周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

洞雲寺文書30

   三〇 毛利元就同隆元連署宛行状案

 

  (安芸佐西郡          佐西郡

 今度櫻尾之儀御入魂忝候、仍神領之内永興寺之事進之置候、全可御執

 務候、爲後日一筆如件、

 

   (1554)

   天文廿三甲寅五月廿三日          隆元判

                        元就判

  永興寺打渡案文

 洞雲寺 衣鉢閣下

 

 「書き下し文」

 今度櫻尾の儀御入魂忝く候ふ、仍て神領の内永興寺の事之を進らせ置き候ふ、全く御執務成さるべく候ふ、後日の爲一筆件のごとし、

 

 「解釈」

 今度の櫻尾城攻めの件では、合力していただいたことに感謝しております。そこで、厳島社領のうち永興寺領を洞雲寺に進上します。永興寺領の取り仕切りを全うなさるべきです。将来のため、充行状の内容は以上のとおりです。

 

 「注釈」

「櫻尾」─桜尾城。廿日市市桜尾本町。もと厳島神主の居城。天文二十年陶晴賢の弑逆

     に伴い、陶方の江良賢宣・毛利与三・己斐豊後守・新里若狭守が当城に置か

     れた。同二十三年毛利元就は桜尾城を接収し、同年の陶方との折敷畑合戦、

     翌弘治元年(一五五五)の厳島合戦には毛利軍の本陣となった。戦後は毛利

     氏の重臣桂元澄が城番を勤め、永禄十二年(一五六九)七月頃からは毛利元

     就の子穂田元清が城主となった。慶長五年(一六〇〇)毛利氏の防長移封以

     後、廃城となった(「桜尾城跡」『広島県の地名』)。天文二十三年五月十

     二日、毛利元就は陶方の兵を追って佐東金山・己斐・草津・桜尾の諸城を占

     拠し、厳島までもその手に収めてしまった(『広島県史』中世)。

「永興寺」─未詳。厳島社領内の寺院でしょうか。25・31号文書参照。

「衣鉢侍者禅師」─六世大休登懌か。