【小田文書】
解題
戦国時代、厳島社領であった佐西郡玖島郷の刀祢であった小田氏に伝えられていたが、その後玖島村の所有となり、現在は佐伯町が引き継いでいる。玖島郷における在地支配や収納関係の文書が主体をなしており、永久3年(1115)の文書は研究を要するが、鎌倉時代から江戸時代までの連続した史料3巻91通からなっている。本巻では、慶長五年(1600)年までの63通を収録した。その後の文書は近世資料編Ⅱに収められている。
一 親安久島郷公文名譲状
(り)
永代ゆつ◻︎申久嶋公文名之事、[ ]
(原ヵ)
右在所ハ、いわ内壹所河上壹所内野壹所柏木そのほか◻︎◻︎と共ニ奈良◻︎右馬次郎方ニ
(彼ヵ)(進退) (るへきヵ)
ゆつる處実也、但久嶋郷内之公文として◻︎在所心代た◻︎◻︎◻︎者也、役等之事ハ、任
(例・成敗)
先列政敗すへき[ ]して、譲状如レ件、
(1115)
永久三年乙未三月十七日 親安(花押)
○本文書、研究ノ要アリ
「書き下し文」
永代ゆつり申す久嶋公文名の事、[ ]
右在所は、いわ内壹所・河上壹所・内野壹所・柏木そのほか◻︎◻︎と共に、奈良原右馬次郎方にゆつる處実なり、但し久嶋郷内の公文として在所を進退たるへき者なり、役等の事は、先例に任せ成敗すへき[ ]して、譲状件のごとし。
「解釈」
永く譲り申し上げる久嶋郷公文名のこと。
右の公文名の在所は、岩内?一所・河上一所・内野一所・柏木その他の田畠?とともに、奈良原右馬次郎方に譲与することは事実である。ただし、私(親安)は久嶋郷内の公文として、在所を支配するつもりである。夫役などのことは先例どおりに命じるつもりである。譲状は以上のとおりである。
「注釈」 以下断らないかぎり、『広島県の地名』(平凡社)を参照。
「久島郷(くじまごう)」─広島県佐伯郡佐伯町玖島。承久三年(一二二一)頃から
厳島社領であった。
「奈良原氏」─小田氏の先祖楢原氏は代々久嶋郷の公文職(刀禰)を務めていた。楢
原は久島郷内の地名。
「内野・河上(川上)」─久島郷内の地名。
*「本文書、研究ノ要アリ」と校訂者の注記があるので、偽文書なのかもしれません。
「但」以降の当て字・誤字が目立ちます。また、差出人の「親安」ですが、後続の文
書に「親」を通字とする人物(地頭)が現れるのを見ると、それらと同族の人物であ
ると考えられます。「親」の通字は、厳島社神主家藤原氏の通字でもあるので、神主
家の一族で久嶋郷の公文職を所持していた人物であったとも考えられます。ただし、
藤原氏が神主に就任するのは承久の乱後になるので、神主家一族という推定も成り立
たないように思います。後の時代になり、何らかの相論などが起こって、楢原氏(小
田氏)が久嶋郷刀禰(公文)の由緒を作り上げるために作成した偽文書ではないでし
ょうか。「親安」という人物も、作成当時の地頭であった神主家一族藤原氏の実名に
仮託して創出した名前であったのかもしれません。
*「いわ内・柏木」─久島郷内の地名でしょうか。なお、「いわ内」は2号文書に現れ
る岩氏」という地名のことだと推測しておきます。
*その他、『広島県の地名』「玖島村」の記事について、抜粋したもの。
戦国時代末期までには、国正名・国ゑた名・藤正名・むねもり名・しけ正名・久清
名・ためひろ名・かねやす名・大名・国末名・正永名・大さわ名・しげ光名・くにひ
ろ名・よりさだ名・いわ・吉末名の十七名、二〇町一反が成立。
村内は大沢・中村・壱丁田・楢原・正之原・大町・内野・平谷・吉末・川上の一〇
地区に分かれる・また宗盛・政家・大名・兼安・国政・重光・為広・国末・吉末など
中世の百姓名によると考えられる地名のほかに、神田・門田・大工原などの小字があ
る。