、世襲的に独占され、他者からのむやみな侵害を拒絶する強固な慣行の上に成り立っています。俗にいわれる天皇への人々の尊敬は歴史上、そのことが機能したことがあったにもせよ、付随的・二次的な歴史現象であって、ことの本質ではありえません。他身分・他ジャーテイとの通婚期人、そこに見られる実際上の内婚制を伴う特定職能の世襲的独占などは、同時に社会の底辺の被差別民にも見られる現象にほかなりません。時として勃興してくる侵攻政治勢力と王家との通婚の実現は、その意味でカースト的慣行への歴史的抵抗として大きく位置づけられうるものです。平安時代には列島のあらゆる部分で大小のジャーテイが形成されつつあったと考えていいのです。
 

仏通寺文書40

    四〇 小早川氏奉行人連署書状

 

 就向上寺夫丸之儀、両度蒙仰之条、遂披露、対彼百姓四人

                            (向上納所)

 公事恩、田数可遣之由、致口才相調候、今度之儀ハ文賀長々被

                        (文賀)

 御逗留、別而御辛労候、御分別所仰候、猶趣者、御納所可御演説候、

 恐々謹言、

 

 

      永禄五〈壬戌〉(1562)     (真田)

       五月五日          景久(花押)

                    (桂)

                     景信(花押)

                    (磯兼)

                     景道(花押)

                    (日名内)

                     慶岳(花押)

      仏通寺

       御塔頭 参

 

 「書き下し文」

 向上寺夫丸の儀に就き、両度仰せを蒙るの条、披露を遂ぐ、彼の百姓四人に対し公事の恩として、田数を遣はせらるべきの由、口才を致し相調へ候ふ、今度の儀は文賀長々御逗留に成られ、別して御辛労に候ひ、御分別仰する所に候ふ、猶ほ趣は、御納所御演説有るべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 向上寺への人夫徴発の件について、再び小早川隆景様からご命令を被りましたことを、向上寺へ披露した。あの百姓四人に対し、夫役を勤めた恩賞として、田地をお与えになるべきだ、と隆景様へはっきりと主張し調整しました。今度の件は、向上寺御納所文賀様が長々とご逗留になって、とりわけ苦労をいとわずお働きになりまして、この件について道理をおっしゃいました。なお、この内容については、文賀様がご説明になるはずです。以上、謹んで申し上げます。

気になる狛犬 その3(未完)

鳥取県東伯郡琴浦町宮場「春日神社」 *出雲型親子狛犬

 *子獅子のみ

 

佐賀県小城市小城町松尾「須賀神社」 *岩狛(岩乗り狛犬

 

佐賀県小城市小城町松尾清水「清水山見瀧寺宝地院」 *肥前狛犬

 *岩狛(岩乗り狛犬

 

佐賀県小城市小城町岩蔵「岩蔵天山神社」 *岩狛(岩乗り狛犬

 

佐賀県小城市小城町晴気「晴気天山神社」 *岩狛(岩乗り狛犬

 

福岡県大川市大字酒見「風浪宮」 *吽形子取り型狛犬・阿形玉乗り型狛犬

 

福岡県久留米市瀬下町「水天宮摂社水神社」 *肥前狛犬

 

岡山県笠岡市大島中「素戔嗚神社」 *子取り型狛犬

 

広島県山県郡北広島町岩戸「八栄神社」 *阿形玉乗り型・吽形子取り型

 

福岡県福津市宮司元町「宮地嶽神社」 *マッチョ型狛犬


宮地嶽神社「奥之宮」 *吽形・子取型狛犬