二一 己斐秀盛小幡行延連署書状(切紙)
圓満寺分并丸山名之儀、對二洞雲寺一被レ成二 御下知一候、然者當作等被二仰付一
候処、致二拘惜一之由、就二言上一御奉書謹拜見仕存二其旨一候、従二寺家一先度預二
御使僧一候之状、被レ任二 御下知之旨一、御知行可レ爲二干要一候、両所者兼武名之
内候、仍彼名之儀被レ致二愁訴一候之間、去年雖下被三成二│下 御判一候上、乍レ去
于レ今知行不レ仕候之条、莵角不レ及レ申候、被二渡下一候者重而可二申談一之由、御
返事申候キ、聊非二拘惜之儀一候、次圓満寺分者、證文等数通雖二所持候一、當城落
去之砌取散候、求出候者重而可レ致二言上一覚悟候、此由可レ得二御意一候、恐惶謹
言、
五月九日 秀盛(花押)
行延(花押)
(隆著)
青景右京進殿
(見)(興滋)
吉⬜︎右衛門尉殿
人々御中
「書き下し文」
圓満寺分并に丸山名の儀、洞雲寺に對して御下知を成され候ふ、然れば当作等仰せ付けられ候ふ処、拘惜致すの由、言上に就き御奉書謹んで拜見仕り其の旨を存じ候ふ、寺家に従ひ先度御使僧に預け候ふの状、御下知の旨に任せられ、御知行肝要たるべく候ふ、両所は兼武名の内に候ふ、仍て彼名の儀愁訴致され候ふの間、去年御判を成し下され候ふと雖も、去りながら今に知行仕らず候ふの条、莵角申すに及ばず候ふ、渡し下され候はば、重ねて申し談ずべきの由、御返事申し候ひき、聊かも拘惜の儀に非ず候ふ、次いで圓満寺分は、証文等数通を所持し候ふと雖も、當城落ち去るの砌取り散らし候ふ、求め出だし候はば重ねて言上致すべき覚悟に候ふ、此の由御意を得べく候ふ、恐惶謹言、
「解釈」
圓満寺分と丸山名のことについて、洞雲寺に対し安堵のご裁許を下されました。我らの作職等は大内氏から給与されておりましたが、我らがそれを惜しんで放さない、と洞雲寺が訴え申し上げました。このことについて、大内氏の奉行人が発給した奉書を謹んで拝見し、その内容を承知しております。先日、洞雲寺の意向に従い、ご使僧にその奉書を預けましたからには、大内氏のご命令のとおりに、洞雲寺は両所をご支配になることがとても大切であるはずです。両所は兼武名の内にあります。そこで、丸山名のことで洞雲寺が訴えなさいましたので、去年安堵状を下されましたが、(そうではあるが)現在支配し申し上げておりませんので、あれこれ申し上げるまでもありません。両所を我らに渡し下されますならば、再び交渉し申し上げるつもりであると、洞雲寺に御返事申しました。少しも惜しんで放したくないというわけではありません。次に圓満寺分は、証文など数通を所持しておりますが、この城が落城したときに紛失してしまいました。探し出しましたならば、再び発見したと申し上げる心構えでおります。このことについて、大内様のお考えを承るつもりでおります。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「圓満寺」─廿日市町佐方(サガタ)・五日市町佐方(サカタ)地域にあった中世の廃
寺。現在も小字名として残る(『広島県の地名』)。
「丸山名」─未詳。
「兼武名」─場所は未詳。国衙領の別名か。小幡氏の勢力基盤と考えられる(「有井城
跡発掘調査報告」http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/11483)。
「當城落去」─未詳。小幡行延の居城ならば有井城、己斐秀盛の居城なら己斐城という
ことになります。
「秀盛」─己斐秀盛。未詳。厳島神領衆(神主の家臣団)で、本拠地は西区己斐町にあ
る己斐城(「草津城跡発掘調査報告」http://www.mogurin.or.jp/wakoku-resource/PDF/T_09891-001.pdf)。
「行延」─小幡行延。3・4号文書に現れる小幡興行の一族か。大内方の国人か。本拠
地は、佐伯区五日市町大字石内にある有井城(「有井城跡発掘調査報告」
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/11483)。
「青景隆著」─大内氏の奉行人。
「吉見興滋」─大内氏の奉行人。
*関連史料として、7・20号文書がありますが、どれもきちんと訳せません。