周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

2017-09-01から1ヶ月間の記事一覧

己斐文書4

四 良親寄進状 (端裏) (う) 「ほうせいの御きしんしや⬜︎」 安藝國三田新庄下村内ほうせいの田畠栗林の事 成佛寺のほん寺りやうとともに、しんによあんそううん僧へ永代き進したてまつり候 也、かもんのすけ入道道秀禅門の菩提所として取興行可レ有候、惣…

己斐文書3

三 掃部頭親貞譲状 (奉請) ゆつりわたすあきのくに三田しんしやうのうちほうせい田はたけはやし、ふさいちよ まつによにゆつりわたすものなり、いちこののちハ親貞かほたいそとして、しそんの あとをとふらうへし、 (境) 右このところのさかへの事、かミ…

己斐文書2

二 慈雲譲状 (ゆつり) [ ]わたす入たうさこのやまはやしはたけこ田の事 (手) (限) 右かの入たうさこは、こ入たうとのゝ御てより、ゑいたいをかきりてゆつりゆるとこ (甥) (蔵) ろ也、しかるをおなしをいなからくら人二らうにふちされ、心やすく…

己斐文書1

解題 南北朝時代十三通、戦国時代二通からなる。前者は厳島社領であった高田郡三田新庄下村の在地の状況を示す文書で、譲状三通、寄進状七通を含んでいる。後者は毛利氏からの宛行状と仮名書出である。 本文書は三田村(広島市白木町)の正覚寺に伝来した文…

横山林左衛門氏旧蔵文書(完)

解題 前記、伊藤信久への下文と同じ性質のものである。横山真高は鈴張(現広島市安佐町)の関山城に拠っていた豪族である。文政のころの鈴張村庄屋幸右衛門その子孫であるという。 一 大内義隆下文 ○東大影寫本ニヨル (義隆) (花押) 下 横山右馬助眞高 …

伊藤文書(完)

解題 天文十年(一五四一)、金山城を落とした大内義隆が天文十四年(一五四五))に伊藤信久に下したものである。 伊藤氏はその後の戦乱などで所領や判物の大半を失い、沼田郡伴村(広島市沼田町)へ蟄居し医者などをつとめた。享保六年(一七二一)の沼田…

長生きは百文の徳 (Monetary value of longevity)

文安六年(1449)五月二十六日条 (『康富記』3─12頁) 廿六日乙巳 晴、或云、此廿日比、自若狭國、白比丘尼トテ、二百餘歳ノ比丘尼令上 洛、諸人成奇異之思、仍守護召上歟、於二條東洞院北頬大地蔵堂、結鼠戸、人別取料 足被一見云々、古老云、往年…

久都内文書2(完)

二 安藝國安北郡深川打渡坪付 (割書) 藝州安北郡深川「打渡坪付」事 合 龜崎八幡領 三反田 物申 田貳反九畝廿歩 米五石貳斗壹升 左近大夫 御供田 田壹段五畝 米貳石六斗四升 同 人 かめ崎 屋敷五畝 代五百文 同 人 同所家のまへ 畠貳畝 代八拾八文 同 人 …

久都内文書1

解題 亀崎神社は、戦国時代には高陽町(広島市)の東半分にあたる落合・深川・狩小川の地域と安芸町(広島市)の東半分を占める福木地区を注連下(しめした)とする大社であったと推察される。現在は旧深川村の鎮守社になっている。 一 毛利弘元下知状并同元…

土井泉神社文書4(完)

四 毛利氏奉行人連署請取状 請取銀子之事 社領辻 壹石九斗七升打渡無レ之、 右之銀合 貳分壹リン七毛 内貳輪 筆功 右之前爲二御礼一請取所如レ件、 (文禄) (元武) 文五 三月十二日 國司備後守(花押) (周澄) 少 林 寺(花押) (元宗) 山田吉兵衛(…

土井泉神社文書3

三 毛利氏奉行人連署知行付立 飯室之内八幡領事、分米壹石九斗七升定、右之分前々任二引付一可レ被レ置レ立之由 候、社役等之儀被二相調一候事肝要候、仍一筆如レ件、 (文禄) 山縣 文三十月廿六日 宗兵衛(花押) 福井 太郎兵衛 錦織 太郎左衛門 日隈 神兵…

土井泉神社文書2

二 杉原次郎左衛門尉井尻又右衛門尉連署預ケ状 (安藝安北郡) 飯室之内 預ケ申神田之事 合米三石八斗八升 畠半三十歩代七十貳文 屋敷一つ 右之内にて米貳石立申候、 (放生會) 但貳俵者八月之法しやう江同よころ二まつりニ使レ之、貳俵者九月九日 (流鏑馬…

土井泉神社文書1

解題 この神社は天承元年(一一三一)甲斐国から勧請したものと伝える。江戸時代には飯室村八幡宮と呼ばれている。戦国時代には飯室にある土井城主三須氏と深い関係にあり、引地直種は「郡中国郡志」によると三須氏の家老である。社家河野氏は天文二十年(一…