一四 友田興藤寄進状
(安芸佐西郡)
陽室妙陰大姉并智縁童子親子之爲二茶湯免一、佐方清末名之内下地貳段之事、末代
奉三寄二附之一訖、毎日可レ預二御廻向一者也、仍寄進状如レ件、
(1537)
天文六年酉丁四月十四日 前上野介興藤(花押)
(宗春)
進上 洞雲寺天庵東堂 衣鉢閣下
「書き下し文」
陽室妙陰大姉并びに智縁童子親子の茶湯免として、佐方清末名の内下地貳段の事、末代之を寄附し奉り訖んぬ、毎日御廻向に預かるべき者なり、仍て寄進状件のごとし、
「解釈」
陽室妙陰大姉並びに智縁童子親子の茶湯免田として、佐方清末名の内の下地二段を、永久に洞雲寺へ寄付し申し上げました。毎日妙陰・智縁親子の冥福を祈って供養するべきものである。よって寄進状の内容は以上のとおりだ。
「注釈」
「陽室妙陰大姉并智縁童子親子」─未詳。友田興藤の一族か。
「茶湯免」─当時、葬送や法要の際に、仏前・霊前に茶を供えていたそうです。この文
書の場合、亡くなった妙陰・智縁の冥福を祈るために茶を供えたものと考
えられます。その費用として清末名の二段の土地を年貢免除にし、年貢の
収取権を洞雲寺に寄進したのでしょう。吉村亨「葬礼儀礼の茶俗」(『人
間文化研究』京都学園大学人間文化学会紀要二五、二〇一〇・三、
「佐方清末名」─廿日市市佐方字清末にあった名か。
「前上野介興藤」─友田興藤。もと厳島神主。
「洞雲寺天庵東堂衣鉢閣下」─洞雲寺住持、五世天菴宗春。東堂は住持を引退した僧を
指します。したがって、この時すでに住持職は六世大休
登懌に移っていたと考えられます。また、9号文書の注
釈で、衣鉢閣下という役職は、住持へ出世する前に就く
役職と述べましたが、住持を引退した僧が就くこともで
きることがわかります。