2022.11.8
クリーク(T撮影)
散歩に霧中
ボケの衰え
整列の美
絞り
「仏通寺住持記」 その15
(記)「再住歟」今之庫裡立四月廿五日開堂
(1447)
四 丁卯 一咲住○今年仏殿上棟 納所聖仙
*
〈九月廿八日輪」番以二一回一為レ」期、数者十番也〉
政所真田石見守桂叟宝昌於二摂州有馬温泉一逝去、十月十四日也、其嗣子
兵庫助弘康相続移二于其職一矣、保レ家二十年
(頭注)
「文安丁卯四年初夏廿一日卯剋上棟也、
大工藤原次郎五郎 」
両寺住持并番衆次第
天寧寺 仏通寺
一番 一番
住持契沢庵主 住持明三庵主
番衆聖喜寺派 番衆正覚庵派
二番 二番
住持玄貴庵主 住持養浩和尚
番衆祥雲寺派 番衆大慈寺派
三番 三番
住持景延庵主 住持的当和尚〈諱」周禎〉
番衆〈華蔵寺派」加密伝派〉 番衆建国寺派
四番 四番
(後筆)「元哉和尚之事」 (後筆)「千畝和尚之事」
住持慈雲和尚 住持常喜和尚
番衆〈自派加」権管派〉 番衆 自派
五番 五番
(後筆)「一笑和尚之事」
住持俊育庵主 住持円福和尚
番衆〈自派加」得月派〉 番衆 自派
番衆終而復始
仏通寺 天寧寺
一番 一番
住持自立庵主 住持安柏庵主
番衆聖記寺派 番衆正覚庵派
二番 二番
(後筆)「智泉院」
住持常誠庵主字至心 住持真康知客
番衆祥雲寺派 番衆大慈寺派
三番 三番
住持従潤庵主 住持祖傑庵主
番衆〈華蔵寺」密伝派〉 番衆〈建国寺」加法雲派〉
四番 四番
住持定膳庵主 住持善勗庵主
番衆〈慈雲派」加権官派〉 番衆常喜院派
五番 五番
住持聖宗庵主 住持自純庵主
番衆〈得月庵派」加大通院派〉 番衆円福寺派
両寺此年以来住持并番衆以レ有二其缺典一、故重加二評議一題二直弟老僧廿員名字一
任二両寺十年住持之職一、又挙二諸老門葉十派一配二両寺五年之番衆一、五年終而復
始之時、湏二両寺番衆互換一也、然則十年之間住持各一度番衆各両回也、住持交代
(小早川氏)
之時不レ要二檀那之命一唯以二当住状一通一請レ之、若有二辞退一則当番或倩二余之
直弟一、或擢二其派一老一莫下レ令二主席一空却上也、番衆亦預報二来番派下老僧
一人一以知二其期至一、若番衆不レ出則住持或自補或倩レ人相レ佐、若住持番衆共
不レ出則、当住并当番衆湏下請二其寺来年住持番衆一、以二眼同交代一為上レ期也、
若無二交代一者縦雖二住役一回一堅守二寺家一莫下退出而空却上矣、若缺レ番之一派
者不レ可レ許二両寺并門中出入一、直湏三擯出絶二映迹一也、暫時会合尚不レ許、況
同行同住乎、併可三以所二同罪一者也、如レ此評議莫レ道欠二博愛之慈一只要老少同
守二此規式一令下二両寺一無中退転上矣、又両寺各依二常住米銭収納一定二僧衆数一而
置二年中之定案一、更出二余分一充二修造之費一、若依二因水旱一土貢減損、則縦
止二修造一不レ可レ減二僧衆一、若止二修造一尚不レ足則量二其現納一減レ衆亦得矣、但
願住持番衆彼此和合随順、以二勤行一為レ専、且亦営二修造一、近来番衆或不レ用二
定案規式一、随意安レ衆、或減少至二十人十五一、而復不レ営二修造一自招二
重罪一可レ不レ慎乎、 然則若有二番衆一濫減レ衆者、住持宜下計二算収納一切加上二
呵責一、若否則者、住持亦不レ可レ免二其責一者也、又当寺僧堂衆内別有二檀那一
捨二六人分之田一、且要此六人者湏下免二常住普請等一専以二道行一為上レ本矣、然則
維那侍聖侍真祠堂坊主其外老僧二人以定二直堂一不レ可レ離二僧堂一、如上六員
湏下免二諸務一以応上二檀那信心願力一也、
(1447)
文安四年丁卯九月廿八日
仏通寺住持比丘禅慶書之、
右依二如上之評定一、現前老僧十五人押二花字一、以為二後代不易之式一焉、
前住中端各有判 前住周竹
当住禅慶 俊育
真康 定善
祖傑 聖宗
祥雲派善徹 大慈派全機
祥雲派宗春 祥雲派祥沢
祥雲派通三
此外任二住持一之不レ現レ前衆、題二其名字一遣レ使、乞二花字一以為二後証一矣、
契沢各有判 符契
周禎 明三
幻観無判 玄貴
景延 安柏
常誠 従潤
永忠無判 善勗
自純 右之人数一笑和上真筆在二于肯心院一、
(頭注)
「覚隠派下在六派
祥雲派 在防州
永源派 在同所
大通派 在当国吉田
曹源派 在当山
瑞雲派 在当山
即心派 在吉田 」
五 戊辰 創開永徳年歟
「書き下し文」
四丁卯、 一咲住す(再住か)、今の庫裡立つ、四月二十五日開堂、
今年仏殿上棟、納所聖仙、
〈九月二十八日、輪番は一回を以て期と為す、数は十番なり〉
政所真田石見守桂叟宝昌、摂州有馬温泉に於いて逝去す、十月十四日なり、其の嗣子兵庫助弘康相続し其の職を移す、家を保つこと二十年。
(頭注)「文安丁卯四年初夏二十一日卯の剋上棟なり、
大工藤原次郎五郎」
両寺住持并番衆次第
(中略)
両寺此(しきり)の年以来(より)の住持并びに番衆其の欠典有るを以て、故に重ねて評議を加へて、直弟老僧二十員の名字を題して、両寺十年住持の職に任ず、又諸老の門葉十派を挙げて、両寺五年の番衆に配す、五年終わりて復た始めの時は、須らく両寺の番衆互いに換へるべきなり、然らば則ち十年の間に住持は各々一度、番衆各々両回なり、住持交代の時は檀那の命を要せず、唯当住の状一通を以て之を請ず、若し辞退有らば則ち当番或いは余の直弟を倩ひ、或いは其の派の一老を擢でて、主席をして空却せしむること莫きなり、番衆も亦た預(あらかじ)め来番派下の老僧一人に報じて、以て其の期の至ることを知らしむ、若し番衆出でずんば、則ち住持或いは自らを補ひ、或いは人を倩(やと)ひて相佐けしめよ、若し住持・番衆共に出でずんば、則ち当住并びに当番衆須らく其の寺の来年の住持・番衆を請じて、眼同交代を以て期と為すべきなり、 若し交代無くんば、縦ひ住役一回すと雖も、堅く寺家を守りて退出して空却すること莫し、若し番を欠くの一派の者は、両寺并びに門中出入りを許すべからず、直に須らく擯出して映迹を絶たしむべきなり、暫時の会合尚ほ許さず、況んや同行(あん)同住せんをや、併せて以て同罪に所すべき者なり、此くのごとき評議博愛の慈を欠くと道ふこと莫かれ、只要ず老少同じく此の規式を守りて、両寺をして退転無からしめよ、又両寺各々常住米銭の収納によりて、僧衆の数を定めて年中の定案を置く、更に余分を出だして修造の費えに充つ、若し水旱によつて土貢減損せば、則ち縦ひ修造を止むとも僧衆を減ずべからず、若し修造を止めんに尚足らざらば、則ち其の現納を量りて衆を減らすも亦得たり。但し願はくは住持・番衆彼此和合随順して、勤行を以て専らと為し、且つ亦た修造を営まんことを、近来の番衆或いは定案の規式を用ひず随意に衆を安んじて、或いは減少し十人十五に至る、而るに復修造を営まず自ら重罪を招くこと、慎まざるべけんや、然れば則ち若し番衆有りて濫りに衆を減ずれば、住持宜しく収納を計算して切に呵責を加ふべし、若し否らずんば則ち、住持も亦た其の責めを免るべからざる者なり、又当寺僧堂衆の内別に檀那有りて六人分の田を捨す、且つ要ず此の六人は須らく常住の普請等を免じて、専ら道行を以て本と為すべし、然れば則ち維那と侍聖と侍真と祠堂坊主と其の外老僧二人を以て直堂に定めて僧堂を離るべからず、如上の六員須らく諸務を免じて以て檀那の信心の願力に応ずべきなり、
文安四年丁卯九月廿八日
仏通寺住持比丘禅慶之を書く、
右、如上の評定によりて、現前の老僧十五人花字を押(あつ)めて、以て後代不易の式と為す、
(中略)
此の外住持に任ずる現前せざる衆、其の名字を題して、使ひを遣はして花字を乞ひて、以て後証と為す、
五戊辰、創開永徳年か、
「解釈」
文安四年(1447)丁卯、 一笑禅慶が住持を勤める。二度目の就任か。現在の庫裡を建立した。四月二十五日開堂。
今年仏殿の上棟が行なわれた。納所聖仙。
〈九月二十八日、住持の輪番は一回を限度とする。番数は十番である。〉
小早川家政所、真田石見守桂叟宝昌が、摂津国有馬温泉で亡くなった。十月十四日のことである。その跡継ぎである兵庫助弘康が相続し、政所職を移した。家を保つこと二十年。
(頭注)「文安丁卯四年四月二十一日卯の剋、上棟が行なわれた。大工藤原次郎五郎。」
両寺住持并番衆次第
(中略)
天寧寺・仏通寺はここ数年以降、住持と番衆についての規則が不完全であるため、重ねて評議を行ない、直弟の老僧二十人の名前を書き、両寺それぞれ十年間(一人一年?)の住職に任命する。また老僧たちの流派十派を示し、両寺に五年間の番衆を配置する。五年間の当番が終わって再び始めるときは、必ず両寺の番衆を互いに入れ替えるべきである。だから、十年のうちに、住持はそれぞれ一度、番衆はそれぞれ二回担当するのである。住持交代のときは、檀那(小早川氏)の任命を必要としない。ただその時の住持の書状一通だけを用いて、次の住持を招請する。もし辞退することがあれば、当番の住持は他の直弟を雇い、あるいはその流派の最長老を抜擢し、主席である住持を空席にしてはならないのである。番衆もまたあらかじめ、次の番を勤める流派の老僧一人に連絡して、当番の時期が来ることを知らせなさい。もし次の番衆が出てこなければ(辞退すれば)、住持が自ら番衆を補任し、あるいは人を雇って、互いに助け合いなさい。もし次の住持・番衆がともに出てこなければ(辞退すれば)、現在の住持と番衆がその寺の来年の住持・番衆を招請する必要がある。眼同交代によって期日とするのである。もし交代する者がいなければ、たとえ住持職を一度行なっていたとしても、しっかりと寺家を守り、寺を退いて住持を空席にしてはならない。もしも番を勤めない一派の者は、両寺並びに門派への出入りを許してならない。直ちに追放して、その痕跡をも消してしまわなければならない。しばらくの間は、会うことさえも許さない。ましてや、同行・同住はなおさら許してはならない。このような議決は、博愛の情を欠くと言ってはならない。ただ必ず、老いも若きも皆に、同じようにこの規則を守り、両寺を衰退させないようにしなさい。また、両寺はそれぞれ通常の米銭収納額によって、僧衆の員数を決め、年中行事を定めなさい。さらに余分の収納を出して、堂舎の修理・造営の費用に当てなさい。もし洪水や旱魃によって年貢が減少するならば、たとえ修理・造営を止めても、僧衆を減らしてはならない。もし修造を止めてもさらに僧衆を養う費用が足りなければ、米銭の現納量を計量し、僧衆を減らすのもまた致し方ない。ただし、住持・番衆は、どうかあれやこれやと和合随順して勤行に専念し、さらにまた修理・造営に励んでください。最近の番衆は、一方では定まった規則を用いず、思いのままに振る舞って番衆の勤めをあなどり、一方ではその数を減らして十人十五になる。しかし、修理・造営に励まず、自ら重罪を招くことは慎まなければならない。だから、もし番衆がむやみに人員を減らすならば、住持は収納を計算し、人員を減らした番衆をひたすら厳しく責め立てるのがよい。もしそうしないのであれば、住持もまたその責めを免れることはできないものである。また、当寺の僧堂衆のうち六人分を養う田を、特別に檀那が喜捨した。したがって、この六人は通常の普請等を免除し、もっぱら仏道修行に専心するべきである。したがって、維那と侍聖と侍真と祠堂坊主と、その他の老僧二人を直堂に定め、僧堂を離れてはならない。上述の六人は必ず雑務を免除し、檀那たちの信心の願力に応えなければならないのである。
(中略)
右、上述の評定により、目の前にいる老僧十五人の花押を集め、これをもって後世不変の規則とする。
(中略)
この他、住持に任命される僧侶で、目の前にいない衆は、その名字を書き記し、使者を遣わして花押を書くように依頼し、それによって後々の証拠とする。
文安五年(1448)戊辰、創開永徳年か。
「注釈」
「眼同交代」─未詳。
「至十人十五」─未詳。
「侍真」─住持の世話係か。
*この記事に引用された文書は、『仏通寺文書』19号を参照。
つづく
「仏通寺住持記」 その14
(1442)
二 壬戌
*三 癸亥 厳仲住 〈文安四年輪番評定之所有二前住一、故記二于此一〉
(頭注)
「上元畢」
(ママ)
文安甲子 二月五日改元、三月四日含暉仏殿達磨大権安置、
*中元始 作桑門本清 十二月廿六日為祈願寺畠山沙弥
覚隠住 〈肯心移今屋敷、昔在鎮守左辺云云、」彼在客殿棟簿〉
(頭注)
「安芸国仏通寺事、為御祈願寺可被致精誠之由所被仰下也、仍執達如件、
文安元年十二月廿六日 沙弥 判
住持
畠山沙弥徳本事 」
二 乙丑
三 丙寅 千畝住 〈秋追 覚隠和尚示寂三月十九日」歳八十六〉
天寧的当住 納所定善 含暉宗兄
向上誠兄 維那慈延
「書き下し文」
二壬戌、
三癸亥、厳仲住す、文安四年輪番評定の所に前住と有り、故に此に記す、
「上元畢る」
文安甲子、二月五日改元、三月四日含暉の仏殿に達磨大師を安置す、作は桑門本清、十二月二十六日祈願寺と為る、畠山沙弥、
覚隠住す、肯心今の屋敷に移る、昔鎮守の左辺に在りと云々、彼客殿の棟簿に在り、
*中元始る
(頭注)(向上寺ヵ)
「安芸国仏通寺事、御祈願寺として精誠致さるべきの由仰せ下さるる所なり、仍て執達件のごとし、
文安元年十二月廿六日 沙弥 判
住持
畠山沙弥徳本事 」
二乙丑、
三丙寅、千畝住す、秋追、覚隠和尚示寂三月十九日、歳八十六、
天寧的当住、納所定善、含暉宗兄、向上誠兄、維那慈延、
「解釈」
嘉吉二年(1442)壬戌、
三年癸亥。厳仲が住持を勤める。文安四年輪番評定のところに前住と書いてあった。だから、ここに記した。
「上元の行事が終わった。」
文安元年(1444)甲子、二月五日改元。三月四日含暉院の仏殿に達磨大師を安置した。作は桑門本清。十二月二十六日祈願寺となる。畠山持国。
覚隠が住持を勤める。肯心院が今の屋敷に移った。昔、鎮守の左側にあったという。覚隠の名前は客殿の帳簿に書いてある。
*中元の行事が始まる。
安芸国向上寺のこと。将軍家御祈願寺として、誠実に祈祷を致しなさるべきである、とご命令になるところである。よって、以上の内容を下達します。
文安元年十二月二十六日 沙弥 判
住持
畠山沙弥徳本(持国)のこと。
二年乙丑。
三年丙寅。千畝が住持を勤める。秋追のころ。覚隠和尚が三月十九日にお亡くなりなった。歳八十六。
天寧寺住持は的当住、仏通寺納所は定善、含暉院院主は宗兄、向上寺住持は誠兄、維那は慈延、
「注釈」
「秋追」─未詳。秋が深まったころ、という意味か。
*頭注の「仏通寺」は「向上寺」の誤記か。『仏通寺文書』18号参照。
つづく
「仏通寺住持記」 その13
二月十七日改
(1441)
*嘉吉辛酉 覚隠住 〈于レ時八旬又一、今僧堂上棟三月五日
大工氏守、施主信元〉
称仏通祈願 千畝住丹金 大通三十三回
(記)「并下馬札下ル」
護国禅寺 十二月廿一日為祈願寺○
有東昇院住持記
(記)「六月廿四日普広院殿生害云々」
(頭注)
「安芸国仏通寺事、為御祈願所可被致精誠
之由所被仰下也、仍執達如件
嘉吉元年十二月廿一日 右京大夫 判
住持
細川右京大夫事 」
右両寺住持、先年以二衆評一所レ定、太半隕没恰如二残星一、以レ故此職毎レ缺レ衆
以為レ患矣、故重設二規式一以題二直弟若干名字一、向後湏レ依二此臘次一、択二其
器用一以可レ請二住持一者也、
但除二三十三回一於二両寺一不二出頭一者、蓋以二老病一為レ辞故也、
嘉吉元年八月廿五日
字一咲禅慶 〈圓福寺」甲州人〉
字元哉符契 〈丹後州」慈雲寺〉
〈字千畝」京城人〉周竹 〈初称筠侍者」後改竹〉
真知
(記)
「 当寺祖堂立牌分直弟 次第不知
覚隠知禅師 諾渓唯禅師
宗綱統禅師 厳仲中端禅師
験之公禅師 摂念玄貴禅師
春渓俊育禅師 当国吉田大通院
元哉契禅師
中和周徳禅師 勢州山田鼓山建国寺
霊谷祖傑禅師 当国甲立霊源庵
泰然真康禅師 備後州 仁賀 法雲庵
心源和尚 〈当寺前住、帰丹山旧隠」見于宗綱録〉
孫弟子借住衆 次第不同
雲庵本従禅師 留心嗣 阿州勝瑞津聖記寺二世
海翁全機禅師 宗綱嗣 吉舎善逝寺
応山康善禅師 覚隠嗣 防州富田永源庵
蘭翁世春禅師 諾渓嗣 備中州徳本庵
明堂永賢禅師 千畝嗣 持地庵開基
覚夫永本禅師 千畝嗣 丹后州江月庵
梅渓為霖禅師 蔵中嗣 芥禅二世
「書き下し文」
二月十七日改む、
嘉吉辛酉、覚隠住す、時に八旬又一、今の僧堂上棟三月五日、大工氏守、施主信元、
仏通祈願護国禅寺と称す、千畝丹金に住す、大通三十三回、
十二月二十一日祈願寺と為り、并びに下馬札下る、東昇院住持記に有り、
(記)「六月廿四日普広院殿生害と云々、」
(頭注)
「安芸国仏通寺事、御祈願所として精誠致さるべきの由仰せ下さるる所なり、仍て執達件のごとし、
(中略)
右両寺の住持先年衆評を以て定むる所、大半隕没の恰も残星のごとし、故を以て此の職欠くるごとに衆以て患ひと為す、故に重ねて規式を設けて以て直弟若干(そくばく)の名字を題して、向後須らく此の臘次に依るべし、其の器用を択び、以て住持を請ずべき者なり、
但し三十三回を除きて両寺に於いて出頭せずんば、蓋し老病を以て辞めんがための故なり、
(後略)
「解釈」
二月十七日改元。
嘉吉元年(1441)辛酉、覚隠が住持を勤める。時に八十一歳。今の僧堂の上棟が三月五日に行なわれた。大工氏守、施主信元。
仏通寺祈願護国寺と名乗る。千畝周竹は丹波国紫金山天寧寺の住持を勤める。大通禅師(愚中周及)の三十三回忌。十二月二十一日祈願寺となり、また下馬札を下された。
(記)「六月二十四日普広院殿足利義教が殺されたという。」
「安芸国仏通寺のこと。御祈願所として誠実に祈祷を致しなさるべきである、とご命令になるところである。よって、以上の内容を下達します。
(中略)
右、両寺(天寧寺・仏通寺)の住持を、先年の評定衆の評議によって決定したところ、住持候補者たちの大半が死没してしまい、まるで夜明けの空に残る星のように、候補者たちも残りわずかとなってしまった。こうした事情によって、住持不在になるたびに僧衆は思い悩んでしまう。だから、もう一度住持に関する規則を設け、幾人かの直弟らの名前を書き、今後は必ずその僧の臈次によって選ぶべきである。そして、その人の器量を選び、それによって住持を招請するべきものである。
ただし、愚中周及の三十三回忌を除いて両寺に出頭しないならば、老病によって辞退しようとする理由であると思おう。
(後略)
「注釈」
「徳本庵」─未詳。
「江月庵」─未詳。
「善逝寺」
─ぜんぜいじ。広島県三次市吉舎町吉舎。臨済宗仏通寺派、山号は正覚山、本尊は釈迦如来。和智氏本拠の南天山城跡と桜谷の狭い谷を隔てた西側の山中にあり、南天山初代城主和智資実の創建と伝える。
本尊木造釈迦如来像(像高43センチ・膝張35センチ、寄木造、県指定重要文化財)の胎内前面の墨書銘に「応安二天配七月八日 檀那藤原師実とあり、背面に「就 当寺本尊釈迦之像損失 為再興長老上洛 修理大仏師在所高辻大宮北路 高祖定朝法眼末葉法眼院芸 于時宝徳三年辛未二月日 存者福楽寿無窮 亡者離苦生安養 筆者院賢」と記され、南天山第二代城主和智師実が応安二年(1369)に寄進し、宝徳三年(1451)京都で修理したことが知られる(『広島県の地名』平凡社)。
*引用された「真知外三名連署規式写」は『仏通寺文書』16号を参照。
つづく