周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

小田文書20 ─田植祭と牛供養─

   二〇 久嶋郷所當注文

   御神領山里久嶋郷

    合百貫文此内除

 一壹貫文        八幡領八月十五日祭田

 一壹貫文        十月初亥ノ御祭大歳之御神領

 一壹貫五百文        慈恩寺

 一壹貫文          東禅寺

                (免)

 一五百文          湯面

 一貳貫五百文        刀禰給分

 一壹貫文          催仕給分

                        (給分ヵ)

 一四百文        東山御城誘之時山とう[   

  残而九拾壹貫百文御上納分

      小成物之事

 一夫料従貮月十壹ケ月拾九貫八百文在

 一御段銭拾貫文在

 一壹貫文        田植牛懸之代

 一壹貫文        黄幡銭納

 一正月六日ニ      わかな二寸分納

 一五月五日       山之いも二把納

 一七月十四日      根いも一荷納

 一七月十四日      盆松八荷納

             (早稲初穂)   (之ヵ)

 一八月十五日      わせはつを四斗納⬜︎

 一十二月廿六日     納炭八俵

 一十二月        山のいも二把

 一十二月        祝米さぬき貳斗

      以上此分

 一草使あしたかせん

  一貫五百文足在

  大林備中守殿           楢原六郎左衛門

     (1552)

     天文廿一年子壬             信實(花押)

 

 「注釈」

「楢原六郎左衛門信實」

 ─荘園制支配機構の末端、現地支配担当者である政所(池享「中世後期における「百姓的」剰余取得権の成立と展開 」『大名領国制の研究』校倉書房、一九九五)、https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/18661)。

 

「大林備中守」

 ─陶晴賢の家臣(藤井昭「備後八鳥の牛供養花田植とその周辺--行事の次第と組織」『広島女学院大学論集』四一、一九九一、http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hju/metadata/5353)。どのような役割を果たしていたのかよくわかりません。この人物が充所なら、各社領からの上納分の決算を行う、社家奉行のような存在だったのかもしれません。ただし、充所の位置としては不自然な場所にあります。

 

「御神領」─厳島社領

 

「山里」

 ─戦国時代末期、佐伯郡の山間部を総称した名称。久島・津田・虫所山・友田・飯山・栗栖・浅原・白砂・吉和などが山里と称されており、現佐伯町・吉和村・湯来町の一帯に及ぶ。当地は元厳島神社領で、天文十年(1541)からは大内氏の支配となったが、大内氏は改めて厳島神社に寄進し、同社の祭事復興領に充てた(『広島県の地名』)。

 

「八幡領」

 ─久島郷内の大町八幡神社か。おそらく放生会の費用として、一貫文が免除されたものと考えられます。

 

「大歳」

 ─久島郷内の大歳神社か。十月初亥祭りの費用として、一貫文が免除されたものと考えられます。

 

慈恩寺」─未詳。久島郷内か近隣の寺院でしょうか。

 

東禅寺」─未詳。久島郷内か近隣の寺院でしょうか。あるいは、豊田郡本郷町南方にある真言宗御室派東禅寺(もと蟇沼寺)のことかもしれません。

 

「湯免」─湯屋運営のための免除料か。

 

「刀禰給分」

 ─刀禰は名主とともに百姓らを代表して、政所に要求を出したり、庄務を補助する立場にあった(前掲池論文)。

 

「催仕給分」

 ─「散使・散仕」のことか。荘園や戦国期の村落の置かれた村役人で、番頭・名主の下にあって、通達や会計事務に従事した(『古文書古記録語辞典』)。

 

「東山御城」

 ─桜尾城(廿日市町桜尾本町)のことか。厳島神主の居城。天文十年(一五四一)四月五日大内義隆勢により落城し、厳島神主藤原家は断絶。同二十年(一五五一)陶晴賢の弑逆に伴い陶方の江良賢宣・毛利与三・己斐豊後守・新里若狭守らが当城に置かれた(『広島県の地名』)。この文書はその時期のもの。

 

*以上の九貫九百文が在地への免除分。残る九十一貫百文を厳島社に上納しているので

 はないでしょうか。

 

 

「小成物」─様々な公事や夫役などを銭納した分。

 

「夫料」

 ─人夫役の銭納化したもの。十一カ月分十九貫八百文なので、一ヶ月につき一貫八百文を納めたことになる。

 

「段銭」─田地一段別に賦課された公事銭(『古文書古記録語辞典』)。

 

「田植・牛懸」

 ─厳島社が社領に賦課した夫役の銭納化したもの。厳島社の御田植祭とそれに伴う牛供養行事の費用と考えられます(前掲藤井論文)。

 

「黄幡銭」

 ─未詳。厳島社で黄幡神を祀った行事があったと考えられます。黄幡神陰陽道の神であり、牛頭天王の八人の王子の一人、宅神相天王のこと。本地仏は摩利支天だそうです(斎藤英喜『陰陽道の神々』思文閣出版、二〇〇七)。

 

「正月六日」─春の七草を食べる行事。

 

「五月五日」─端午の節句

 

「七月十四日」─盂蘭盆会。

 

「八月十五日」─彼岸会か。

 

「十二月」─歳末行事。

 

「くさつかい」

 ─草使。草夫のことか(戦国時代、室町幕府御料所などで見られた夫役の一種。荷物の運送に使役する『古文書古記録語辞典』)。

 

「あしたかせん」

 ─未詳。61号文書では「あしなかせん」になっています。「あしなか」には、「足半」(かかとにあたる部分のない草履)、「足長」(遠方まで出かけていくこと)という漢字が候補として考えられます。どちらにしても意味はよくわかりませんが、前項のように「くさつかい」を運送夫役とすると、「あしなかせん」には「足長銭」という漢字を当てて、遠方への運送夫役と理解するのがよいかもしれません。

 

「一貫五百文足」

 ─草使・足長役の銭納分か。「足」というのがよくわかりません。料足・銭・得分ぐらいの意味でしょうか。銭納額に接続するように記載されているので、緡銭に関する足陌(100枚の銭を100文と見なす)の「足」のことかもしれません(稲吉昭彦『中世後期日本における貨幣使用に関する研究』http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/HB/A081/HBA0811R001.pdf)。

 

*以上は、前半の百貫文分(いわゆる年貢か)とは別に上納した、公事・夫役銭などの書き上げ部分。「黄幡銭」から「十二月廿六日」までの項目には、「納之」とありますが、その他の項目にはありません。何か違いがあるのでしょうか。おそらく、「納之」と記載された項目は、直接納入したことを示し、その他の上納分を大林備中守に納めたということではないでしょうか。