一〇 厳島社惣政所公事免状案
大窪長原百姓等申
(以下事ヵ)
社役[ ]
(垣料所)(於)
右長原者引聲料所、大窪者依レ爲二竹◻︎◻︎◻︎一、◻︎二社役以下御公事一者御免之
由申間、相尋之處、不二勤仕一之条分明上者、令二免除一處也、仍状如レ件、
(1349)
貞和五年閏六月十一日
惣政所在判
「書き下し文」
大窪・長原百姓ら申す社役以下の事、
右長原は引聲料所、大窪は竹垣料所たるに依り、社役以下御公事に於いては御免の由申す間、相尋ぬるの處、勤仕せざるの条分明の上は、免除せしむる處なり、仍て状件のごとし、
「解釈」
大窪・長原百姓らが申し上げる社役などのこと。
右の長原は引声念仏の用途に当てる所領で、大窪は竹垣修復用途に当てる所領であることから、厳島神社の社役などの御公事については、免除されていると申すので調べてみたところ、これらを勤めてないことが明らかなうえは、社役・御公事を免除するものである。よって、免状の内容は以上のとおりである。
「注釈」
「大窪・長原」─永原村(佐伯町永原)の地名。
「引聲料所」─厳島社に引声念仏のような行事があったのではないでしょうか。その費
用を捻出する所領と考えられます。
「竹垣料所」─神社の竹垣(瑞垣?)の設置や修復費用を捻出する所領でしょうか。
「惣政所」─神主を務めてきた佐伯氏は、承久の乱で京方に味方したため、乱後に幕府
御家人藤原親実が神主職に任じられた。親実は幕府御所奉行などの要職に
あったため、現地に定住することはなく、惣政所と呼ばれる代官を置き、
神主職務の多くをこれに委ねた。神社経営の実務は伝統的な社家佐伯氏が
担当したが、その上に東国系(藤原系)の惣政所が厳然たる支配者として
臨むことになった。鎌倉後期になると、神主家一族が次第に神社に対して
深い関わりを持ち始め、預所職などを足がかりに社領への土着を遂げるも
のも現れる(「安芸国 一宮」『中世諸国一宮制の基礎的研究』参照)。
*神主(藤原)─惣政所(藤原)─その他社職(佐伯)─社領支配(藤原・佐伯)
のような序列になっていたと考えられます。