十一 地頭親景親房連署下知状
(与) (右)
右馬入道後家尼◻︎二同子息◻︎馬次郎一相論久嶋郷内重正名間事
右如二後家尼申一者、重正名内於二□畠牛下人以下細々物等一者、右馬入道譲与二于
(条ヵ)
後家并孫子虎菊女一之處、嫡子右馬次郎令二押領一之◻︎無レ謂之上者、任二遺言之
旨一可レ預二御成敗一之由申レ之、如二右馬次郎陳申一者、於二當名内壹段田一者、
(譲)
◻︎二与女子虎女一畢、其外者云二後家分一云二孫女分一、更譲与分無レ之云々、而
難レ決之間、相二尋證人右衛門入道并中入道五郎大夫入道右近允等一之處、於二壹
段田一者譲二与于虎女一之由承及者□、至二自余事一者全不二存知一之由、以二起請
文一申レ之者、任二両方承諾之證人等請文之旨一、於二壹段田一者虎女可レ令二領
知一、至二自余田畠已下一者右馬次郎可レ令二領掌一者也、仍下知如レ件、
(1350)
貞和六年正月廿二日 親景(花押)
地頭
親房(花押)
「書き下し文」
右馬入道後家尼と同子息右馬次郎と相論する久嶋郷内重正名の間の事、
右後家尼申すごとくんば、重正名内田?畠・牛・下人以下細々物等に於いては、右馬入道後家并孫子虎菊女に譲与するの處、嫡子右馬次郎押領せしむるの条謂れ無きの上は、遺言の旨に任せ御成敗に預かるべきの由之を申す、右馬次郎陳じ申すごとくんば、當名内壹段田に於いては、女子虎女に譲与し畢んぬ、其の外は後家分と云い孫女分と云い、更に譲与分之無しと云々、而るに決し難きの間、證人右衛門入道并に中入道・五郎大夫入道・右近允らに相尋ぬるの處、壹段田に於いては虎女に譲与するの由承り及ぶ者なり?、自余の事に至っては全く存知せざるの由、起請文を以て之を申すてえり、両方承諾の證人らの請文の旨に任せ、壹段田に於いては虎女領地せしむべし、自余の田畠已下に至っては右馬次郎領掌せしむべき者なり、仍て下知件のごとし、
「解釈」
右馬入道の後家の尼と右馬入道の子息右馬次郎とで相論となっている久嶋郷内重正名のこと。
右の件について後家の尼が申すことによれば、重正名内の田畠・牛・下人以下の細々としたものについては、右馬入道が後家ならびに孫の虎菊女に譲与したのに、嫡子の右馬次郎が押領したことは理由のないことである。そうである以上は、右馬入道の遺言の内容のとおりに、地頭に裁許していただくべきであると申し上げた。右馬次郎が反論して申し上げることによれば、重正名内の壹段田については、(右馬入道が)孫の虎菊女に譲与した。その他は後家分も孫女分もまったく譲与した分はないと言う。しかし、両者の主張だけでは判決しがたいので、證人の右衛門入道・中入道・五郎大夫入道・右近允らに尋問したところ、壹段田については虎女に譲与したことを聞き及んだ。他の財産についてはまったく存じ上げないということを、起請文を書いて申し上げたという。後家の尼と右馬次郎双方が承諾した証人らの請文の内容のとおりに、壹段田については虎女が領有するべきである。他の田畠以下の財産については、右馬次郎が領有するべきである。よって、判決の下知は以上のとおりである。
「注釈」
*当時、重正名の名主(刀禰)だった小田(楢原)一族の相論を、地頭が裁いた裁許状
だと考えられます。地頭の裁判については、笠松宏至「中世在地裁判権の一考察」
(『日本中世法史論』)という研究があります。その後の研究も進展しているのでし
ょうが、最新の研究成果についてはよくわかりません。
*右馬次郎という通称は一号文書(偽文書?)にも見られるので、代々受け継いできた
名前なのでしょう。後家の尼が訴人(原告)で右馬次郎が論人(被告)です。
*証拠文書などはなかったのでしょうか、一度だけの訴陳では判断がつかなかったた
め、双方が承諾した證人に尋問し、起請文を書かせ、その内容に従って右馬次郎方を
勝訴としています。これが地頭裁判の手続きの一つなのでしょう。
*地頭の「親景・親房」という人物についてはよくわかりません。「地頭」という言葉
が両者に掛かっているのか、どちらか片方に掛かっているのか、両者の関係性もわか
りません。ただし、「親」を通字としていることから、厳島社神主家の一族だと考え
られます。鎌倉後期以降になると、神主家一族は社領に土着化を遂げるそうですから
(「安芸国」『中世諸国一宮制の基礎的研究』参照)、地頭になっていてもおかしく
はないのでしょう。
*池享「中世後期における「百姓的」剰余取得権の成立と展開 」『大名領国制の研究』
(校倉書房、一九九五)、https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/18661)
によると、重正名は刀禰と深い関わりのある名だったそうです。重正名内には、
「重」を通字とする一族と「右馬」を通字とする一族がいて、刀禰の地位を争ってい
たそうです。