周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

洞雲寺文書9

   九 友田興藤寄進状

 

 東光寺住持椿蔵主死去之砌、貴寺奉憑之由蒙仰候、得其意候、然間爲新寄

 進除諸天役并段銭等進置候者也、仍状如件、

 (異筆)「享禄貳己丑」

       三月廿四日           興藤(花押)

     進上 (割書)「洞雲寺天庵和尚」 衣鉢閣下

               (宗春)

 

 「書き下し文」

 東光寺住持椿蔵主死去の砌、貴寺を憑み奉るの由仰せを蒙り候ふ、其の意を得候ふ、然る間新寄進として天役并びに段銭等を相除き進め置き候ふなり、仍て状件のごとし、

     (1529)

 (異筆)「享禄貳己丑」 以下略

 

 「解釈」

 東光寺の住持椿蔵主がお亡くなりになるとき、洞雲寺を頼り申し上げるようにとの仰せをいただきました。その考えに従います。そうであるので、新たな寄進として、天役や段銭などを除いて、東光寺領を進上します。よって、寄進状は以上のとおりです。

 

 「注釈」

「東光寺住持椿蔵主」─未詳。宮内村(廿日市町宮内)に小字として東光寺という名称

           が残っている(『広島県の地名』)。

「天役」─点役も同じ。中世、臨時に課された役。①朝廷が賦課した臨時課税、造内裏

     役や大嘗会役などの一国平均役。②領主から賦課される兵糧米など(『古文

     書古記録語辞典』)。

「段銭」─田地一段別に賦課される公事銭。もと臨時課税であったが、次第に恒常的な

     ものに転化した。米で徴収するものは段米。

「興藤」─友田興藤。もと厳島社神主。大永三年(1523)閏三月に大内氏の勢力を

     退け桜尾城に入り、自ら神主となった。大永四年五月大内義興・義隆が桜尾

     城を包囲し、吉見頼興の調停により和議が調い、興藤の甥の藤太郎が神主職

     を継いだ。その藤太郎が享禄元年(1528)に病死したのちは興藤の弟の

     広就が嗣立された。天文十年(1541)四月五日興藤は桜尾城で、四月八

     日に広就は五日市城で倒され、神主家は滅亡(『広島県史』中世)。

「天庵和尚」─洞雲寺五世天菴宗春。この時点で「衣鉢閣下」と呼ばれているので、住

       持は四世の興雲宗繁か。衣鉢閣下から住持へ出世するのかもしれませ

       ん。

 

*『角川日本地名大辞典』の「洞雲寺」の項目に、この文書が引用されています。東光

 寺はおそらくこの時点で廃寺になったのでしょう。